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九話 恋の始め方
しおりを挟む藤野建設の現場が終わり、最近少しずつ秋の気配も感じるようになってきた。とは言えまた暑さは戻るようで、気の抜けない日々は続きそうだ。
そんな今日は雲ひとつない爽やかな秋晴れ。呑気な音楽と共に行進する中学生達は、皆楽しそうに笑っている。
「学、世界一可愛いよ!」
「学ーーーー!」
隣から轟いた清々しさをぶち壊す酒に焼けた声。力の限りに叫ぶ中年二人を横目に、哲は深いため息を吐いた。
「うるせえ」
ただでさえ見た目が派手な母や、中身を知らない人からはイケおじと褒められる父は人目を引くと言うのに、愛娘の晴れの舞台を前に大はしゃぎ。毎年のことながら恥ずかしくて仕方がない。周囲の父兄に必死で頭を下げ、哲はまた深いため息を吐く。
まだ入場行進だと言うのに、このままだと昼休憩を待たずにこの中年達はダウンしそうだ。しかもこの二人がうるさいのは学の応援だけではない。
「あんたあんまり乗り出さないでよ鬱陶しい」
「お前だろ。良い年して肩なんか出すな見苦しい」
相変わらず会えば喧嘩ばかりの二人だが、二人揃えば学が喜ぶのだから仕方がない。学の前では仲良くしろと口酸っぱく言っているし、一応それを守ってくれているだけで良しとしよう。
年に一度、体育祭の日にはこうして離れ離れになった家族が集結する。あと何年たった四人の家族が同じ感情を共有出来るだろう。いつまで学はお兄ちゃん子でいてくれるだろう。この不摂生な中年達は、いつまで長生き出来るのだろう。学の成長を感じるその度に、哲はつい感傷的になってしまう。
午前の部は全員参加の競技の他は学が出てくる事もない。けれど父も母も応援席で同級生を応援する学にさえ夢中だ。近年親の撮影も禁止されているが、二人はそもそも肉眼で学を見ていたいタイプ。ひとときも学から目を逸らさずに見詰めている。そこにやはり二人の愛情を感じた。
別れてはいるが、子は鎹と言う訳か。と年寄りくさい事を考えながら、哲もまた学の健やかな成長を幸せな気持ちで見守った。
昼食の時間になると学は嬉しそうに駆けてきて、父と母の間の定位置に腰を下ろす。哲と暮らさずに父と暮らさせているのも、仕事で家を空けることが多いと言う理由以上にやはり学には親の側で暮らさせてやりたいからでもある。学は父と母が好きだから。正直男である哲の感覚だと何故こんな親父と一緒にいたいのかさっぱり理解できないが、そこは学が望む形が一番だ。
三時に起きて作った弁当を囲む全員が見せる屈託のない笑顔を眺める時間は哲にとって最も幸せな瞬間。大袈裟な両親は学だけでなく、哲の料理の腕も褒めちぎってくる。正直それは恥ずかしいからやめて欲しいのだが、そんな親の唯一のいい所を学はしっかりと学んでくれている。
「おにいの唐揚げ美味しいね!」
見た目は大人びているくせに、左手におにぎり、右手に櫛に刺さった唐揚げを持って笑う学の頬には米粒がついている。どうしてクズのテンプレートから生まれ、それなりにグレた兄を持ってこんなにも天真爛漫で可愛いのか。理解に苦しむ。
「ついてる」
照れ隠しでそう言って米粒を取ってやると、学はまた嬉しそうに笑った。
恋人はいなくとも、こんなにも満たされている。打ち込める仕事があって、愛する妹が真っ直ぐにすくすくと育ち、気の置けない仲間達もいる。
幸せだ──そう噛み締める度、何故か脳裏を過ぎる。普段何事にも興味がなく、何にも真剣さを見せなかった真柴があの日見せた、あまりにも真っ直ぐな瞳を。
藤野にも同じ事をされた。真柴と違い、ちゃんと付き合おうとも言われた。けれど悩むまでもなく、どう断るかを考えていた。藤野の事は尊敬している。人としては圧倒的に真柴よりも好きだ。それなのに、同じ言葉を言われた瞬間の自分の気持ちの違いに哲は狼狽えていた。
そもそも男を恋愛対象として見た事がないし、この先見れるとも思えない。だからこそ藤野の告白はなんの迷いもなく断ろうとしていたのに、真柴の告白に関して何故か今頭の中で混乱が生じていた。
二人の関係は身体から始まった。それも無理矢理だ。確かに意識が飛ぶほどの快楽はあったが、哲は下半身ではなく脳で生きている。ぶっ飛んではいたが素晴らしい女性である真央以上に好きになれる相手も出来ず、恋の仕方すらも忘れてしまった。藤野だけじゃない。これまで哲を好いてくれた素敵な女性は沢山いたはずだ。その誰にも心が揺らがなかったくせに、何故あんな生意気なクソガキの告白に動揺しているのだろう。それが一番分からなかった。
好きではない。真柴を恋愛対象として見た事もない。それなのにふと思い出すものは、獰猛なあの瞳。ぞくぞくと背筋を駆けた悪寒。意識が白む瞬間の、はげしい開放感。思い出すだけで首筋がちりちりと熱を上げてゆく。けれどこんな軽薄な関係から始まるものなどないと哲は信じていた。
治安が悪い事で有名な中学校の体育祭だが、今年は何の問題もなく盛り上がり閉幕した。花形であるリレーのアンカーを務めた学がゴールテープを切ったときは、隣で狂喜乱舞する両親を宥める事に苦労した。けれどまた来年、こうして四人で幸せな時間を共有する為にも、哲は仕事を一層頑張っていく決意を固めた。
学は父に任せ、哲はひと足先に母を連れ車を停めたコインパーキングに向かった。この後仕事に向かう母を経営するクラブに送るのも、哲が免許を取ってからの恒例だった。
「学がいい子に育ったのも、哲のおかげだねえ」
車に乗り込んですぐに煙草に火を付けながら、母は細い紫煙と共に吐き出した。
「いや、周りの友達がいい子達だから」
自分のお陰とは思っていない。寂しい思いもさせているし、学が引け目を感じない為に真っ当に生きようと決めるまで、喧嘩で物理的に人を傷付けた事もある。煙草を覚えたのもまだ未成年の頃だったし、褒められた人生も生きていない。夏休みにはどこにも連れていってやれなかった事も地味に哲の後ろめたさを助長している。
その点学の友人は皆とても明るくていい子達だ。バスケ部の子も、クラスの子も。学が友達に愛されている事はとても嬉しいし、道を逸れそうな時は叱ってくれた事もあったと言う。もう中学三年生だと言うのに恋の影が見えないのは、そんな友人に恵まれとても満足しているからなのだろうと思う。
恋か、とふと考え、哲はこれまで聞いたことのなかった問いをぶつけてみたい気持ちになった。
「何でジジイと結婚したの」
こんなに性格が合わなくて何故結婚などしようと思ったのか。ずっと理解ができなかった。
「あいつの遺伝子が欲しいって、身体が言うからだよ」
「気持ち悪いな」
学は母自ら事故と言っていたから違うのだろうが、それで出来た子供が自分だと思うと寒気がする。相変わらず潔癖な哲に母は乾いた笑いを漏らした。
「そう言うもんなんだよ、恋なんて。性格が合わない事は分かってたけど、とにかく欲しくて堪らなくてね。理性では抑え込めないんだ」
クズの理論だな、と軽蔑しながらも、脳裏にふと浮かんだ金髪を哲は慌てて振り払った。
「結果論だけど、その本能は正解だったね」
ほら、と微笑んで、母が哲の髪を撫でる。まるで幼き日のように。
「私達の息子が、世界一いい男に育ったんだから」
「やめろよ」
そう言って手を払いながらも、人相手に仕事をしている母にそう言われる事は素直に嬉しいものだ。
「あんたも早く真央ちゃん諦めて次行きな。宝の持ち腐れだよ。まったく男って本当いつまでも過去の女を忘れられないんだから」
忘れられない訳じゃない。ただやはり真央以上の相手に出逢えないだけだ。けれどそう感じてしまう事自体、母の言う通り真央を忘れ切れていないのかもしれない。
次の日、低層住宅の足場を一日で組み上げ帰宅中の車内は、真柴が口を開かなければラジオが静かに流れるばかり。
あれ以来真柴はより一層真面目に働くようになった。そのおかげで哲が怒る事もなく、お互い一応普段通りに過ごしている。そして真柴が突然告白をしてきたあの日、混乱しすぎて誘ってしまったせいか夕飯を二人で食べる事も何故か習慣づいてしまった。
汗を流す為に真柴を一度家の側に下ろしスーパーで食材買って帰宅。それから哲もシャワーを浴びて良いタイミングで真柴に連絡をする。一連の流れを淡々とこなしながら、やはり何だか腑に落ちない感覚はある。
藤野に対してもそうだが、真柴に対しても哲は返事をしていない。いや、真柴に関しては付き合おうとも言われていないのだから、返事も何も本来ないのだが。けれど哲の性格的に自分に好意がある相手に対して思わせぶりな態度を取っているのではないか、そう自責の念に駆られるのだ。
確かに一人で食べるよりは誰かと食事を共にする嬉しさはあるし、真柴と話していると弟がいたらこんな感じなのかもしれないと言う楽しさもある。だがそれは哲側の都合で、それに付き合わされている真柴はいい迷惑なのかもしれない。
美味いと逐一哲に伝えながら、嬉しそうに生姜焼きを掻き込む真柴を見詰め、哲は溜息を噛み殺す。
真柴はまだ二十歳だ。仕事も始めたばかり。人を好きになった事がなくともこれだけ経験豊富で今更何故年上の男になんか惚れたのか全く理解に苦しむが、仕事同様それがいつまで続くかも分からない。そもそも付き合おうと言われた訳でもないのだから、後ろめたさはあるがあまり刺激せずこのまま何事もなかったように過ごすべきなのかもしれない。
考え込んでいると、ふと真柴が顔を上げた。性根と真逆の優しげな瞳と目が合い哲は大袈裟に狼狽えて視線を逸らす。
「学ちゃんの体育祭楽しかったですか」
「え、あ、うん」
普通にしなければ。たかが告白されただけだろう。告白される事なんて、初めてでもないのだから。そう言い聞かせて、哲は取り繕うように箸を進めた。
「まあ、いつも通りだよ。うるせえんだようちの親。大騒ぎするから恥ずかしくてさ。学が嬉しそうだったから、まあいいんだけど」
背筋が粟立つ程の重い視線を感じながらも舌を回し続ける。何故だかやはり、真柴が時折見せるこの目は苦手だ。
「ごちそうさまでした」
真柴のその声で夕食を終えるのも、少しずつ慣れてきた。
「明日六時な。ちょっと遠いから」
そう言いながら流しに食器を運び、面倒にならないうちにそのまま洗い物を済ませる。食べたら帰れと言っているが、一応気が引けるのか真柴は洗い終わった食器を拭くようになった。最近性欲処理にもされていないし、この習慣もそれで終わりだ。
しかし今日の真柴は食器を拭く気はないのか、一向に横に立とうとはしない。けれど洗い物を進めながら別れの時間が迫る事に少しばかりの安堵を覚え、哲の警戒心は薄れていた。
「哲さん」
「あっ……!」
思うよりも近くで声が聞こえた瞬間、突然うなじにざらついた指が触れ、哲は思わず上擦った悲鳴をあげた。脳から一気に身体中を電撃が走ったような衝撃がぞくぞくと背筋を駆ける。
「え?」
困惑した声を背中で聞きながら、シンクに落としたスポンジを慌てて拾う。
「び、びっくりしただけだからな」
「本当に?」
低い囁きと共に耳元に吐息が触れる。最近真柴が大人しいからしばらく抱かれる事もなかったのに、記憶の底から無理矢理に引き摺り出されてゆく。この生意気な後輩に与えられた、泥濘のような快楽の味が。
「真柴……!」
慌てて身体を反転させ、背後から身体を密着させようとする大きな身体を押し返す。
「ちょ、っと、まて」
大袈裟に脈打つ心音がうるさくて、真柴がまたあの目をして見ていたらと思うと顔も見れない。これ以上近付かれないように胸に当てた手を突っ張りながら哲は床を睨み付ける。
「なんか、違うじゃん」
「なんですか?」
「今までは性欲処理だったからどうでも良かった。でもそこに気持ちがあるなら、違うじゃん」
真柴が哲の事を好きなら、それはもうただの性欲処理ではなくなる。受け入れてしまう事は、真柴の好意を受け入れたと言う事になる。だが哲は真柴の事を恋愛として好きな訳ではない。だとしたらやはり受け入れてはならない。
今までも哲の認識は喧嘩を買っていただけで別に受け入れていた訳ではないのだが、今も向き合った時自然と腰に手を添えられたりするとどうにも落ち着かない。真柴の好意を些細な動作で感じてしまうから。
そもそもの話しをすればお前の事なんか好きじゃないと言ってしまえばいいのだが、貞操の危機を前にしているにも関わらず何故だかそれが言えずにいる。
相変わらず混乱した頭で、哲は思わず問い掛けていた。
「いつから、俺のこと好きなの?」
いつからそう言う目で見て抱いていたのか、ずっと気になってはいた。真柴が好意を寄せて哲を抱いていたのだとしたら、それを性欲処理だろうと気にもしていなかったなんてあまりにも鈍感すぎる。
「分かんないすね」
え、と間の抜けた声を上げ、思わず顔を上げる。
「分かんないの?」
「気付いたら好きでした」
なんだそれは、と思わず溢した哲を見下ろす真柴の瞳は、やはりこの軽薄な男には似合わない真剣さがある。
「哲さん」
呑み込まれまいと抗いながら、哲は眉を寄せる。
「藤野さんと、本当に付き合ってない?」
「何もないって、何度言わせんだよ」
「好きだから」
そう言いながら、真柴の指が首筋を辿る。びくりと肩を竦める哲を見下ろす瞳がゆっくりとあの暗さを抱き始め、哲は慌てて視線を逸らした。
「好きだから、気になります。何でここに痕がついてたのか」
「それは、別に、つけられただけだから」
「許したって事ですか?」
何が気に食わない。付き合ってる訳でもなく、付き合おうとも言ってこないくせに。そんなことを考えていたら、何だか苛立ちが沸々と湧き上がってきた。
「開き直ってんじゃねえぞ。てめえだってそうだろうが。人の気持ちなんか無視して、散々好き勝手使いやがって」
そう吐き捨ててきつく睨み付けながら、また言葉巧みに哲を煽りセックスをする流れになるのではないかと身構えていたが、真柴は少し黙り込んだ後に腰に添えていた手をそっと離した。
「すみませんでした」
そのまま一歩後ろに下がり、小さく頭を下げる。
「今日は、帰ります。ごちそうさまでした」
また控え目に頭を下げると、真柴は本当にアパートを去っていった。
呆然と立ち尽くしたまま、哲はしばらく真柴がいた場所を見詰めていた。
「何なんだよ、あいつ」
好き勝手しておいて急に真面目になったと思えば、藤野に嫉妬したりして、ついには突然好きだと言ってきたり。自分勝手すぎると憤りながら、哲は首筋に手を当てた。真柴が触れた一点がちりちりと熱を上げ、身体が疼いて仕方がない。
何なんだ、ともう一度空虚に呟いて、哲はそれきりその日はもう考える事をやめた。どうせ考えたって分からない。答えなんて出ないのだから。
逃げるように眠った次の日も、心は晴れなかった。藤野にも早く返事をしなければと思うのに、ゆっくり考えろと言う言葉に甘え忙しさにかまけて連絡もしていない。
藤野にはどう断ろうか。そして真柴はどうしたいのだろうか。いっそ付き合ってくれと言い始めでもしたら、付き合えないと突っぱねて終われるのかもしれない。考えても分からない事だらけで、どうしようもなくすっきりしない。
もやもやしたまま過ごす事も性に合わず、とは言えどうしたら良いのかも分からず。ひとまずとある人物と会う約束を取り付けて、哲は帰りの車中今日も哲の家で夕飯を食べる気でいるだろう真柴に声を掛けた。
「今日夜出掛けるから、夕飯なんか買って食えよ」
窓を見詰めていた真柴がその言葉に勢いよく振り返る。
「藤野さんに会うんですか」
またそれか、と思わず溜息が漏れる。
「会わねえよ」
「本当ですか」
「そもそも関係ねえだろてめえには」
むっとした顔を見せたものの、哲は間違った事を言っている訳ではない。正直真柴には何の関係もない事だ。キスマークを付けられた事もそうだが、腹が立って真柴に明かしてしまった事をやはり今更後悔してしまう。それと共にどこまでも迂闊な自分が嫌になる。そうは言っても今更取り返せる訳でもない。
それきりお互い黙り込んだまま真柴の家の近くに辿り着き、車を停める。早く降りろと視線で促すが、真柴は俯いたまま拳を握り締めていた。
「何してんだ。予定があんだよこっちは」
なるべく突き放してそう言うが、意を決したように顔を上げた真柴の瞳を前に哲は無意識に息を呑んだ。
「哲さん」
それ以上聞きたくないと願っても、真柴は止まらない。
「好きです」
似合もしない真摯な眼差しで見詰められるだけで心がぐらぐらと揺れる。何故こうも動揺してしまうのか、その理由が全く分からない。
「好きなんです」
それだけ言って車を降りた真柴を、哲は何とも言えない気持ちで見送った。
好きだから、なんだ。その先はないのか。やはり真柴の気持ちに何と答えたらいいのかわからない。いや、そもそもどうして真柴に対して恋愛感情は持っていないと言ってやれないのか。自分の事も段々とよく分からなくなってきた。
帰ってシャワーを浴びて、持っている少ない服の中で一番綺麗なものに着替えて家を出る。歩いて十五分、繁華街から少し離れた場所にあるバーに向かいながら、哲は少し冷えてきた風に肩を竦めた。
店に入るとカウンターでバーテンと語らう背中が既にあった。艶やかな長い黒髪を一つに束ね、細い身体には少しサイズの大きいパーカーを羽織る背中は、気合の入っていないラフな装いながら隠し切れないオーラを感じる。
「お待たせ、真央」
そう言いながら隣に腰を下ろすと、振り向いた美しい顔が嬉しそうに綻んだ。
「久しぶり。元気そうじゃん」
「相変わらずだよ」
薄化粧ながらやはりたじろぐ程の美貌は、こんな寂れた街には相変わらず似合わないな、と感心しながらも、今の彼女はSM倶楽部の女帝と呼ぶには気が抜けている。けれど哲が馴染んでいるのはこちらの方だ。その顔を見るたびにどこか安心する。七年間、ただ一心に愛し続けた人だからだろうか。
バーテンに適当なものを頼むと、真央の細い指が髪を撫でる。
「髪可愛いね。学ちゃん?」
年上だからか、その性質からか、真央は哲を可愛がる癖が昔からあった。
「そう、練習台」
「やっぱセンスいいわ。似合ってる」
「手先も器用だしな。散髪代浮くのは良いんだけど、染められすぎてハゲそうでよ」
学を褒められる事は嬉しいが、やはりそろそろ頭髪は気になる年頃だ。
「大丈夫だよ、お父さんフサフサじゃん」
「あいつは腕も足もだけど、俺は体毛薄いから」
確かに薄いとどこを想像したのだか感慨深く頷く真央に余計なお世話だと返しながら、二人は数ヶ月ぶりの再会に和やかな会話を楽しんだ。
別れてから四年。付き合っていた年月は七年だったが、最後は別れたくなかった哲と夢の為に哲の心を犠牲にする事を拒んだ真央との間で意見は平行線で、お互いが納得するまで一年もかけて話し合った。そのお陰か、恋愛感情は互いにもうない。今では友人として年に数回は気が向いた時会っている。幾ら酒が入っても身体の関係は一切ない。お互いそう言うケジメははっきりとしている性格だから。
それでも少なくとも哲は新しい誰かと付き合うまでの関係だと思っていた。四年間その機会はなかった訳だが、何だかふと突然混乱したこの気持ちで真央に会いたくなって、真央が休みの今日久しぶりに連絡をした。
ひとしきり真央が哲の事よりも気にしている学の近況報告が終わると、ふと優しい笑みが哲の横顔に向けられた。
「どした、急に会いたいなんて。珍しいじゃん」
「ごめん忙しいのに」
そう言って視線を落とし、哲は細い息を吐く。
「どうやって恋って始まるんだろうなと思って」
どうして自分は真央と別れてから人を好きになれないのか。どうして人は自分を好きになるのか、立て続けに鋭角から好意を主張され、哲はそこまで思考を落としていた。
藤野は最悪理解はできる。昔から可愛がってもらっていたから。向けられているものが恋愛感情だと知らなかっただけで、好意は感じていた。
それよりもやはり真柴が何故知らぬ間に哲を好きになっていたのか、幾ら考えても全く理解ができない。身体や顔が良かったならもっと早かっただろうし、性格は今でも正直合わないと言うよりも正反対だなと感じる。
そもそもどうして好きでもないのに抱く気になれたのか、やはり真柴は哲にとっては未知の生物で、その心の欠片すら見えない事が歯痒くてならない。
それなのに、そんな軽薄な男の告白で気持ちが揺らぐ自分の事が何よりも理解ができない。その揺らぎは恋ではない。喜びでもない。それなのに、人生で一度もまともに人を好きになった事すらないと豪語していた真柴の似合わない真摯な眼差しが終始胸の奥でちらちらと燻る。その瞳が、薄闇の中自分を見下ろしていたものと酷似しているから。
「真央は何で俺の事好きになったの」
琥珀色のウィスキーを指先で転がしながら、真央は遠い日を思い起こすように視線を伏せた。
「一目惚れかな。最初は。綺麗な子だな、どんな子なんだろうって思って見てたら、思ったよりも純情だし、思ってる以上に真面目だし、子供背負って通学してくるし。面白い子だなって思ってるうちに、気付いたら哲の事ばっかり考えてた」
最初真央の事を頭のおかしい告白をしてきたやばいやつだと宮川と共に怯えていたが、そんな風に思っていたのかと今更ながらに知る。
「好きになれそうな人できた?」
「いや、そうじゃないんだけど」
そうじゃない。けれど何故だろう。最近恋の始まりばかり考えてしまう。
「なんか、どうやって人を好きになるのか分かんなくて」
真央にもっていた感情は、やはりあれきり誰にも持てないでいる。この四年間心が誰にも揺らがなかった。まさかそれがあの頭のおかしい後輩に揺さぶられるなんて思いもしなかったが、きっと真柴に恋心を抱かれた事が予想外すぎたのだろうと思う。
これは恋ではないと自覚しているくせにやはり煮え切らない哲を優しく見詰めながら、真央は囁くように呟いた。
「哲は自制心が強いから、事故が必要なのかもね」
「事故?」
「なにか、思いもよらない出来事」
そんな事は沢山あった。真柴に襲われた事もそうだし、これまで確かに注意喚起を受けてきたが事実として一切なかったにも関わらず、立て続けに男に告白されたこと。それを事故と言わず何と言うのか。
唸る哲に微笑みかけながら、真央が少し首を傾げる。
「どうして私と付き合う気になったの?」
どうしてとは、と返す前に、薄く彩られた唇が優しく囁く。
「最初は別に好きじゃなかったでしょ」
確かにそうだ。それと言うのも、真央が告白をしてきた瞬間が二人の初対面だったから。
「何でだろうなあ」
どうして真央を好きになったのか、遥か遠い日を思い起こす。
真央は学校で有名な美少女だった。綺麗なアーモンド型の瞳にすっと通った鼻筋。背も高く、長い黒髪は痛みもなく艶やかで、その美貌を惜しげもなく弛ませていつでも楽しそうに笑っている。明るくて、分け隔てなくて、さっぱりとした性格で同性にも異性にも好かれる稀有な存在だった。
哲もまた綺麗な先輩と言う認識は持っていたが、元々顔で人を好きになる事がなかった。と言うよりそもそも初恋もまだだった。
そんな学校のマドンナが突然宮川といつも通り非常階段で語らっていた哲の前に現れ、心の勃起が止まらないから付き合えと言ってきた。正直頭がおかしいとしか思えなかったし、それから何かにつけて非常階段に突撃してくるようになった真央に恐怖もあった。
それがいつの間にか、別れたくないと一年間ごねるほどに愛した人になっていた。その始まりは、決して一つではなかったはずだ。真央の人となりに触れ、真剣に哲を想ってくれている事を知るにつれ、絆されていったのだろうと思う。けれど真央の事が好きだと自覚した瞬間を考えた時、一つの記憶がふと浮き上がった。
「真央が、学を初めてあやしてくれた時かな。あやし方が下手くそで学が怖がって泣いて、普段冷静な真央が慌てて謝ってるのみて、俺も好きだって自覚した」
小さく頷きながら、真央がまた深い慈愛を滲ませて微笑む。
「哲にとっては学ちゃんが一番だもんね」
学が哲にとって一番だと言う現実は、学が独り立ちするまで変える事はできないが、素直に頷いていいものか哲は一瞬狼狽えた。
「良いんだよ、哲。素直になっても」
やはり真央はよく分かっている。その気恥ずかしさに哲はグラスの酒を乱暴に煽った。
「俺は、素直だよ」
「そうだけど、やっぱり学ちゃんの事があるから自分を抑え込んでる。学ちゃんの事を大切にしてくれる人って言う前条件が強すぎるんだよ、哲は。それは哲のいい所でもあるし、育てている自覚がある以上変えちゃいけない。でも学ちゃんはね、哲には早く新しい恋人ができて欲しいみたい」
真央と学は仲が良かった。それこそ本物の姉妹のように。学の憧れが今でも真央である事も、やはり哲が次の恋に進めない理由ではある。
「その人の事で頭がいっぱいになるなら、少なからずそれは恋だと思ってみたら。哲はそれくらいじゃないと誰の事も好きになれないよ」
真央の言う事は最もだ。人を好きになりたくない訳じゃない。誰かと人生を共に生きたい感覚は人並みにある。けれどやはり学を思うと二の足を踏んでしまう。
「そんな無理矢理好きになる必要あんのかな。別に俺は今幸せだし。わざわざそんな無理に恋人作ろうって気にもなれない。好きだって気持ちが勘違いだったり、まだちゃんと覚悟もないうちに付き合ったって、すぐ終わりそうだし。それで学を混乱させるのも嫌なんだよ」
面倒くさい男だと自分でも思う。だがやはり自分に対しても、学に対しても後ろめたい行動は取りたくない。そんな哲の変わらない頑固な性格もよく知る真央は、咎めるでも笑うでもなく静かに話を聞いてくれた。
ふと思う。そもそもどうしてこんな事を真央と話しているのだろう。真柴とどうにかなりたいとでも思っているのだろうか。そんな訳ないと強く否定していながら何度も頭を過る。真っ直ぐな瞳だけじゃない。首筋に歯を立てられた時の全身の疼きも、触れた唇のやわらかさも、脳天まで抜き抜けたあのはげしい絶頂感までも。
やはりこんな軽薄な感情は恋などではない。久しぶりに触れた人肌や性の解放にのぼせただけだ。
難しい顔でそう決め込む哲の横顔を相変わらず優しく見詰めながら、真央が囁くように問う。
「私といた七年は意味がなかった?」
そんな訳がないと驚いて顔を上げ、その美しい顔立ちに滲むほんの少しの寂しさに胸が痛む。
「人生分かんないもんなんだよ。進んでみないとさ」
そうなのかもしれない。はじめは全く付き合うとは思っていなかった真央と恋人になり、ゆっくりと育まれた愛は心地よくて。過去となったがかけがえのない幸せな七年間だった。子供だった思考も真央と重ねた会話や喧嘩で成熟して行った。成長させてもらったし、人と付き合うことで知った自分の弱点もあった。それは、勇気を出して踏み出さなければ分からなかった事だ。
「哲」
その変わらず哲を安心させてくれる声に、また胸が軋む。
「恋は人を変えるけど、怖がらなくてもいいんだよ。哲は大丈夫。大切なものを見失う人じゃないよ」
真央のその言葉に、哲は自然と頷いていた。
真柴の事なんて好きじゃない。この揺らぎは恋愛感情じゃない。そう決め込んでいた。あんな軽薄な男に、自分を性欲処理として使っていた奴に絆されるなんて考えられなかった。それは正直今でもそうだ。
だが真柴の告白に動揺したまま真央に相談なんてものをした時点で傾いてはいるのだろう。それがどう言う結果を生むのか、それを考えると今でも怖い。だがこの混乱の収束を急ぐ必要はないのだろう。ゆっくりと見極めて行くべきだ。守らなくてはならない学と言う存在がいる哲は、やはり衝動で踏み出せるほど愚かではない。それでも久しぶりに真央と話し、誰かに恋をしていた自分を少しだけ思い出す事ができた。
哲の心の奥底で、静かに、だが確かに何かが始まろうとしていた。
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だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
黒とオメガの騎士の子育て〜この子確かに俺とお前にそっくりだけど、産んだ覚えないんですけど!?〜
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王都の騎士団に所属するオメガのセルジュは、ある日なぜか北の若き辺境伯クロードの城で目が覚めた。
しかも隣で泣いているのは、クロードと同じ目を持つ自分にそっくりな赤ん坊で……?
「お前が産んだ、俺の子供だ」
いや、そんなこと言われても、産んだ記憶もあんなことやこんなことをした記憶も無いんですけど!?
クロードとは元々険悪な仲だったはずなのに、一体どうしてこんなことに?
一途な黒髪アルファの年下辺境伯×金髪オメガの年上騎士
※一応オメガバース設定をお借りしています
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
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社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
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イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
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「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
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狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
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