Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground rabbiT』

別れの立ち位置

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 その事件は、あまりにも突然に起こった──。

 広過ぎるマンションに、けたたましいインターホンの音が響く。普段は誰かがいるし、俺がそれに出る事も無いのだけれど、その日白井さんは昼過ぎに戻るからと言って朝でかけて、珍しく一人での留守番だった。無視しようとも思ったのだが、あまりにもしつこいものだから仕方がなしにモニターへと向かい、四角い液晶に映った人物に俺は思わず首を捻った。
「……女?」
 それもめちゃくちゃ美人。モニター越しの女のまるで細い絹糸のような黒髪はささやかな風に揺れ、切れ長の瞳にくっついた睫毛は真っ直ぐに天を向いていて、ふくよかな唇を飾る少しキツ過ぎる赤も、その美貌故気品に花を添えるだけだ。
 久しぶりに見た手放しの美人に気を許し、俺は思わず通話ボタンを押してしまった。
「ちょっと、どう言うつもり!?早く開けなさいよ!」
「……え?」
 通じた途端、小さなスピーカーから金切り声が響いた。きんきんと高い声は機械に通され、余計嫌な音に聞こえる。
「……将生じゃないの?あんた誰よ、将生を出しなさい!」
 そのあまりの剣幕に、思わず通話をブチ切ってしまった。怖くなった俺は慌てて白井さんに電話を掛ける。しばらくの呼び出し音の後、聞き慣れた声が耳に届いた。
「もしもし。どうしたの?」
「あの、変な女が来たんだけど。白井さん出せって、騒いでる」
 当てがあるのか、予想していたのか、白井さんは電話越し小さく舌打ちをしてみせた。
「分かった。直ぐに戻るから絶対家に上げないように」
 そのまま電話は切られ、無機質な電子音と高いインターホンの中、俺はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 直ぐに戻ると言いつつ、その後白井さんはなかなか戻っては来なかった。とはいえ、変な女も一時も経つと静かになった。遂に重厚な玄関を開く音が響いたのは、それから一時間程度は経っていただろう。
 度重なる不安から思わずリビングに飛び出すと、山室さんが何やら慌ただしく動き回っている。
「直ぐに出るぞ」
 呆然と立ち尽くす俺に一瞥くれて、山室さんは手を休める事もなくそう吐き捨てた。何だか全く分からないが、慎太郎さんならいざ知らず、山室さんが来たと言う事は事態は深刻なのではないだろうか。俺は慌てて出掛ける準備を済ませ、追われるようにエレベーターに乗り込んだ。地上までの長い長いエレベーターの中、空気が何処か重苦しい。
「……あの、何かあったんですか?」
 恐る恐る問い掛けると山室さんは小さく溜息を吐いた。
「まあ、色々とな」
 何ともはっきりしないが、部屋から持ち出した謎の紙袋を小脇に抱える山室さんの眉間には深い皺が刻まれていて、俺もそれ以上突っ込む気にはなれなかった。
 黙り込んだままエレベーターを下りて、立派なエントランスを足早に通り抜ける。磨き上げられた硝子の向こう、何処からどう見てもお似合いの美男美女は、何故か不穏な空気を纏って向かい合っていた。
 山室さんに導かれその脇を通り過ぎる瞬間、俺は思わず息を呑んだ。美しい女の人は、長い睫毛を震わせ泣いている。
「白井、さん?」
 不安から思わず名を呼ぶ俺を落ち着けるように柔らかい笑みを湛え、優しい指先が残酷に髪を梳く。
「後の事は山室に全部任せたから。いってらっしゃい」
 何も解決しないまま、俺を詰め込んだ車は逃げるように高層マンションから走り去った。
「冬弥さん、大丈夫ですか?」
 不意に運転席から慎太郎さんに声を掛けられ、ふと我に帰る。
「え、ああ、うん。……あれが奥さん?」
「綺麗な人でしょう。一番長かったらしいですよね。でも盗聴器仕込むまで追い詰めるなんて、本当最低ですよ」
 そう言って慎太郎さんは山室さんに視線を投げる。当の山室さんは機嫌が悪いのか小さく、ああ、と言ったっきりずっと窓の外を見詰めている。盗聴器、あの紙袋がそうだったのだろうか。気にはなったが、それ以上聞く気にもなれなかった。

 しばらくの無言の後、慎太郎さんは思い出したように山室さんに話し掛けた。
「そう言えば夢が隆司さんに会いたがってますよ」
 夢とは、確か娘の名前だ。
「行きたいのは山々なんだがな。最近また病気が再発しちまってよ」
「ああ、帰れて無かったですもんね」
「ほんの三日だぞ。どうしたもんかね」
 それっきり、お互い考え込んでしまった。

 しかし普段沈黙している車内は、二人の時だと随分賑やかだ。仲も良さそうだし。それにしても病気が再発とは、山室さんが結婚しているのかは知らないけれど、帰れていないって事は家族だろう。色々と大変なんだな。
 そんな事を考えているうちに、車は田所さんの家の前に止まった。
「じゃあ冬弥さん、終わったら連絡して下さいね!」
 そう言って走り去る車を見送ってから、厚い磨りガラスの引き戸を叩く。緊張しながら待っていると、腰の曲がった老人が中から現れた。
「こ、こんにちは」
「おかえり」
 突拍子もなさすぎる発言に思わず口が開いてしまった。何を言っているんだ。そんな俺を残し、田所さんはゆっくりと家の中へと入って行った。
 田所さんが向かった先は顔合わせの時の部屋ではなくて、雑草が好き勝手に生い茂る庭に面した縁側だった。足を踏み出す度に木板の床はギシッと音を立てる。縁側にゆっくり腰を下ろすと、田所さんは右手で自分の肩を摩った。
「身体の節々が痛くてね。肩を叩いてくれるかい?」
 おかえりと言ったり、こんな風に肩を叩かせたり。俺に祖父がいたらこんな感じなのだろうか。田所さんの落ちた肩は骨が浮き出て、叩く俺の手も痛い。
「私の余命は、後三月でね」
 突然の告白に、心臓が大きく鳴った。雑草を見詰める田所さんの瞳は冬の澄んだ空気に優しく揺れている。
「今更宝くじが当たってしまって、どうしたものかと思っていたんだ。昔はどうにも人間の温かさが辛くて辛くて、反発ばかりしていたものだから友人の一人もいない。だけども自分の最期を知った時にこうして肩を叩いてくれる誰かが、欲しくなってしまった。年を取ったんだね」
 家族はいないのだろうか。一人は、辛い。一人は、怖い。俺と同じだ。
「そんな時に社長さんが話しを持ち掛けてくれた。君には迷惑な話しかもしれないがね」
 慌てて首を横に振って、止まった手を再び動かした。肩を叩く緩いリズムは何だか優しい気持ちにさせる。
「社長さんは、仏のような方だ。こんな死に損ないの頑固な年寄りに最期の夢を下すった」
 ポツリと呟かれた言葉に、胸の奥が熱くなる。
「俺にも、夢を見せてくれたよ」
 肩を叩く俺の手にそっと手を重ね、田所さんは優しく微笑んでくれた。

 愛人って、俺には良く分からなかった。普通に生きていたらあまり身近には感じないだろう。だから金を貰って、身体を売るだけだと思っていた。中にはそう言う人もいるのだと思う。むしろそう言う人の方が多いのかもしれない。雪さんのような人がいる位だし、何よりボーイと言っていたし。
 でも笹原さんと田所さん。俺と契約してくれた二人は、そうじゃない。そんな気がした。もう少し広い視野でみれば分かるのかも知れない。残りの時間、俺は孫としてここに通おう。そして最期の時はちゃんと見送ってあげたい。それが求められているか、正解かなんて分からない。でも一人じゃない。そう、教えてあげたい。

 その日は縁側でお茶を飲みながら煎餅を食べたりと、本当に孫とお爺ちゃんみたいに過ごした。余命三ヶ月と言っていたが何の病気なのだろう。病院には行かなくて良いのだろうか。年も年だから死期が近付けばきっと色々と大変になるし、俺は一日三時間と言う契約だ。ずっと付きっきりでいてあげる事は出来ない。もし一人の時に倒れたら──それが心配だ。それでも、俺にはどうする事も出来ないのだけれど。
 明日も来る約束をして慎太郎さんに連絡を入れ、俺は家を後にした。

 遅めの昼食を定食屋で食べて、今日はそのまま帰れると思っていたのだけど、降ろされた所は全く知らないマンションの前だった。降りたのは山室さん一人。呆然としていたら睨まれてしまった。慌てて降りて広い背中に小走りで付いて行く。
 山室さんは六〇七号室の前で漸くその足を止めた。どうやらこの人の家らしい。何で俺が山室さんの家に来なきゃいけないのかさっぱり分からないが、聞いて教えてくれるとも思えないし、怖いから促されるまま家に上げてもらった。
「ただいま」
 山室さんがそう声を掛けたものの、家の中から答える者はいない。やはりこの人には家族がいるのだろう。旦那の帰宅に誰一人答えないなんて、冷め切った家庭を想像してしまう。
 玄関に散乱した靴を綺麗に揃えると、山室さんは深い溜息を吐いて廊下を歩いて行った。その後に続いてリビングに出た途端、俺は驚きの余り一瞬息をするのさえ忘れた。
 黒いソファの上で眠る雪さんと、その身体を抱いたまま眠る、若い男。これは一体、どんな状況なんだ。
「向こうの部屋、行ってな」
「は、はい」
 顎で差された部屋に向かう途中ちらりと盗み見ると、ここで何をしていたか考えなくても分かる。布団を掛けてはいるけれど裸だし。何で山室さんの家に雪さんがいるのか知らないけれど、それより惚れていると言っていたのにこんなを事して何がしたいのだろう。それが分からなかった。
 部屋に入って扉を閉めた後、悪趣味かとは思ったけど扉に耳を当ててみた。話し声は聞こえるけれど、何を話しているのかまでは聞こえない。雪さんと男が起きたのか、たまに怒鳴り声も聞こえて来て、俺はようやく扉から離れた。
 これは修羅場だ。野次馬根性を必死で抑え、部屋の中にあったソファに身体を投げ辺りを見回してみる。
 随分と殺風景な部屋だ。家具もカーテンも壁紙も、黒か白しかない。シックな大人っぽい部屋と言えばそれ迄だけど、何となく寂しい部屋だ。ふと本棚に目を移すと、赤ん坊を抱いた綺麗な女性の写真が飾られている。大分古い物なのか、端もよれている。写真の日付は二十年近くも前の物だし、ここは山室さんの部屋なのだろう。あの人に、子供がいたのか。
「何してんの?」
 呆然としていた俺は、突然声を掛けられ驚きに小さく跳ねた。扉の前で俺を睨んでいたものは、雪さんだった。
「え、あ……」
「人の部屋の物勝手に触んなよ。悪趣味な奴だな」
 予想外にここは雪さんの部屋だったらしい。一緒に住んでる相手は、雪さんだったのか。と言う事はこの写真は雪さんの母親だろうか。この人の母親だけあって、綺麗な人だ。
「将生さんの嫁に会ったんだってな。これで分かっただろ。あの人がどんな人間か」
 何故このタイミングでその発言なのかは分からないが、小馬鹿にしたように鼻で笑われ俺はついムッとしてしまった。
「すれ違っただけだし。特に何にも変わらないですよ。雪さん何でそんなに白井さんが嫌いなんですか?」
 そんな嫌な言い方をしなくても良いのに。大体田所さんだって仏様みたいだって言っていた。
「別に、嫌いじゃないよ。何なら好きな方。そんな事よりそれ。いつ迄持ってんだよ」
 言われて未だに写真を持っていた事に気付く。俺から写真を取り替えすと、雪さんは嫌な笑いをその可愛らしい顔に浮かべた。
「例え話し、してみようか。最初から誰にも愛されなかった冬弥は何だと思う?」
 心臓が大きく脈打つ。この人は一体、何を言おうとしているんだ。
「愛される事を唯々求める寂しがりやのウサギ。深い愛のお陰で大切な人を亡くしてしまった隆司さんは?それでも忠実に信じ続ける犬。じゃあ、信じてた愛ってもんに裏切られたらどうなると思う?」
 息を飲む音が耳の奥底に響く。自分が酷く緊張している事が分かる。
「俺みたいな性格の悪い猫になる。気まぐれで、自分勝手で恩知らず。自分の事以外興味はない。使えそうならすり寄って、用が無くなればあっさり姿を消す」
 真っ直ぐに俺を見据える瞳は、まるで吸い込まれそうになる程澄んだ闇だ。心臓の音だけが脳を支配し、何を言っているのかもはや頭に入らない。それでも不思議と悲しい気持ちになった。この悲しさが何かと言われたら、分からない。説明出来ないけれど、深い虚無の底を覗き込む様な、言いようのない気持ちだ。
「将生さんは俺よりも重症だ。あの人だけはやめとけ。あの人は人を狂わせる。何でもそうだけど手に入らない物ってさ、魅力的なんだよ。でも、それだけだ」
 そう言って机の上の財布を手に取ると、雪さんは部屋を出て行った。呆然と立ち尽くす俺の耳に、玄関の扉が閉まる音が微かに聞こえた。

 しばらくそのまま立ち竦んでいたが、何となく山室さんが心配になってリビングに顔を出すと、ソファに座って頭を抱える男の姿が目に入った。この二人の関係性は知らないけれど、雪さんは山室さんに嫌われていると言っていた。こんな事をしていたら、当たり前な気がするが。
 しかし何と声を掛けて良いのか分からず、相変わらず呆然と突っ立っている俺に気付いたのか、山室さんは徐に立ち上がる。立ち上がると威圧感が増すのは俺の気のせいではない。三人の中で一番ヤクザらしい風体に思わず身体を強張らせてしまった。
 そんな俺を気にも止めずキッチンから焼酎のボトルとグラスを持って来ると、ローテーブルに叩きつけるかの如く置いた山室さんの鋭い瞳が俺を捉えた。
「晩酌、付き合え」
「はっはい!」
 思わず声が裏返ってしまう位怖かった。しかし俺は未成年だから、と烏龍茶を出された。この人は変な所で真面目らしい。
「少し家に帰らないと直ぐこれだ。当て付けみたいに男を連れ込む。今日のあいつはな、元々ストーカーだぞ。そんなの家に上げて、何考えてんだ全く」
 突然、まるで独り言のように呟くと山室さんは一気に焼酎を煽った。まるでやけ酒だ。まあ、自分の家で男同士がやらかしていたらヤケにもなるのかもしれない。そして、車で言っていた病気と言うのが白井さんの言っていた性依存症の事だとその時にやっと俺は気付いた。
「……不安、なんですかね」
 何でそう思ったのかは分からない。けれど山室さんの話しをする雪さんが俺は割と好きだ。あんな風に好きな相手の話しをするのに、何でわざわざ嫌われる事をするのかは分からないけれど。山室さんはそんな俺の言葉に少し驚いた顔をした後、ふと優しく笑った。
「あいつは小せえ時に親に裏切られて、そのまま歪みを治せず生きて来た。それでもやり直そうとしたんだよ。だけどそれもまた裏切られ、最早信じる意味が分からないのよ。もう誰かを信じて傷付く事が、怖くて仕方がねえんだな」
 その言葉は同情している訳でも、哀れんでいる訳でもない。白井さんの言う通り、山室さんは本当に雪さんを大切に思っているのだろう。恋愛感情とか、そう言う事を抜きにしても。雪さんの話しをする山室さんからはそんな深い愛情を感じる。何となく、雪さんが山室さんに惹かれた訳も、山室さんがどう言う人かも分かった気がした。表面上の事かも知れないけどそれが嬉しかった。
 しかし山室さんは本当に無口なのか、その後しばらく無言の時間が続いた。テレビもついていたし特に気まずくは無いけれど、出て行った雪さんの事が心配だ。財布だけだったし、山室さんもこんな感じだし何時もの事なのかもしれないけれど。
 そして少ない会話の中で、しばらくここで暮らす事が分かった。将生さんが離婚するから、何かと慌ただしくなるとかで。離婚の原因は俺だったりするのだろうか。結婚している人と関係を持ってしまった事に、今更ながら恐怖を感じた。俺の意思ではないのだけれど。どうして結婚しているのにも関わらず愛人を作るのだろう。あの優しい笹原さんですら、そうなのだ。
 そんな事をぐるぐると考えていると、晩酌が終わったのか山室さんは机を片付け始めた。慌てて手伝いながら、ふと目の前の男に聞いてみたくなった。
「山室さんは、愛人を持った事ありますか?」
「ねえな」
 手を止める事もなく即答された。
「俺は頭の硬い人間だからよ。だがまあ、ある意味で言えば男はそう言う生きもんだ。将生さんも、他の連中も責める気はねえよ」
 確かに山室さんの言う通り、男は本能的に浮気をする生き物だ。女性からしたら全く理解に苦しむこの感覚も男同士なら分かる時もある。そう思うと何だか胸の奥が痛んだ。結局離婚したとしても、俺は愛人だ。それが無性に遣るせない。愛していると言ってくれたけれど、きっと口先だけなんだ。
 そんな事を考え、ついグラスを持って呆然としていた俺を横目で見やった後に、山室さんは静かに口を開いた。
「坊主。俺は将生さんはやめとけとは言わねえ。だが覚悟はしておけよ。いつかは必ず、お前の目の前から姿を消す日が来る。白井将生って男はそう言う類の人間だ」
 心臓が嫌な音を立てた。山室さんの言っている意味が分からない。いつかは捨てられるって事だろうか。その覚悟をしておけって事なのかな。分からない。何が本当で、何が嘘なんだ。白井さんの心の底が知りたい。こんな状態は、不安で不安で仕方がないんだ。

 次の朝、俺は遠くで聞こえる声に目を覚ました。そっと扉を開くと、山室さんと雪さんが言い争っている姿が直ぐに目に飛び込んで来た。
「だから、俺の勝手だって言ってんだよ!あんた何なの?俺の親父のつもり?それとも恋人?もうどうでも良いんだよ!あんたが抱いてくれたら、俺は直ぐこっから出てってやるよ!」
 何だか猛烈に雪さんがキレている。山室さんは山室さんで眉間に皺を寄せ、険しい表情でそんな雪さんを見詰めていた。
 昨日に引き続いての修羅場に、俺はすごすごと布団の中に戻った。山室さんも大変だ。しかし何で一緒に住んでいるのだろう。多分だけど、二人はあまりうまくいっていないみたいだし、同じ屋根の下で暮らしてて手を出されないなんて雪さんにしてみたら生殺しだ。生殺しどころか、酷く辛いだろう。俺はそれがどんな辛さかを考えながら呆然と白い天井を見詰めた。

 しばらくそうしていると突然音を立てて扉が開かれ、思わず飛び起きた俺の目に、扉の前で蹲る小さな姿が飛び込んだ。
「……雪さん?」
 慌てて駆け寄った途端、雪さんは俺に抱き付いた。ふわっと鼻先に香った香水の匂いは、この人の物じゃない。
「ごめ、なさいっ……!」
 それは、俺に言う言葉じゃない。それでも雪さんの気持ちを思うと胸が苦しくて、俺は震える背中を摩った。自分の行いを泣く程後悔する位ならやらなければ良いのに、なんて、とても思えなかった。

 俺は雪さんが言った通り、誰でも良いから必要とされたかった。愛される事を知りたかった。その先で、俺自身も誰かを大切に思う事が出来ると思っていたから。羨ましくて、眩しくて、焦がれていた感情。
 けれど人を愛するって、良い事ばかりではないのかもしれない。腕の中で遂に泣き疲れ寝息を立て始めた雪さんの赤くなった瞼を見て、ふとそんな事を思った。
 人が初めて受ける愛情は親からの物だ。真実の愛だと言われる、無償の愛。子供は無条件にそれを信じて、時には反発しながらもその深い愛情に包まれて育って行く。
 多くの人間は自然とそれが出来るものだ。けれど中には俺の親のようにそれを与える事の出来ない人間がいる。そして雪さんのように、成長の途中で裏切られ、大人になっても癒えない深い傷を負う事もある。どちらが辛いとか、そう言う野暮な話しじゃない。ただ、真っ白だった筈の心が黒く色を変え歪んで行く。
 例えば虐待された子供が同じ過ちを繰り返してしまう事も、誰も愛せない人間が育ってしまう事も、幼少期に受けた心の傷が大きな要因だと思う。それは考えているよりもずっとずっと、悲しい事だ。

 しばらくしてそっと部屋に訪れた山室さんの顔には、隠せぬ程の重い苦悩と苦悶が滲んでいた。いつも仏頂面で何事にも動じないこの人も心の奥底で葛藤しているのだろう。二人の関係は知らないけれど、山室さんの瞳からは雪さんへの愛が溢れている。大切な人がこんな風に傷付き続けている姿を見て悲しくない訳がない。それでも雪さんを抱いてやらないのが、この人なりの愛し方なのかもしれない。
「悪いな」
 申し訳なさそうに呟かれ、出来るだけ優しく微笑んで見せる。山室さんの気持ちはいつかきっと伝わる。そう、教えてあげたかった。

 山室家に来てたった二日。それでもこの世のアンダーグラウンドを、俺は垣間見た気がした。

 その日は田所さんの所に行かなきゃならなかったから、俺はそのまま家を出た。山室さんも出ようとしていたけれど、慎太郎さんに説得されて結局家に残る事に決めた。
「大変だったでしょう?」
運転席から問い掛けられて思わず苦笑いしてしまった。
「本当ガキなんですよ、雪は。でもあいつも、臆病なだけなんです。俺はその気持ち、何となく分かるから」
 そう言って笑った慎太郎さんは優しくて、色んな人に想われる雪さんが羨ましくもあった。
 人を愛せない二人。白井さんとの違いが山室さんの存在だと言っていた事を思い出す。その意味を考えてみたけれど、やはり俺には分からなかった。愛してくれる人の存在だろうか。だけど白井さんも結婚している。白井さんがどうであれ奥さんはきっと、白井さんを愛していた筈だ。

 そんな事を考えているうちに車は田所さんの家の前に止まった。車から降りて、厚い磨りガラスの扉を叩く。顔を覗かせた田所さんを見たら、自然と顔が綻んだ。
「ただいま」
 おかえりと言った田所さんの瞳が少し潤んだのを、俺は見て見ぬ振りをする。縁側で肩を叩き、教えられながら将棋をさして、お茶を飲んで話しをする。俺の仕事はそれだけ。ほんの一瞬。それでも良い。人生の最期に人間の温かさが知れたならきっと幸せだ。そう、思う事にした。

 けれど余命三月と言っていた田所さんは、僅か一ヶ月後にこの世を去った。俺はその事を白井さんが山室家に訪ねて来て知った。
「そっか……お葬式、してあげなきゃね」
 そう決めたから。俺が孫として、田所さんを見送ってあげたい。思い立つや靴を履いて家を出ようとした俺の腕は、何故か白井さんに思いっきり引っ張られ、鈍い痛みに顔が歪む。
「冬弥、自分の立場を分かってる?」
「……は?」
 何の事かと見上げると深い溜息が耳に触った。
「言った筈だよ。お前と田所さんが生きた時間は決して知られてはいけない裏の人生。お前は愛人だ。線香一つ上げる資格もない」
 この人は何て冷たい人間なんだろう。そう思うと悔しくて、思わず握った拳に力が籠る。そんな俺の手を、白井さんは優しく握った。
「冬弥、虚しいだろう。それが背徳の果てに手にするものだ」
 深い虚無がその瞳の奥底で揺れる。ついさっき冷たい人間だと思ったばかりなのに、俺は自分の中で納得していた。白井さんの言う事は最もだ。涙が溢れる位に、その通り。

 結局、俺は言葉通り線香一つ上げる事が出来なかった。たった数度会っただけでも涙が止まらないのは、田所さんと過ごした日々が楽しかったから?人間の死というものが悲しいから?それとも、ただ虚しいから?分からない。それでもたった一つ分かる事は、こんな別れは二度と、したくはないと言う事だけだ。
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