Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground rabbiT』

求められること

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 幼い頃の思い出と言うものは、思いの外強かったりする。良い事も、悪い事も。それは自分で考えているよりも、ずっとずっと根深い物だ。俺が今でも白井さんの夢を見るように。一人になる事を、酷く嫌うように。

 リビングから流れ込む珈琲の匂いに目を覚ます。布団から抜け出して扉を開くと、新聞を広げて朝のひと時を過ごす白井さんが目に入った。あれから二日。どうやら今朝帰って来たらしい。
「おはよう。朝は食べる?」
 寝ぼけた頭を小さく振って、俺は自分で珈琲を入れて向かいの椅子に腰掛けた。ちらりと新聞を持つ左手を盗み見たけれど、指輪はしていない。俺が愛人……だからだろうか。
「雪はどうだった?」
「……強烈だった」
 俺の素直な感想に、白井さんは小さく笑った。
「だろうね。冬弥には刺激が強過ぎた?でも盗める所は盗みなさい。勝手に契約を切ったりする問題児ではあるけれど、あの子の腕は確かだよ。あの気まぐれな所も客が付く理由かもね」
 雪さんの言っていた愛人理論からすれば、確かに雪さんは人気が出るだろう。それは俺でも分かる。あの人は何もかもこっちの想像を遥かに超えて行く。見た目の純情そうで清廉なイメージをぶち壊すドス黒い妖艶さと、掴んだ気がして掴めない奔放な性格。自分勝手で子供っぽいのに、それすら計算の内の様な、気付けばあの人の手の中で転がされている。不思議な人だ。
「山室さんてさ、雪さんとどういう関係なの?」
 ふと気になって聞いてみたが、白井さんは新聞から視線を上げる事もなく呟いた。
「さあ。山室も雪の事大切には思っているんじゃない?」
 まるで興味ないのだろうか。まあ、確かに男同士の恋愛に興味持ってる俺の方がおかしいのかもしれないけど。
 何だか気まずくてそのまま黙って珈琲を飲む。広い部屋は時計の秒針だけが響いていた。この無言は苦痛ではない。お互いが存在を認識しながらも、無駄な干渉はせずただ一緒にいる様な、この雰囲気は好きな方だ。
 そんなまったりした時間を過ごしていたら、白井さんは突然ふと顔を上げた。
「でもね、人を愛せない人間の矯正って大変なんだよ。山室が出所して五年も経つけれど、未だに雪は依存症が治らないしね」
「……依存症?」
 山室さんの出所とか、色々聞きたい事はあったけれど、依存症と言う言葉の方が気になった。依存症と聞いて良い想像は出来ない。薬か、ギャンブルか、アルコール。見た感じ薬にやられてるとは思えなかったけれど。
「性依存症。セックス依存症って言った方が分かりやすい?最近新しい病名に変わったみたいだけど、精神疾患だよ」
「え……うん……」
 この人とんでもない事を暴露しているけど良いのだろうか。思わずどもって返事をした俺を見て、白井さんは呆れ顔で溜息を吐いた。
「他人事じゃないんだよ、冬弥。性依存症は親との関係性が大きな要因である場合も多い。君だってならないとは限らないだろう?」
 確かに、親に愛されては来なかったけれど。白井さんの顔を見ていたら口を挟む気にはなれなくて、俺は静かに続きを待った。
「俺はね、冬弥には雪みたいになって欲しくない。あの子は歪んだ自傷癖みたいなものもあってね、自分では決して傷付けないけれど、代わりに相手を煽って煽って、嫉妬で歪み、怒りに狂った男に陵辱されるようなセックスを好む傾向にあるんだ。出会った頃は俺でも見ていられない位だった。少しづつ落ち着いては来たけどね。そう考えると山室はよくやっているよ」
 あまりに淡々と話す白井さんに身体が震えた。今俺が聞いた話しは、そんな世間話的に話す内容ではない筈だ。
「まあ、雪の事は山室がいるからどうでも良いんだけどさ。はい、これ」
 すっと差し出された物は、見覚えのある紙だった。顔写真と、身長とか体重とか。
「え、まさか……」
「そうそのまさか。田所三郎さん。こないだ宝くじが当たったらしくてね。ダメ元で営業かけてみたら案外乗り気でさ」
 嘘だろ。
「だって、八十二歳……」
 写真はどう見ても完全にお爺ちゃんだ。お爺ちゃんと言うより他に、この人を表す言葉があるなら教えて欲しい。しかし白井さんは別段驚いた顔を見せなかった。
「だから?さっそく明後日顔合わせだからね。明日は裕樹。冬弥は忙しいね。俺の相手はいつしてくれるの?」
 びっくりする位美麗な笑顔を向けられて、思わず視線を逸らした。白井さんの笑顔は心臓に悪い。
「ああ、そう言えば最初に紹介した高見さんなんだけど、今の状態じゃ無理だな。あの人元々雪に熱を上げていた人だから、冬弥じゃ絶対突っ返されるよ。どうするの?」
 どうするのと言われたって……ずっと男に抱かれて来た人間と俺を一緒にする方が間違いだと思うけど。それに雪さんに会って思ったけれど、俺にはやっぱり向いていないと思うんだ、この仕事。かと言ってやるしかないんだけど。
「……まあ良いけど。さあ、冬弥。躾の時間だよ」
 呆然と考えていた俺にそんな恐ろしい事を口走る白井さん。完全に固まっていたら、鋭く睨み付けられてしまった。
「どうするんだっけ?」
 仕方がないからおずおずと椅子から立ち上がり、訓練された通りに白井さんの足の間に体を運び、スラックスの上から軽く扱いてからチャックを下ろす。それはもはや作業だ。その証拠に頭上からは大きな溜息が聞こえた。
 分かってる。でも乗り気で出来る程、俺は落ちていない。取り敢えずいつものように、俺なりに必死で奉仕を始めた。
「下手くそ」
 本当にこればっかりは成長出来ないし、したいとも思わない。それがいけないのだろうか。
「……あ、もしもし。今?大丈夫だよ。調教中」
 頭上で突然そんな声が響く。驚いて顔を上げると、耳に携帯を当てたまま、続けて、と合図を送られた。こいつ、平然と電話なんかしやがって……湧き上がる苛立ちをぶつける様に、俺は必死で男の感じる箇所を責め立てた。
 俺だって男だ。どこをどうされると気持ち良いか位本当は分かる。その舐めた面、崩してやる。口に含んでは丁寧に舌先で嬲り、唇で鈴口をねっとりと扱いてやる。口内で質量を増す事で白井さんが感じているのが分かった。
 参ったかこの陰険野郎。そう思った瞬間、ふと頭上で漏れた笑い声に視線を向けると、目が合った。ほくそ笑む顔は、陰険を絵に書いた様な面だ。手元の電話は、いつの間にか消えている。
「急に上手くなったじゃん。本当に君は単純だね」
 電話、していなかったのか。
「興奮した?」
 足先で股座を軽く小突かれ、身体が跳ね上がる。何で俺は、こんな屈辱的な状況に興奮しているんだ。そんな絶望感に冷や汗がじわりと滲んだ。
 白井さんは楽しそうに喉の奥で笑うと、そのまま手を引かれなすがままの俺をソファに座らせた。
「よく出来ました。上手だったよ」
 微笑んで頭を撫でられる。何とも言えない気恥ずかしさに、思わず俯いた俺の顎は直ぐ無理矢理引き戻された。
「まだ終わっていないでしょう?」
「やっ、顎、疲れたし……」
 適当な愛想笑いを浮かべてみたけれど、通用する訳が無い。
「ちょっと痛くするかも知れないけど、許してね」
 全く悪びれた様子もなく言い放たれた言葉の意味を考える暇もなく、視界がグルリと反転した。目の前に迫った顔はこれまた驚く程に良い男だ。しかしそれとこれとは話しは別。批難の声を上げようと口を開いた途端、一気にスラックスを引き抜かれ思わず言葉を飲み込んだ。この人は俺の事なんかお構いなしだ。慣れた手付きで身体を弄ぶ指先が段々と俺を翻弄して行く。
 そう言えば雪さんもこの人に抱かれたんだよな。上手いって言っていたし。あの人が言う位だから、白井さんは本当に上手いのだろう。でも俺にはそんな事関係ないし、比べる対象もいない。長い指が背筋を流れ、秘部に滑り込む感覚も、もう慣れた。後は必死で耐えるだけだ。身体がどんなに反応したとしても、誰が声なんか出してやるもんか。女でもあるまいし。そこだけは変なプライドが許さない。
 しばらく何時ものように勝手にローション塗れにして解していたと思ったら、白井さんは不意に小さく笑った。
「まあ、でも、これはこれで良いかもしれないね」
 何の事かと視線を向ける。俺を見下ろす冷たい瞳に、震え上がりそうになった。
「恥辱と屈辱の中で必死に落ちまいとするその顔、そそられるよ」
 言うが早いか指を抜き取った途端、固まる俺の足を割って身体を差し込まれ、心の準備も何もないまま一気に奥迄貫かれ思わず悲鳴にも似た声が上がった。荒々しい動きに、身体中がギシギシと軋む。
「まっ……も、むりっ……!」
 上手く息が付けなくて、酷く苦しい。けれど無理矢理捻じ込まれて痛いのに、今迄感じた事がない位全身が痺れる快感が走る。身体中が神経になったみたいにヒリヒリと痛み、素肌にかかる熱い息にすら、貪欲に感じてしまう。
「あっん、しらっ、だめ……!」
 このままじゃ、おかしくなる。
「どうしたの、自分から腰振っちゃって。気持ち良い?」
 耳元に掛かる、甘い悪魔の囁き。反り返るペニスを緩く扱かれた途端、唐突にせり上がる絶頂の波に攫われ、呆気なく俺は果てた。パタパタと落ちた白濁が、上質な皮のソファに下品なシミを落とした。
 肩で息をつく俺の髪を白井さんは優しく撫で上げる。
「やっぱり素質あるよ、冬弥」
 そんなもの、いらない。
「でもね、俺を満足させなきゃ終わらないの分かるかな?」
 ……嘘だろ。再び躍動を始めた男によって開かれた身体は、意思に反して逃がすまいと締め付ける。ズルリと内壁を擦られる度、情けない声が上がった。あまりの快感にもう頭が真っ白だ。
 気付けば俺は、自分からその黒髪を掻き抱き、白井さんを求めていた。もっとこの男の痛い程の熱が欲しい。そう身体中が訴えかける。俺は一体、どうなるのだろう。

 白井さんがやっと満足した頃には、俺は最早動く気力すらなくなっていた。ずっしりと重い鉛を被ったように怠い。
「おいで、冬弥」
 そんな虚ろな頭でもこの人の命令には逆らえないみたいで、無意識に俺は白井さんの腕の中に抱かれにいっていた。頬を寄せて、優しく髪を梳く。その感覚に酷く安心する。さっき迄乱暴に俺を支配していた身体は、何故かとても温かかった。
 慎太郎さんの言うように優しさを持ち合わせていないなら、こんな風に人を抱けるだろうか。こんなに優しい手をしているだろうか。幼い頃の記憶さえ蘇る。不安だった俺の、支えだった優しい手。
 ふと、この手を独り占めしたい。そんな訳のわからない独占欲が湧き上がった。白井さんは誰にでもこんな風にするのだろうか。奥さんにも、こんな風にするのだろうか。俺はただの愛人だけど、ただの性欲処理だったら少し、悲しいかも知れない。
 不意に額にキスを落とした白井さんが、目を合わせるとふわりと笑った。
「愛しているよ、冬弥」
 気付いたら、自分から白井さんの唇を塞いでいた。

 俺は愛される事を知らない。知らなかった。だから初めて人に愛を囁かれた時、相手が男だったのに嬉しかった。結婚していると知っていても嬉しかった。その想いに報いたいとさえ思った。知っていたら気付いたのだろうか。慎太郎さんや、雪さんがこの男はやめておけと言った、本当の理由に。
 白井さん。愛とは何ですか。あなたは一体、あの時俺に何を求めていたのですか?

 次の日────。今日は笹原さんと会う日だ。慎太郎さんの運転する車で辿り着いた場所は、郊外にひっそりと佇む高級フレンチの店だった。
 コンビニの前に座り込んだり、ファミレスだファーストフードだしか行った事が無かったし、こんな店見ただけで肩がすくむ。当然テーブルマナーとかあるのだろうし、大丈夫だろうか。また契約を打ち切られるかもしれない危機が目の前で待ち構えているのに、意気揚々と店に足を踏み出す気になれない。だが無情にも呆然と立ち尽くす俺を残し、車は去って行った。

 行くしかないか。一つ気合いを入れて、小洒落た古臭い木戸を開いた。店内は少し薄暗くて、所々に点在するキャンドルライトが淡い空間を演出している。俺が入って来た瞬間、扉の前に立っていた女性は綺麗なお辞儀をした。
「いらっしゃいませ。お連れ様は既にお待ちです。こちらへどうぞ」
 ニコリと微笑んで歩き出す女性に慌てて付いて行く。大人な雰囲気の店に場違いな俺。あまりキョロキョロするのも変だから、なるべく慣れてる風を装って歩いてみた。周りから見たら浮いてる事この上ないのかもしれないけれど、幸い少ない店内のテーブルに人影はない。
 店員に連れられ角を曲がったそこには、笹原さんが待っていた。完全個室ではないけれど、周りからは見えない所でホッとした。
「冬弥君!」
 俺の顔を見て嬉しそうに立ち上がる笹原さんを見ると何か和む。思えば最近はヤクザか変な小悪魔にしか会っていなかったから、普通の人間を久しぶりに見た気がした。
 小さく頭を下げて席に着いてみたけど、もうこの時点でどうしたら良いか分からなかった。
「ワインで良い?」
 取り敢えず頷いてみる。笹原さんは側で控えていた店員に右手を小さく上げて、何か合図を送った。何だか大人だ。呆然とその姿を見詰めていた俺に気付くと、ふわっとした優しい微笑みが向けられた。
「緊張してる?煙草は?」
 慌てて首を振って、ふっと疑問が過った。
「笹原さん、煙草大丈夫なんですか?」
「何で?あ、もしかして将生が?」
 俺が頷くと、笹原さんは可笑しそうに笑った。
「あいつ、まだ気にしているんだ」
 何と無く、それ以上は突っ込めなかった。そんな時に丁度さっき頼んだワインが運ばれて来て、店員がそれっぽくグラスに注いで行く。笹原さんがグラスを持ち上げ、俺に向かって差し出した。乾杯だと分かるまで少しかかってしまったが、笹原さんは何も言わずに待っててくれた。……大人だ。
 慣れない乾杯も済ませ、ワインを口に含ませた時だ。
「昔ね、僕達付き合っていたんだ。大学の時だからもう十年も前だけど」
 突然語り出された衝撃的な事実に思わず吹き出しそうになった。
「将生は、自分以外の誰も愛せない人でね。僕は愛して欲しくて、色んな事して振り回したりしたんだ。でも全部無駄。上手く言いくるめられて流されるだけだった。自分がどんどんダメになっていくのが分かっていたけれど、それでも好きだった。でもね、将生の浮気に気付いた時、やっと潮時かなって思ったんだ。それで、煙草吸う人嫌いって言ってフったんだ。子供っぽいでしょ?」
 笹原さんは懐かしむようにふっと笑った。それを今でも気にしているって事は、白井さんはまだ笹原さんが……そんな俺の心を読んだかのように、笹原さんが言葉を続ける。
「最初から将生は僕の事なんか好きでも何でもなかったんだ。ただ、都合が良かった。それだけだったんだよ」
 そう締め括った表情は酷く切なくて、思いの外白井さんが最低で驚いた。じゃあ昨日、俺の事愛していると言ったのは何でだろう。単なる気まぐれなのかな。でもそんな風には見えなかった。俺が流される位、本気に見えた。だから何だって話しなんだけど。白井さんが本気だったら、俺はどうしたいのだろう。こんな所でグダグダ考えても埒はあかないし、その事はそれっきり考えるのをやめた。

 その後は笹原さんの話しを聞いたり、差し障りのない程度に俺の話しをしたり。コース料理だったみたいで注文しなくてもどんどん料理は運ばれて来て、洒落た料理に最初は度肝を抜かれたけど、聞いた事もないヘンテコな名前の食べ物達も美味しかった。不安だったテーブルマナーも、笹原さんは本当にさりげなく教えてくれたりして。恥ずかしながらおんぶにだっこ状態。それでも笹原さんはニコニコ笑っている。やっぱりこの人は優しい人だ。
 俺たちはまるで付き合いたてのカップルみたいな、少しぎこちなくて優しい時間を過ごした。そしてその日はそのまま慎太郎さんの迎えで帰宅。明日はお爺ちゃん……もとい、田所三郎さんとの顔合わせ。緊張で当然眠れなかった。

 そんな次の日は朝早くに叩き起こされた。昨日眠れなかったから、余計に頭がボーッとする。時計を見ると八時前。夜型の俺にしてはかなりの早起きだ。
「早く支度しなさい。間に合わなくなるよ」
 寝癖のままリビングに顔を出した俺を、白井さんがイライラした様子で捲し立てる。それでも頭が起きなくて、ネクタイを絞める手先をぼんやりと見詰めていた。
 白井さんは意外と面倒見が良くて、陰険だけど本当は優しい。大人だし、顔は良いし、金持ちだ。ヤクザって事を除けば、そんなに問題があるようには思えない。どうして三回も離婚したのだろう。子供はいないのかな。奥さんと離れて暮らす理由は何だろう。やっぱり浮気が原因なんだろうか。……人を愛せないって、どう言う事だろう。そもそも人を愛するってどう言う事なんだろう。笹原さんの話しを聞いてから何もかもが気になって仕方がない。
「冬弥、いい加減怒るよ?」
 ついつい考え込んでいた俺は、いつもより低い声に我に返る。気付けばネクタイも締め終わり、準備の最後である腕時計を手首に装着している最中だった。慌てて顔を洗いに行って、歯磨いて、用意された服に着替えを済ます。全て終わるのに十分もかからなかった。
 そのままバタバタと家を出て、いつものように慎太郎さんの運転で出発。車内の会話がない事も慣れたけれど、この人達はいつもこんな感じなのだろうか。白井さんは無口じゃないし、マンションにいる時の慎太郎さんは暇さえあれば口を開いてる。山室さんはまあ、喋らないから良いにしても、この三人の関係は不思議だ。大人はこんなもんなんだろうか。それとも一緒にいすぎて話す事もないのだろうか。とにかく割と息が詰まりそうな程、毎度空気が重いのは確かだ。
 そんな事を考えているうちに、混み入った住宅街の中で車は停止した。目の前には下町によくある古い平屋の日本家屋。表札には田所の文字があった。前の三人の顔合わせはマンションやホテル、それか何処か個室だったのだけど、お爺ちゃんだから自分の家なのだろうか。こんな言い方したくはないが、人生間も無く終わるって時に宝くじ当たってヤクザにカモられるなんて、不憫だとしか思えない。
 車から一足先に降りた白井さんが厚い磨りガラスの引き戸を叩くと、中から人が近付く気配を感じた。写真では見ていたものの、やっぱり緊張する。俺お爺ちゃんに抱かれるんだろうか。もはや年的には孫なんだけど。ひ孫でもおかしくないし。……おかしいだろう。
 しばらくするとガラガラと音を立てて扉が開かれた。顔を出した人は想像以上のお年寄り。腰は酷く曲がっているし、酷く痩せ細っている。不安は募る一方だった。
「こんちには田所さん。この度は当社のサービスをご利用頂き実にありがとうございます。先日お話ししておりました会員を連れて参りました。立ち話もなんですから……」
 そう言うと白井さんはまるでセールスマンかのような胡散臭い営業スマイルを向けた。田所さんはぺこりと頭を下げると、曲がった腰を叩きながら奥へと消えて行った。それに続いて俺達も家の中へと入る。お邪魔します、と言う白井さんの言葉を復唱して田所さんの向かった部屋に足を踏み入れた。
 そこはガラクタが所狭しと犇き合い、狭い部屋が余計に狭く感じる。オレンジ色の変な模様の床も、古臭い給湯器も、何故だかまさしく年寄りの家と思わされた。田所さんに座って下さいと合図を送られ、頭を下げた白井さんにならって頭を下げる。
 席に付き、田所さんがお茶を淹れてくれるのを待って、白井さんは話しを切り出した。
「さっそくですが、こちら契約書と、誓約書になっております。誓約書の方は簡単なお約束事のみとなりますので後程軽く目を通して頂ければと思います。契約書の方はこちらに氏名と、こちらにご捺印頂けましたら後日弊社の者が受け取りに参ります。ここ迄はよろしいですか?」
 田所さんはゆっくりと頷いて見せた。いつもより声を張ってる気がするのは、相手がお爺ちゃんだからだろうか。
「それではご紹介が遅れましたが、こちらが当社から派遣される者になります。半沢君、ご挨拶して」
「はっ初めまして、半沢冬弥です。よろしくお願いします」
 突然振られ軽くどもったけれど、何とか当たり障りのない自己紹介を済ます。下げた頭を上げると白んだ瞳がジッと見詰めている。田所さんと今日初めて目があった。深い深い、海の底を見ている気がした。静かで、さみし気で、そしてどこか懐かしい。俺に祖父はいないのに何故そんな気持ちになったのか。まるで分からなかった。
「まだ日は浅いですが、きっとご満足頂けると思います」
 白井さんはそう言ってニコリと笑った。変なプレッシャーを掛けられてしまった。田所さんが俺に求めるものは何だろう。愛人を買ったのだから、やっぱり体なのかな。
 俺の紹介も済んだ所で、白井さんはまた胡散臭い微笑みを貼り付けた。
「ではご質問が無ければ本日は失礼させて頂きますが──」
「明日からは可能ですか?」
 嗄れた弱々しい声が不意に響く。明日とはまた性急だ。契約書にサインすらもらってないのに。
「あ、明日ですか。こちらも何かと手続きがありますので……」
 さすがの白井さんも少し驚いた顔をしている。そんなに俺を気に入ったのだろうか。それは自意識過剰か。田所さんは真っ直ぐに白井さんを見詰め、それ以上口を開かない。隣から困ったような顔が向けられ、俺は思わず愛想笑いを浮かべた。特に理由はないけど反射的に。
 しばらくの沈黙の後に、白井さんは一つ息を吐いた。
「分かりました。では明日からと言う事で。それでは本日中に契約書の方頂きたいのですが、よろしいですか?」
 田所さんはコクリと頷くと、契約書を読まずにサインと捺印をして無言のまま差し出す。この人は何をそんなに急いでいるのだろう。俺が知るわけもないし、想像すら付かない。
「……確かに頂きました。では明日からよろしくお願い致します。明日からの事は半沢と決めて頂いて構いませんので。それではこれで失礼させて頂きますね。ありがとうございました」
 深々と頭を下げる白井さんにならって頭を下げる。こうして無事に初顔合わせは終了した。

 それから家に帰り、白井さんの作った何故かとんでもなく美味しい昼食を食べながら俺は耐えきれず皿から顔を上げた。
「……白井さん、あんな爺さんでも、性欲ってあるの?」
 突然の問い掛けに、白井さんは昼食を食べる手を止めた。田所さんの家から帰って来てからずっと、俺はそればかり考えていた。どう考えたって無理だ。俺だって嫌だ。
 質問しといてぐだぐだと考えを巡らせていた俺を見て、白井さんは呆れたように食べる手を再開した。
「知らないよ。それよりそんなのんびりしていて良いの。今日雪が来る日だけど」
 え、聞いてないし。そもそも俺は家庭教師がいつ来るのかを知らない。この間もあまりにも唐突な訪問だったし。
「あいつだって忙しいんだからあんまり手間かけさせると怒って来なくなるよ。ただでさえ気まぐれなんだから。宿題出したって言っていたけどやったの?」
「……今からやる」
 随分知った風な言い方だ。雪さんも白井さんはやめておけって言った癖に、そんなに密に連絡を取っているのは何でだろう。白井さんが作ってくれた昼食のパスタを掻き込んで、逃げるように席を立つ。何か変な気分だ。
「冬弥、待ちなさい」
 俺を呼び止める声に、面倒臭そうに振り向いてやった。実際面倒臭いし。宿題やらなきゃいけないし。
「怒ってる?」
「……何で俺が怒らなきゃいけないの?」
 全くわけが分からない。怒る必要も、きっかけもない。ただ、ちょっと変な気分なだけだ。
「なら良いけど」
 含みを持った笑みに若干苛立ったけど、そのまま部屋に直行した。何だろうこの変な気分は。イライラしている訳でもないけれど、ただ何となく、気分が悪い。

 よく分からないモヤモヤを吹き飛ばしたくて、手付かずのドリルに向かって無心で手を動かしたが、半分も終わらないうちにインターホンの鳴る音が聞こえた。慌ててスピードアップを図ってみたけれど、それもリビングから聞こえた声で徒労に終わる事となった。
 何やら二人が話している声はするが、さすがに内容までは聞こえない。何を話しているのだろう。それが何故か無性に気になった。こっそり聞き耳を立てていたら突然扉が開かれ、慌てて勉強してるフリをする。
「冬弥元気ー?」
 扉からは驚く程に輝く笑顔が覗いた。もはや直視出来ないレベル。小さく頷くと、雪さんはそのまま椅子に器用に体育座りをして膝に置いた腕に顎を乗せた。天然なのか狙いなのかよく分からないけれど、何気無い仕草がいちいち可愛い。多分二十歳は過ぎてるだろうし男相手に失礼なのは重々承知だ。しかしこの不思議な青年の事を、なんと形容したら良いのかよく分からない。
「最近さあ、隆司さんに会ってる?」
 見惚れていた俺は突然の問い掛けに思わず飛び上がりそうになった。最近と言っても雪さんと会ったのはつい五日前なんだけど。どれだけ惚れているんだ。
「さっき会いましたけど」
「元気だった?」
「さあ、いつもと変わらないですけど」
 雪さんはそっか、と言ってぼんやりと窓の外を見詰めた。その横顔は何だか嬉しそうでいて、切なそうでもあって、でもとても綺麗だ。それはこの人の容姿とかそう言う事じゃ無いんだと思う。恋は女性を綺麗にするって言うけど、あながち間違いでは無いのかもしれない。雪さんは男だけど。

 結局適当に話しながら勉強を進め、気付けば一時間は経っていた。退屈そうに携帯をいじる雪さんを見ていたら、ふとさっきの事が気になって仕方がなくなった。
「雪さんって、昔白井さんの愛人だったんですか?」
 一瞬睨まれた気がしたけど、少し考えた後にふっと笑われた。
「愛人じゃあないかな。ただ利害が一致していたってだけ。何で?」
「いや、深い意味は無いんですけど」
 本当にない予定だったのに、何か引っかかったのか、突然胸倉を掴まれた。
「まさかとは思うけどさ、惚れた?」
 そんな訳ない。そう言わなきゃいけないのに、雪さんの気迫に押され言葉が出ない。
「やめとけって言っただろ。あの人はお前が思うよりもずっと、ドス黒い男なんだぞ?」
「でもっ──」
「でもじゃねえんだよ、分かれよ!あの人はダメだ!」
 何がこの人をそんなに怒らせるのだろう。山室さんはフェイクで、実は白井さんに惚れているとか?だったらこの人もガキだな。それに悪く言われた事に何となく、腹が立った。
「雪さんは、白井さんの何を知ってるんですか?」
「何も」
 当然だとでも言いたげな雪さんの態度に、余計に腹が立った。
「だったら、ほっといて下さいよ」
 俺だって知らない。だけど、知っているフリをした。
「何も知らないからやめとけって言ってんだよ。あの人は他人に、自分の事なんか何一つ明かさない。そう言う人間が信用出来る訳ねえだろ!」
 そう怒鳴る雪さんの気持ちが分からない訳じゃない。それでも俺は引けなかった。
「俺の事、愛してるって言ってくれたんだ。生まれて初めて……言われたんだ」
 世界でたった一人。白井さんだけだった。親ですら愛してはくれなかったこの俺に、そんな言葉を掛けてくれたのも、不安な夜にただ側にいてくれたのも。その言葉を聞いて、雪さんは諦めたようにゆっくりと俺を開放した。
「……だったら勝手にしろよ。悪いけど俺はもう知らねえぞ。お前が傷付いたって慰めてもやらない。助けてもやらない。勝手に舞い上がって、勝手に捨てられれば良い。それで気付くよ。ああ、この人は本当に心の無い男だってね」
 それでも良い。不思議と俺はそう思っていた。多分これは好きとかそんな事じゃない。そんな、甘い感情なんかじゃない。俺は多分飢えていた。誰でも良い、愛されたい。必要とされたい。それがこの不思議な感情へと変わったんだと思う。
 怒りのままに部屋を出ようと立ち上がった雪さんは、俺を見下ろし静かに口を開いた。
「冬弥。俺と将生さんは似てる。人を愛せない人間だ。だけど唯一違ったもんは何だったと思う?」
 その問い掛けに顔を上げる。雪さんの瞳は、相変わらず深い闇の底のようだ。
「俺には隆司さんがいた。あの人には、誰もいなかった。それだけだけど、それがどれだけ大きいか、お前にはまだわかんないだろ」
 それだけ言って部屋を出て行く背中すら、見送る事が出来なかった。

 しばらく呆然とその意味を考える。雪さんにとっての山室さんは、どんな存在なのか。それすら知らない俺にはやはり、その意図を図る事さえ出来ない。
 重い身体を引きずってリビングに顔を覗かせると、白井さんはソファに座り何やら書類に目を通していた。仕事中のようだ。一瞬こっちに視線を向けると、白井さんは小さく笑った。
「喧嘩?やめときなさい。あの子は口も達者だからね」
 そう言って再び書類に視線を戻す。それだけで胸の奥が酷く痛む。
 背中から首に腕を回して抱き締めると、白井さんは少し驚いたように息を呑んだ。
「珍しいね。どうしたの?」
 俺が何も言わない事が分かると、そのまま黙って抱き寄せられた。品の良いほのかな香水に、少し煙草の匂いが混じった香りは、まるで何もかもから守られているようで安心する。優しい腕の中で目を閉じると、不意に白井さんは口を開いた。
「小さい頃ね、縁日でウサギを買ったんだ。だけどね、直ぐに死んでしまうんだ。生れて直ぐに母親から離されて、仲間からも引き離されて、寂しくて悲しくて……人間も同じだよ。誰からも愛されない子はやがて、心を亡くしてしまう」
 だから俺の事をウサギウサギって言っていたのだろうか。だとしたら俺は、心を亡くしてしまったのかな。そんな不安を察したように、白井さんは優しく髪を撫でてくれた。
「冬弥は大丈夫。俺がいるよ」
 そう言われて思わず涙が溢れた。慎太郎さんも、雪さんも、皆知らないだけだ。白井さんはこんなにもあったかい。こんなにも優しく人を抱き締める事が出来る。俺はこの人の求める事ならば、何だって受け止める。誰も愛せないなんて誰にも言わせない。だからどうか、ずっとこの人の側にいられますように。

 愛される事を知らない俺にとって、白井さんの言葉が全てだった。その腕の温もりが全てだった。それさえあれば何もいらないとさえ思えた。
 既に俺は歪んでいたのかもしれない。それすらも気付けない位に、白井さんは俺の心を察し、上手く操っていた事などこの時の俺は知る由もない。だけど知っていたとしても気付かないフリをしたと思う。一度手に入れたら最後。例え傷付きボロボロになったとしても、手放したくは無いとさえ思える。白井さんを失う事は、それ程に強烈な恐怖を呼んだ。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~

hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。 同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。 けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。 だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。 ★BL小説&R18です。

恋なし、風呂付き、2LDK

蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。 面接落ちたっぽい。 彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。 占い通りワーストワンな一日の終わり。 「恋人のフリをして欲しい」 と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。 「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。

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