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『Underground rabbiT』
隠された心
しおりを挟む遠くで響く太鼓の音に脳だけが目を覚ます。何処かで祭りでもやっているのだろうか。近所に神社でもあったか。そんな事を考えながらも、脳に響く音が心地よくて、俺はまた緩い微睡に身を委ねた。
再び重い微睡みに浸り切ろうとした時。
「冬弥さーん、もう昼過ぎですよー?」
そんな慎太郎さんの声が響き、そこで漸く寝ぼけた頭がハッキリした。そう言えばここは高層マンションの四十六階。当然近所に神社はないし、太鼓の音が聞こえる訳も無い。
「昼飯食いましょうよーラーメン伸びちゃいますよー!」
嗚呼、煩い。布団を頭から被ったものの、慎太郎さんは俺が出てくるまで扉を叩き続けるつもりらしい。
諦めて身体を起こすと、思いの他腰が痛くて直ぐにへたり込んでしまった。人の身体の事なんか気にもしないで廊下なんかでおっ始めるから……フツフツと湧き上がる怒りも、今となっては後の祭り。
拒めなかったのは俺。落とされたのも、俺だ。だが衣食住の世話をしてくれてる人の要求を一蹴出来るだろうか。少なくとも俺には出来ない。捨てられて来たから。必要とされて来なかったから。それがどれだけ絶望的な事か、嫌という程味わって生きて来たから。
思考と同じく重い身体を引きずって漸く部屋を出ると、扉の前には案の定、慎太郎さんが突っ立っていた。
「おはようございます。どうしたんすか?」
何も聞かないでくれ。その意図を込めて苦笑いを浮かべると、慎太郎さんはニヤリと笑った。
「お盛んですね」
相変わらず腹は立つが、怒る気力すら無かったからそのまま席についた。
テーブルの上にはラーメンが置かれていて、ナルトが歪なウサギの形をしている。しかし相変わらず不器用を絵に書いたようなグダグダ加減。ふと見回すと白井さんの姿がなかった。曜日的に普段いる筈なんだけど。
「白井さんは?」
俺があの人の行方を聞いた事が初めてだったからか、慎太郎さんは少し驚いた顔をした。
「今日は寄り合いですよ。ついでに広島帰るって言ってたんで、二日は戻って来ないですかね」
「……広島?」
何で広島に。帰るって事は実家は広島なのだろうか。
「あれ、何も聞いて無いんですか。何か奥さんに呼び出されたとか言ってましたけど」
奥さんと言う単語が頭の中でぐるぐると回る。
「……え、奥さん!?」
「どんだけ知らないんすか!」
だって興味なかったし。探るなって言われたし。
「……結婚……してたんだ」
そんな言葉が思わず口を付いた。ショックとかじゃなくて、ただ何となく、びっくりした。そんな俺の反応を見て慎太郎さんは小さく鼻で笑った。
「結婚してるも何もあの人バツ三ですからね。今の人で結婚四回目。まあ、それも時間の問題だと思いますけどね。あれだけ頭良くて顔が良くて金あると節操ないですわ」
なんて懲りない奴なのだ。四回も失敗していたら自分が向いていない事に普通気付くだろう。
「でもね、冬弥さん。あの人はやめといた方が良い。他人にこんな事言いたくはないけど」
「……何が?」
何か勘違いされている気がしないでもないけれど、単純に慎太郎さんの言う事が知りたかった。いつも手玉に取られているから悔しかったって事もある。完璧な白井さんにも付け入る隙があるのかもしれない。そんな腹黒い打算もあった。
「キレると手に負えないらしいんですわ。今は落ち着いてますけど、昔はもっと酷かったらしいですからね。元いた組の部屋住み時代は、兄貴衆だろうが気に食わなければ喧嘩吹っかけて毎日血の海だったらしいです。破門されなかったのも当時の若頭のお陰とか」
全く想像が付かない。あの白井さんがそんなに誰彼構わず喧嘩するなんて。どっちかって言うと頭でのし上がったのかと思ってただけに、意外だ。
続けてそれに、と言うと少しだけ、慎太郎さんは複雑な表情を浮かべた。
「あの人は優しさなんて物は母親の腹の中において来た質だ。他人の事を想った事がない。この世に生まれて、きっとただの一度もね」
慎太郎さんのその言葉には何だか違和感があった。だったら何で白井さんは父親を助けたのか。幼い俺と妹の世話をしてくれていたのか。根は陰険な奴だとは思う。けれど本当は、優しい人なんじゃないか。未だその思いを捨てきれていないのも事実だ。
二人で黙り込んだ時だった。突然鳴り響いた来客を告げる電子音に、思わず二人で顔を見合わせる。ここに人が訪ねてくる事は良くある。だが白井さんがいない時に来た事はなかった。一体誰だろう。
呆然とする俺を置いてモニターに走って行くやいなや、慎太郎さんは鬼の様に顔を変貌させた。
「てめえ、何の用だ!」
普段ヘラヘラしている姿しか見てないだけに、俺は驚いて思わず身体を強ばらせる。別の組のヤクザでも来たんだろうか。
「将生さんに家庭教師頼まれたから来たんだけど。早く入れろよ。エレベーターの鍵は持ってる」
だがモニター越しから聞こえた声は、若い男の物だった。少し気怠げで、甘いながらスッと鼻から抜けたような、耳心地のいい声だ。
家庭教師……そう言えばそんな話しになっていたな。どんな人なのだろうと期待と不安に揺れる俺を尻目に、慎太郎さんは酷く不機嫌になってしまった。知り合いって事はヤクザなのかもしれない。そう思うと俺も一気に憂鬱になる。
程なくしてエレベーターの扉が開く音がして、リビングへの扉を静かに開いたものは、予想外に線の細い青年だった。目尻にぽつんと落ちた泣きぼくろが印象的な、可愛いとさえ思ってしまいそうな中性的な顔立ちはどこか品が良さそうでいて、何故か酷く妖艶にも見える。不思議な雰囲気を発する青年だ。思わず目を奪われていると突然慎太郎さんは俺を隠すように目の前に飛び出して来た。
「来たな、性悪ド淫乱野郎。冬弥さん気を付けて下さい。こいつに近付くと妊娠しますよ!」
どう頑張っても妊娠はしませんけど。そんなツッコミを入れる隙も与えぬ程素早く、青年の蹴りが飛んだ。
「相変わらずうるさいんだよ、バカ猿。吠えるだけしか脳がない訳?」
可愛い顔してヤクザ相手になんて事を。これが自分の家庭教師となるかと思うと、何だか恐ろしい気持ちになった。ドン引きしている俺を、その青年は横目で見やった。
「俺は間宮雪。将生さんから家庭教師やれって言われて来た。よろしく。冬弥……だっけ?」
無愛想と言うか、ぶっきらぼうと言うか。甘い見た目と口調が全く相反した男だ。
「……ふうん。将生さんがウサギを飼ったって言うからどんなもんかと思ったら。あの人の趣味ってこんな感じなんだ。意外」
間宮雪と名乗った青年は俺を上から下まで見ると、そう言って鼻で笑った。失礼な奴だ。それにウサギとか飼ったとか、この人は何を言っているのだろう。頭がおかしいのだろうか。
でも何だろうか。この人はどことなく白井さんに雰囲気が似ている。直感でしかないけれど、多分同じ種類の人種だ。人を見下して小馬鹿にする、根が腐った陰険野郎。白井さんや慎太郎さんとどう言う関係か知らないけれど、家庭教師をするって事は頭が良いのだろう。頭が良い奴ってものは皆こうなんだろうか。間宮雪の印象はそんな感じで最悪だった。
けれど家庭教師として来ているなら教わらない事には仕方がない。かなり渋々ではあるが、慎太郎さんをリビングに残し、俺達は直ぐに部屋で勉強を始めた。
しかし間宮雪は鞄から小学生のやるドリルみたいなものを出すと、それを解けだと。舐めているのかとも思ったが、俺はそれすら所々間違えたりした。正直、落ち込んだ。これは見下されても仕方が無い。項垂れる俺を相変わらず小馬鹿にした様に見下しながら、彼は無言で丸や罰を付けて行く。
そんな風に半ば半泣きで小学生用ドリルを解いていると、突然背後の扉が開かれた。この部屋に勝手に入る者がいるとすれば、白井さんだけだ。慎太郎さんは律儀なのか何なのか、絶対に入っては来ないし、他も同じ。だから俺はてっきり白井さんかと思って振り向いた。だがそこにいたのは、予想外の人物だった。
「来ていたのか」
無駄に渋い良い声の主は、山室さんだった。この人は他の人とは違う。俺が言わなきゃ飯を作る事もなければ、慎太郎さんみたいにしつこく呼び出す事もない。本当に見張りのようにただリビングのソファで座っているだけだ。だから酷く驚いた。それに間宮雪は山室さんとも顔見知りらしい。何にも感情を表さない山室さんがわざわざ見にくる位だし、結構親密なんだろうか。それも驚きだ。
しかし予想に反して俺と同じく山室さんの姿を確認した間宮雪は、直ぐに視線を逸らした。
「あんたも知っての通り、将生さんに頼まれたからやってるだけだ。俺だってこんな面倒な事やりたかねえよ。このガキ頭悪すぎるんだもん」
地味にと言うか、完全に傷付く事を平気で言われてしまった。だがその事について誰一人何とも思っていないらしい。山室さんに至っては視線を向けてくれる事さえなく、間宮雪に言葉を投げる。
「雪、分かっていると思うがこいつは将生さんの愛人だ。頼まれた事以外余計な手出しはするな」
「俺が手を出した所であの人は何にも感じないと思うけど」
それはそうだと思うけど。そんなにはっきり言われると何とも複雑だ。それにしてもこの二人やはり随分親しそうだ。山室さんと間宮雪、まるで接点があるとは思えないのだけれど。
呆然と二人のやり取りを聞いていると、隣に座っていた間宮雪にいきなり顔をぐいと引き寄せられた。
「なんなら、試してみる?」
そう言って目の前の男は紅い舌で唇を舐める仕草を見せた。得体の知れない何かが背筋を走り抜ける。それは嫌悪感じゃない。
長い睫毛を抱いた少し垂れた黒目がちの瞳が、俺を誘い揺れる。美少年のような見た目とかけ離れた毒になりそうな程の強烈な色気。細い指がスルリと胸を撫で下りる様も、ゾッとする程艶がある。
本能が間宮雪の挑発にまんまと引っ掛けられ、理性なんか簡単に押し退けて、あろう事かこの先を期待している。この男は危険だ。そうは思っても動く事が出来なかった。
魂を抜かれたように惚けていた俺は、間宮雪の腕を掴み上げた山室さんに助けられた。
「だから、それが悪い癖なんだよ。人様のもんに手出したら当然その落とし前はつけなきゃならねえ。ここはムショでもなけりゃ、お前さんの家でもねえんだ。何にでもそこのルールってもんがあるだろうが」
「……あんたがルール語る訳?笑えるね」
山室さんに凄まれてもまるで怯む様子もなく、間宮雪は皮肉な笑を浮かべて見せた。鈍感な訳じゃないと思う。肝が座っているのかなんなのか。この人もやはり、ヤクザなのだろうか。
そんな事よりもこの空気。耐えられるもんじゃない。どうやら驚く事にムショ帰りらしい美青年と、人一人殺してそうな強面でガタイの良いヤクザ者。互いに何故か挑発し合ってる様にも見える。まさに、一触即発。目の前で睨み合う二人を見ていたら、嫌な気持ちになった。
俺はそもそもは不良だとか呼ばれる類には属していた。喧嘩は日常茶飯事だったりもした。けれど元来そんな気合も入っていないし、平和主義な性質で、ついでに父親に売られた時からそれが輪をかけて強まっていた。疲れていたのだと思う。十七年しか生きていないが、人生と言うものに。だからなるべくこれ以上疲れないように、何事も穏便に済ませたい。
それを感じてくれたのか何なのか、間宮雪はふいと視線を逸らした。
「もう、気が散るからあっち行ってろよ。それとも、嫉妬でもしてる?安心してよ。お望みなら後で遊んであげるから」
態とらしく肩を竦め挑発を続ける青年に、重い溜息が降る。
「下らねえな」
山室さんはそれだけ言うと静かに部屋を出て行った。
「あーあ。本当ツレねえな」
そう言いながら気怠げに椅子の背に身体を投げると、隣からも深い溜息が漏れる。
「……あんたさ、何者?」
「お前と一緒。アンダーグラウンドラビットのボーイだよ」
「ボーイって?」
白井さんも言っていたが、一体ボーイとは何なのだろう。俺の素直な質問に、間宮雪は盛大に呆れて見せた。
「はあ?知らないの?コッチの業界の言葉でまあ簡単に言えば男娼って意味だよ」
「へえ……」
なるほど。これで納得が行った。
「良いから手動かせよバカ」
聞きたい事はまだあるけれど、ドリルで頭を叩かれたので俺は再び勉強を再開した。本当に可愛い顔をしている癖に性格は全然可愛げのない男だ。
しかしさっきの色気、この人はきっと、仕事が出来るのだろうとは容易に想像が付いた。この人位だとやはり相当稼げるのだろうか。俺も早く稼いで稼いで、自由になりたい。
そんな事にグルグルと思考を巡らせていると、間宮雪は不意に口を開いた。
「ねえ、隆司さん何曜にいつも来る?」
隆司さんを頭の中で探してみたが、俺にピンと来る人物はいない。
「誰?」
「そこにいる怖いおっさんだよ。やまむろりゅうじ!」
「ああ、どうだろう」
曜日で決まっているのかすら知らない。大概慎太郎さんと山室さんが半々の確率で見張りに来るが、たまにこう言う風に昼は慎太郎さん、夜は山室さんになる事もあるから、一概に何曜とは言えない。
しかし間宮雪的にはその答えが不満だったらしく、可愛らしい小ぶりな唇からは盛大な舌打ちが吐き出された。
「使えねえな」
酷い言われようだ。
「……あんたらそんな仲良しには見えないけど?」
それどころか未だ接点が見付からない。
「だって俺嫌われてるもん」
自嘲気味に小さく笑った横顔は、何だか酷く切なそうだ。まるで失恋した女子高生みたいな、幼い表情。
「……え、好きなの?」
直球で聞きすぎたかとも思ったけれど、間宮雪はさほど気にする素ぶりも見せなかった。
「まあ、惚れてるのかもね」
あっけらかんと言ってのけたその男らしい態度に何となくスッキリして、俺はそれっきり聞く事もないし、再びドリルを進めた。
そのまましばらくスラスラと手が動き、このままだとドリル一冊終わるのでは無いかと言う時。
「ねえ、お前さ、将生さんには気を付けなよ?」
不意に間宮雪が変な事を口走るものだから、折角ノッて来ていたのに思わず手が止まった。
「はあ?」
「間違って情なんか湧いたら最後、ボロボロになるよ。あの人は確かに魅力的だけどさ、惚れるなら隆司さんみたいなタイプにしときな」
ボロボロになるとか、怖いわ。
「……いやいやいや、俺ホモじゃないし!」
「バカだね。あのレベルの男なら、そんなの関係ないよ。あとお前絶対客前でホモとか言うなよ」
何が関係ないのだろう。関係ない事はないと思うけど。間宮雪はそれ以上喋る事もなくて、俺もそれ以上聞く事も出来ず、その日はそのまま勉強を終えた。
気付けば日も傾き始め、夕焼けが空を染めている。初めて真面目に勉強したせいか、肩は凝るし目が疲れた。伸びをしただけで身体中の関節が軽快な軽い音を立てる。
「お前さ、何で勉強しなかったの?」
頬杖を付いてそんな俺を眺めている男に視線を向けて、その言葉の意味を探ろうとしたけれど、間宮雪の瞳は探るには深過ぎる。一見、陽の光を受け純真に輝く少年の様な綺麗さがあるのに、見詰めていると思わず呑み込まれるんじゃないかって位、深く、暗い底無しの闇が潜んでいる。何だか怖くなって、質問に対して考える事すら出来なかった。
「……さあ、面倒だったから?」
やっと絞り出した答えはそんな適当なもの。自分で聞いといて興味がないのか、間宮雪もそれに対しては適当な相槌を打っただけ。
「お前どうせ捨てられたんだろ。糞親共を見返してやろうとか思わなかった訳?」
何だろうかこの人。物凄くナイーブな事を剥き出しで言って来るものだから、ショックを受けるよりも驚きの方が先に出た。不思議と嫌な気持ちにはならない。だってそれが、事実だから。
「見返すか……俺にはよく分かんないわ。別に、今はどうでも良い。俺は取り敢えず借金返して自由になりたい。捨てられたものは仕方ないじゃん。あの人達にとって俺は必要無かったってだけ」
「……ふうん。変な奴だね。自由になったらどうすんの?」
自由になったら──どうするのだろう。全く思い浮かばなかった。そもそも借金の額すら知らない。ホームドラマみたいな、あったかい家庭を築く。その夢すら、もはや思い浮かばなかった。
「考えてなかった。そう言うあんたは?」
何だかそんな自分が虚しくて、同じボーイと言う立場の間宮雪に質問を返してみる。当の本人は小さく溜息を付くと、俺をキツく睨みつけた。
「あんたあんたって、一応雪って名前があるんだけど。俺も特に何もないよ。好きなセックスして金がもらえるからやってるだけ」
慎太郎さんの性悪ド淫乱野郎って大袈裟なあだ名はあながち間違ってない。
「……とんだビッチ発言だな」
とんでもない事を口走った目の前の男に向けて、口から思わぬ汚い言葉がポロリと零れ落ちる。慌てて弁解しようかとも思ったけれど、間宮雪は小さく鼻で笑っただけだった。
「何とでも。お前も同じ匂いがするけどね」
「しねえよ!そもそも俺はホ……ゲイじゃないし!」
言い掛かりも甚だしい。この人と同じとか絶対に嫌だ。俺は確かに気持ち良い事は好きだけど、借金を返し終わったらとっととこんな仕事やめる。快楽を求めるのは男の本能であって、だからって自ら喜んで男に抱かれる程俺は落ちぶれてはいない。
心の中、必死に自己弁解をはかっていると、突然首筋に落とされた細い指の感触に、身体がビクリと跳ね上がる。
「白井さんに抱かれたなら分かるだろ。あの人、上手いもんね。お前も直ぐにハマるよ。抜け出せない、快感の泥沼にね」
間宮雪の視線が、まるで誘惑するように絡みつく。危ないと分かっていながら、美味いと本能が知っているだけについ手を出してしまう、ドロドロに甘い猛毒。間宮雪とはそんな男のように思えた。
雄の本能が嫌でも引き摺り出される気がして、俺は慌てて甘い誘惑振り払った。
「でもさ、雪……さんは山室さんに惚れているんだろう。こんな仕事してたんじゃ──」
「してなくったって、隆司さんは俺には靡かない。だからこそ欲しくなるのが人間の性だろう。違う?」
その言葉に、何だか胸の奥を握られたような痛みが走る。この人はきっと、寂しい人だ。誰かを愛した事のない、誰も信じた事のない。だから、俺と同じ匂いがすると言ったのかもしれない。
不意にさて、と前置きをした後に雪さん唇の端を持ち上げただけの嫌な笑みを浮かべた。
「無駄話は終わり。俺はね、勉強の他にもう一つ、頼まれている事があるんだよね」
呆然とする俺を残して一旦部屋を出ると、何やらリビングで話す声が聞こえた。しかしそれもほんの数分で山室さんと連れ立って戻って来ると、雪さんは何を思ったか、扉に鍵を掛けた。カチャリと言う軽い音は、この先何かとてつも無く嫌な事が起こるのを予感させるものに聞こえる。
「男の誘い方、教えてやってくれってさ」
俺の悪い予感は大抵当たる。けれどこれから何をされるのか、見当も付かない。山室さんに助けを求めて視線を向けると大きく溜息を吐かれた。
「素人相手だ。加減してやれよ」
加減しろじゃなくて止めてくれよ。さっきルールが何とかって言っていたじゃないか。とも思ったけれど、雪さんは白井さんに頼まれたと言っていた。一応兄貴分であるらしい白井さんの言い付けには逆らえないのだろう。それは仕方がない事なんだけど……だったら俺は今、誰に助けを求めれば良いんだ。
呆然と立ち尽くしていた俺を、雪さんは指先で軽く押した。それだけでふらつく足が崩れ落ち、そのまま後ろのベッドにひっくり返ってしまった。起き上がらなきゃいけないのにまるで頭が付いていかない。
「一限目、男の誘い方編」
突然得意げに言い放つと、雪さんはゆっくりと俺を跨ぎ優しく髪を梳いた。スプリングが軋んだ音を立てるのと一緒に、心臓も大きく脈打つ。見下ろす瞳が不穏に揺れた。
「冬弥、分かると思うけど男は単純だ。目の前に美味い物がぶら下がってれば一瞬躊躇したとしても必ず手を出す。それが本能だから。奥手の人の場合はこっちがどれだけ自分を美味く見せても、食って来ない。食べても良いのかな、怖いな。そう迷っている時は、さり気なく導いてあげれば良いんだよ。思わず手を出したくなるようにね」
何とも饒舌だ。よくもまあ、ベラベラと。感心していると、唇の端に小さな口付けを落とされた。まるで焦らす様に場所を変えて繰り返される、あくまで優しく、それでいて直接触れて来ないもどかしい感覚に脳が痺れて行く。
それに人を見下し、挑発するような瞳を見ていると、滅茶苦茶に泣かせてやりたくなる。そんな人間の奥底に眠る黒い欲望さえ引き摺り出されそうだ。
「身体を満足させて、心にもどかしさを残す。それだけでも大抵の相手は長持ちするよ。俺達は恋人や、ましてや伴侶じゃない。安心なんか求められていない。奴らの求める物はね、綱渡りのようなスリルと、背徳のもたらす苦悶の快楽だけだ」
喋りながらも合間に相変わらず首筋や耳元に唇を落とされ、細い指先が掠める様に全身を這う。くすぐったいのに雪さんの指は不思議なもので、的確に感じる箇所の直ぐ近くを触れて行く。その一寸のズレが酷くもどかしい。思わず手を取ってそこに導いてしまいそうな、そんな危うい衝動を俺は必死で耐えた。
「コツを掴めば簡単だよ。全てが欲しいと思わせて、寄せては引く波のように、するりと足元を擽ってやれば良い」
そう言うと腰で遊んでいた指先が、スラックスの膨らみを軽く弾いた。声は何とか抑えたものの、身体が大げさに跳ね上がる。今迄もどかしい程の刺激しか与えられて無かったのに、既に硬くなりつつある核心への強烈な刺激は想像以上の物だった。
「ほら……簡単だろう?」
羞恥に唇を噛み締める俺を見下ろしニコリと笑ったあどけない顔に、ゾッとした。この人は子猫の皮を巧妙に被った、雄のライオンだ。薄ら笑いながら雪さんが上からどいた途端、俺は弾かれるように飛び起きた。
「山室さん、この人何!?怖いよ!」
俺の指差した先で、雪さんは涼しい顔で山室さんの隣に侍っていた。狼狽える俺を冷めた視線で眺めながら、山室さんは深い声で呟いた。
「雪は言ってみればこの道のプロだ。アンダーグラウンドラビットに登録してる奴らの中でも群を抜いて男の扱いが巧い」
だろうね。こんな人間見た事ない。山室さんに褒められて嬉しいのか、雪さんは少し照れた様に視線を窓の外に向けた。褒められている内容は考えないのだろうか。しかしそんな仕草も可愛いだけに残念だ。ところで山室さんは何故ここに……。
そんな事を考えていると、ふと窓から視線を戻した雪さんと目が合った。意味深な笑みが怖い。
「セックスは楽しんだもの勝だと思わない?ね、隆司さん」
しかしその問いかけに答える気はないのか、山室さんはゆっくりと息を吐いた。俺も含め山室さんの答えを待っていただけに、一瞬の沈黙が流れた。
「……無視だよ。まあいいや。冬弥、キツいだろう?抜いてやるよ」
雪さんの視線は俺の下半身。自分でも気付いていたけれど、気付かないフリをしていたのに。まるで獲物を吟味するかのように熱い視線を注がれ、それだけで硬度を増しそうだ。最悪にバツが悪いし、恥ずかしい。
「いやっ自分で出来る!」
そう言う問題じゃないけれど、ここはどうにかこの暴君を止めなくては。俺の貞操が……いや、もう遅いけど、とにかく初対面の野郎にそう安々と破られる訳にはいかない。
慌てふためく俺を、雪さんは面白そうに見詰めている。好奇の視線に晒されているかと思うと、それも更に俺を追い詰めていた。野暮な話、恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだ。
「遠慮する事ねえよ。隆司さん、よろしく」
何をだ。山室さんによろしくされる覚えはない。全くないし、よろしくしたくない。けれどそんな俺の心など御構い無しに、山室さんの腕は簡単に俺を捕まえた。両手を掴まれさっき飛び起きたベッドに逆戻り。必死に暴れてもビクともしない。そりゃそうだ。俺は白井さんですら押し返せないんだから、白井さんより露骨に体格の良いこの人を跳ね除けられる筈がない。こいつらあれだな。絶対性犯罪で刑務所入ってたな。間違いない。
「たっ、助けて!」
「うるせえな。初めてじゃあるまいし」
雪さんはブツブツと文句を垂れながらも不敵に微笑んだ。
「二限目。ベッドの上編」
また唐突に二限目が始まったらしい。獲物を捉えた肉食獣がゆっくりと近付く。心臓の高鳴りは恐怖だと言い聞かせて、俺は硬く目を閉じた。軋むベットの音が近付く度に、心臓が脈打つスピードを上げる。しかし、俺の耳に、小さなリップ音が何故か頭上で聞こえた気がした。薄っすら瞼を開けて様子を伺う。俺に向かって来てた筈の雪さんは、山室さんの組んだ足に跨って、何故か二人が唇を重ねているではないか。え、そっち?いや、期待していたとかそう言う訳じゃない。けれどあまりにも予想外な行動に、肩透かしを食らった気分になった。
時折漏れる雪さんの甘く尾を引く様な声が脳に響く。チラリと覗く紅い舌も、薄いシャツに浮き出る背中の曲線も、何とも艶美だ。これが、同じ男なのか。信じられない。普通に生きていたらまずお目にかかれない目の前の光景に、俺は思わず生唾を呑んだ。
……というか、お前ら出来ているんじゃないか。ところでこれは放置プレイですか?俺は何で野郎同士の情事を見せ付けられなきゃいけないんだ。
何時迄も熱く唇を重ねる二人を見てたら何だかイライラして来た。相変わらず俺は両手を頭の上で掴まれ逃げる事も出来ないし、目を閉じるしかないんだけど。何故だか、目を逸らせない。
山室さんの首に回っていた細腕が、だらしなくぶら下がっていたネクタイを抜き取る。そんな小さな衣擦れの音すら、この人の手にかかれば酷く官能的だ。天性の物なんだろうか。ある意味尊敬する。
つい魅入っていると、ふと山室さんと目が合った。
「……雪、もう良いだろ。とっとと抜いてやりな」
軽く引き離された雪さんがチラリと俺を見やる。さっきの情事の名残か、とろんと濡れた瞳で見下され、ゾクリと官能が走り抜けて行く。俺の中の男が盛大な期待をした。どうやってくれるんだとか、一瞬で頭の中がこの後の想像で溢れかえるのと共に、下半身に熱が集まるのを感じる。自分が猿以下だとか、もはやそんなのどうでも良い。俺は目の前の毒物に、完全にやられてしまった。
しかし雪さんはふいと視線を山室さんに戻すと、綺麗に整ったあご髭に小さく唇を落とした。
「もう、どうでも良いよ。ね、続きしよ?」
どうでも良いとは酷すぎる。まあでも山室さんに惚れてるなら仕方が無いのかもしれない。俺はこんな状況にも関わらず、雪さんの気持ちを考えて納得していた。お人好しも度を過ぎればただのアホ。
そんな俺を相変わらず放置したまま、雪さんは手を再開した。耳元に唇を寄せて空いた胸元にするりと指先を滑り込ませる。手付きは慣れているのに、どこか幼ささえ感じる甘い声。普通の男ならこの人が上目遣いで囁いただけでつい何でも頷いてしまいそうだ。
けれど山室さんは至極面倒臭そうに空いた片手でそれを押しやった。
「調子に乗るな。俺はお前を抱かないと言った筈だろう。こんな胸糞悪い事も、将生さんの頼みだからやってんだ」
「……わかったよ」
さっき迄の甘えた態度が嘘のように、雪さんはぞんざいに山室さんから身体を離した。いや、文字通り嘘だったのだろう。
「えーっと、二限目は何だっけ?」
何だっけ。俺もすっかり忘れていた。少し俯いて考えた後、雪さんは思い出した様に顔を上げた。
「ま、いっか」
結局思い出せなかったみたいだが、さほど気にする様子も無く、雪さんはクルリと山室さんの首から抜いたネクタイを回した。
「さて、と。それじゃあやりますか」
この人にしては色気のない言い方に、乗り気じゃない事はよく分かる。山室さんにフられて意気消沈してるんだろうか。そんな事を呑気に考えている隙に、ネクタイで両手首を縛られていた。そんな事まで手が早い。だが早々にシャツのボタンを外した雪さんの顔が一気に曇る。
「うわっ、何だこれ」
何がとも思ったけど、理由はどうやら俺の身体らしい。食欲の減退に伴って痩せた身体は、肋が浮き出た貧相なもの。男として恥ずかしい位、みすぼらしい。
「お前こんな身体じゃもたないよ?第一こんな骨皮、抱きたいとも思わないでしょ。身体位ちゃんと作っとけよな。あーやめやめ。隆司さん、飯食わせて太らせといて。俺帰るわ」
「……は?」
声を上げたのは山室さんだった。さすがの山室さんでさえ、雪さんの自由人っぷりに追い付かないらしい。
「これ宿題。じゃあまたね」
鞄から何冊かドリルを取り出すと、意気揚々と部屋を去る後ろ姿を呆然と見送る。雪さんのいなくなった部屋は、まるで嵐が去った後のような静けさに包まれていた。
疲れたように溜息を一つ吐き、手を縛っていたネクタイが外される。
「……悪いな。あいつの悪い癖だ」
苦笑いを浮かべた男に、俺も苦笑いで返した。
「いや、勉強になりました。でも山室さん、よく我慢できますね。俺持ってかれるかと思いましたよ」
俺は素直に感心していた。雪さんの毒気に当てられない山室さんは凄い。これが大人の余裕なんだろうか。俺の言葉にふと笑った横顔は、思いの外優しかった。
「俺は本気でぶつかってんだ。負ける訳にはいかないのよ」
それだけ言うと、山室さんは部屋を出て行った。何の事かはよく分からないけれど、雪さんの気持ちが分かった気がしないでもない。顔も怖いしムショ帰りみたいだしヤクザだけど、山室さんは優しい人だ。直感だけどそう思った。
窓の外に目を向ける。空に向かって真っ直ぐに立ち尽くす東京タワーが、今日もよく見えた。
アンダーグラウンドラビット──ここに集まる人々は変な人ばかり。そして奥底に隠した心を悟られまいとする人々ばかり。ふと、白井さんの事を思う。白井さんもどこかに何かを隠して生きているんだろうか。誰もがやめとけと言う理由は、そこに隠されているんだろうか。どうでも良い筈なのに、不思議と気になり出したら止まらない。また探るなって怒られるかな。でも、知りたい。好奇心でしかないけれど、それも悪い物では無いかなとも思えた。
何だかもの凄く長い一日が、こうして過ぎて行った。
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篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~
hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。
同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。
けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。
だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。
★BL小説&R18です。
恋なし、風呂付き、2LDK
蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。
面接落ちたっぽい。
彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。
占い通りワーストワンな一日の終わり。
「恋人のフリをして欲しい」
と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。
「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。
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