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『Underground caT』
小悪魔の憂鬱
しおりを挟む母さんが義父と別れ一週間。俺は今日も男に抱かれ、束の間の安らぎを得ていた。
「え、またあのゲームやっていたの?」
「うん。当然俺の勝ちだったよ」
キングサイズのベッドの中、得意げに言った俺を見て、驚愕を絵に書いていた顔は呆れにも似た笑みに崩れた。部屋に漂う煙草の匂いが、さっき迄の熱い情事の残り香を消して行く。
淫らな裸身を飾る完成された筋肉の隆起。その身体を蝕むように刻まれた禍々しい絵面。そのアンバランスさがこんな俺でもうっとりする程に美しくて思わず背中の刺青に指を這わせると、全てを見下したような冷たい瞳が寝転ぶ俺を捉えた。白いシーツに沈むしなやかな指先に自らの指を絡めて、擽るように唇を這わせる。
「雪は本当に誘い上手だね。その癖に自分が乗り気じゃなきゃ知らん顔。可愛げのない猫を飼っている気分だよ」
「乗り気じゃない事なんてある?」
「あるある」
ふふっと笑うと、男はさり気なく指を解いて俺の額に軽く唇を落とした。
この男は半年前に引っ掛けた男。どうやらこの辺の繁華街を取り仕切る暴力団の組員らしい。まるで精巧な細工品のように冷たさすら感じる程端正な顔に、好みの身体。まるで動くマネキン人形みたいな隙の無い美男子の癖に、纏う物は人間らしい暗い色気。何より、この男は胸糞の悪い甘い言葉なんか吐きはしない。俺と同じ、愛を毛嫌いしている人種だと初めて抱かれた時に気付いた。だから今迄で一番長続きしているし、これからも多分何かない限り関係は切れないだろう。
「俺はたまに君が怖いよ」
不意に思い出したように呟く男に、俺は思わず顔を顰めた。
「何が?」
「可愛い顔して人の心を弄んで、相手が本気になったら捨てるじゃん。本当小悪魔だよね。俺はいつ捨てられちゃう訳?」
態とらしく茶化した言い方に腹が立つ。俺は小悪魔なんて、そんな可愛いもんじゃない。それに──。
「俺は、将生さんの方が怖いよ」
誰も踏み込めない、暗い闇を抱いた瞳すら巧妙に隠す、あんたがね。
「え、俺は優しいでしょ?」
そう言って微笑む咥え煙草の横顔に、それが嘘であると確信させた。この男は多分、俺よりももっともっと、ドス黒い闇を抱えている。それが堪らなく俺を煽るのだ。
「ね、もっかいしよ?」
耳元に唇を寄せて囁けば、そんなストレートな言葉でさえ、簡単に男は欲望を煽られる。小さく笑った男が蔑んだ視線を向けた。
「全く、どうしようもない子だね」
煙草を揉消して伸ばされた指先が触れた頬に伝わるその熱さに、俺の心は期待に揺れる。
将生さんは俺が誰と寝ようが特に気にする様子もない。嫉妬で狂う事もない。手に入らない焦燥に駆られる事もない。だけど何もかも忘れる位、乱してくれる。俺の身体を労らない、乱暴なセックス。ただ快楽を追い求めるだけの行為。そこには他意なんかありはしない。それが凄く好きだった。
明け方、眠る男を残し、俺はマンションを後にした。将生さんに抱かれた後は腰が立たなくて困る。
何度も滅入りそうになりながらも、どうにか家へと辿り着くと、玄関には知らない靴。早いな、新しい男か。懲りないバカ女。新たな獲物を吟味するよりも、俺は押し寄せる眠気に耐え切れずリビングのソファに身体を投げた。
目を閉じる前に見えた白み始めた空。世界が眩しい朝日に影を落とす。
父さん──もう、楽になりたいよ。
頬を伝った涙を乱暴に拭ったら、続いて流れ落ちた涙が滲みた。自分がまだ泣ける事に驚きながら静かに瞼を閉じる。激しく抱かれて疲れ果てて眠る。夢さえ見ない深い眠り。このまま目が覚めなければ、十三歳の時から今の今まで四年間。俺の願いはいつもそれだけだ。
眠りに落ちてしばらく、ふと腰元に何かが触れて、俺は深い眠りから一気に引き戻された。弾かれるように起き上がった俺の目の前で驚いた顔をしている、知らない男。捲り上げられた服のお陰で、素肌に直接触れる冬の冷たい空気に小さく震えた。
「朝から何盛ってんの。て言うか、誰?」
大方母さんの男だと察しは付くけれど、初対面の恋人の息子に手出すなんて異常だ。もしかしたらストーカーとかその類いだったら困るし、その質問は謂わば形式的なものだ。
男は俺が慌てない事に安心したのか、いやらしく口端を持ち上げた。
「あれ、覚えてない?心外だなあ。俺は忘れた事なんて無かったよ、雪ちゃん」
一体誰だこの男は。一晩だけの男なんて星の数程いるし、全く思い出せない。ぼんやりと考える俺を他所に、男は手を服の中に滑り込ませた。
「痛っ……!」
突然胸の突起を爪で引っ掻かれ、思わず鋭利な痛みに小さな悲鳴が上がる。
「あれ、こんな状況でも感じちゃうんだ。相変わらず良い身体してるね」
感じてなんかいないし、頭の悪い男は嫌いだ。
「……あんた、母さんの男?」
「そうだよ」
やはり獲物かと冷静になる頭の中で、俺はこの男の顔を探すが本当に思い出せない。相変わらずと言う事はやはり何処かで引っ掛けた男だろう。しかし、俺を知っているとなるとこれ迄の手は通用しない。
どうしたものかと思案を巡させる俺の首筋に鼻先を押し付けるや、男は今迄無遠慮に進めていた手を止めた。
「身体から男の匂いがするね。今度は誰?」
余裕な様子でそういいながらも、男の瞳が揺れる。俺の身体から仄かに漂う将生さんの匂いに妬いたんだろう。
「イケメンヤクザ。あんたとも遊んであげたいんだけどさ、あの人何時も激しいから、今日はもう無理。それに俺も一応高校生だから、学校行かなきゃいけないし」
挑発するだけして男を押し退けソファから立ち上がろうとした俺は、無理矢理に引き戻されさっき迄寝ていた場所に逆戻り。直ぐ立ち上がろうとしたものの、男の身体が上から覆いかぶさった。
「どけよ、殺すぞ」
誘う迄もなく襲ってくる奴は嫌い。その気じゃない時に抱かれるのも嫌い。俺はとことんわがままで気まぐれだ。それは自負している。だから割り切ってくれる都合の良い男としか寝ないし、本気になったらさっさと切る。そうやって生きてきた。だからこう言う男は、死ぬ程嫌いだ。
だが男はそんな俺の心など気にも留めず、不愉快な声を響かせる。
「お前が消えてからさあ、色んな奴抱いたんだよね。男も、女も。でも、お前以上はいなかったよ」
その生温い湿気みたいな喋り方に、ふと思い出す。この男は確か、薬を飲まされそうになったから殴った奴だ。更に面倒な事になった。なんだってあの糞女、こんな男を。
「悪いけど、俺はあんたに興味ない」
生意気に吐き捨てるも体格差は歴然で、男はにやけ面を崩す事もなく、服に手を滑り込ませた。
「嫌だって言ってんだろ!」
思わず叫んだ瞬間、思いっきり顔面を殴られ、俺は一瞬意識を飛ばした。強い痛みよりも息が苦しくて、思わず空気を求めてもがく。性急にスラックスに捻じ込まれた指が、遠慮もなしに秘部へと沈む。
「雪ちゃん、男舐めると痛い目みるよ。それに本当は欲しいんでしょ?ほら、もうグズグズじゃん。指に吸い付いてくるよ」
耳元で囁かれた言葉に、俺はそれ以上の抵抗をやめた。
昨晩呑み込んだ極上の男の味を忘れ切れず、柔らかくなった蕾。ぐちゅぐちゅと漏れる卑猥な音色に鼓膜を揺らされる度、自ら腰を浮かせ、やがて意思に反し身体は男を導いた。
俺は、腐っている。どんなに嫌な男でも、触れられるだけで感じ入り、自然と甘い声で誘っている。いやだ、痛い、やめて、そんな言葉を吐いたとしても、身体はもっと欲しいと男を締め付ける。だから勘違いされて、男の欲望が尽きる事はない。
燃える夕日の差し込む部屋。男の吐き出した欲望に塗れ、自分の身体から流れる血に汚れ、それでも起き上がる事さえ億劫だった。だが身体が痛む度にあの男の感触が残っている気がして、トイレに駆け込み吐いた。
俺は今迄運が良かったのかも知れない。手酷くフった男がしつこく付き纏う事はあっても、こんな風にされた事は無かった。バチが当たったんだ。人の事を見下して、弄んで、本気にさせて捨ててきたから。
でも別に本気にさせたい訳じゃない。ただ抱いてくれれば良いんだ。けれど人間は直ぐそれに理由を持ちたがる。簡単にヤらせてくれるから、ちょっと顔が良いから、身体の相性が良いから、本当はその程度。それでもいつの間にか俺を手放せなくなるそのメカニズムは、結局は俺を下に見ているから。抱いている時は確かに支配している筈なのに、それが嘲笑うように他の男に簡単に身体を開く。自分より下等な人間が服従しない事が許せない。そしていつの間にかその暗い独占欲が、俺への愛だって錯覚する。
そう考えると本当、男はバカな生き物だ。バチが当たったのかと思ったけれど、結局は全部自業自得。俺に騙される男も、見極められない俺も。けれど、本当に傷付けた人もいっぱいいた。母さんへの復讐の為に利用した、義父達。
「ごめんなさい──」
自然とその言葉が口をついた。そう言えば、こんな俺でも少しだけ人間らしくいられるから。そんな浅ましい自分も、大っ嫌い。身体中が重く痛む。それと共に何故か、胸の奥も痛かった。
その日はそのまま夜に母さんが帰って来ても部屋に引きこもった。薄い扉の向こうから、楽しげな笑い声が聞こえる。そもそもどうせ俺の飯なんかない。居場所もない。この物置が俺の部屋。ここはいらない物をしまっておく所。汚い物に、蓋をする所。四年前から俺は、あの女にとってはいない子。産まなきゃ良かった、悪魔の子。
笑いが込み上げるのと一緒に、涙が溢れた。家族なんかもういらないのに、何でこんなに胸が苦しい。誰かに抱かれたい。あれだけ男に滅茶苦茶に犯されても、酷く身体が疼いた。そんな自分が気持ち悪くて、また吐いた。
次の日、二日ぶりに朝から学校へ行くと、案の定同級生が顔の傷を見て騒ぎ立てた。
「間宮、その顔どうした?」
「別に」
俺のぞんざいな態度に周りはそれ以上深くは突っ込んで来なかった。ふてぶてしくて口が悪く、遅刻欠席常習犯ではあるが、成績は優秀。学校での俺は少し擦れた優等生。学校の外の顔は誰も知らない裏の顔。だけどそんな物、誰にだってあるはずだ。
その日は授業中もずっと頭がぼんやりとしていた。何にもやる気が起きなくて、何もかも面倒臭い。こんな日は将生さんに会いたくなる。思い立ったように、今日行くとそれだけの短いメッセージを送った。直ぐに返って来た言葉は、了解の二文字だけ。取り敢えず今日の寝床は確保。将生さんは楽で良い。こう言う返しもそうだけど、あの人の側にいると何にも考えさせてくれないから。
気付けば四限目も終わりのチャイムが鳴って、俺は一人教室を後にした。非常階段の先にある屋上。鍵は壊れている。先生に教えてあげないのは、そこが俺の居場所だから。今の時期は寒いけど、今日はそれすら心地良い。昨日から疼いたままの身体が冷やされて行く。けれど雲一つない晴天が、酷く鬱陶しかった。
「やっと来たか、雪。お前最近休みすぎ!」
突然、元気な声と共に後ろから抱き着かれ、鼻先を掠めた若い男の匂いに脳がジンと熱くなる。どこ迄も最低だな、俺は。身体を離した少年が心配そうな顔で俺の顔を覗き込む。
「なあ、何かあった?」
こいつは佐武亮平。開けっぴろげでサバサバした気持ちの良い奴。別に友達って訳じゃないけれど、クラスも違うのにこうしていつの間にか一緒にいるようになった。
「別に、何もない」
あまりにつれない態度にも佐武は特に気にする様子はなく、手に持ったコンビニ袋を意気揚々と広げ始める。昼飯を持って来ない俺に、いつも何かしら分けてくれたりして、そんな優しさも、嫌味のない奴。
佐武のどうでも良い愚痴を聞き流しながら、いつも俺達は学生らしい昼休みを過ごす。この時間は、嫌いじゃなかった。自分が普通の高校生に戻れた気がして。こっちが本当の、俺な気がして。
「お前彼女いたっけ?」
不意に佐武が変な事を言うものだから、一瞬思考が止まってしまった。俺は一度だって女の匂いをさせた事なんかない。女は嫌いだ。あの母親と同じ種類だから。
「いる訳ないだろう」
「だって、ここ。キスマーク付いてるよ」
そう言って佐武はトントンと首元を叩く。あの男か、そう思うと無性に苛立った。
「母さんの新しい男に犯された」
「……は?え、それ……まじで?」
あからさまに動揺を見せる様が可笑しかった。
「冗談だよ、バカ」
やはりそんな非現実的な事、信じられる訳がない。俺の言葉に佐武は心底安堵した顔を見せた。
「だよなあ。いくらなんでも、お前男だし!」
本当、男なのにね。俺は汚い。だから佐武が羨ましい。羨ましくて嫉ましくて、壊したくなる。
「本当なんだ──」
声を上げて笑っていた佐武は、俺の言葉に凍り付く。
「雪……?」
胸に頬を寄せて、少し背の高い佐武を仰ぎ見る。
「昨日、母さんの男に滅茶苦茶にされて……まだ身体に、気持ち悪い感触が残っているんだ。お願い……忘れさせて」
驚きに見開かれた瞳が、何処か初々しい。パッと身体を離して、俺は慌てて笑って見せた。
「ごめん、びっくりしたよな。気持ち悪いっておも──」
言い終わらないうちに強く手を引かれ、乱暴に唇が塞がれた。まるで飢えた獣が貪るような、痛い位のキス。若いな。こう言うのもたまには悪くない。
戸惑いながらも堕落への道を歩む佐武の手を、俺は優しく引いた。コンクリートの床に倒れ込み、唇から首筋、胸を這う唇の動きに合わせ甘い吐息を漏らす。その度胸の上で歪む切なげな表情に、心の中の悪魔が微笑んだ。
教えてあげる。甘い甘い、この背徳と言う蜜の味。わざとらしい媚声を上げて、淫な言葉をわざと吐く。俺の正体に気付いた時にはもう遅い。手を出したら戻れない、暗い暗い穴の底。
火照った身体に触れる冷たい風が、無性に痛く感じる。熱く融け合った筈の情事に何の未練もなく、乱れた制服を淡々と直す俺から、佐武は目を離せずにいた。
「……雪、お前、慣れてんだね」
コンクリートの地面にへたり込んだまま、ポツリと呟かれた言葉。思わず笑い出しそうになる気持ちを必死で抑える。
「何、ガッカリしたの?知らなかった?俺はこう言う人間だよ。名前も知らない男を今佐武が味わったトコで咥え込んで、根元まで呑んでもまだもっと奥に欲しいって啼きながら、自分から喜んで腰振ってんの」
態とらしく口端を持ち上げ、目を見開く少年を見下ろしてやる。
「お前が焦がれていたのは、誰?」
走って屋上を去る後姿を、俺はただ見送った。なあ、佐武。恋愛なんて所詮、こんなにも脆い物なんだよ。
「バカみたい──」
去り際に向けられた蔑んだ瞳がいつ迄も胸の奥に残っていた。俺はまた罪を犯す。真っ直ぐに人を想う純粋な心に、癒えない傷痕を残す。誰かを傷付けて、傷付いて。その痛みに溺れて行く。
空が青い。何もかもが憂鬱だ。
一日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、イスを引く耳障りな音がそこかしこから上がる。鞄に教科書を詰め込んで、何気なくふっと窓の外に目を向けると、校門の前に場違いなスーツを着込んだ男が立っているのが見えた。遠巻きにそれを見詰める女子生徒。
あれは、まさか──俺は慌てて教室を飛び出した。階段を三段飛ばしに駆け下りて、廊下を走るなと言う教師の声すら、一瞬で過ぎて行く。何でこんなに走っているのだろう。分からないけれど、何でだか身体が勝手に動いてしまった。
「将生さん!」
俺の声に顔を上げた男は、溜息が漏れ出る程滑らかに微笑んだ。
「お疲れ。制服着てるとなんか、普通の高校生みたいだね」
少しムッとした俺を見て悪戯っぽく笑う顔は、無邪気な少年のようだ。
この男との時間は、この半年ベッドの中だけだった。将生さんだけじゃない。ストーカー以外で俺にベッドの外で会おうとする人なんかいなかった。俺が嫌がるから。余計な感情なんていらないから。それなのに将生さんが迎えに来た事が、何故か酷く嬉しく思えた。
「時間が取れてね。たまにはどう?デートでも」
小さく頷いて、肩を並べて歩き出す。どこに行きたいかなんて、そんな野暮な事は聞かれなかった。ただ二人で街中を取り留めのない話しをしながら歩いて、疲れたら休憩。たまに適当に店に入ったりする。まるで本当にデートみたいでくすぐったい。
だけど寒い筈の空気すら、何だか心地が良かった。愛を嫌う二人がただ並んで歩いているだけなのに、何でこんなに、何もかもを忘れそうになるんだろう。
やがて太陽が完全に顔を隠す頃に、俺達は料亭に入った。古い日本家屋の門をくぐり砂利道の先の扉を開くと、着物を着た女中が出迎えてくれた。相当高そうだけれど俺は当然金を持ってない。不安気に見上げた俺に緩く笑いかけると、将生さんは女中の後に付いて奥へと進んで行く。
通された所は六畳ほどの個室だった。女中が襖を閉めて出ていくと途端に緊張感が増す。こんな高級な店は初めてだし、どうしたら良いのか分からない。
「こんな所でごめんね。ここは良く使うから楽でね。硬くならなくて良いよ。俺の連れなんだから」
そう言って普通向かい合って座る筈なのに、将生さんは俺を隣に座らせた。変な絵面だ。第一女中が入って来たら驚くだろう。でもお陰で緊張も解れた。白井さんのスッと鼻に通るような香水の匂いを嗅ぐと不思議と落ち着くんだ。いつも抱かれている時に感じているからなのかもしれない。
畳の青い匂いに包まれ固まっていると、不意に長い指先が唇の端を軽く撫でた。
「殴られた後はちゃんと冷やさないと。綺麗な顔に痕が残るよ」
口元に落ちていた瞳がゆっくりと上へと上がる。視線が絡み合うだけで、思わず呑まれてしまいそうだ。唇の端から首筋に下りるしなやかな指先に身体の芯がじわりと熱を帯びて行く。
「新しい男の躾もちゃんとしないと」
「違、う……そんなんじゃない……」
片手で器用にシャツのボタンを外しながら、赤く残る痣に小さく唇が落とされた。
「ここにも、残っているよ」
そう言って鎖骨を軽く舌先で撫でられる感覚に、フッと昨日の記憶が蘇る。思い出すだけで、気持ちが悪い。思わずぐいっと胸を押しただけで簡単に将生さんは身体を離した。
「母さんの新しい男だよ……昔殴った奴だったんだ。それで、根に持っているみたいでさ。こんな有様」
「へえ、偶然だね」
「本当、ついてないよ」
隣の男は机の木目に視線を落とす俺を何も言わず見詰めるだけ。気味が悪いから横目で睨むと、思いの外真剣な瞳がぶっかった。
「偶然、なのかな」
「……は?」
この人は何を言っているのだろう。母さんは外の俺を知らない。当然俺が関係を持って来た男を知らない、筈だ。再び将生さんの指先が頬に触れる。
「いや、偶然なのかなって。俺が君の母親だったら、絶対やられっぱなしにはしないしなあ」
「それは将生さんだからでしょ」
この男なら熨斗つけるどころか、百倍にして返して来そうだ。
「そうかな。君の母親は男に依存している類の女なんだし、無くはないと思うよ。まあ、十分気を付けなさい」
まるで父親みたいな言い方に、何となく苛立った。俺はそんな物が欲しいんじゃない。いつもみたいに何も考える余裕のない位、あんたに乱されたいんだよ。
「ねえ、続きしないの?」
自分で拒否しといて突然手の平を返す俺に呆れるでもなく、将生さんは髪に指を通した。
「雪さ、病院に行ってみたら?多分それ、病気だから」
その言葉に心臓が大袈裟な音を立てる。
「……何?」
「セックス依存症。多分ね」
その単語を聞いた事がない訳じゃない。でもそれって病気なの?良く分からない。
「別に、何でも良いよ」
「そう。でも俺には治せないよ。それでも良いなら、続けようか」
強く引き寄せられて唇を塞がれ、歯列をなぞるように絡む舌に背筋が粟立つ。慣れた手付きで腰のラインを辿る指先に思考が段々と靄が掛かり、気付けばいつもこの男を喜ばせている。将生さんの腕の中は、自力で這い上がる事など出来ない深い深い、快楽の深端へとまるで堕ちていく様な不思議な感覚を覚える。
激しく絡め合った舌を解くと、名残惜し気に銀糸が二人を繋ぐ。上がる息を整える事もなく、俺は甘えるように男を見上げた。
「今日は、酷くして」
「いいよ。君の望み通りにしてあげる」
深い瞳に射抜かれて、俺はまた、溺れていく。ガタンと音を立て、木彫りの机が激しく揺れる。うつ伏せに押さえ付けられ、下着ごと一気に身を包む物は引き抜かれた。突き出された双丘を割って、硬い欲望が小さな蕾を貫き穿たれる。
「ひ、いっ──」
俺は思わず悲鳴にも似た嬌声を上げた。幾ら昼に男を呑んでいたって、そもそも大きさが違う。無理矢理に腰を進められる度に背筋が軋むような痛みが走る。その苦痛から逃れる為に立てた爪を、将生さんは優しく掬い上げた。快感に打ち震える指に唇を落とし、冷たい声が耳元で囁く。
「ほら、ちゃんと自分で腰を振れよ。この程度じゃどうせ君は、満足出来ないだろう?」
頬を付けた冷たい机が、吐き出される熱い吐息で濡れて行く。俺たちに良識や常識なんか通じる筈もない。
「アっ、あぁっん……!もっと、もっ、と──」
杭を打ち込まれる度に上がる肉のぶつかる高い音と共に、俺は涎を垂らして善がり狂った。
病気でも、異常でも、何でも良い。この胸の訳の分からない苛立ちや虚しさが紛れるのなら、俺は喜んで堕ちる。苦しいんだ。忘れたいんだ。何もかもを。それが例え、愛に満ち溢れた幸せな時間だったとしても──。
その日は料亭から将生さんの家に行って、また朝方に家に帰った。家庭のある男を相手にする事も少なくはないし、着替えを置いておくなんて野暮な事はしない。だからいつも一度は必ず家に帰る。
玄関に見た事もない靴を目にして、また憂鬱になった。もうソファでなんか寝るものか。あんな男に抱かれるのは真っ平ごめんだ。
物置に入って直ぐに周りの物全部扉の前に積み上げ、バリケードを作った。学校に行くまであと二時間程度。少し眠って、いつも通りさっさと出て行けば問題ない。
俺は安心していた。将生さんの言葉なんか忘れて。そもそも自分の事以外に興味関心なんかまるでない。自分にとって有益なら覚えているけれど、どうでも良い事は直ぐに忘れる。他人の事考えてたら疲れるだけだ。ただでさえこんな人生に疲れ切っているのに、これ以上疲れたくない。
身体が眠りを渇望するのに抗う事も叶わず、俺は直ぐに深い眠りへと落ちた。小さなアラームが鳴るまでの僅かな時間だけが、唯一心の安らぐ時。ずっと眠っていたい。今日もそんな事を思う。
アラーム音に目を覚ます。もう至福の時が終わってしまったとガッカリする事も、もう日課となっていた。
積み上げたバリケードをどけて扉を静かに開き、耳をすましてみたが物音は聞こえない。母さんはもう仕事に行っている時間だし、あの男もいないのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて狭いリビングに顔を出すと、残念な事にあの男がソファで雑誌を読んでいた。母さんの趣味ではない、下品な男。あの女は教師とか、社長だとか、金があって適度に品のある男を好む。真逆のチンピラみたいな奴を何で連れて来たのだろうか。
「おはようは?」
気付かれないように忍足で玄関に向かっていた俺の背中に、低い男の声が響いた。それだけでゾッとする。無視してそのまま進もうとしたものの、背後から迫る足音に思わず走り出していた。怖かった。俺よりタッパは大分あるし、何よりガタイが良い。同じ男でもとても敵わない。
「雪、何で逃げるんだ?」
思わず後ろを振り返ると、男は薄ら笑いを浮かべていた。竦み上がる程の恐怖、もはやそれしか無かった。短い筈の玄関迄の廊下すら、酷く遠く感じる。
ようやく鍵に手を掛けた瞬間、後ろから思いっきり襟元を引っ張り上げられ、重い衝撃が背中に走った。硬い壁に身体を打ち付けられ息が詰まる。
「はな、せっ……!」
睨み付けた途端、容赦のない平手が飛んだ。身体を固定されているから避けようもないし、力を逃す為に吹っ飛ぶ事も出来なくて、グラグラと脳が揺れる。次いで制服のシャツが引き千切られる音が、恐怖を一層に煽った。
「嫌だっやめて!」
助けて、誰か──。そんな声が届く筈もなく、俺はまた殴られ、男の手で、舌で、好き勝手に陵辱されて行く。こんな身体、消えれば良い。そう思う程に心も身体も痛みを伴うこの男とのセックスが快感を生んだ。
胸の蕾を捻り上げながら萎えた花芯を性急に扱かれ、快楽にばかり従順な身体が反応を示す。先走りと唾液を塗り込め強引に拓かれた秘孔に、無遠慮な男の屹立が当てられる。
はち切れんばかりの怒張を呑み込みながら、苦しみが薄らぎ無意識に甘い声が漏れて来た頃、不意にリビングから小さな物音がした気がした。朧げな頭の中で視線を向けた瞬間、俺は正しく、真っ黒い絶望の色を見た。
「母……さん……?」
リビングに佇む、紛れもない母親の姿。
「やっ、みないで……!いやだっやめて!嫌だ、嫌だ!」
半ば発狂した様に叫び逃れようと暴れながらも、男は奥底に欲望を吐き出した。
母さんに義父の裏切りを知らせる時。俺は何も手を下さない。母さんよりも俺を好きになって、勝手にあっちが破滅して行くだけだから。だから、母さんは俺が男に抱かれている所を見た事は無かった。見せたくなかった。見られたくなかった。見せては、いけなかった。
この四年間、一度も俺を見る事の無かった瞳が、男に殴られ、犯される実の息子を真っ直ぐに見据えている。もう目が霞んでよく見えないけれど、微かに笑っている気がして、無意識に涙が溢れた。俺達は戻れない所迄来てしまった事を突き付けられた気がして、ただ苦しかった。けれど同時に、何もかもがどうでも良くなった。
俺はこんな汚い身体で何を守ろうとしていたんだ。数え切れない罪を重ね、今更戻れると思っていたのだろうか。自業自得、まさしくその言葉が浮かんだ。未だ己の昂りをぶつける男に抱かれたまま、狂ったように泣きながら、俺は笑っていた。
愛も、家族も、友達も、温もりも、何にもいらない。生きている事が、ただただ苦しい。
それからはもうどうでもよくなって、俺は求められれば抱かれてやった。母さんはあれ以来俺達のセックスに興味を示さないけれど、酷くなる傷を見て喜んでいるのだろう。あの女の復讐が始まったと思うと涙を流してやめて欲しいと懇願するのもバカらしい。だから俺はこの男に悦んで抱かれるフリをした。
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壁に押さえ付けられ後ろから一気に貫かれて、脳天まで突き抜ける様な痛みが走り抜けて行く。
「やだっ、い、たいっ!」
思わず口から弱音が零れると、より強く腰を打ち付けられ、抉るような激しい躍動に痛みがジワリと快楽に変わる。俺の口から悲鳴混じりの媚声が漏れると、男の動きが煽られるように更に激しさを増す。壊れるかもしれない。そう思った事も少なくはないけれど、それよりも俺は快楽を求める。
壊れても良い。激しく突き上げられて、頭が真っ白になる位の快感が欲しい。
「その癖、敏感なんだから、堪んねえよな。ほら、出すぞ!」
奥の奥、根元まで打ち込まれれば、まるで促すように全身の筋肉が収縮して行く。全てを味わう為に、気付いたら身体がそうなっていた。熱い欲望が弾ける感覚を内部で感じて、俺も同時に絶頂を迎えた。俺の身体はこんな男に突っ込まれても快感を得る。何ともだらしの無い、汚れた身体だ。
突然開放され、支えを失った身体は抗う事もなく床へと崩折れた。身体中が鈍く痛むのと一緒に、心がギシギシと軋んだ音を立てた気がした。切れた唇の端に、零れ落ちた涙が染みる。
「優美が雪の事を悪魔だって言っていたけど、お前達何かあったの。大体息子を強姦させる母親とか異常だよな」
可笑しそうに笑う男につられ俺も小さく笑った。そんな異常な反応に、男が不安気な顔で覗き込む。
「……本当に何があった。親子ゲンカにしちゃやり過ぎだよ」
ベラベラ喋ってないでとっとと失せろ。その意味も込めてキツく睨み付けてみたが、あまり意味をなさなかった。
「……そんな事知って、意味ある訳?」
「好きな奴の事知りたいと思うのは当然じゃない?」
こいつ俺の事好きだとか傍迷惑な勘違いしているのか。本当、笑える。他人の幻想に付き合わされるのはごめんだ。
「そんなに知りたいなら教えてあげる」
何故俺が実の母親に悪魔と呼ばれ、いないものとされたのか。それは誰にでも起こり得るほんの些細な事。それでも、俺達家族を壊すには十分過ぎた。
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入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~
hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。
同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。
けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。
だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。
★BL小説&R18です。
恋なし、風呂付き、2LDK
蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。
面接落ちたっぽい。
彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。
占い通りワーストワンな一日の終わり。
「恋人のフリをして欲しい」
と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。
「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。
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