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『Underground caT』
それぞれの福音
しおりを挟む俺が隆司さんの元に帰って一週間。少し心配だったけど、昴が警察にタレ込む事もなく平和に日々が過ぎて行った。
夏休みに賑わう繁華街の一等地。暇な学生達で溢れかえる昼下がりの人混みをぬって、俺は夜の女達が通う美容院に来ている。どうも将生さんの息のかかった美容院らしくて、髪はいつもここだ。
「それでね、隆司さんさ、ああ見えて可愛いんだよ。ついうたた寝した時の険しい顔とか、安らかな寝顔も勿論いいけど、爆睡してる時の無防備な顔とか最高」
ベラベラと惚気話に花を咲かせる俺にむけて、鏡越しにウンザリした視線が睨み付ける。
「何であたしがあんたの胸糞悪い惚気話聞かなきゃなんないのよ。大体寝顔ばっかじゃないの。もっと美味しいの無いわけ!?」
担当である店長のアキさんは、今テレビでもよく見られる所謂オネエ。純粋にゲイの俺とはまた違うけれど、こんな話アキさん位にしか出来ない。実咲や慎太郎に言うと近過ぎて隆司さんが気まずいんじゃないかとも思うし。
「良いじゃん。て言うか俺客だよ?それでさ、いってらっしゃいって玄関まで見送るじゃん?そしたらおいでって言ってこうやって、ぎゅーってしてくれるんだよ?苦しいんだけどそれが幸せでね」
「もう分かった分かった!ちょっと腹立つから黙りなさいよ!角刈りにするわよ!?」
それは嫌だ。似合う気がしないし。漸く黙った俺の頭上で深い溜息が漏れた。
「りゅうさんはあたしが狙ってたのに……こんなビッチに入れ上げるなんて趣味悪すぎっ!」
「僻むな僻むな」
アキさんには何を言われても腹が立たないのは、この人は俺が男を漁りまくっていた事も知っているし、ここは俺が客を引いていた場所でもあるからだろう。
「まあ、難攻不落で有名なあんたに恋人が出来たなんて驚きだったけど。良かったじゃない。……かなり悔しいけど。あんた位だとノンケでも落とせるもんなのね。人生って不公平だわ。あたしもりゅうさん位良い男と熱い夜を過ごしたいわあ」
「無理無理」
「角刈り決定」
むくれるアキさんを尻目に、俺は一人思慮の波間に身を投げた。
俺達の関係は未だグレー。恋人──ではないのは確か。答えは帰ってからと言われたけれど、隆司さんは何も言ってはくれなかった。
そりゃ昴の所に行く前とは明らかに違う。一緒に寝る。抱き締めてもくれる。キスだってする。それでも、抱いてはくれない。前に不能者かも知れないと言っていたけれど、それにしてもプラトニックすぎる。
素肌に触れる事すら拒んで見えるのは、やはりあの人の中で何か蟠りがあるからなのだろうけど。隆司さんが抱える恐怖も聞いてしまっているから、無理矢理に誘いたくはない。だがしかし俺も男だ。無防備な寝顔を見ていると身体が反応してしまうのは仕方がない事。それを隆司さんが寝入った頃に一人でこっそり処理する虚しさったらない。
誰彼構わず誘い歩いて、しかも相手に不自由しなかった俺としてはこんな事は初めてで、日々何とも言えない屈辱を味わっている。でも実際付き合ってくれとか、恋人だとか。そう言うのを押し付けるのは気が咎めるんだ。結婚出来ないし、所詮は社会に認められていないから。
アキさんの言う通り隆司さんはストレート。それは紛う事もない事実。いつか目を覚ます日がくるのなら、七面倒な形は作らない方が良い。そんな冷めた俺もいる。
ぼんやりと考え込んでいると、髪をいじっていたアキさんの手は止まった。
「はい、お疲れ様でした!お代は将生君から頂いてるからね!」
何でそんな事になっているかと言えば答えは簡単だ。俺は未だにアンダーグラウンドラビットに登録されている。将生さんにやめるか聞かれたけれど、何となくやめる気にはならなかった。……我ながら変な話だ。
店員の女の子から鞄を受け取り、ガラスの扉を開く。むわっとした熱気が店内の涼しい風と混ざり合い、軽く眩暈すら起こしそうだ。店の外迄見送りに来たアキさんがそんな俺に向けて満面の笑みを浮かべた。
「雪、掴んだ物は逃がすんじゃないわよ。まあ逃がしたらあたしが頂くけど!」
「アキさん。隆司さんに手出したら、胸にシリコン入れるからね」
「……恐ろしい子」
引きつった顔ににこりと微笑み、俺は颯爽と踵を返した。
伸びっぱなしだった髪をばっさり切り落として、首筋が鋭い太陽にジリジリと焼ける感覚も久しぶりだ。何だか古臭いけど、まるで心機一転したような気になった。
何時もなら夕飯の献立を考えながらスーパー五郎に行くのだけれど、今日は俺の帰還を慎太郎一家が祝ってくれるらしい。夕暮れに賑わう繁華街から逃れる様に俺は真っ直ぐ家路に着いた。
「ただいまー」
リビングに顔を出した俺を、隆司さんの嬉しそうな微笑みが迎えてくれた。
「おかえり。お、綺麗になったな。やっぱり雪はその位短い方が似合うよ」
猫っ毛で細いから毛量があってもそんなに気にはならないのだけど、染めた事もない黒髪は伸ばすとやはり重い。雰囲気がまず暗い俺には耳の辺りで整えた方が似合うらしい。アキさんがやってくれるようになってから好評なのはそんな俺をよく知っているからだろうか。
そんな事を考えていたら、ソファから立ち上がった隆司さんが綺麗になった髪を優しく梳いた。見上げる俺の唇を、親指がスルリと撫でて行く。そのままゆっくり首筋に落ちた指先の感触に思わず熱い吐息が漏れた。
「髪の毛付いてるぞ」
何だ、髪の毛か。そう油断した一瞬の隙をついて隆司さんの指が顎を捉えた。唇の端にそっと落とされた優しいキスに、頬が燃えるように熱を持つ。不意打ちに弱いのは、俺だけではない筈だ。
「何を赤くなってんだよ。ガキじゃあるまいし」
むくれて手を払う俺を見て、隆司さんは悪戯っ子みたいな幼い笑みを浮かべた。楽しそうに離れる背中を見詰め、胸の奥があまく疼く。
隆司さんの瞳に自分が映る最上の幸せと、ほんの少しの、不安。
たまに分からなくなるんだ。こんな風にからかわれて、まるで戯れるように触れてくる。その中で微かに感じる欲情の色は、勘違いではない筈だ。俺をそう言う目で見ていない訳じゃない。その思いは捨て切れない。捨て切れないからこそ、触れてさえ来ない事に困惑する。いっそ煽ってみようかとも思った事は一度だけじゃない。引き摺り出すのは簡単だ。それでもそんな事隆司さんには出来ないといつも我に返る。
大切だから。守りたい人だから。そして何より、このくすぐったい程に優しい関係が壊れてしまうのが怖いんだ。今はただ、側にいられればそれで良い。
ソファに座り直した隆司さんの足の隙間に身体を入れて、胸の奥で燻る不安を振り切るように唇に触れた。熱を帯びた瞳に自分の姿が映るだけでこんなにも胸が苦しい。
「ねえ、隆司さん」
「……ん?」
どうか、目を覚まさないで。この瞳にいつ迄も俺が映ってますように。幸せと言う物を手にしてしまった俺にはもう、そう願う事しか出来ない。
首元に顔を埋め、大好きな匂いに酔い痴れる至福の時。俺は自分が愚かな幸せ者である事を自覚する。
「好きだよ」
耳元で小さく囁いた言葉の答えは、やはり同じ言葉で返ってはこなかった。けれど抱き締める為に回された腕の力強さは、紛う事のない、この男の愛だと思うんだ。
顔を見合わせれば何時でも微笑み掛けてくれる愛する人に、触れるだけのキスを落とす。やっと掴んだ幸せや、ようやく抜け出した暗い一本道。その先でも俺は前を向き切る事が出来ずにいた。自分の性根を理解はしているし、背負う罪の重さも忘れた事はない。何よりこんな風に愛される事すら初めてだったから。
大きな掌が、揺らぐ俺の背中を子供を宥めるようにポンポンと叩いた。
「今は余計な事は考えなくて良い」
生きていればいつか必ず訪れる別れを恐れ二の足を踏む俺の事を、隆司さんはよくよく分かっていたんだろう。不安に押し潰されそうな時は何時でもこうして優しく手を引いてくれた。
元々ストレートなのに、高い壁を乗り越えて隆司さんは俺を愛してくれた。そう頭では分かっていても、信じ切れない自分が憎くて堪らなかった。けれど信じたいと願えば願う程失う事が怖くなるのは、贅沢な悩みなのかも知れないね。
「ほら、もう行くぞ?」
放っておけばいつ迄もべったり張り付く俺を引き離して、隆司さんは少し呆れた顔を見せた。小さく肩を竦めて身体を離す。急に温もりを失った身体は、不思議と身震いすらしそうになる程冷たく感じた。そんな一瞬の事も、再び髪に触れた指先の熱さで吹き飛んだ。
そのまま二人肩を並べて、歩いて五分の慎太郎の住むマンションへと足を進めた。ふと左を歩く隆司さんを盗み見ると、夕焼けに染まる横顔は、酷く優しかった。
「こうやって夕暮れの空見上げるとなあ、カラオケ大会思い出すんだよ」
隆司さんは空を仰いだまま突然ポツリと呟いた。嫌々出された刑務所のカラオケ大会。それは俺の黒歴史だろ。
「いいよそんなの思い出さなくて」
そうむくれる俺を見て悪戯っぽく笑った顔に嫌な予感が頭を過る。
「あれ、俺の事見て歌ったろ」
「……知らない」
隆司さんは意外に意地悪だ。それも小学生レベル。楽しそうに笑う声を聞きながら、同じように空を仰ぐ。忍び寄る夜の帳が空を泳ぐあかね雲を包み込んで行く。
叶わない恋の歌。愛は苦しい物だと悲しみに暮れる、切ない歌。それでも捨て切れない想いを隠す気持ち、今の俺にはよく分かる。
ようやく辿り着いた慎太郎の家の扉を隆司さんはインターホンも押さずに開く。それがこの人達の距離なんだろう。血は繋がっていないのに家族のような不思議な関係。
「遅くなって悪いな」
隆司さんがそう言ってリビングに顔を出した瞬間、実咲の絶叫が響き渡った。
「雪君髪切った!?可愛い!いや、綺麗!?美人!?兎に角似合う!パパ、カメラカメラ!隆司さん隣入って!手とか握っても全然良いんだよ!?」
呆然と立ち尽くす俺達を尻目に大興奮の実咲。呆れ顔の慎太郎が漸く止めに入ってくれた。
「……実咲、一回落ち着こうか」
「え!?パパ何寝言言ってんの!?二人のどうしようもない位まどろっこしい遠回りしてた愛が実った記念日だよ!?」
何だそれ。
「いや、あの、うん。……ごめん隆司さん。止められないわ」
項垂れる慎太郎を見て、隆司さんは可笑しそうに笑った。
「実咲ちゃん、そんな物何時でも撮れるから。腹減ったよな、雪?」
突然振られ一瞬呆然としてしまった。
「……え?あ、うん。腹減った!」
慌てて便乗した俺に残念そうだったが実咲も何とか納得してくれて、ようやく揃って席に付く。
「改めまして……お帰りなさい!」
妊婦である実咲はお茶だけど、俺達は気も使わずビールで乾杯をした。その方が実咲も気負わなくて済むだろうとの事だ。
夢はもう寝ていたが三人は相変わらずで、変わったのは俺の気持ち。何だか蚊帳の外な気がしていたこの場所に、まるで俺も溶け込んだような錯覚を起こした。隆司さんは何でこんなにも俺にない物ばかり持っているのだろう。そして惜しむ事もなく、その全てを俺にも分けてくれる。この場所も、この人が俺を愛してくれたからこそある物。聖人か。聖人ヤクザか。どっちかにしろよ欲張りだな。そんなどうでも良い事を考えながら、俺達は四人で久しぶりの団欒を楽しんだ。
隆司さんはその日、箍が外れたように飲んで、早々に潰れてしまった。今日も久々の休みだったと言うし、疲れていたのだろう。
実咲がタオルケットを取りに席を立つ後姿をぼんやりと見送る。九月には実咲のお腹にいる新しい命が産まれるのかと思うと感慨深い物がある。
「おい、性悪糞野郎」
少しドスの効いた声にふと我に帰る。鋭い睨みを効かせる慎太郎を俺も思わず睨み返した。
「は?」
「隆司さん泣かしたらコンクリに寝かすぞ。分かってんだろうな」
慎太郎は本当に隆司さんを大切にしてくれる。憧れや、尊敬。それ以上に人としてあの人を愛してくれているのだろう。
「もう、絶対悲しませたりしない」
どの口が言うんだと思われるだろうか。それでも嫌いだった絶対と言う言葉さえ、無責任に口を付いた。今の俺にとっては全て本心。二度と苦しめてしまわない事が、俺のできる恩返しなんだと思う。
「分かれば良いんだよ」
初めて慎太郎が俺に投げ掛けてくれた微笑みは、まるで長い間すれ違い続けた旧友に向けたような優しい物だった。
「隆司さんの事、頼むな」
「……お前は彼氏か」
「はあ!?バカ!俺には実咲って言う出来た嫁がいてだなあ……!」
慌てて弁解を図る慎太郎の声も、ぼんやりした思考に呑み込まれて行った。
皆がこんな俺達を祝福してくれる。それは山室隆司と言う男が苦しみの中で歩んで来た人生の賜物なのだろう。
いつか勇気が出たら聞いてみようと思うんだ。俺と生きる人生は、幸せなのかと。その答えが俺と同じだったらきっと胸の奥で燻る不安なんか吹き飛ぶ位、本当の意味で幸せを噛み締める事が出来るのだろう。
数え切れない人の心に傷を残し、数え切れない罪の足枷を引き摺って、長い間深い深い絶望の淵を歩んで来た。その全てがこの時の為の、隆司さんに会う為の試練だったとしたならば、何もかも無駄では無かったのじゃないだろうか。そう思う自分が酷く自分勝手で、人間らしく思えた。
幸せに一つの答えなんかない。それぞれの形があるものだ。愛情もまた然り。物事の善悪も、また然り。
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