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『Underground wolF』
狼少年
しおりを挟む春も終わり、茹だるような夏が訪れた。高層マンションの高層階、大きなガラスの向こうではビルがゆらゆらと輪郭を滲ませる。快適な室内にいても思わず汗が吹き出てしまいそうな程に、その陽炎はいらない想像力を掻き立てる。
そんな朝八時。猫舌には丁度良く冷めた珈琲を口に運びながら、ミミズの這った様な文字が羅列された〝遺書〟を読み返す。もう何十回読み直しているだろうか。やっと最近全ての文字を理解する事が出来た。小学生でももっとマシな字が書ける筈だ。
ふと耳に触れた食器が擦れる小さな音に、手元の遺書から対面で朝食を続ける少年に視線を移す。随分前に食べ終えた俺とは対象的に、そんなに量の多く無い朝食のサラダは半分も減ってはいない。まるで幼い子供の様な不器用な箸の持ち方。だがもたもた箸を動かす少年は、見た目が高校生位なだけに、幼児と言うより日本に来たての外人を見てるみたいだ。
細い髪は光に透ければ薄い茶色。瞬きする度に音を立てそうな程長い睫毛の下の、薄いブラウンの瞳。日本人の中でも一際色素が薄い。長い手足に細い身体は、可笑しな気品すら感じる程綺麗な少年だ。気品とは程遠い生活をしていたらしいけど、持って生まれた物なのだろうか。
……それにしてもまだ食べ終わらないのか。つい溜息の漏れてしまいそうな程の美貌を持て余す少年にももう見飽きてしまった。それにそろそろ行かないと約束の時間に間に合わない。
「早く食べてくれる?俺もう出るよ?」
余りにもゆっくり食事を口に運ぶ少年を急かすと、小動物の様な怯えた瞳が恐る恐る俺を捉えた。
「……お腹痛い」
またか、と思った所で何の解決にもならない。面倒臭そうに煙草に火を付けた俺を前に、少年は腹を押さえていた手を少し癖っ毛の栗色の頭に運ぶ。
「頭も……痛いかも。あとね────」
「おいで、見てあげるから」
咥えたばかりの煙草を揉み消して軽く手招きすれば嬉しそうに駆け寄ってくる。
最近俺の頭痛の種であるこの少年は夏木純平。遺書の主その人だ。こんなんでも十六歳。一ヶ月前、殺人を犯し服役した母親がせっせと拵えた借金の形に俺が買い取る事となった。だがそれは全く本意ではない。未成年は法に触れるから扱わないと言っているのに、無理矢理押し付けられたにすぎない。客を取らせる気にもならないけど、多額の借金を肩代わりした手前放り投げる訳にもいかずこうして手元に置いているだけだ。
額に手を当てる俺を遠慮がちに見詰めながら、純平はもごもごと口の中で言葉を噛んだ。
「……今日はお仕事休める?」
「無理。……熱はないね。また持病が出たのかな」
バッサリ切り捨てられた純平が縋る様に俺の首に抱き付いた。母親がいなくなって心細いのか、純平は何時もこんな風に人の温もりを求める。まるで子供だ。
「気持ちも悪いの」
次から次へと出てくる体調不良の症状に思わず深い溜息が口を漏れ出て行った。なるべく優しく引き剥がし、俺はこのクソガキにも分かる様に説明してやる。何で自分が愛人紹介所の社長である、俺に買われたのかを。
「良いかい純平。俺は君の保護者でも何でも無い。君はお母さんの作った借金の形に俺の所に来たんでしょ?それはちゃんと話したよね?一千三百六十万。ちゃんと耳揃えて返して貰わないと。金貸しも俺も、慈善事業じゃないからね」
無慈悲に現実を突き付ける俺からふいと視線を逸らし、純平は子供みたいに口を尖らせて見せた。
「……将生の言う事、難し過ぎてわかんないよ」
「はいはい、それでも良いけどね。もう行くからどいて」
相手にするだけ時間の無駄。純平の仮病攻撃は何時もの事だ。けれど俺は仮病は立派な病気だと思う。だからこそ、そんな手は通用しないと思い知らせなければならない。じゃなきゃ俺はこのクソガキに朝の大切な時間を奪われっぱなしだ。
「本当に頭痛いの……!」
出勤の準備に勤しむ俺の腰に抱き付いたまま、純平は必死になって妨害を試みている。なかなかしぶといと言うか、しつこいと言うか。
腕時計も装着し終わり後は出るだけとなった所で、俺はようやく腰の重りに向き合ってやった。
「狼少年って知ってる?」
純平は俺を見上げ、小さく首を傾げて見せた。
「嘘をつき続けるとね、誰にも信じてもらえなくなるんだよ?」
「……将生と一緒だね」
何を生意気な。俺は純平みたいに気を引く為の嘘を吐いた事なんか無い。関係を切る為の嘘なら腐る程吐いて来たけれど。
舌打ちを噛み殺し、軽く膝を折って視線を合わせると、純平は恥ずかしそうに顔を伏せる。
「良い?大人しくしてるんだよ?このマンションは一旦出たら戻れないからね?」
こんな事を言っても無駄。純平は俺が家を出ると必ずマンションを抜け出してしまう。毎度俺の部下みたいなもんである慎太郎や山室に探させはするけど、面倒臭いったらない。いっそ見付からなければとも思うが、純平は必ず見付かってしまう。それに金は返してもらわないと。いらない荷物を背負わされた事に苛立ちながら、今日も俺は一人マンションを後にした。
そもそも純平が幼いのには理由がある。と言うのも、あの少年は殆ど学校に通っていない。母親は純平を産んで直ぐに夫を亡くし、息子である純平に異常な迄に依存する様になった。小学校も中学校も、母親に男が出来た時に通う程度。お陰で読み書きもロクに出来ない。これはネグレクトに当たるのだけど、普通の育児放棄とは少し異ったケース。一日中部屋からも出さず、母親の側を離れる事すら許さない。だが純平は母親に愛されていたと例の遺書の中に書いているのだから、歪んではいても愛されている実感はあったのだろう。
そして半年前、母親は家に訪ねて来た純平の元中学の同級生の首を締め殺害。母親が捕まり純平は親戚に引き取られたものの、付き纏う借金取りのお陰で親戚も愛想を尽かし今に至ると言う訳だ。
それについて純平がどう思っているのか知らないし、あの嘘吐きが腹の底で何を思っているかも知らない。あんな遺書を書いた位だからただのクソガキではないと思うのは俺の勘繰り過ぎなのだろうか。それに目の前で人の死の瞬間を見てしまう事は、予想以上に心に重い影を落とす。それはよくよく心得ている。だからと言って俺は他人に同情する程お優しい人間ではない。ただ、家族に恵まれなかった子供の気持ちは残念ながら他人よりは分かる程度だ。
それでも世間は厳しいし、人生は平等ではない。だからこそ、俺達は強く無ければ生き抜けない。純平はまだそれに立ち向かう強さが無い。借金の肩代わりをしたついでに、その強さを持ってもらえれば後はどうでも良い。俺と言う人間は、そんな物だ。
そんな不憫な居候について考えながらようやくマンションの下に着くと、車の前で談笑していたスーツの男二人が揃って頭を下げた。
「おはようございます」
猿に似た若い男と、無駄にデカい男。さっき迄楽し気に会話をしていた癖に、俺がいるとこいつらは何時も図った様に揃って難しい顔で黙り込む。もう何年俺の下で働かせているだろうか。そろそろ警戒心を解いてくれても良いと思うのは、俺も年を取ったからだろうか。
デカい方の山室が後部座席の扉を開き俺はその中に身体を滑り込ませる。山室は良く気の利く男。猿である慎太郎はこっちが煩わない男。この二人を側に置いておくのは楽だ。普段決まった人間を下に置かない俺が、この二人だけは非道な手を使ってでも手放さないのはそれだけの理由でしかない。俺は誰かに執着する事も、心の中に誰かの存在を置いておく事もしない。
人は皆、俺を愛を知らぬ人間だと言う。自分以外の誰も、愛する事の出来ない人間だと。それがどれ程に虚しい物か俺は知っている。それでも何も感じない。誰かを愛そうとした事も、そんな自分を変えようとした事もない。〝そう言う人間〟である事に、何ら不便を感じた事が無いから。
重い憂鬱を引き摺りながら車が静かに走り出す。ハンドルを握る慎太郎がミラー越しに視線を投げた。
「将生さん、赤坂先生予定通りで良いですか?」
「良いよ」
それっきり。誰一人口を開かない。それが俺達の普段通り。
そんな重苦しい沈黙を守りつつ走り続け、ようやく車はホテルの前に横付けされた。山室が助手席から降りて慣れた手付きで扉を開く。
「じゃあ十四時に。適当に飯でも食ってて」
適当な金額を手渡して頭を下げる二人を残し俺は一人絢爛豪華なエントランスへと足を進める。フロントで要件を伝え、ホテルマンの誘導の元通されたのは、最上階に程近いスイートルーム。
扉の脇のベルを鳴らすと中から秘書である男が顔を覗かせた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
今度は秘書に誘導されて部屋に足を踏み入れると、リビングルームのソファに深く凭れていた初老の男が満面の笑みで出迎えてくれた。
「やあ白井君!わざわざ悪いね。まあ、掛けて掛けて」
白髪混じりの髪を上品に整え、オーダーメイドのスーツを嫌味なく着こなすこの男は赤坂陽司。俺の太客でもある政治家だ。
「最近忙しそうじゃないか」
秘書の持って来てくれた珈琲を飲みながら取り敢えずの近況報告。
「この間うちの売れっ子が辞めましてね。穴埋めが大変なんですよ」
「それは一度お目に掛かりたかったね」
本気で期待に胸を膨らませ身を乗り出す男に、俺は嫌味の無い笑みを返す。
「赤坂先生が男色家なら紹介していましたよ」
「ああ、それは残念だね。私は女の子が好きだからね」
赤坂は残念そうに乗り出した身体を再びソファに沈めた。
俺の経営するUnderground rabbiTとは、ざっくり言えば金持ちに愛人を紹介する会社。借金で首が回らなくなったり、夢の為に金が必要な若者を引っ張って、赤坂の様な金持ちに引き合わせマージンを頂くって仕組みだ。
何もその愛人は女ばかりではない。立場上男が好きだと公言出来ず、相手を探す事も出来ない人の多いこのご時世、男を紹介すると言う事もしている。そして先に言った売れっ子と言うのは、何を隠そうそう言う連中相手にしていたボーイ。問題児ではあったがそれもまたあいつの魅力だったのは確か。稼ぎ頭として大切に育てて来た筈が、先日山室と養子縁組をすると言って会社の登録を抹消してくれと自分から言い出した。と言っても、山室と引き合わせたのは他でもない俺。稼ぎグチは何もそいつだけではないし、痛手ではあるが特に引き止めもしなかった。
そんな当たり障りの無い会話を終え一息付くと、赤坂は片手で軽く合図を送り、傍に佇んでいた秘書を隣の部屋に下がらせた。完全に扉が閉まった事を確認してから、俺は目の前の男の求める本題に入る。
「……松澤絵美子の件はこちらで処理しておきました。マスコミにも既に根回しを。赤坂先生の手を煩わせる事もないでしょう」
淡々と語る俺を前に、赤坂は俄に顔を顰めた。
「……そうか。すまないね。大分使ったのではないかな?」
〝使った〟と言うのは言うまでもなく、金の事。俺は会員間での揉め事が起きた際は会社で持つ事にしている。それは相手がこいつみたいにデカすぎるからと言う理由の他に、恩を売る為だ。
「いえ、教育が徹底されていなかった事はこちらの落ち度ですから」
そして俺は最小限に損害を抑える為、松澤絵美子に限らず登録した人間には徹底して言っている事がある。
相手の表の人生に深入りはするな。探る事も厳禁。相手が望む事を理解してそれに全力で応えてやれば良い。決して情に流されない事。相手と自分の歩む場所はいわば裏の人生。決して本気になってはいけない。それは、俺なりのルール。
金持ちが愛人なんて物を求めるのは、結局はマンネリ化した人生の中で一時のスリル。その禁断の遊びを楽しめるものは、頭の回る人間でなくてはならない。金持ちの自爆は知ったこっちゃあないが、こちらの落ち度で家庭を壊してはならないし、家庭に影響させてもいけない。
そもそも金持ちにしてもバレる嘘を吐くべきではないし、バレる様な嘘を吐く頭しかない奴は遊ぶ資格もないと言うのは俺の持論。俺は最低な人間だが、最低なりにそう言う信念は曲げた事がない。自分のケツは自分で拭く。俺はそうやって人生を生きて来た。
「……やはり、君の所にして正解だったよ」
そう言って愛想笑いを浮かべつつ、赤坂の表情には何処か寂しさが滲んでいた。俺は初老の男のそんな複雑な表情に胸の奥で苛立ちを覚えた。バカなオヤジ。そう心の中で詰りつつも、顔に笑みを貼り付ける。
そもそもの話しをすると、今回俺がここに来た訳は、紹介した女、松澤絵美子とこの政治家の間でちょっとしたイザコザがあったから。赤坂は妻も二人の子供もいる。それは珍しい事では無いし、社会的な地位が上がれば上がる程に、体裁的にも結婚し子供を作るのは我が国日本の特色でもある。
例に漏れず赤坂は愛妻家の政治家として成功した。だがこれまた例に漏れず、金を持てば欲が生まれる。そこで紹介したのが松澤絵美子と言う愛人だった。だが松澤絵美子はあろう事か赤坂に惚れてしまったらしく、妻と別れろとかマスコミに売るとか喚き散らしたのだ。
幾ら教育していてもこう言う事が多いのは、仕方が無い事だとは理解している。だがそれは理解しているだけであって、許すとは全く別の話だ。会社の信用問題に関わる事だし、赤坂の様な太客を手放すのも惜しい。だから高い金を使い松澤絵美子を内々に処分し、マスコミへの漏洩も事前に食い止めた。そう言う裏の仕事はある意味本職でもある得意分野。
俺は歴としたヤクザ。日本最大と名高い広域指定暴力団に組みする人間だ。つまりこの会社はフロント企業に過ぎない。まあこんな商売、まともな神経じゃやってられない。早い話が人身売買以外の何物でも無いんだから。
訳の分からない溜息が漏れそうになって、慌ててそれを噛み殺す。ふと時計を見ると間も無く十二時になろうとしていた。
「そろそろ失礼しますね」
「ああ、ありがとう」
腰を浮かすとすかさず赤坂は握手を求め手を差し出した。こんな所迄政治家が染み付いていて心底吐き気がする。だがそれもまた嫌味の無い笑みを浮かべ手を握り返し、俺はさっさと扉へと歩き始めた。
重厚なホテルのドアの前迄辿り着き挨拶をと思い振り返った俺を見て、赤坂は思い出した様に手を叩く。
「そうだ、今度私のパーティーがあるんだがどうだね?今回は君にも是非出席して欲しい」
誰が政治資金集めのパーティーなんか喜んで行くか。そう悪態付きつつも、答えなんか決まってる。
「赤坂先生のパーティーにご招待して貰えるなんて光栄ですね。是非出席させて頂きます」
そんな大人の嘘を並べ立て、頭を下げようとした所で赤坂は何故か俺を制した。
「白井君。私は長年の付き合いだし、君の事は信頼しているよ。だがね、最近疲れているんじゃないかな?」
思わぬ言葉に珍しく心臓がギクリと竦み上がるのを感じた。それでも培った性のお陰か、表情が硬くなる事はない。
「年を、取ったんですかね」
「三十六だろう?まだまだ若いじゃないか」
呆れた様に笑う赤坂に、俺も微笑み返し頭を下げた。
「ではまた。失礼します」
重い扉が背後で閉まる小さな音でさえ、澄んだ耳の奥底に嫌に響いた。
正直、赤坂の言う通り最近何をやるにも無気力だ。元々何事にも熱くなるって事は無かったけれど、輪をかけて。それに女を切らした事も無かった俺が、ここ最近、プライベートでは一度も女を抱いてない。どう言う心境の変化なのか。それは何と無く、薄くではあるが気付いてはいる。
俺は長い間ぼんやりと唯生きている気がしていた。だがそれは勘違いで、父親に痛い目を見せると言う下らない目標は持っていた。そして一年前にその目標を達成してしまい、本当の意味でその境地に達してしまったのかもしれない。
目標なく、金を稼ぎ良い暮らしをして、何不自由もなく、ただ生きる──それは思っていたよりも苦痛なものだった。いっそ明日にでもこの命が尽きてはくれないか。最近ではそう思う事も増えた。俺が消えて悲しむ人間はいない。逆に喜ぶ人間は多い。組員にも会社の関係にも迷惑は掛けるだろうが、人の死と言うものは元来そう言うものだ。
ふと、頭の中をミミズが通り過ぎて行く。あなたのいないこの世に僕はもう必要ない──だから死のうとした純平を俺は愚かだと思うと共に、何故か少し羨ましく感じた。その〝あなた〟すらいない俺は、生まれて死ぬ迄、一度たりとも必要とされた事はないのだろう。それが少しだけ寂しく感じるなんて、やはり年を取ったんだろうか。
深い思慮の波間を漂いながらも、ホテルで昼食を済まそうとレストランに足を踏み入れ、窓際の席に腰を落ち着けたのも束の間。携帯が着信を知らせ震え出す。時間的にも誰からかは見なくても分かる。言い付けを聞かずマンションを抜け出した純平だ。
無視しようかと思ったのは何も今日だけじゃない。それでも仕方がないから携帯を耳に当てると、幹線道路の雑音が聞こえる。
「どうした?」
車の往来の音に混じって聞こえるのは、人の笑い声だろうか。
「マンション、出ちゃった」
その隙間に聞こえた弱々しい声。
「今は?どこ?」
「わかんない……」
その返答も何時も通り。この一ヶ月抜け出す度に変わらない。マンションの近くの幹線道路は一つしか無いし、歩きで行くにも場所は限られてくる。頭の中で純平の居場所を絞り込んでいると、電話口の向こうで一際大きな笑い声が耳に触った。
「……純平、誰かと一緒?」
「ううん、周りに人はいっぱいいるけど……」
そうだよな。学校にすらロクに行ってないこいつに、ましてや知らない街でツレがいるとも思えない。
「分かった。直ぐに慎太郎向かわせるから。そこにいて」
小さな返事を聞き取って電話を切り、そのまま慎太郎に電話を掛ける。数回のコールで直ぐに慎太郎は電話口に出た。
「ごめん、山室こっちに連れて来て。それで悪いけどまたうちのクソガキ探し行ってくれる?……うん、なるべく急ぎで」
要件だけ伝え電話を切ると、それを待っていたかの様に給仕が貼り付けた笑みを浮かべ近付いた。
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
「珈琲」
磨き上げられた窓の外は相変わらず干からびてしまいそうな程にキツい太陽の光を浴びて、不謹慎な迄に清々しい。身体を冷やすクーラーと視界のギャップに眩暈すら起こしそうだ。
直ぐに運ばれて来た珈琲を冷める迄待ちながらぼんやり煙草に火を付ける。相変わらずに舌先を弱く刺激する感覚も、鼻に抜ける豆の香りも、ここの珈琲は割と好みだ。
そんな冷めた珈琲を味わっていると、思いの外早く山室が広いホテルのレストランに姿を見せた。最近はこう言う事が多いから大方近くに居たんだろう。どかりと向かいの椅子に腰を下ろすや、山室は元々の強面を更に厳しく歪めた。
「また珈琲だけですか?最近ちゃんと飯食ってます?」
憎まれても有り余る程の事をして来た俺の心配か。
「……相変わらずのお人好しだな」
思わず鼻で笑った俺に鋭い睨みが向けられる。
「茶化してる場合じゃ無いですよ。最近痩せたんじゃないですか?」
「年を取ったのかな」
「俺より若いじゃないですか」
あからさまに嫌な顔を見せながらも、山室は近付いて来た給仕に自分の分の珈琲と共に飲み終えた俺の分も頼んでくれた。山室は野生的な男っぽい見た目に反してこう言うさり気ない気遣いの上手い男だ。全く憎たらしい。
直ぐに運ばれて来た珈琲に口を付け一息付いたのを見計らい、俺は山室一人ここに呼んだ理由を言葉に出した。
「純平の事なんだけどさ」
散々振り回されてる山室は、その名前だけでピクリと眉を動かした。
「分かると思うけどこんな事が続くとこっちも仕事にならない。だからさ、悪いけど俺がいない間面倒見てよ」
「いや、慎太郎も子供生まれたばかりですよ?俺だって今は大事な時期だからあんまり家を空けたくない」
そんな事は重々承知だ。今慎太郎も山室も自分の家庭を大切にしたい時期だ。山室に関しては、少しでも長く最近養子縁組した元ボーイである雪の側にいてやりたいんだろう。だがそれと俺の都合は何の関係も無い。
「雪が心配ならついでに言うけど、あいつにもまた家庭教師頼みたいんだよ」
一緒ならどうだと提案したにも関わらず、山室は眉を顰めた。
「……はっきり言わせて貰いますけど。雪をあんまりあんたに近付かせたくない」
山室の溺愛っぷりには呆れて言葉も出ない。
「もうあいつを使う気はないよ。それにこれ、お願いとかじゃないんだけど?」
難しい顔をして黙り込んだ山室を見るのも飽き飽きして、俺はガラスの向こうの陽炎に視線を移し煙草に火を付ける。
しかし直ぐにこんな無駄な時間は無いと、駄目押しをしようかと思って口を開いた所で、山室の携帯が鳴った。面倒臭そうに耳に当てていた目の前の男の顔がみるみる青褪めて行くのを眺めながら呑気に紫煙を燻らす。短い会話で電話を切った山室が徐に立ち上がると、震える唇を必死に動かした。
「将生さん、慎太郎……病院運ばれたそうです」
「……は?」
青天の霹靂とは正にこの事だ。その一本の電話で一時その話しは中断となった。
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