Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

寂寞の部屋

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「……何それどうしたの?」
 大袈裟に包帯を巻かれ診察室から出て来た慎太郎は、電話を受けて駆け付けた俺と山室の顔を見てバツが悪そうに頭を掻いた。
「いや、純平探してたら派手に転けちゃって。運転も自分でして来ましたし、骨に異常はないです」
 下手くそな嘘に思わず溜息が漏れる。
「慎太郎。俺にそんなの通用すると思ってる訳?これ転けて出来た傷じゃないよね?誰にやられた?」
 捲し立てる俺を心底迷惑そうに見ながら、渋々と言った様子で慎太郎は口を開いた。
「……実は純平が若い奴らに絡まれてましてね。手出して面倒事になりたくないからと思って」
 それでやられっぱなしになったって訳か。慎太郎らしいと言えば慎太郎らしい。幸い折れてもいない様だし山室と同様俺もホッと胸を撫で下ろす。唯一違うのは、俺のは運転手がいなくなるのは面倒だとの思いからの安堵だって事。
「そう言えば純平は?」
 ふと思い出して辺りを見回してもその姿は何処にも見えない。
「ああ、車で待たせてますよ」
 慎太郎はそう言いながら酷く不機嫌そうに盛大な舌打ちをかました。その気持ちは分からないでもない。
「怪我も大した事ないみたいだし、もう帰れる?」
「はい」
 足を引き摺る慎太郎に手を貸す山室の背中を見ながら、俺達はゆっくりと駐車場へと向かった。
 エンジンの掛かったままの車に近付いたものの、フルスモークで中は見えない。運転席に慎太郎を座らせた山室が急いで後部座席の扉を開く。その振動でか、眠り込んでいた純平がゆっくりと頭を擡げた。
「将生!」
 安心したのか、覗き込む俺の首に何時もの様に抱き着く純平の肩が微かに震えている。溜息を呑み込んで、でかい子供を抱え後部座席に乗り込む。遅れて助手席に乗り込んだ山室が純平を見ながら伺う様に口を開いた。
「この後はどうします?」
「予定通りだ」
 午後の予定は既に大きく狂っている。別に大した相手では無いけれど、俺は仕事の邪魔をされるのが一番嫌いだ。
 走り出した車の中でも俺の気も知らず純平はベタベタとくっ付いて来て鬱陶しい。仕事の段取りを滅茶苦茶にされた事もあって腹が立って仕方が無い。
「君の自分勝手な行動で慎太郎が怪我をして、俺の仕事に穴を開ける事になったの。どんな迷惑か分かる?それに、ねえ、純平。言った筈だよ?俺は君の保護者でも何でも無い。幾ら気を引こうとしても無駄だよ」
 冷ややかな視線を落とす俺を見上げ、薄茶色の瞳が揺れる。それも更に苛立ちを煽った。
「分かったら煩わせないでくれる?」
 余りにも突き放す言い方に俯きながらも、純平はもごもごと口の中で言い訳を並べ立てる。
「あの部屋、淋しいんだもん。広くて、綺麗で、何にもなくて」
 ただ飯喰らいが生意気な。
「あんな部屋住んでて、将生は幸せ?」
「幸せって何?」
 抑え切れない苛立ちから、そんなバカげた問い掛けをしてしまった。だが純平はまるで怯む様子も見せず、相変わらず冷たい視線を送る俺に向けて微笑んで見せた。
「この時間がずっと続けば良いのにって時」
 クソガキの癖に。それはファントネルの掲げた思想だ。哲学何か程遠い知能しか無い癖に何処で覚えたんだか。
「……哲学なんか知らない子供の頃が一番幸せだったよ」
 知らない事は何よりの幸せだ。それが世界の摂理。愛し愛され憂に揺れて、それでも尚人は人を愛す。それが幸せへの道だと信じて。素晴らしい事だと思うよ。俺にだってそんな時期はあった。何も知らずに、唯一心に愛情を信じていた頃が。
 だがその何もかもが偽りだと気付いてしまったら最後。こんな人間に成り下がる。虚を抱いて、深い泥濘の中で唯ぼんやり闇を見詰め、やがて訪れる死を待つ。待っていたものは、そんな下らない人生だった。
「淋しい人」
 突然耳元を掠めた声に、俺は思わず拳を握り振り上げていた。殆ど衝動的な行動。一寸遅れて助手席から伸びた腕が、小さな頭と拳の間を隔てる。
「ちょっと……!何してんですか!」
 驚きに瞳を見開く山室に向けて、俺は口元だけで笑みを作る。
「殺そうかと思って」
 曇りも無く、俺は心の底からこのクソガキを殺したいと思った。
「……将生さん?」
 青褪めた山室の顔を見ていたら不思議と気持ちも落ち着いた。
「冗談だよ」
 掴まれた腕をゆっくりと離し、窓の外に視線を投げる。真夏の澄んだ青空に浮かぶ雲達が、茜色に染まり掛けていた。
 俺が最近可笑しいのは、秋が近付いているからだろうか。俺が死んで悲しむ人間が居たとすれば、後にも先にもたった一人しか浮かばない。それももう、この世にはいない。俺を信じていた、バカな男。俺の為に命を捨てる必要があったのか──無いね。誰かの為に自分を犠牲にするなんてバカだ。だから俺はバカが嫌いだ。波立つ事の無かった俺の心を、ふとした時に乱すから。

 俺の突然の暴挙に完全に怯えた純平を家に送る時間も無駄だし、今日はそのまま連れ回す事にした。相変わらず重苦しい沈黙を守る車内から窓の外を見るともなしに見詰めていると、流れる景色の中で陽炎に揺れる真赤な巨塔がビルの隙間から顔を覗かせる。俺はそれから逃れる様に重い瞼を閉じた。夢か現か。目の裏側に浮かんだ、ドス黒い真紅と、アンバランスな屈託の無い笑顔。
 俺を信じたあの人は、真っ直ぐな男だった。バカが付く程に優しい男だった。もしももう一度会う事が叶うのならば、俺は何と声を掛けるのだろう。バカだと罵ってやるだろうか。鼻で笑ってやるだろうか。あの人はそんな俺を見て、可笑しそうに笑うだろうな。
 胸の奥底が微かに痛んだ気がした。罪悪感と言う物が俺にもあるのならば、これがそうなのかも知れない。だがそれは何の意味も無い感情だ。何も、意味は無いんだ。

「将生さん、着きましたよ」
 低い山室の声にふと重い瞼を開くと、閑静な高級住宅街に車は止まっていた。眠っていたのか。あれだけの事があっても俺の膝で眠る純平をどけて車の外へと足を出したは良いものの、腰を上げる事ができない。不思議と全身にまるで力が入らなかった。何時迄も動かない俺に山室は訝しげな視線を送る。
「……大丈夫ですか?顔色悪いですよ?」
 また俺の心配か。本当に山室には呆れ果てて言葉も無い。
「お人好し」
 鼻で笑った俺を見て山室は呆れた様に深い溜息を吐いた。
「今日は止めたらどうです?土田さんはあんたをえらく気に入っている。そう簡単に解放してはくれませんよ?」
「仕事だし」
 深く息を吸い込んでやっとの思いで立ち上がると、思いの外視界が揺れて気持ちが悪い。体は強い方だが、風邪でも引いたんだろうか。フラつくのも格好が悪いし一歩一歩確実に地を噛んで歩き始める俺の腕を山室が慌てて掴んだ。
「ちょっと待ちなよ。俺があんたと土田さんの関係知らないとでも思ってますか?今日は止めておいた方が良い」
 真剣な眼差しが鬱陶しい。
「……俺を探るなんて、山室も案外悪趣味だね。今日はもう上がって。ああ、どっちか泊まってね」
「その話は──」
「言ったよね。お願いしている訳じゃ無いんだよ?」
 それ以上山室が食い下がって来る事もなく、俺は夕暮れの空に伸びる高層マンションへと一人足を進めた。
 オートロックを抜けてエレベーターの壁に体を預け目を閉じると、暗闇が歪に歪んで吐き気がする。身体に掛かる重力さえも酷く重く感じた。やっとの思いで辿り着いた玄関は、俺が来訪を知らせる迄もなく待ち兼ねた様に勢い良く開かれた。
「将生君!」
 扉を開き顔を覗かせた小柄な男の瞳がキラキラと輝いていて、何だか無性に苛つく。それを巧妙に隠し、俺は嫌味な程顔に笑みを作った。
「お久しぶりです。遅れてすみません」
 そう微笑み掛けるだけで、輝く瞳が更に潤んで煌めいた。立ち話も何だからと男は直ぐに俺を玄関に招き入れた。
 艶のある黒髪が歩く度に揺れる。この男は土田陽介つちだようすけ。若手の人気作家。何本か読んではみたが、俺の性には合わなかった。何処か純粋で、ひねたロマンチスト。そう言う人間は得てして暗い背徳に惹かれるものだ。
 リビングに付くや否や、細い身体が縋るように腕の中へと滑り込んだ。
「将生君」
 見上げる瞳が熱く濡れて、何処か甘えた声が俺の名を呼ぶ。伸びっぱなしの髪に指を通すと指の間を抜ける漆黒の糸が柔らかく落ちて行く。そのまま頬に指を滑らせると土田陽介はうっとりと瞼を閉じた。
「寂しかった?」
 耳元に唇を寄せて囁けば、掛かる吐息に痩せた頬が紅く染まる。
「……分かってる癖に」
 会えないから寂しい。顔が見えないから寂しい。肌が触れ合っていないから寂しい。俺には全て縁の無い感情。縁は無いがその心理は分かるから、この男が限界に達するギリギリのラインで何時も顔を見せる様にしている。俺にとっては良いカモだ。何も俺の仕事は愛人を紹介するだけではない。俺自身がこんな風に客の欲求を満たしてやる事もある。持って生まれた造形を利用しない手は無いし、そう言う意味で俺は自分が抱えてる誰よりもこう言う仕事は向いてる。そう、思っていた。
「……将生君?」
 上気した頬に潤んだ瞳を投げ掛ける目の前の男を見ても、身体が全く反応を見せない。男と言う物は便利な物で、適当な想像力で他人に欲情出来る。そもそも俺は男も女もどちらでも大差は無い。土田陽介に特別な感情は持ってはいないが、関係を持っていられたのもそんな性質からだ。
 ここに来てどうして、そんな簡単な事すら出来なくなってしまったんだ。自分への絶望に呆然とする俺の髪を梳くと、土田陽介は優し気に微笑んで見せた。
「疲れてるんじゃない?ご飯食べようか」
 そう促されても言葉も出ない。頷く事すら出来なかった。どうしたのだろう。最近頭ばかり働かせていたからだろうか。土田陽介に対する罪悪感など更々感じない癖に、俺の頭は自分自身への絶望で支配されていた。

 その日はそのまま手の混んだ夕飯を食べて、風呂に入り二人同じベッドに潜り込む。胸に顔を埋める土田陽介の細い身体を抱きながら、俺はゆらゆらと微睡んでいた。
「僕は、怖いよ」
 ふと耳に触った小さな声は心なしか震えている。静かに続きを待っていると、背中に回した腕に力がこもる。
「離れて行ってしまうのだろう?そして君は二度と──振り返らない」
 吐露された土田陽介の憂は半分当たりで半分ハズレ。俺は自分から離れるなんて愚かな事はしない。相手が離れて行くように仕組むだけ。二度と、追い掛ける気も失せるようにね。俺は今迄の人生の中で相手をフった事は一度も無い。進むか、戻るか。それを相手に選ばせる。自分の決断に責任を持たせる為に。そして俺と過ごした短い時間は、悪夢だったと思わせる為に。
 追わないで欲しい。俺の人生に、他人が波を立てないで欲しい。それが大人になった俺のたった一つの願いだ。人生と言う憂鬱なゲームの中で常に敗者でいる事。それが常に勝者でいる秘訣。こんな人生幸せなのかと哀れまれ、寂しい男だと蔑まれ、同情と言う名の優越感に浸る愚かな人間を、裏側で唯ぼんやりと見詰める。俺の歩む人生とはそう言う物だ。
 やはり下らない哲学を引っ提げて、信念に囚われて、雁字搦めの社会の中で泳ぐよりも、鼻水垂らして駆けずり回っていたガキの頃がやはり俺は人生の中で一番の幸せな時だったと感じてしまう。それも年を取ったからなのだろうか。
 深い思慮の波間に漂っていると、腕の中から再び掠れた声が耳に届いた。
「もしも、この関係が終わっても……君の心に僕は居られるのかな?」
 寝たフリをして、俺はその答えを教えてはやらなかった。それは無理だと言ってしまえば、何もかもが終わってしまうから。
 例えば俺の心に爪痕を残すには、其れ相応の対価がいるのかも知れない。その恐ろしい対価を支払う勇気の無い人間は尻尾を巻いて逃げて行く。それが真っ当な人間の心理だ。誰でも命は惜しい。血を分けた子供でさえ、親が捨ててしまう世の中だ。赤の他人に命を掛けるバカが何処にいる。だからこそ、あの人は今も俺の心の滲となり稀に心の水面に波紋を呼ぶ。
 真っ直ぐに、俺を想った男の遺した爪痕は、酷く、陰鬱な足枷だ。

 明け方近くに眠る男を残し、俺はマンションを後にした。そのままタクシーに揺られ流れる景色を眺める。
 やがて辿り着いたマンションの扉を抜けると真新しい建物の匂いに嗚咽が漏れ、俺は慌てて口を抑えたもののそれ以上進めずその場に座り込んでしまった。想像以上の身体の不調が憂鬱を更に重くさせる。気力だけで立ち上がろうにも冷や汗が止まらない。キツく目を閉じても世界がグラグラと揺れる。幸い早朝と言う事もあり人が通らないのが救いだ。
 しばらく蹲って落ち着く迄待つと、五分位で漸く立ち上がる事が出来た。フラつく足取りでエレベーターに乗り込み、再び襲う重力に押し潰されそうになりながらもやっとの思いで自宅のある階に辿り着いた。
 広い玄関を抜けてリビングに出ると、ソファでは山室が険しい顔で眠り込んでいる。純平に当てがった部屋を覗くと、手の掛かる居候もちゃんと眠っていた。穏やかな寝顔を確認して再びリビングに戻り、山室の対面のソファに深く腰を沈める。なんだか、酷く疲れた気がする。静寂が支配する真っ新な部屋で一人、重い瞼を閉じた。

 夢を見た。秋が近づくとよく、見る夢だ。耳を裂く銃声と、鼻を突く硝煙の匂い。それに混じる生臭い血の匂い。真っ赤に染まった白いソファが、絶命した男を優しく抱いている。今迄動いていた人間が、突然動く事を止めた瞬間。それは余りにも不自然だった。
 義理に人情。そんな下らない感情に揺さぶられ命を賭すなんて、俺には理解が出来なかった。俺を殺せと言う上の命令なら黙って従えば良い。元より何の脈絡もなく生きている人間だ。何処で何時死のうが大して変わらない。この世にしがみ付く気もなければ、あんたみたいに夢なんか無かった。会長の命令も、俺の命も両方守るなんて不器用な癖に図々しい。
 温もりが消えて行く人間を目の前にして湧き上がったものは、冷ややかな侮蔑。血に塗れ乱れた男の黒髪を掻き上げて、俺は一人笑っていた。
 涙さえ忘れた自分が酷く、虚しくなった瞬間だった。

 黒々と塗り固められた悪夢から目が覚めると、独特の薬品の匂いが鼻を突く。自宅の物ではない白い天井を見ながら俺は一瞬自分が死んだのかと思った。そんな幻想も、耳に響いた渋い声で打ち砕かれる。
「おはようございます」
「……ここは?」
 枕元の椅子に腰を下ろしていた山室が未だ事態が飲み込めず辺りに視線を這わす俺に呆れた溜息を吐いた。
「過労に栄養失調。胃潰瘍はあと一歩だったそうですよ。良く平気な顔で歩いていましたね。あんたは化物だよ」
 山室の口から語られた症状が、自分の事だとはまるで思えなかった。
 呆然とする俺に向けて再び呆れた視線が向けられる。
「何を信じられないみたいな顔してるんですか。飯も食わないで珈琲ばっかり飲んでたら誰だって胃位荒れますよ。それに純平が来てからロクに寝てないんじゃないですか?」
 確かに、純平が来てからは満足に眠る事も出来なくなっていた。あいつは一人じゃ眠れない。ずっと側にいた母親が急にいなくなったからか、度々俺の部屋を訪れる。お陰で毎日ロクな睡眠も取れなかったのは事実だ。だがまさか病院に担ぎ込まれる程とは思ってもみなかった。
 読み掛けの本を閉じた山室が、まるで子供に言い聞かせるようにぼんやりと考え込む俺に言葉を掛けた。
「将生さん。これを機に少し休みましょう。あんたは何でも一人で抱え過ぎなんですよ」
 窓から差し込む真夏の太陽が、まるで後光のように男の広い肩を光らせる。
「……俺は慎太郎とは少し違ってね。あんたを心底憎めないんですよ」
 あまりにお人好し過ぎて、思わず湧き上がる笑いを抑え切れなかった。バカな男。確かにお前のその底無しの愛情深さで救えた人はいた。
「雪のように、俺も変われると思った?」
 だが俺は違う。冷ややかな笑みに、山室は俄に眉を顰めた。
「俺は揺れない」
 例え、何があったとしても。俺の為に、誰が命迄賭したとしても。
「将生さん、あんた──」
 そこ迄言うと背後で病室の扉が開く音が響き、山室は目を見開いてその一点を見詰めている。俺が振り向くより先に、薄く開いた唇が、その名を呟いた。
「……冬弥?」
 その名前に俺も一瞬思わず息が止まり掛けた。しかし直ぐに湧き上がったのは、これを仕組んだであろう人物への怒りだ。俺の居場所を知っていて、かつこんなお節介を焼くバカは一人しか思い付かない。
「山室さあ、ちゃんと躾してない訳?」
 俺の八つ当たりの矛先は、何時でもこの男。だが俺と後ろの人物の間で交互に視線を走らせながら、最早山室に何時もの冷静さは無かった。
 深い溜息を一つ吐き出してから俺は扉の前で佇む人物に漸く視線を向ける。汚れた作業着に身を包み、つぶらな瞳に微かに涙を溜めて俺を見詰める青年。俺が個人的な目的の為に利用して無情に捨てた──腹違いの弟だ。
 少し、背が伸びただろうか。顔付きも幼さが抜けた。見詰め合う時間だけが、まるで落ちる事を止めた砂時計の様に張り詰めた静寂を作り出す。楽しんでやっても良いが、生憎今日は機嫌が悪い。
「部屋を間違えたのかな?」
 得意の嫌味な程のビジネススマイルを向けると、その言葉が余りにもショックだったのか、冬弥の瞳から涙が一筋頬を滑り落ちる。山室さえも背後で一瞬小さな衝撃の声を漏らした。だが知らない筈は無いだろう?俺はこう言う人間だ。泣いたって喚いたって、変わる事は無いんだよ。何より堅気の仕事に就いたのならこんなヤクザ者に関わるメリットなんかない。下らない幻想は早く捨てれば良かったものを、バカな奴。
「白井さん、俺……」
 そう小さく呟くと冬弥はゆっくりとベッドに向かい足を踏み出した。最初の一言で引かなかった事に些か感心しつつ、口の中で舌打ちを噛み殺す。面倒な事になった。身体の不調もあいまってか、靄の掛かった様に頭が働かない。
 その隙に枕元に辿り着いた冬弥は、黙ったまま俺を見下ろす。その瞳の奥底で揺れているのは、深い深い怒りのように感じた。下手な事を言って納得してくれる様子も無いし、俺も少しだけ腹を括りそんな冬弥に微笑み掛ける。
「ごめんごめん。悪ふざけが過ぎたね」
 単純な俺の弟は、その言葉に少しだけ安堵の表情を浮かべた。だがそんなヌカ喜び等一瞬の事。
「ここにいるって雪に聞いたの?」
 冬弥は慌てて首を横に振る。その態度でバレバレだ。相変わらず分かり易い奴。
「あのバカ……!」
 そこでようやく我に帰った山室は、吐き捨てる様にそう言って慌てて病室を飛び出して行った。大方電話でお説教でもするつもりなんだろう。ご苦労な事だ。
 二人きりの病室は相変わらず重苦しい空気が流れる。そんな沈黙が耐え切れなくなったのか、冬弥は伺う様に口を開いた。
「……大丈夫ですか?」
「そう見えるのなら、大丈夫なんじゃない?そんな事が聞きたくてわざわざ来たの?」
 余りにも突き放した物言いに、薄い唇が噛み締められ、整えられた眉の間に小さく皺が浮かぶ。怯みそうになる気持ちを必死で隠しながら、冬弥はキツく拳を握り締めた。
「……忘れたかった。あんたの事も、全部」
 弱々しい声が微かに耳に届く。怒りと悔しさ。そして何処か悲しみを帯びた瞳は、不思議と揺るがない強さがある。
「でも、忘れられなかった。起きてる時も、寝てる時も、ずっとずっと……あんたの事ばっか考えてた」
 バカだね。忘れてしまわなければいけなかったのに。忘れてしまえば、楽になれたのに。
 そっと手を伸ばし、少し痛んだ黒髪に指を通す。さらりと指を抜けて行く音が静かな病室に微かに響く。だが土田陽介のように惚ける事もなく、冬弥の黒い瞳は相変わらず唯俺を見据えていた。
「冬弥」
 それでも名前を呼べば、微かに表情が切なく歪む。心の奥底から湧き上がる笑いを俺はゆっくりと噛み殺した。今でも俺を想っているなら、そんな甘えた幻想を踏み潰すのが俺の役目だ。
「だから、何?何時迄も過去に縋ってみっともない。どう足掻こうとも君と俺の時間は終わったんだよ」
 我ながら最低の台詞も、滑る様に口をつく。泣くかと思ったが、最初に流した涙以外、その頬を濡らす事はなかった。握り締めた拳を解いて、冬弥の冷たい手が頬を滑る俺の指を絡め取る。
「だったら……もう一度始めても良いんですか?」
 一瞬、不覚にも思考が止まった。何の為に?何の意味がある。
「傷付く事が分かっていながら進むなんて、愚かだとは思わない?」
「愚かでも良いよ」
 さっき迄の弱々しさ等微塵も見せず、冬弥は迷い無く言い切った。つい深い溜息が唇から漏れ出て行く。全く面倒だ。だがどうしても引かないと言うのなら、こちらにも手が無い訳じゃない。枕元のスタンドに置かれていた財布から適当なレシートを取り出して、俺はその裏に自宅の住所を記した。
「覚悟があるならここにおいで」
 もう一度始めて、そして今度こそ、君を縛っていたチンケな未練なんて断ち切ってあげる。

 レシートを握り締め、病室を後にする背中を見送って、俺はゆっくりと瞼を閉じた。目を閉じてしまえば何処も同じ。どんな高いスイートルームも、高層マンションの一室も、ボロアパートの牢獄も。隙間風さえ忍び込めない、がらんどうだ。
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