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『Underground wolF』
覚悟
しおりを挟む夏のしつこい太陽もビルの隙間に顔を隠し、赤い月が闇夜を照らす。慎太郎の運転する車から降りた俺達が足を踏み入れたのは、地上四十六階建ての高層マンション。磨き上げられた自動ドアを潜り抜ければ広がる、真新しいエントランス。光沢のある大理石の床に天井の上品なダウンライトが映り込み、まるで光の道を歩いているようだ。
俺の少し後ろを歩く青年は、この光景が珍しいのか口を開けたままキョロキョロと当たりを見回している。
「冬弥。恥ずかしいからやめなさい」
静かなエントランスに響いた声に、縮こまった身体がビクリと跳ねる。俺の事が好きなのか怖いのかよく分からない奴だ。
「安心しなさい。今日は雪も山室もいるし、慎太郎もいる。獲って食ったりはしないよ」
ああ、純平もいたか。冬弥には教えていないけど、まあ大丈夫だろう。大体俺が気にする事でもない。
俺の言葉に耳まで真赤に染め、立ち尽くしてしまった冬弥を他所に、俺と慎太郎はエレベーターホールに立った。最近のエレベーターは静かなもので、音も無く地上に舞い降りた箱が口を開く。
「冬弥、おいて行くよ?」
慌てて走り込んだ冬弥の背後で閉まった扉が四十三階迄開く事はない。無言の空間を保ったまま扉が開くと薄暗い照明に浮かび上がる廊下の先にある重厚な扉が我が家の玄関。
「ただいま」
扉を開けて声を掛けると、廊下の先のリビングからバタバタと走り寄る音が聞こえた。靴を脱ぎ終えた時、騒々しい足音の主に遠慮も無く飛び付かれ、思わずよろけてしまった。どんなに細身で其処までタッパがある訳じゃないと言っても、純平は十六歳だ。
「将生おかえり!」
本当に嬉しいのか、瞳を輝かせて俺を見上げる少年は、何時でも子供のようだ。あの夜見せた重い殺意などまるで覚えていないかのような……何だか変な感じだ。
ふと俺を見詰めていた視線が後ろに移る。
「……誰?」
その視線の先を追うと、顔面蒼白の冬弥が口をパクパクと動かしている。
「かっ、かっ、隠し子!」
「じゃないよ?」
思考が貧困と言うかなんと言うか。首に巻き付いた腕を解いて、小さな身体を相変わらず驚きに瞳を見開いている冬弥に向き合わせた。
「この子は夏木純平。言ってみればあの頃の君と同じ、ただの居候だよ」
冬弥の表情が俄に悲しく歪む。〝ただの居候〟その言い回しが態とだと気付けない頭の弱い弟は、余計に傷付いたのだろう。
「純平、この人は冬弥と言ってね。昔君みたいに一緒に住んでた事があったんだ」
純平は特に興味はないようで、追求する事もしなかった。変な空気のまま四人でリビングに足を運ぶと、山室と雪が揃って驚いた顔を見せた。
「……冬弥?お前、何で」
そう呟いたのは雪だった。何でって、引き合わせ様としたのは自分の癖に。よく分からない奴だ。
「何処かの誰かさんが余計な事したお陰で冬弥は朝からずっと俺の後を尾行ていてね。どうせなら夕飯でも一緒にどうかと思って」
気性の荒い雪がその愚行に深い溜息を吐くと、 項垂れる冬弥にお得意の蹴りを入れた。
「何やってんだよこのバカ!」
「すみません……」
更に縮こまってしまった青年を山室が宥める様子は何だか笑える。
「取り敢えず冬弥も楽にしててよ。適当に作るから」
冬弥は遠慮もせずにソファで寛ぐ三人の隣にちょこんと腰を下ろし、未だ俯きがちに視線を泳がせていた。片や純平はこんなにも大勢の俺以外の人間に囲まれるのが怖いのか、キッチンに立つ俺の側を離れようとしない。
「どうしたの?嫌なら部屋に行ってなさい」
邪魔だから──とまでは言わないが、普通の人間なら構ってやりたくなる程のいじらしい姿も、俺にとっては鬱陶しい事この上ない。純平はそんな俺の心根を知ってか知らずか、小さく首を振ってサロンエプロンの紐を握り締めた。もう好きにすればいい。面倒だから構わない事に決めて、俺は久しぶりに作る二人以上の料理に集中する事にした。
そもそもこの面子が俺の家で一緒に飯を食うなんて初めてである。ビジネス上の付き合いしか持って来なかった俺達が今更何故こんな事をしてるのかと言えば、山室が提案して来たのだ。何か狙いがあっての事だと思うが、皆目見当もつかないし、興味もないから二つ返事で承諾した。今更山室が何を画策しようと、何かが変わる事はない。俺にはその自信がある。
そんな事を考えながら手を進める俺を尻目に、三人は聞き捨てならない会話を楽しんでいた。
「しかし冬弥さん何でまたあんな男に惚れたんです?知ってるでしょ?あの人は血も涙も無い鬼ですよ?悪意の塊。諸悪の根元!腹黒さ天下一品!まかり間違って男に惚れるにしても、俺はあの人よりは隆司さんみたいな人の方が良いと思いますよ?」
酷い言われようだがどれも否定はしない。だがそれに大きく反応したのは、盲目的に山室を想う雪だった。
「おいバカ猿。隆司さんは俺のだ」
「例えだよ黙れ性悪糞野郎」
「大体将生さんと隆司さんを比べるなんて失礼だろ!」
仲が良いのか悪いのか。今にも掴み合いそうな二人を止めたのは当然見た目は一番気性の荒そうな男だ。
「……お前らそう言うのは本人の前で言うもんじゃねえよ。第一冬弥がそうと決めたんだから今更俺らがとやかく言う事じゃあねえ」
優等生の答えに雪と慎太郎は揃って感銘の溜息を漏らした。
「聞きましたか冬弥さん。良い男ってのは、隆司さんの事を言うんですよ?将生さんは確かに顔は良いし金は持ってるけど、他人の気持ちは考えない。自分の利益のみを追い求める根っからのエゴイストですよ」
やはりバカそうに見えて慎太郎はよく見ている。思わず漏れた笑いに、ソファに腰を下ろしていた三人が揃って俺に視線を向けた。
「確かに俺は誰がどう見ても山室みたいなお優しい博愛主義者じゃないね」
軽い嫌味に険しい顔が更に強張る様も可笑しかった。
「……言わんこっちゃない。何時も火の粉被るのは俺だ」
ブチる山室を宥めた雪は呆れた様に溜息を吐くと、未だ俯いたままの冬弥に向けて言葉を掛けた。
「まあ、冬弥はこう見えて純粋だし猪突猛進タイプだからね。俺達が何言っても無駄無駄。早く未練さえ残してもらえない位手酷く捨てられれば良いよ。慰めてやるから当たって砕け散ってこい」
「雪さん……」
冬弥が情けない声で雪に泣き付いた所でようやく夕食が出来上がった。
その日は何枚かの大皿に料理を乗せて大人数で手を伸ばす様な一般家庭で良くある適当な物。初めて囲む六人の夕飯は、変な感じだ。雪と慎太郎の喧嘩じみた会話を聞きながら、時折山室や俺が茶々を入れる。そんな珍しく穏やかな時間だった。
賑やかな夕食を終え、食後の一服をしていた慎太郎は、突然思い出した様に目の前のローテーブルに拳を落とした。
「腹立つ!」
一瞬誰もが何の事かと唖然とする中、震える拳を突き立てたまま、誰に言うでも無く慎太郎は言葉を繋いだ。
「顔も良い金もある料理も上手い!そのツケが性格に回って来てるにしても腹立つ!」
とことん失礼な奴だ。性格以外は其処らの男よりレベルが高いのは自覚してるにしても、こうあからさまに言われると何とも嫌な気分になる。
「諦めろ。将生さんは性格がこの上無く最低な事でバランス取ってんだから」
そう慰める雪の言葉も刺々し過ぎる。
何だって山室はこんな巫山戯た食事会なんか開いたんだ。その意図が未だ図り兼ねて楽し気に雪を見詰める男に視線を投げると、勘の良い山室は直ぐに俺の方を横目で見やった。この男には余りにも似付かわしく無い全人類への慈愛に満ちた瞳は、何時見ても腹が立つ。そんな苛立ちが通じたのか、山室は徐に腰を上げた。
「さて、そろそろお暇しよう。また将生さんに倒れられたんじゃ堪らねえよ」
気付けば二十二時を回っている。捻くれ者の雪も、変に頭が回って扱い辛い慎太郎も、まるで親鴨に付き纏う小鴨の様に山室の後に習った。唯一まご付いているのは、冬弥ただ一人。夕飯時もあまり口を開かず俺と目も合わせなかった。
俯いたままぼんやり考え事でもしてるのか。俺はそんな純情を嘲笑うかのように耳元に唇を寄せる。
「昼間の続きがしたい?」
途端耳まで真赤にした冬弥が慌ててソファから立ち上がった。
「違うっ……!」
「早く行かないと帰れないよ?」
先程とは打って変わった俺の態度に冬弥はキツく唇を噛み締めた。
「……ここに、いますか?」
「……は?」
突然の言葉に思わず聞き返した俺に、冬弥は真っ直ぐな瞳を向けた。
「もう突然、いなくならない?」
何故ここ迄俺に執着するのか。そんな疑問が一瞬湧き上がったものの、直ぐに自分の中で納得の行く答えは出た。
そもそも俺は知っていた筈だ。親に捨てられ、誰からも愛されず見向きもされなかったこの青年が、ずっと心の奥底に孤独を飼っていた事。だからこそ、俺のような人間にさえこれ程迄に固執してしまう事も。愛を知らぬ兎は、盲目的に手の届かぬ愛情を求める。大人になり成長を遂げたとしても、それは心の奥底に根深く腰を下ろしているものだ。
少し痛んだ髪に指を通す。
「俺は同じ事は繰り返さない主義だ。待っているよ。ここで」
薄い涙の膜が黒目がちの瞳を輝かせた。小さく頷くと、先に玄関に向かった雪と慎太郎を追って、冬弥は逃げる様に走り去った。その様子を眺めていた山室は、憐れみにも似た瞳を俺に向けた。
「……悪い男だよあんたは」
「最高の褒め言葉だ」
口元だけで笑みを作った俺に一瞥くれると、山室もマンションを去って行った。
残された純平が待ち兼ねたように飛び付く。柔らかい髪を撫でてやると嬉しそうに鼻先を擦り付ける様は、宛ら犬だ。
「勉強はどうだった?」
今日は純平の家庭教師初日。その感想を聞いただけなのに、純平の幸せそうだった顔が一気に曇った。
「あの人嫌い。すぐバカって言うんだもん」
その絵面が簡単に想像出来て思わず笑ってしまった。
「それがあの子の魅力だよ」
「……魅力?」
「そう。あの子はあんな見た目で口を開けば傲慢で高飛車。そのギャップが堪らないって人は多かったね」
何より雪は普段人を見下した態度を取っている癖に、いざ抱いてみれば余りにも儚い仔猫に化ける。縋る様に甘い声を上げて、切な気に瞳を濡らす。その三段落ちのギャップに男はコロリとやられてしまうのだ。あれ程迄完璧な男娼は未だ嘗ていなかった。それももう山室の物だと思うと俺ですら嫉妬を覚える程だ。
「将生、僕の魅力は何?」
その声に視線を向けると、純平は余りにも真っ直ぐな瞳を俺に向けていた。
「……真っ白な所」
そう囁いて額に小さく唇を落とす。君の魅力はね、純平。穢してしまいたくなる程に、純白な所だよ。
「真っ白……」
噛み締める様に復唱すると、純平の綺麗な瞳が俺を見上げ、愛おし気に細められた。
「将生は僕の事好き?」
純平の求める好きとは何だ。親子の間で紡がれて行く永遠の愛情?それとも一時の熱に魘された、下らない情愛?どちらにしても俺がこの少年に感じる感情があるとすればただ一つ。その恵まれた美貌を上手く使って、良い商売道具になってくれと言う期待だけだ。
細い顎を持ち上げ、甘く濡れた薄い色の瞳に映る己の顔は、何時見ても冷たい物だった。
「さあ、どうだろうね」
意地の悪い答えを与え、再び額に優しい口付けを落とす。照れて胸に顔を埋めた純平の髪を撫でながら、俺は一人頭を巡らせた。
君には使命がある。俺に肩代わりさせた借金を返すという使命が。その為に知らなければならない。歪んだ親子愛の末の欲情では無く、愚かな恋愛と言う物の生み出す、純粋な劣情を。上手く化ければきっと純平は雪をも越える男娼になるだろう。その素質は十分にある。甘えた仔犬の様な面をして腕の中に潜り込み、鋭く研いだ牙を剥く狂暴な狼。その二面性を利用しない手は無い。
そんな腹黒い打算を抱え眠りに落ちた次の日は、赤坂の主催するパーティーのある日だった。午前の仕事を終え、一度家に戻り入院前に届いた招待状に目を通しながら紺地に細いストライプのスーツに腕を通す。正直に言うと全く面倒だ。政治資金集めのパーティーなんか品性を疑う輩が数多く参列するし、俺のような人間は金を置いて行けば満足される。望まれた通り金だけ置いてさっさと帰るか。そうとも思ったが、社会人としてこう言う努力も必要である。何より赤坂は手放すには惜しい人財だ。
しかしながら自然と漏れた溜息は、思いの外大きな物だった。こんな事ではいけないと喝を入れ直し自室から出ると、山室と交代で純平の面倒を見る事になった慎太郎は、逃げ惑う少年に向けて憎々し気に舌打ちをかましていた。
「じゃあ慎太郎、後よろしくね」
それだけ言って俺は自宅を後にした。
呼び付けておいたタクシーに乗り込み某有名ホテルの名を告げて、シートに深く身を沈める。ふと目を向けた不夜城の空を、重い暗雲が覆う。……雨が降りそうだ。
「痛っ……」
不意に鈍痛が頭を襲った。脳が締め付けられる様な痛みに思わず頭を抱える俺を、運転手がミラー越しに見やった。
「お客さん、大丈夫ですか?」
気を使ってくれた運転手に答える事も無く、車はやがてパーティーが開催されるホテルの前で止まった。
場内は案の定、学生や中小企業の社長レベルの連中が我先にと目当ての料理にがっついている。その様はあまり美しい物ではない。隅の方に身を置いた俺は来賓の挨拶をぼんやりと聞きながら、上層部の人間と軽く挨拶を交わすだけ。挙句好奇の目に晒され、品性の無い自意識過剰な女が近寄って来るのを軽くあしらいながら、俺は適当に退屈な時間を潰した。
結局このパーティーの主役は愛想を振りまくのに大忙しで、軽い会話を交わしただけ。俺は年増女の目の保養としてパーティーに出席したようなものだ。そう言う類の客が帰らなかった事もあり、この手のパーティーにしては大勢が終わり迄留まってはいた。もう若くも無いし、こう言う扱いは御免蒙りたいものである。
そうこうしている内に、二時間と言う長い長い苦行は終わった。手渡された連絡先の数々をゴミ箱に捨て、ホテルを出た所で俺の足は唐突に止まった。闇夜の中、煌々と灯る街頭の下に一人の男が立っていたからだ。日本人にしては恵まれすぎた長身の山室に見慣れている俺ですら驚く程、大男と呼ぶに相応しいガタイ。黒いスーツに黒髪のオールバックと言うスタンダードな出で立ちも何と無く様になる。
「シライマサキで間違いないな?」
違和感を覚えるイントネーションで俺の名を言い当てた男は、値踏みするように視線を這わせた。
「……ええ」
「ご同行願えるかな?」
一応伺いを立てつつも、有無を言わさぬ強い意志を感じて、俺は抵抗する事無く男が開いた車の扉へと足を進めた。こう言う時に舎弟の一人でも側に置いておけばとも思う。だがそれも後の祭り。それにこの男が何者であるか見当が付かない訳じゃない。先ずもって詰め込まれた車がメルセデスのSクラスの時点で、日本のヤクザではない事も明白だ。変に抵抗したとして、この大男と力で渡り合えるとは思えないし、撒けるとも思えない。ここは素直に応じる方が得策だ。
俺の隣に大男が乗り込み車は静かに発車したのも束の間、せっかちなのか、男は直ぐに本題へと入った。
「ハンザワの行方を教えて欲しい」
やはりな、と言う思いを心の中で噛み殺し、俺は小さく微笑んで見せた。この男は福建マフィアの人間だ。それも、かなり出来る。
「……さあ。知りませんね」
そんな俺の笑みに、男も柔らかい笑みを返した。
「隠し立てしてもタメにはなりませんよ」
撫で付けられた黒髪が、街のネオンを映し色を持つ。
「……あんな半端者の行方を何故俺が把握してなきゃいけないんです?」
「連絡を取っていましたよね?」
男は俺の言葉を半ば食って言い放つ。正直、そこ迄調べていた事に驚いた。だが俺にこの男への後ろ暗さなど微塵もない。
「胡散臭い中華街の投資の件でしたら、とっくに話しは付いている筈ですよ?」
二年程前、冬弥の育ての父親である半沢武志と言う男をハメて福建マフィアの持ち込んだ投資話しに乗らせたのは事実だ。港区に中華街を作る為に五千万投資しないかと言う、何とも稚拙な詐欺。半沢武志が頭の弱い男である事と、俺が適当に後付けした嘘の旨い話しのお陰で奴はまんまと乗ったのだ。五千万なんてチンピラが稼げる金では無いが、俺のポケットマネーから出した五千万を半沢武志の手に届く様に仕組み、紆余曲折あった結果俺はその形として冬弥を買った。俺と冬弥の実の父親を陥れる為に。
実際その五千万は父親から口止め料として頂いた大金で穴埋めしたお陰でこちらに痛手はない。それはあのチンピラが知る所ではないし、そもそもその五千万は山室組の金だと言う事になっている。命を賭して投資した筈が、それが真赤な嘘であった事に腹を立てた半沢武志が福建マフィアに喧嘩を売って、東京から逃げる所迄は世話を焼いた。それ以降は知らない。そもそも手助けをしたのも、ウロつかれて下手な事を言われたのでは堪った物では無いからで、半沢武志と福建マフィア間のいざこざなど俺の知った事では無いし、俺が関わってると知れたら組長だって黙ってはいない。そんな危ない橋を渡る気は毛頭ない。
だがそんな裏事情など知らず、半沢武志と俺の繋がりを信じているらしいこの男に、それは通用しなかったようだ。
「マサキさん。私達も手荒な真似はしたくない。日本の警察は優秀だ。ですがこちらに手がない訳ではない。私達は貴方よりは──自由に動けるのですよ?」
ニコリと微笑んだ男の瞳に光は無く、紛う事も無い裏社会の人間が放つ殺気は真っ直ぐに俺へと向けられていた。だがそんな物で怯む程、残念ながら俺は普通の人間ではない。
「あんな小者のケツを追う理由は何です?」
それ処か相手の狙いを隠しもせず探ろうとする俺の態度に、男は呆れたようなジェスチャーをして見せた。
「まだ立場が分からないようだ。貴方に質問する権利は無い」
穏やかに話しつつ、懐から取り出した黒い物体。暗くて良くは見えなかったが、脇腹に押し当てられた硬い感触は、十中八九銃口であろう。
「もう一度聞きます。ハンザワは何処にいる」
今度は思わず俺の口から溜息が漏れる。
「知りませんね。一年前迄連絡を取っていたのは事実だ。それはもう調べが付いているのでしょう?それ以降記録が出ないのであればそれが事実。俺は自分の身は死ぬ気で守る質なんですよ。劉……秀蓮さんだったかな?」
その名に、男の瞳が微かに揺らいだ。勘で言い放ったこの男の正体はどうやら当たりだった様だ。勘と言っても、日本に出入りしている名の知れた大物はそうそう多くはないし、外れようのない勘だが。
「……成る程。私の名迄ご存知だとは驚きだ。噂通り頭のキレる方の様ですね。手荒な真似をして申し訳ない。私は日本のマフィアと争う気はないのですよ。手を取り合い、真っ当なビジネスをしたい」
人の良さそうな微笑みに俺は乾いた笑を返す。
「ご存知でしょう?山室晋三は国外に金が流れ出る事を酷く嫌います。手を出さぬ方が身の為だ。いくら抑えられていると言えど、みすみすこの国を明け渡す程落ちぶれてはいませんよ」
全面戦争も辞さないと言うのは何も俺の独断ではない。暴対法のお陰で今や日本のヤクザの立場は脅かされているのは事実。其処に付け込んで成り上がるチャイニーズマフィアや、他国の組織を面白く思っていないのは俺だけでは無い。
だが男は何を思ったか、敵意を隠さない俺の頬をスルリと撫で上げた。
「この美貌に加えその聡明さ。……期待以上だ。貴方が益々欲しくなりましたよ」
その言葉に再び俺の中で合点が行った。半沢武志の件でこんな事迄するとは思っていなかったが、本当の狙いはそっちだったようだ。
「生憎俺は愛国心の強い方でね。残念ながら組を離れる気はない。それに、二度と裏切る事はしないと誓ってしまったのでね」
頬を滑る手に指を絡め、指先に小さくキスを落とす。我ながらキザな行為に、男は熱い溜息を漏らした。
「……またお会いしたい。マサキさん」
「機会があれば」
生憎そんな機会は二度と持つ気は無いが、嘘吐きは俺の性分だ。
突然車が停車してふと窓の外に視線を向けると、驚く事に俺の住むマンションの前だった。住所迄調べ上げているとは恐れ入った。とんでもない輩に好かれてしまったもんだ。劉は名残惜しそうに俺の手を離すと、その巨体に似合わぬ流れる様な優雅な動作で車を降りる。その後に続き俺も車から降りると、突然男の唇が頬に小さく落とされた。完全な不意打ちになす術も無く呆然とする俺に向けて、劉は柔らかい笑みを向けた。
「晩安、可愛い狼さん」
返事を待たず黒塗りのメルセデスが走り去る。その姿が完全に見えなくなった途端、背筋を悪寒が駆け抜けた。
そもそも男だろうが女だろうが大差は無いと思ってはいる。だが生憎抱かれるのは死んでも嫌だ。かと言って自分より遥かに体格の良いゴツい大男を抱く趣味もない。想像もしたくない。嫌だ嫌だと頭を振って踵を返すと、俺の視線に人影が映る。……そう、例えば抱くにしても、この位可愛げが無くては。
「おかえり、冬弥」
その言葉に、冬弥は堪らず涙を零した。
悪い男だ。そう自分でも笑ってしまう。腕の中に飛び込んだ青年の身体を抱き締めながら、俺は一人、金色の月を見上げ微笑んだ。
君のしたその覚悟は一体、何の意味があるんだろうね。
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