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『Underground wolF』
レッツスパイ活動
しおりを挟む夜の校舎に二限目終了を告げるチャイムが鳴る。騒つく教室内を抜け出し、俺は何時ものように結城さんと肩を並べ非常階段へと出た。喫煙者は休み時間の一服をここで過ごす。その為に狭い非常階段は人で溢れ、白い煙が目に染みる程だ。それから逃れるように、俺と結城さんは上へ上へと登った。
ようやく人も薄い上段まで辿り着くと、俺達は揃って煙草に火を付けた。深く肺に吸い込んだ紫煙を吐き出した結城さんが、纏わり付く生温い湿気に淀む夜空を見上げる。
「あー仕事も夏休みないかなあ。半沢も無いだろ?」
「俺は学生だからって親方が長めの休みくれるらしいよ」
「え、何だそれ羨ましい!」
俺の働く町工場は親方と奥さん、後は長男で回していた会社。襖や障子の張替え、後はリフォームの手伝いとかをするのだけど小さい会社だから結構好きにさせてくれている。何より最近では襖も障子も使ってる家が少ないから、仕事量が増えていかないのだ。片や結城さんは親父さんの会社に入ったらしくて、雇われの俺とは立場が違うのだろう。人を回して、段取りを組んで、俺より年上とはいえ、若いのに凄いと何時も感心してしまう。
下の方から聞こえる若者の笑い声をバックで聞きながら、俺達は何時ものようにぼんやりと穏やかなひと時を過ごして居た。そして漸く吸い終わろうかと言う頃、結城さんは思い出したように夜空から俺へと視線を移した。
「そう言えば半沢、例の話しどうなったの?」
唐突過ぎてまるでピンとこない。
「例の話し?」
思わず聞き返すと結城さんは辺りを伺う様に一つ声を落とした。
「ヤクザ屋さん」
「ああ……」
強張る結城さんの顔を見ながら、自分でも驚く程素っ気ない声が漏れる。
「住所教えて貰ったんだけどやっぱり勇気出なくて。取り敢えず夏休み入ったらにしようかなって。何かあって学校来れなくなったら困るし」
自らそう言ってゾッとした。何かって何だ。何があっても文句は言えない状況に自ら足を突っ込んだことが今更ながらに恐ろしくなった。
「まあ、そうだよな。無責任だけど応援してるよ」
「……ありがとう」
白井さんを知る誰もが反対するのに、何も知らない人は応援してくれる。何だか変な感じだ。
二人並んで教室に戻りながらも結城さんは終始小難しい顔をしていた。
「しかし本当に大丈夫かー?今度こそ売られちまったら笑い話にもならないだろ」
「だよね」
茶化して笑う俺の頬を結城さんが軽く叩き、ぺちんと間の抜けた音が響く。笑い事では無い事は分かってるけど、真面目に考えれば考える程恐ろしくなってしまう。
賑わう廊下を俺達は黙り込んだまま歩く。2-Aと書かれた教室の前まで来ると結城さんは不意に俯く俺に向けて小さく笑い掛けた。
「司もさ、一応あんなんでも心配はしてるのよ。お前どっか抜けてるからさ」
抜けている──そんなつもりは毛頭無いんだけど。扉を開けて教室に足を踏み入れると騒々しい教室の隅っこで突っ伏して眠る榎木さん。その黒い頭を見詰めながら不覚にも泣きたくなった。
俺には心配してくれる人がいる。雪さんも、山室さんもそうだけど、それとは何だか少し違った感情。雪さんにも山室さんにも感謝はしてる。大切だし、あの二人の事は大好きだ。でも表の社会を歩む〝友達〟は、何だか酷く優しい物に感じられた。少しだけ前に進む事が出来るかもしれない。そんな気がした。
三限目のチャイムが響き渡り、他の生徒達も慌ただしく席に付いて行く。余りにもけたたましい始業ベルに榎木さんは不機嫌そうな顔で徐に眠りから覚めた。その何気無い何時もの光景さえ何だか輝かしい物に見えた。
そんな英語の授業が始まりしばらく。真面目に授業を受ける俺の肩が突然叩かれた。
「なあ半沢。住所分かるんだろ?一回見に行こうぜ!」
「……はあ?」
「影からこっそり様子見るんだよ!その人が半沢を幸せにしてくれるか俺達が見極めてやるから!」
俺達って事は榎木さんもって事か?いや、そんな事よりも何を訳の分からない事を言ってるんだ。まずもってあの人が俺を幸せにしてくれる筈がない。
俺が止めようとした瞬間、怠そうにその様子を見ていた榎木さんがこれまた怠そうに口を開いた。
「やめなって翔太。どうせ相手見たいだけでしょ」
「バレた?」
結城さんは悪びれる様子もない。そんな無邪気な結城さんに一瞥くれた後、榎木さんは徐に俺に向き直った。
「でもさ、半沢も一度離れて見て見た方が良いんじゃない?思い出って美化される物だし。一歩引いて見たらそんなに好きでも無かったって事もあるよ?」
そう言う物なんだろうか。俺は白井さんとの思い出を美化してるだけ?確かにあの頃は飯も喉を通らない位だった。だけどそれは父親の事もあったりして──。
色々な事を思い出してみたが、一人でぐるぐると考え込んでも埒が明かない気がして、俺は小さく頷いた。
「うん……」
それを合図に結城さんが嬉しそうにパチンと指を鳴らした。小気味良い音に一瞬何人かの生徒が振り返る。
「そうと決まれば明後日決行!日曜だけど一度位外出るだろ!」
そんな好奇の視線をモノともせずに、結城さんが高らかにそう宣言した。一緒に住んでいた頃、確か火曜は休みの様な雰囲気はあったが、日曜も忙しく朝からスーツを着込んで出掛けて行っていたのを思い出す。
「……日曜も仕事してた気がする」
その言葉を聞いた結城さんの表情が、無駄に輝いた。
「榎木隊長朗報です!」
「よし、では日曜の朝六時に駅前集合。必要な道具は各自考えて揃える事」
「サー!」
榎木さんまでノリノリだ。
「……そのノリ何なの?」
ボヤいた俺の事なんか眼中になく、二人は明後日必要な物を楽し気にリストアップしていた。
そして決行日。俺達は三人、早朝六時に予定通り地元の駅で落ち合った。特に決めて無いのに皆示し合わせた様にこの真夏に黒い服装に身を包んでいて、逆に目立つんでは無いかと心配になってしまった。榎木さんはバーが終わってそのまま来てくれたらしい。眠くて機嫌が悪いかと思いきや案外元気で、持ち寄った用途不明の道具を結城さんと確認し合っている。
完全に寝起きの気怠さを引き摺ったままぼんやり二人を見詰めていると、結城さんがずいと目の前にこれまた黒い物体を押し付けた。
「半沢は顔が割れてるからサングラスしとけ。あと帽子も」
「えー……余計目立つよ」
「そこはお前の技量次第だろ?」
……そう言う問題か?とも思ったけど、余りにも結城さんの顔が真剣で、仕方がなしに手渡されたサングラスとキャップを被る。目指すは白井さんの住む、俺達三人には縁遠いセレブの街。
教えられた住所は昔住んでいた所とあまり変わらなかった。相変わらず東京タワーの見える一等地。天高く聳え立つ銀色の巨塔は、早朝の太陽にキラキラと煌めいていた。マンションの前を走る弧を描いた車道の向かい、低い植え込みの後ろに陣取ると、余りの驚きに二人は口を開けたまま揃って天辺を見上げた。
「……ここ?」
「……やっぱヤクザって儲かるんだな」
「……取り敢えずご飯食べる?」
ノリノリだった筈の二人は余りのマンションのデカさに意気消沈したらしく、コンビニで調達した朝御飯を無言で口に運んだ。
それからしばらく。八時を少し回った頃に一台の黒塗りのセダンがマンションの前に滑り込む。フルスモークのその車は、見覚えのある物だ。ここに来て自分の心臓が大きく脈打ち緊張の糸が張り詰めて行く。その中で蘇る白井さんの指先の熱は、思いの外甘く胸を刺激した。やっぱり俺はどんなに突き離され傷付いたとしても、あの人に惹かれているんだ。本当バカだな。
「おー、渋いね」
突然結城さんが上げた感銘の声がそんな俺を現実に引き戻した。
「……あれ、迎えの車。」
「隊員一同持ち場につけ!」
持ち場が何処か分からないが、慌てて身を屈めた二人に習って俺も植え込みに身を隠す。ふと隣を見ると何時の間にか榎木さんの手には双眼鏡が握られていた。
「……榎木さん、肉眼で全然見えるよ」
「半沢、こう言うのはね、楽しんだ者勝ちだよ」
榎木さんはそう言って不適な笑みを浮かべた。他人事だと思って……。
「あ、誰か出て来た」
その声に再び視線を戻すと、車から降りて来たのは慎太郎さんに山室さん、そして──。
「……雪さん?」
何で雪さんがここに?軽くパニックになってる隙に次いで白井さんが立派な入口から姿を現した。
相変わらず遠目で見る立ち姿も秀麗だ。知的で品があって、何処か危うい色気の漂う大人の男。学校にもその辺にも類を見ないあの人の雰囲気は、何時でも俺の心を震わせる。一瞬でもあの人の目に写っていた時があった。あの人が偽りの愛を俺の耳元で囁いた。胸を抉る様に切なくて、それでも縋り付いていた程に大切な思い出。相変わらずスカした微笑みを浮かべる嫌味な程整った顔を見詰めているだけなのに、気を抜けば泣いてしまいそうだ。手を伸ばせば届くこの距離は、予想以上にキツい。
「榎木隊長!日本イケメンサミットでも開催してるんですかね!正統派にワイルド系に美人系!各種の代表が勢揃いです!」
「そのようだね結城隊員。眩しくて目の裏が痛いよ。直視すると網膜がやられるから注意せよ」
隣で聞こえたヒソヒソ声はそんな俺のセンチメンタルな甘い疼きなど一瞬で吹き飛ばした。
それにしてもそのイケメンサミットとやらから完全に除外されてる慎太郎さんが不憫だ。確かにあの三人の中にいたのでは見劣りはしてしまうが、慎太郎さんだって中の上位には位置するだろうに。そんな事を考えながら息を飲んで見詰める先で四人は何やら話し込んでいた。
「で、どれ?」
ふと我に返ったのか、結城さんが声を落として俺に問い掛ける。何といえば良いんだろう。
「中位の人……」
あの三人を大中小で言うと白井さんは中位だ。我ながら良い例えな気がする。しかし俺の想い人を知ってか、双眼鏡を覗き込んでいた榎木さんは不謹慎な溜息を漏らした。
「俺は今半沢が思いの外身の程知らずな事に驚いているよ」
「酷い!」
思わず叫んだ俺に向けて、二人が揃って口元に人差し指を立てる。慌てて口を手で押さえマンションの入り口を見たが、どうやらギリギリ聞こえていなかった様で三人揃ってホッと胸を撫で下ろした。相変わらず四人は車の外で話し込んでいて、時折マンションから出てくる住民に白井さんが愛想良く会釈をしている。呆然とその変わらぬ様子を眺めていたら結城さんはポツリと呟いた。
「司の言う通りだろ。ありゃ一般人にはレベルが高すぎる」
それは重々承知だけど、こうして離れてみると本当に住む世界が違う気がして来た。
「まあ、あれだけ顔が良い男は何処か欠陥があるだろうね」
次いで囁かれた榎木さんの言葉も納得出来る。
「……にしてもこうして見ると普通の人だな。ヤクザなんて上行けば行く程社会に紛れてわからないもんなんだろうな」
そう呟いた結城さんは、若い頃湘南の方のデカい暴走族に入ってたとか。俺も白井さんに会う前迄のヤクザの印象は、自分の父親のような絵に書いたチンピラか、暴走族のケツ持ちレベルだった。仮に結婚した相手がヤクザ者だったとして、ちょっとは不審な所があっても確固たる証拠も無く、言われなければ分からないだろう。そして真実が明かされるのは、事が起きてから。それは想像以上に恐ろしい事なのではないだろうか。
同じ事を考えていたのか、三人揃って身震いした所で向こうに何やら動きがあった。どうやら話しが付いて出発するようだ。山室さんが後部座席の扉を開けて白井さんが車に乗り込んだ。どう言う訳か山室さんと雪さんは車に乗り込む気配はない。そして更におかしな事に慎太郎さんは何やら小難しい顔で雪さんに耳打ちしている。あの二人は仲が悪かった筈なんだけど。
ぼんやりそんな事を考えていた俺の脇では結城さんが何やら慌てていた。
「隊長!目標に動きあり!」
「車か……隊員一同移動開始!」
また変なスイッチが入ったのか、植え込みに沿って身を屈めたまま移動を始めた二人の後を俺も取り敢えず追い掛けてみる。この変なノリもこれで終わりかとホッとしたのも束の間、大通り迄出た結城さんは徐にタクシーを止めた。素早く乗り込む二人を見ながら唖然とする俺に結城さんは慌てた様子で声を荒げた。
「半沢!早く!」
本来の流され易い性質が災いして慌てて車に乗り込むと、白井さんの車が丁度大通りに出て来た所だった。
「あの黒いセダンを追ってください!」
「えぇっ!?」
そこ迄するか?慌てて降りようとしたものの、自動扉は無情にも閉まってしまってビクともしない。
「運転手さん、バレない様に二台位間隔あけて下さい」
暴れる俺を制しながら、榎木さんが言い放つと、運転手が強く頷く。意外に人見知り大国日本にはノリの良い人間が多いのだろうか。
「……いや!ちょっとまずいって!」
そう言う問題じゃない。あの人は正真正銘の本職だ。尾行なんてバレたらそれこそ俺達は訳のわからない所に拉致監禁されて、挙句拷問に掛けられて、爪なんか剥がされてそれから──完全にドラマや映画の恐ろしいワンシーンを想像して震えていた俺に向けて、結城さんは助手席から真剣な眼差しを向けた。
「腹括れ半沢。ここまで来たらやるしかないんだよ」
「……結城さん」
……いや、一瞬呑まれそうになったものの、何を?そんな疑問など当然解消される訳も無く。俺達を乗せたタクシーは、一路黒塗りの車を追い掛けた。
それからしばらく走り続けた車はようやく一軒のアパート前で止まった。赤錆の浮いたボロアパートの前には、似つかわしく無い小綺麗な服を来た女性が立っていた。
「……女だ」
「……女だな」
女性を乗せた車は再び走り出す。少し距離をあけて俺達もその後を追った。
そしてまたしばらく走り続けた車は都内の高級ホテルの前で止まった。あの人は会社に登録してる人だと確信した俺とは対象的に、二人は俄に騒ついている。
「昼間っからホテルにシケ込むとはとんだ猿だな」
「半沢、NGだ」
二人の勝手な妄想に俺は慌てて否定の言葉を投げる。
「ちっ違うって!きっと顔合わせだよ……」
「顔合わせ?」
しかし何と言ったら良いのか分からずに俺はもごもごと口籠ってしまった。取り敢えずメーターも上がるし、俺達はそこで一度タクシーを降りた。……タクシー代?当然俺持ちだ。いや、不服じゃないけど、何と無く煮え切らない。
白井さんがホテルに姿を消してしばらくしてから、慎太郎さんは車で何処かへと消えて行った。顔合わせが長引くと言う事だろうか。分からないが取り敢えずホシはホテルの中だ。俺達はホテルの前のちょっとした広場にあるオープンカフェで時間を潰す事にした。ジリジリと照り付ける真夏の太陽に焼かれ、気分はまるで金網の上の魚。何時も汗一つかいてるイメージの無い榎木さんの額にも薄っすらと汗の珠が浮かんでいる。俺達は学校でする様な下らない会話を楽しみながら、冷えた珈琲を飲んで白井さんを待った。
二時間位経っただろうか。流石に熱中症で倒れそうだと話していると、黒塗りのセダンよりも早く白井さんの姿がホテルのエントランスに現れた。女性は……いない。代わりに慎太郎さんが何故か車の走り去った方角から歩いて登場した。
「……どこ行くんだろう」
「取り敢えず行くぞ!」
惚けていた俺は素早く立ち上がった二人に促されるまま走り出す。
白井さんと慎太郎さんは、どうやらここから程近いオフィス街の方へと向かっている様だ。漸く追い付き一定の距離を取って尾行を続けていると、榎木さんは徐に口を開いた。
「尾行の基本は靴を見て歩く。靴を見てれば目が合う事も無いし、一定の距離を保てるからね」
俺と結城さんは揃ってほうと感銘の声を漏らした。言われた通り白井さんの靴を見詰めて歩く。しかし人通りが少ない訳では無い歩道で靴を見るのは一苦労だ。白井さんも慎太郎さんも、群衆から頭一つ飛び出ているから思わず後頭部を見ていたい衝動に駆られる。
悶々と尾行を続けていたものの、二人が突然立ち止まり、俺達も慌てて立話をしている風を装う。そこでふと気になった事が思わず口をついた。
「……所で榎木さん何でそんなに尾行について詳しいの?」
もしかして尾行の前科があるのだろうか。わくわくしながら返答を待っていると、榎木さんはなんて事は無い様な顔でしれっとその訳を言い放った。
「漫画で勉強した」
「……なるほど」
これには結城さんもガッカリしたのか、再び歩き出した二人の後を俺達は無言のまま追った。
「でもさ、その漫画だと失敗するんだよね」
「……え?」
聞き捨てならない発言に思わず結城さんとハモった瞬間、白井さんの姿は古いビルの中に消えた。ふと気付けば大分人通りも少ない道に入り込んでいて、俺達は一気に肝を冷やした。
「……どうする?」
「……取り敢えず通過してみる?絶対中見るなよ」
「うん……」
ゴクリと生唾を呑み込んで、俺達は重い足をゆっくりと踏み出す。なるべく平常心を保とうとしたものの、当然無言。若い頃良くやった度胸試しを思い出す。バクバクと脈打つ心臓の鼓動すら煩いほどに耳元で響く。
そんな張り詰めた緊張の中、ビルの入り口が段々と視界の隅で通り過ぎたが、其処に人の影は見受けられなかった。無意識に三人揃って安堵の溜息を漏らした。正にその時だった──。
「お遊びはもう良いかな?冬弥」
ビルの入り口、丁度死角の柱にもたれ、腕組みをして俺を見詰めていたのは、言わずもがな。白井さんだった。
「ひいっ!」
思わず情けない声を上げた俺に、白井さんは不敵な笑みを浮かべた。
「そんな尾行で俺に気付かれないとでも思った?」
「思って、ない……です」
完全に怯え切った俺の反応があまり面白く無かったのか、一つ息を吐き出すと白井さんは立ち尽くすクラスメイトに視線を投げた。
「こちらは?」
「……学校の友達」
それが意外だったのか何なのか。白井さんは一瞬驚いた顔で俺を見た後、直ぐにあの頃と変わらぬ悩殺スマイルを二人に向けた。二人に何かするとは思えないけど、何かしないと決まった訳ではない。だがこの状況で何が出来る訳でも無い。オロオロする俺を放ったまま、白井さんは思い掛けない事を口にした。
「初めまして。弟が何時もお世話になってます」
……え?
「……弟?」
「おい半沢!どう言う事だよ!」
当然榎木さんも結城さんも大混乱だ。俺と白井さんの間で視線を泳がせながらも二人は変に慌てて答えを求めた。だけど俺だって混乱してる。白井さんの弟だなんて、俺も事実なのか分かってないのに──。
「……すいませんでした。きょ、今日は帰ります!」
取り敢えずこの場は逃げるが勝ちだ。そう思って踵を返したものの、白井さんの長い腕がその進行を止めた。
「何言ってるの?せっかくだし、久しぶりに今夜夕飯でも一緒にどう?それとも用事があるの?」
恐る恐る振り向いた俺の目には、柔らかい笑みを浮かべる白井さんの端正な顔が映る。だがこの微笑みは怒った時に良く向けられていた物だ。頭の中は最早真っ白で、パニック状態。俺にだけ分かるであろう冷ややかな視線に当てられて、情けなく開いた唇が震えた。
「……ない、けど」
それを聞いて漸く手を離した白井さんが再び二人に視線を戻す。
「今日は冬弥を借りても良いかな?」
「は、はい。どうぞ」
硬直する榎木さんの代わりに結城さんが吃りながらも答えてくれた。どうぞじゃないけど、仕方が無いのも分かる。
「ありがとう。これからも冬弥の事よろしくね」
ニコリと微笑まれた二人は、素早く頭を下げて逃げる様に走り去って行った。残されたのは、死ぬ程の気まずさと、震える程の不安だけだ。ああ、俺は何て愚かな事をしてしまったのだろう。
「何をしていたの?」
思いの外近くで聞こえた声に反射的に身体がビクリと竦み上がった。呆然と二人が走り去った方を見詰めていた俺の耳元で抑揚の無い声が小さく囁いた言葉は、不思議とこの世の何より恐ろしい物の様な気がした。完全に固まる俺はなす術も無く手を引かれ、道から完全に死角の柱に押さえ付けられてしまった。ぴったりと密着した身体が纏わり付く真夏の熱気よりも熱く胸を締め付け、顔を隠していた最早無意味なサングラスが取られ、薄茶色の世界がクリアになる。直視出来ない程に整った顔立ちは相変わらず冷たさを覚える程で、切れ長の瞳に映る冷えた怒りに背筋が凍った。脳内スパーク状態の俺の自由は、思考もろとも奪われた。
「答えてよ、冬弥。何で俺を尾行たりしたの?」
思わず俯いた俺の顎をしなやかな長い指先が掬い上げる。
「聞いてる?」
「ちがっ……!ごめんなさい!」
「……違う?マンションの前で待ち伏せして、タクシー迄使って、挙句こんな所迄のこのこ付いて来て、何が違うの?これを尾行と言わず他の言い方があるなら教えてよ」
ああ、白井さんだ。変わらぬこの人の責め方に何だか変な感動が湧き上がった。焦がれた男が本当にここにいる。俺に触れ、俺に向けて怒りを覚えてる。不謹慎な喜びに震える心が憎たらしい程に胸を高鳴らせていた。
ここで一つ言っておこう。俺は断じてマゾヒストと言う類いの人種ではない。これはただこの男に惹かれてしまったが為の、不本意な感動である。
心の中でそんな自己弁解を図っていると、白井さんはふと小さく笑った。
「ねえ、冬弥。ここが何処だか知ってる?」
知る訳がないし考えたくも無い。ブンブンと首を振ろうにも顎を固定されていて、それも上手い事いかなかった。
「山室組系の暴力団……東会の事務所だよ」
やっぱりそっち系だったのかと納得しつつ、自分達の取った軽率な行動に思わずゾッとした。
「俺の正体を知っててこんな事するなんてね。君がそんなバカだとは思って無かったよ」
呆れ果てた溜息を漏らした白井さんの顔を見ていられなくて、思わず目を伏せる。そう、俺はバカだ。誰もが口を揃えてやめておけと言う男に焦がれ、我を失いこんな事迄して。
「……それだけ、あんたに会いたかったんだよ」
半ばヤケになって吐き捨てた告白めいた言葉は、この男の心を微塵も動かす事はない。ただ真っ直ぐ、見下ろされるだけ。こんなにも冷たい眼をした人間を俺は未だ嘗て見た事がない。この人は何処で捻じ曲がってしまったのだろう。何時、心を捨ててしまったのだろう。可哀想な人だ。
そんな感傷に浸る俺の髪に指を通すと、白井さんは口元だけで笑みを作った。
「……思い知らなきゃ分からないみたいだね」
「え?」
考える隙も与えず髪を弄っていた指先が腰元からするりと服の中へと滑り込む。
「まっ、やだっ!こ、こんな所で……!」
節操がないとか言うレベルじゃない。ここが人通りが少なくて死角にいると言ってもいつ誰が気付くか分かったもんじゃない。
だが俺の非力な抵抗など物ともせずに白井さんのしなやかな指が掠めるより強くベタつく肌を撫で上げる。耳に吹き込まれた熱い吐息に思わず息を詰めた時だった。
「……どうした?大声上げて助けを呼べよ。痴漢です、変態ですって言えよ。日本人はそんなに薄情じゃないよ?君が泣いて喚いて誰かがくれば、俺は捕まって万事解決だ」
乾いた笑と共に吐き捨てられた言葉は、不覚にも俺の心に深い波紋を呼んだ。
どうして?何で近寄る者をこんな風に突き放すんだ。そして突き放す癖に、判断はこっちに任せる。本当に、ズルい男だ。
「……呼ばないなら、良いんだね?」
その言葉を合図に優しく唇が塞がれる。自分の口から漏れる吐息が、無意識に甘い淫を引き摺り出して行く。もどかしく身体の線を辿る指先が、燻る欲情を一層に煽った。溺れ掛けた俺の脳裏に、不意にいつか雪さんに言われた言葉が過って行った。
将生さんに抱かれたなら、お前も直ぐに嵌る。抜け出せない快楽の泥沼に──。
そんな訳ないと思っていたのに、俺はまんまとその言葉通りになった。この男と離れてから、白井さんの指先を思い出して何度己の欲を吐き出して来たか分からない。健全な男子たる物に何も反応出来なくなって、かつて与えられた痛みにもにた鋭い快感を身体が欲する様になってしまっていた。だが抱き方は乱暴な癖に、白井さんの前戯は甘ったるくて、終わった後も放って置かれた記憶がない。何時も汚れた俺の身体を丁寧に拭い〝愛してる〟と、囁いてくれる。それは嘘だと悟られない程に、心を込めた言葉。心のあるセックスだった。だからこそ俺はこの男の手中に落ちた。
ああ──胸が痛む。ギュッと硬く閉じた瞼の上に優しい口付けを落とされ、不覚にも熱い涙が頬を伝った。一瞬動きを止めた白井さんは、涙の跡を辿る様に指を這わせ、再び俺の唇を塞いだ。
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しかし突然、白昼堂々絡み合う俺達の背後で硝子張りの扉が開く音が響く。当然俺は我に帰り、ビクリと身体が竦み上がった。
「お待たせしまし……ええっ!?何してんすかこのケダモノ!」
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少し膝を屈め目線を合わせた慎太郎さんにそう諭されて、思わず溜息が漏れた。
フランクで調子が良くて、あの四人の中じゃ一番頭の悪そうな慎太郎さんにもバレていたのか。学生の拙いスパイ活動など、本職の前では子供のママゴトの延長だったと言う訳だ。
「……すみません」
小さく頭を下げた俺の頭に大きな手がポンと置かれる。
「行こうか冬弥」
「……え?」
何の事だと顔を上げると、アホ面の俺に向けて白井さんはにっこりと笑い掛けた。
「夕飯迄付き合ってもらうよ」
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