Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

問い掛け

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「──ではまた。ご苦労様です」
 税理士との長い電話を切って漸く一息。冷め切った珈琲を口元に運ぶ。ふと窓の外に視線を向けると、この大都会に落ちた夜の闇の中を無数の光が揺れている。既に時計の針が二十時を指していた。昼食の後から閉じ籠っていた自室から漸く出て来た俺を迎えたものは、今にも泣き出しそうな顔をした居候。
「ごめん純平。夕飯にしようか」
 退院してから再び立ち止まれない毎日が始まった。慌ただしく過ぎて行く時間の中では、俺を追った冬弥の事すら忘れてしまう。このマンションに帰った最初のうちは直ぐに来るのかとも思っていたが、一週間過ぎた辺りから俺はもう来ないものだと決め付けた。浅はかな雪の企みも頓挫したお陰で、苛立ちも次第に収束して行った。何より忙しければ余計な事を考える暇も無い。
 パントリーに残っていた食材で適当に作った夕飯の和風パスタは、我ながら良く出来ている。キッチンに立っている間中熱い視線を俺に送り続けていた純平の前に白い陶器の皿を差し出し俺も席に着く。
「いただきます」
 何時ものように揃って囲む食卓は食器が当たる音だけが虚しく響く。
 寂しい部屋とはよく言ったものだ。部屋はよくよく自分の心を投影すると言うけれど、俺の家は本当に何も無い。生活感、温かみ、思い出や未来。捨て去ったその全てを今更取り戻そうとは思わないけれど、こんなクソガキに寂しい人間だと言われるのも無理も無い。
 ふと目の前に視線を向けると純平は最初の一口を食べた後、汚い持ち方で箸を握り締めたままぼんやりとしていた。
「どうしたの?美味しくなかった?残しても良いよ」
 別に純平が空腹で苦しもうと俺の知った事ではない。
「……料理って、皆上手くなれるの?」
「さあ、知らない。どうして?」
 俺の問い掛けに、幼さの残る端正な顔が嬉しそうに綻んだ。
「僕も美味しいご飯将生に作ってあげたい!」
 無邪気なその笑顔に思わず溜息が漏れた。まだ自分の立場が分からないのかこのクソガキは。
「……純平。直ぐにとは言わないけど、一人で生きて行く事を考え始めなさい。人生はそんなに甘くないよ」
 早く金を返してとっとと出て行ってくれ。しかしその為にはこの精神年齢をどうにかしなくては。見た目はどうにかなったとしても、字もロクに読み書き出来ず、箸もまともに持てない様じゃ年齢を誤魔化す事さえ出来ない。山積みの問題が頭を重くする。
 思わず頭を抱えた俺に向けて、目の前の厄介者がポツリと言葉を漏らした。
「どうしてそんな風に突き放すの?」
 少し潤んだハニーブラウンの瞳が、ダウンライトの光を映し出す。
「……どうしてって?」
「人は一人じゃ生きられないんだよ?」
 真っ直ぐな瞳が語り掛けるのは、余りにも幼い思想。思うのならば勝手だ。だがそれを他人に押し付ける権利は誰にも無い。
 腕を伸ばし少し癖のある髪に指を潜らせると、純平は微笑む俺を不思議そうに見詰めた。
「群れをなして生きる本能を持つ人間は、その孤独に慣れていないだけだ。一人でも生きる事は出来る。それがどれだけ苦痛な人生だか知っているからそうしないだけなんだよ」
 俺はそれが何一つ苦痛ではないからこの道を選んだだけだ。この恵まれた時代、恵まれた国に生きる人々にとっては余りにも理解し難い生き方だとは分かっている。だがそれを理解して欲しいと思った事は無い。
 黙り込んだ純平の髪から手を離し、食べ終えた食器を持って立ち上がる。
「もう食べない?片すよ?」
 慌てて首を振ると、純平は掻き込むように残りを口に運んだ。純平を待たず流しに食器を置いてその様子をカウンターキッチンから眺めながら煙草に火を付ける。細く吐き出した紫煙が換気扇に吸い込まれて消えた。思わず漏れた溜息が、肺に微かに残っていた煙さえ残さず攫って行った。

 一本を存分に味わい尽くした頃、ようやく食べ終えた純平はキッチンに空の皿を持って走り寄る。流しに突っ込んで直ぐ俺に抱き付こうとする小さな身体を止めると、不思議そうな顔が俺を見上げた。
「ご馳走様でしたは?純平いただきますも言わないよね」
 純平にしてみたら余りに想定外の問い掛けだったのか、ただでさえ大きな二重瞼が驚きに見開かれる。
「……変なの」
 何がと問うた俺に向けて、純平は何故か少し怪訝な顔を向けた。
「変なの!」
「……だから何が?」
 何がそんなに引っ掛かるのか俺には到底理解も出来ない。
「どうして将生はいただきますとご馳走様言うの?一人で生きてるんでしょ?だったら何で?誰に言うの?」
 質問の多さに眩暈すら起こしそうだ。クソガキの癖に変な所を突っ込んで来る。全く面倒臭い。
「早く風呂に入って寝なさい」
 縋り付こうとする純平を軽く払い、俺は再び自室へと引きこもった。
 パソコンを立ち上げ残りの仕事を片付けに掛かる。キーボードを叩く無機質な音と、パソコンのファンの音だけが微かに耳を掠めるだけ。その空間は、集中するにはもってこいだ。こうなってしまえば純平がリビングで嫌がらせのように爆音でテレビを見ようが、駄々をこねようが無視出来る。

 その日も何時もの如く激しい構ってアピールが止んで暫く。仕事の時にだけ掛ける眼鏡を外し時計を見ると既に二十三時を回っていた。大きく伸びをして凝り固まった身体を解しながらふと窓の外に視線を向けると、曇り無いガラスの向こうで光の群れの中一際眩い電波灯。その姿を目にする度に思い知らされる。そして不意に揺らぎそうになる日も、繋ぎ止めてくれた。
 心を捨てなければ、敵だらけのこの裏社会を生きてはいけない。愛情を信じて何になる。誰かに心を寄せて何になる。自分がひねたエゴイストである事は自覚している。極悪の利己主義者。それで良い。俺は、誰にも愛されない人間でいたい。
 痛む頭を抱え、俺はそのままベッドに潜り込んだ。やっと眠気が押し寄せたのは、それから二時間は経っていただろうか。どんなに疲れていても寝付きが悪いのは純平が来るより前からの癖みたいな物だ。重い微睡が寄せては引く波のように思考を攫って行く。悪夢に魘される人種以外、それは至福の時だろうと思う。

 俺もその日は何も頭には無く、ただの穏やかな眠りに落ちる事が出来そうだった。しかしそんな穏やかな時をぶち壊し、今日もまた息を潜め布団に潜り込んだのは、どんなに突き放しても甘え癖の抜けない居候。背中に押し付けられた小さな額は、どこか申し訳なさそうでいて、それでも微かに感じる人の温もりを離すまいと言う根深い歪みがありありと感じ取れた。筋肉の形を確かめるように細い指先が背筋をなぞって行く。
「純平、お願いだから部屋に入って来ないでくれる?」
 普段は寝たフリを決め込んでいる俺が突然声を発したからか、背中越しに緊張が伝わった。それでも直ぐに純平はこれ幸いと細い腕でキツく抱き付いて来る。せっかく眠れそうだったのに台無しだ。身を捩って純平に向き合う様に寝返りを打つと、薄闇の中で潤んだ瞳がぶつかった。
 黙っていれば男女問わず誰もが放っておかないだろう。思わず見惚れてしまう程の顔立ちに加え、純平は純粋で真っ白だ。まるで無垢な子供。だがその純情は、踏み躙って穢してしまいたくなる様な残虐性を煽る。
「やだ」
 細い声が酷く震えて耳に届く。俺の良心に訴えたとしても無駄な事位そろそろ分かって欲しい物だ。
「寝れないんだよ。また入院して欲しい訳?」
「じゃあ本読んで?」
 半ば食って言われ思わず溜息が漏れた。
「……人の話し聞いてる?寝たいの」
「だってお母さんは寝る前に何時も本読んでくれたよ?」
 お母さんお母さん煩い奴だ。
「君の読むような絵本は置いてないよ。戻りなさい」
 少し強めに吐き捨てると、何を思ったのか純平は俺の唇に人差し指をゆっくりと這わせた。
「じゃあ、キスしてくれる?」
 正直、ゾッとした。純平の真っ白な色気もそうだが、それよりも秘められていなければならない筈のとある黒い影が脳裏にチラチラと顔を覗かせる。唇で遊ぶ指先をゆっくりと制し、俺は恐る恐るその影の正体を問い掛けた。
「……お母さんは何時もそうしていたの?」
「うん、だから将生もして?」
 濡れた瞳は思い掛けず、大人びた淫を宿していた。
 純平の母親は、俺が思ったよりも罪深いのかもしれない。母親が純平に対して与えた愛情は、親子の垣根を飛び越えてしまっていたようだ。哀れな子供。そうは思っても、俺に救う事は出来ない。
「何度も言っているけれど、俺を君のお母さんと勘違いするのやめてくれる?もう良いから本当に戻りなさい」
 余りにも冷たい声から逃れる様に純平は胸に顔を埋めた。
「一緒に寝る」
 頑として動かない駄々っ子を前に思わず深い溜息が漏れた。
 歪んだ愛情は子供を狂わせる。男の替わり?死んだ夫の替わり?それとも他に何か、母親が純平を〝男〟として扱った理由が有るのだろうか。真っ直ぐに愛されたのなら、純平はどんな人間になったんだろう。
「……今日だけだよ」
 小さな頭を抱き寄せて、ゆっくりと瞼を閉じた。責任も持てない子供が子供を産んで、負の無限ループが始まる。その現実が遥遠い記憶を呼び起こし、真紅に染まった夢を俺に見せた。
 見上げた東京タワー。無邪気に笑う俺を見て、母は何を思ったのだろう。それが無性に知りたくなった。意味は、無いけれど。

 次の朝、カーテンの隙間から差し込む鋭い陽の光に重い瞼を開くと、純平は大人しく腕の中で眠っていた。まるで安心し切った寝顔が何とも腹立たしい。こっちはお陰で寝不足だ。起こさないようにベッドを抜け出してリビングに足を運び、洗濯を回しシャワーを浴びた後、簡単な朝食を作る傍ら見るともなしにテレビを付ける。そんな朝のひと時は毎日特に代わり映えはしない物だ。
 二人分の朝食を机に並べた所で自室に戻り、薄い布団に包まる小さな頭を軽く撫でる。柔らかい髪が指先を弱く擽った。
「純平、起きて。朝飯食べちゃって」
 寝起きが良い事だけは幸いで、純平は何時も一度起こせば直ぐにリビングに出て来てくれる。その後が問題なんだけど。
 今日は気分的に和食が食べたかったから、白米に味噌汁。後は小ぶりの焼魚。簡単ではあるが味は悪く無い。入院後食欲が戻った事もあって、ものの十五分で俺の皿は綺麗になった。片や純平は今日もゆっくりと箸を進めながら、時たま食後の珈琲を飲みながら朝のニュースに目を通す俺に視線を投げる。怒られようが詰られようが、構われる事に喜びを覚えるのだろう。俺はそんな純平の希望に応える事もなく、自室にこもり出勤の準備を始めた。
 スーツを着込み今日必要な書類をつめてリビングに戻ると、純平は今にも泣き出しそうな顔で俺を仰ぐ。
「頭痛い」
 恒例の仮病攻撃に、俺は冷たい視線を投げ掛ける。
「そう。今日から俺がいない間は山室か慎太郎に居てもらうから。具合が悪いなら看てもらいなさい」
「やだっ!」
 慌てて立ち上がった純平が腰元に飛び付く。他の誰でも無く、俺が良いなんて物好きな奴だ。舌打ちを噛み殺し、俺はそんないじらしい少年の髪に優しく指を通す。
「訳のわからないわがまま言わないでくれる?俺はね、何人もの生活と命を預かっているの。本来一円にもならない君に割く時間も無ければ君の為に使う時間も無い」
 それは何も大袈裟な話しではない。この会社に登録している人々は、闇金で作った莫大な借金を抱えた者が多い。それを返すアテが無くなれば首を括るか、売られるか。何も生身の人間だけが市場に出回る訳では無い。
 裏社会に足を踏み入れたら最後。崖っぷちから転落した人間に、選択肢など無い。人生とはそう言う物だ。
 そうこうしている内に携帯が鳴った。今日純平の面倒を見るのは山室らしい。慎太郎は運転手だし、最近は車を出す事も多いから今後も山室の方が純平を見る機会が増えるだろう。それに、雪にも家庭教師を頼んだし山室もその方が安心だろう。
 膝を折って視線を合わせると、純平は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「良い子に出来る?」
「うん……」
 嘘吐きの狼少年は甘えるように小さく頷いて見せた。従順で素直な良い子を見事に演じきる様は何時みても感心してしまう。だが俺が気付かないとでも思ったのだろうか。その瞳の奥底に姿を隠した、得体の知れないドス黒い陰りに。

 食器を洗い終わる頃、丁度山室は高層階にある我が家に到着した。
「おはようございます」
「おはよう。今日は二十一時には帰れる筈だから。よろしくね」
 山室が怖いのか、純平は慌ただしく準備をする俺の後ろをくっ付いて回っている。山室はそう言う相手に無闇に手を出す性格ではない。そう言う意味では多分、純平の面倒を見るのに適してるのは慎太郎より山室だ。まあ、結局俺が煩わなければ何でも良い。
 そんな事を考えながらも着々と準備を進め、後は出るだけとなって俺は漸く金魚のフンに向き直った。
「ちゃんと山室の言う事聞くんだよ?」
「うん……」
 その言葉を信じてはいないが、これ見よがしに頭を撫でてやると純平は嬉しそうに笑った。それを見届けてから、俺は傍らでその様子をぼんやりと見ていた山室を玄関に続く廊下まで呼んだ。
「多分だけど、純平は性的な虐待も受けて来た。ちゃんと見ていてやって。お前の大切な雪と同じ道を歩ませたく無ければね」
 最初は素直に聞いていたものの、最後の言葉で山室はあからさまに顔を顰めた。
「そんな嫌味言わなくてもちゃんと見ますよ」
「そう?なら良いけど。じゃあ後はよろしく」
 それだけ伝え、俺は足早に自宅を後にした。
 マンションの下では待ちぼうけを食らっていた慎太郎の不機嫌そうな顔が俺を迎える。
「おはようございます」
「おはよう」
 その短い会話だけで車は走り出す。今日は顔合わせが二件。後は会食が夕方から入っているだけだ。その日は純平の妨害も無く、順調に過ぎて行った。

 だがこの行動が純平の心にジワジワと暗い影を浮き上がらせたのだろう。それから三日後。俺に剥かれた牙は、余りにも衝撃的な物だった。
 捻じ曲がってしまった常識。異常な迄の執着心。それは今直さなければ年を重ねる毎に修正しずらい歪となって行く。純平は確実にその道へと足を運んでいた。

 特に問題もなく見えていた日々。一人ではなくなった純平がマンションを抜け出す事も無くて、それぞれが今迄通りに淡々と仕事をこなす。
 その日は猛暑日で、昼間外を出歩いたお陰か身体が大分疲れている事を自分でも感じていた。何よりやはり連日の寝不足が大きい。仕事から帰ったのが二十三時。俺と入れ代わりで山室は帰宅して行った。軽くシャワーだけ浴びて直ぐにベッドに身を投げると、珍しく即座に眠気が訪れた。
 そして深夜。何時ものように身体に触れる温もりに意識が浮上する。だがどう言う事か、珍しく純平は軽く触れるだけでなかなか布団には入っては来ない。気配だけが暗闇の中でジッと俺を見詰めていた。
 どれ位純平がそうしていたのか分からないが、体感では十分程度。その位に長く感じた不気味な静寂は、布の擦れる微かな音にさえ敏感に崩れ落ちた。身体の上に跨られた時は流石に目を開こうとも思ったが、俺はこの少年が何をしたいのか知ってからでも遅くは無いと呑気に構えていた。しかし次いで首筋に当てられた思いの外冷たい手から伝わる感情。それは紛れもない、殺意だった。
 だが軽く力を入れただけで、踏ん切りが付かないのか、殺し方を知らないのか。息が苦しくなる事さえない。出来る物ならやってみれば良い。俺はゆっくりと瞼を開き、暗く淀んだ光を放つ瞳に視線を合わせた。
「もっと強く締めないと、人は殺せないよ」
 静かな寝室に響いた声に、小さな身体がビクリと跳ね上がる。不思議なもので、純平はそれでも手は離さない。本気であるのと共に戸惑っているのだろう。首元に当てられた手に手を重ね、俺は出来るだけ優しく微笑んで見せた。
「体重を乗せて。気道を潰すんだよ」
 一瞬の戸惑いの後に、教えた通り、細い指が体重を乗せて深く首筋に食い込む。ゆっくりと締め上げられた気道が細く痛み始め、次第に身体中が酸素を求め微かに震え出した。だが俺は抗う事も無くそのまま静かに瞼を閉じた。その時、温かい何かが俺の頬を撫で落ちて行った。
 目を開くと純平の頬を青白い月光に照らされた一筋の線が光っていた。俺は美しいと素直に思っていた。それが涙だと気付くのに少し、時間が掛かる程に。何故こんな事をしたのか。その時に微かにだが分かった気がした。
 震える手を伸ばし、柔らかい髪に指を通す。可哀想な子供。それしか思う事は無い。
 不意に手の力が緩み、一気に冷房で冷やされた空気が熱い喉を駆け抜け肺へと吸い込まれて行く。大きく荒い呼吸を繰り返す俺を見下ろしていた純平は、細い声でポツリと呟いた。
「……どうして、抵抗しないの?」
 一度零れてしまえば後から後から涙が落ちる。それでもその瞳は、息を呑むほどに強い物だった。答えを言わない俺の首に手を当てたまま、純平は再び小さな唇を震わせた。
渥美あつみ君はお母さんの白い肌に爪を立てて、必死でのたうち回って、終いには白目を剥いて泡を吹いていたよ。それでも空気が欲しくてぱくぱく金魚みたいに唇を震わせてた。生きる事に必死にしがみ付いてたよ。……将生はどうして抵抗しないの?」
 渥美君とは殺された純平の同級生の事だろう。やはりその体験が、この幼子のような少年の心に深い傷を残していたようだ。
 ぼんやり靄の掛かった頭でその理由を考えてみたが、答えは簡単だ。
「……さあ、何でだろう」
 ようやく発した自分の声は、思いの外酷く掠れていた。
 何故抵抗しないのか。純平に教えてやらないのは何も意地悪ではない。俺はただ訪れる死を待って生きているだけ。何一つ無い心を持て余し、悪戯に生き永らえているにすぎない。こんな生き方がある事を、知って欲しくはなかった。何より罪を重ね平然とその上を歩んで来た俺の死に様はきっとこんな惨めな物なのだと思うのだ。だが誰かの手を汚し死ぬなんて、これもまた酷く罪深いのかも知れない。結局俺はこの色の無い人生をただ流れるままに生きて行くより他に──。
 何だろう。不思議な気分だ。その先に続く言葉は浮かばなかった。否、一瞬浮いた筈が、再び深い闇の奥底に沈んで行った。
 ふとそんな脳裏にあの遺書がチラついた。緩んだ手を解いて上体を起こすと、涙を溜めた瞳が不謹慎な程に輝いていた。
「……純平は何で遺書なんて書いたの?死ぬ気は無かったんでしょう?」
 俺の問い掛けに、白い頬を新たな涙が濡らした。
「僕は……お母さんがいなきゃ必要ないんだ」
 噛み締めるように吐き出した声は、涙のお陰で酷く震えていた。
 そもそも例の遺書が見付かったのは、俺が無理矢理押し付けられた純平を迎えに行った時だった。親戚が憎々しげに叩き付けた紙切れを俺は思わず拾ってしまい、それが遺書だったと言う訳だ。状況的に見て純平はどうやら狂言自殺を繰り返していたようだ。
 不安だったのだろう。自分の全てだった母親が突然消えてしまって、親戚には邪険に扱われ、おまけに借金取り。守られる事しか知らなかった丸裸の赤ん坊がいきなり戦地に送られたような物だ。不安に押し潰されそうな新しい人生に放り投げられ、そしてその先で純平は俺を母親代りにした。唯一、目を見て話してやったからだろう。頭を撫でてやって、飯を食わせてやる。それだけの事が純平にとってはやっと見付けた希望の光だった。その俺を殺そうとしたこの少年の心は、思うよりも無惨に引き裂かれている。この小さな頭の中では処理し切れない憎悪や怒り、悲哀や愛情が渦を巻いている。狂言と言いつつ、その願望が無かった訳では無いだろう。生きている限り死を知る事の出来ない人間は、死んでしまえば楽になれると信じているから。
「でもね、純平。自分で自分を殺してしまう事程悲しい事は無いんだよ」
 一見感傷的で俺らしくも無い言葉。故に俺は漠然と自分の口を無意識に漏れ出た言葉の意味を頭の中で回してみた。
 悲しい──本当にそうなのだろうか。回る頭の片隅で、真っ赤に染まった部屋が浮かび上がる。それは、命が消える瞬間を目の当たりにした日の光景だった。
 俺は米倉輝樹と言う男が自らの手で人生の幕を閉じた時に、とある本で読んだ〝自殺〟と〝自死〟の違いを俺なりに考えて見た事がある。何故そんな事を考えたのか自分でも良く分からないのだが。
 絶望に暮れ自ら命を絶つ事を自殺と言うのなら、人生に心の底から満足し、絶頂において命を絶つ事を著者は自死と言っていた。その著者は妻と子を残し、自死と言う選択をした。何も自死を選ぶ人間の気持ちが分からないでもない。俺でさえ、歪んでしまう前に人生を終えられていたらとありもしない幻想が浮かぶ事はある。だが結局、どちらも違いは無いと言う結論に至った。どちらも酷く自分勝手な幕引きだ。遺された人間は、受け入れるより他にもう、何も出来ないのだから。
「……お母さんに会いたい?」
 純平はしゃくり上げながら何度も頷いた。俺は震える小さな身体を抱き締めて、窓の外で夜景を彩る赤い光に視線を投げた。

 俺にも会いたい人がいる。聞きたい事がある。あなたは人生を、幸せに終わる事が出来ましたか?その答えが望む物では無かった時、俺は心の底から罵ってやりたい。そら見た事かと、蔑んでやりたい。馬鹿だ。頭が悪過ぎる。そう、何時ものように。またそんな可愛げの無い事を言って、と笑うその人を前に、俺は今度こそ涙を流せるのだろうか。一途に想ってくれていたあの人の死を、嘆いてやれるのだろうか。そんな愚問を繰り返す自分に思わず笑ってしまった。
 この問い掛けはもう、何処にも届きはしない。
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