Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

子兎の逡巡

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 事の始まりは、眠る街が漸く動き始めた早朝に掛かって来た一本の電話からだった。

「将生さん、倒れたって」
 寝ぼけた頭が一気に冴え渡り、心臓が大きく脈打ち始める。困惑する俺を他所に、電話の向こうの雪さんは小さく息を漏らした。
「……黙っててごめん。俺、居場所知ってた」
 驚きはしなかった。そうだろうとは予想してたから。
「どうする?冬弥」
 この後に及んで、その判断を雪さんは俺に託してくれた。迷わなかった訳じゃない。怖かったから。捨てられた身分で、疎ましく思われない筈はないから。それでもこれを逃したらきっと、二度とは会えない事も分かっていた。
「会いたい」
 寝起きの掠れた声は、それでも強い力を持っていた。
「……分かった」
 それだけ言って切られた電話の無機質な電子音を聞きながら、息だけが荒く胸を上下させていた。
 それからメールで教えられた病院に行って、俺は焦がれた人と再会を果たした。やっぱり突き放されて、それでも縋った俺に白井さんはチャンスをくれた。
 レシートの裏面。見惚れる程に綺麗な文字で書かれた住所を見詰め、何度目かの溜息を漏らす。ここに行ったら会える。もう一度始められる。だけど白井さんの言った覚悟が、俺にはまだ付かなかった。こんな時迄女々しい自分が心底嫌になる。

「ううぅ……!」
 思わず机に顔を埋め苛立ちにも似た鬱憤を発散した途端、隣から容赦の無い蹴りが飛んだ。
「うるさい」
 悩める俺に冷めた視線を向けるのは、クラスメイトの榎木司えのきつかささん。クールでシャレたバーテンダー。絶賛日本史の授業中である今、睡眠時間を剥奪され苛立っているらしい。俺としては知ったこっちゃないけど、取り敢えず頭を下げてみる。
 そんな俺達を楽し気に見詰めていた榎木さんの後ろの席の男が身を乗り出してしょぼくれる俺に屈託の無い笑顔を向けた。
「どうした半沢。悩みなら聞いてやらないでもないぞ?」
 ペンキ塗れの作業着を身に纏ったこの人は、結城翔太ゆうきしょうたさん。榎木さんと違って明るくて、社交的な人。キラキラ輝く野次馬根性が今日は一段と目に付く。
「……良い」
 人に言える事でもないし。俺の想う相手は男だし。でも濁して相談してみたら問題ないかもしれない。そうだ、女って事にすればバレる事は無いだろう。そう決意を固め勢い良く左に振り返る。
「司、夏休み海行かね?」
「やだ。暑い」
 しかし当の二人は間も無く訪れる夏休みに思いを馳せていて、俺の事なんかまるで忘れていた。俺は正しく空気と化している。
 榎木さんと結城さんはこの定時制高校二年生では唯一同い年と言う事もあって仲は良い。一年の時からクラスも同じだし。この学校に限らず、定時制に通う人間は色々な物を抱えて入学する事が多いからか、大体仲の良い人は離さない傾向にある。俺は二人とは二年で同じクラスになって、たまたま席が隣になっただけで、特に学校以外で会う事もないし、そりゃただのクラスメイトだけど……。
「……何?聞いて欲しいなら聞くよ?」
 悶々とそんな二人を眺めていた俺の視線に気付いた榎木さんが面倒臭そうに伺って来た。
「……良い」
 つい突っぱねると二人は再び夏休みの計画に思考を移す。
「じゃあ祭りは?」
「やだ。人混み嫌い」
「やっぱり聞いて!」
 思わず縋る俺を冷めた視線が見下ろす。
「何なの鬱陶しいんだけど」
 再びしょぼくれた俺の頭を、結城さんが優しく叩いてくれた。
「どうした?」
 その優しい言葉に俺は小さな脳味噌で話しを組み立てて行く。白井さんが女、白井さんが女と念じながら。
「この前さ、えーっと、ちょっと話したじゃん」
 そこでチラリと二人を伺うと、揃ってぽかんと口を開けていた。
「何だっけ」
 完全に忘れてやがる。少し前、俺はこの二人に軽く相談をした事があった。だけど授業中のほんと何気無い会話だったから、仕方ない。
 気を取り直し、俺は再び話しを再開した。
「未練が、どうとか……」
 もごもごと上手く喋れない事に苛立ったのか、普段表情を崩さない榎木さんの眉間に綺麗な皺が寄る。
「はっきりしなよ半沢」
「こら三バカトリオ。ちゃんと聞いてたかー?」
 そこで日本史の担当であり、担任である通称ガッキーの妨害が入り、話しは一時中断となった。
 そのままその日の授業を終え、教室が待ちに待った帰宅に沸き立つ中、榎木さんは席に付いたままのろのろと帰り支度をしていた俺に向き直った。
「で?続きは?」
「あ、うん……」
 撤収の早い若者達の声がもう廊下の遠くで響く。残っていた生徒も徐々に帰って行くのを待っていると、何故か結城さんがまじまじと俺の顔を覗き込んだ。
「良く見るとお前、赤ん坊みたいな顔してんな」
「ベビーフェイスって言いなよ」
 二人がそんな不毛なやり取りを始め掛けた所で、漸く最後の生徒も教室を出て行った。このまま脱線して話しが進まないと困るし、俺は慌てて口を開く。
「実はこないだ、会いに行ったんだ」
「半沢が引き摺ってる人に?どうだったの?あんまり、思わしく無かった?」
 何時もより優しく感じる榎木さんの声に俺はゆっくりと頷く。
「そもそもさ、どう言う経緯で付き合ってた訳?その女と何で別れたのかとかさ、まずそっから聞かせてよ」
 付き合ってた……そうか。普通付き合ってて、捨てられて、とかそう言う話しになるのか。
「……付き合って無かったの?」
 続いた結城さんの言葉に、ジワリと視界が滲む。
 俺は所詮愛人で、そもそも白井さんは本気じゃなかった。もう一度始めて良いかなんて、バカげた事を言ったもんだ。なんて惨めなのだろう。
「虐めるのやめなよ翔太。濁しても良いから言いな。お兄さん達が汲んであげるから」
 俯いた俺の頭上で優しい榎木さんの声が降る。過去の記憶を思い起こすように瞼を閉じたら、暖かい涙が頬を滑り落ちて行った。
 繋いだ手の温もり。触れた唇の熱さ。耳に染み入る澄み切った声。白井さんのくれた、優しい言葉。本気じゃなくても良かった。利用されているだけだったとしても、全てが嘘でも、俺は、その全てが愛おしくて堪らなかった。
「……その人、ガキの頃から俺の面倒見てくれた人でさ。俺親に恵まれなかったんだけど、親の代わりに飯作ってくれたり、寝る時手握っててくれたり……優しい人だって信じてた。でも知らなかったけどその人本職の人でさ。親父の借金形に、身体、売らされそうになって……でも、好きになっちゃって──」
 そこ迄言うと耐え切れなくなったかのように何故か榎木さんが話を止めた。
「……ちょっと待って。半沢って天然?」
 何の事だと顔を上げると、結城さんが俺の濡れた頬を乱暴に拭った。
「そのヤクザ屋さんのおっさんに惚れてどうした?」
「……あっ!」
 そこでようやく俺は自ら墓穴を掘った事に気付く。感傷的になって、まるで隠す事を忘れていた。バカだ。途端に慌てふためく俺を見て榎木さんは呆れ顔で溜息を吐いた。
「良いよもう隠したって無駄だから。それで?」
 とっとと続きを話せと催促され、俺も渋々話を再開する。バレてしまったものは、仕方がないし。
「優しくしてくれてたのも全部、その人の復讐?の為で、それで……訳わかんないまま捨てられた。一年以上経つけど、ずっとその人の事忘れられなくてさ」
 どんなに思い返してもやっぱり惨めだ。二人は中々口を開こうとせず、俺もそれ以上話す事もなく、時間だけが流れて行く。
 しばらくの沈黙の後、腕組みをしていた結城さんが難しい顔で口を開いた。
「でもさ、良く本職の居場所なんか分かったな」
「ああ、知り合いが教えてくれた」
「……それ俺達じゃなくてその人に相談すればいいんじゃないの?」
 まあ、そりゃそうだけど。俺としては全く関係ない第三者の意見が聞きたかったのだ。雪さんは白井さんを知り過ぎてる。何より、多分あんまり良くは思ってないから。
 そんな物思いにふけっていると、榎木さんは徐に鞄を持って立ち上がった。
「翔太帰ろ。俺達の手に負える話じゃないでしょ。本職相手なんて」
「えー見てみたい」
「良いから!」
 ごねた結城さんを半ば引き摺るように二人は慌てて出て行ってしまった。
 静まり返る教室に言いようのない虚しさが押し寄せる。俺の想う相手は、男で、ヤクザで、もしかしたら俺達は血の繋がった兄弟。そして何より白井さんは稀に見る冷酷で人として最低の人間だ。追うのはやめておいた方が良い。そんな事言われなくても分かってる。だけど心の奥底に住み着いたあの人の綺麗な指先は、誰よりも暖かい。抱き合って、キスをして、愛の言葉を囁かれたあの日々は、例え偽りだとしても、確かに俺の人生で一番幸せな時だった。
 視界を濁す涙を拭った瞬間、突然教室の扉が開かれた。顔を覗かせたガッキーが、俺の姿に驚いた顔を見せる。泣いていた事がバレたんだろうか。
「まだいたのか半沢。そろそろ帰れよー」
 それでもガッキーは直ぐにいつも通りの怠そうな口ぶりでそう言うと、カギを指先で回しながら教室を後にした。一つ息を吐き出して俺も教室を出た。だけどこのままモヤモヤしていて眠れる気もしないし、下駄箱迄向かう途中意を決して電話を掛ける。
「……冬弥か?どうした?」
 直ぐに電話に出た山室さんは、少し驚いているようだ。俺が連絡する事なんて無いに等しいから。
「少し、話せますか?」
「……良いよ。今何処だ?」
「学校です。今からそっち行きますね」
 分かったと言って電話は切れた。山室さんなら──そう思ったのは、あの人が他人の悪い面ばかり見る人間では無いから。それにずっと白井さんの下で働いてる。俺も雪さんも知らない顔を知ってるかもしれないから。

 夜の幹線道路に原付を飛ばす。胸に押し寄せる不安はそんな事では消えないけれど、何もしないよりはマシだ。
 生温い夜風を切って走り続け、ようやく山室さんの住むマンションの前に辿り着くと、花壇に腰掛ける人影が薄い街灯の下に浮かび上がっていた。エンジンを止め原付を降りる俺を見詰める男の指先で蛍火がゆらりと揺れる。
「……覚悟、決まったのか?」
 低く響く声に小さく首を横に振る。山室さんは静かに紫煙を吐き出すと、ふいと澄んだ藍色の空を仰いだ。
「俺は不安だよ。はっきり言って、お前さんには深入りして欲しくない」
 この男はなんて優しい人なんだ。少し顔見知りなだけのガキの心配をしてくれるなんて。だけどその思いに答えられない事が後ろめたくて、つい俯いた視線の先で薄明かりに弱く浮かび上がるアスファルト。まるで深い闇の底を覗き込んでいる様な錯覚さえ起こしそうだ。
「……どうしたら良いか、分からなくて」
 そうは言ったものの、自分の中で答えは決まっているも同然なのだろう。将生さんと再び関係を持つ事は怖いけれど、俺はそれを何より望んでいるのだから。なのに進む事も、戻る事も決められない、優柔不断な自分。誰かに背中を押して欲しい。これは最後の一歩を踏み出す勇気が持てない俺の、自分勝手な願望なのかもしれない。
 山室さんはゆっくり息を吸い込んだ後、意を決したように口を開いた。
「……今からする話は聞かなかった事に出来るか?」
 それが余り良い話ではない事は分かる。それでも頷く以外、俺に道はない。それを見届けた山室さんの瞳は、何処か悲し気に揺れていた。
「あの人が山室組に入る前にな、直参の一つである國真会って広島の暴力団にいた。その時将生さんを随分可愛がっていたのが米倉さんって言う当時の若頭だった人だ。俺も昔は良く可愛がってもらった。男気があってな、気持ちの良い人だったよ」
 山室さんが昔、どんな立場だったのかは知らないが、山室隆司と言う名前は、決められた一つの道を想像させるに易しい。俺は若かりし日の白井さんと、その白井さんを可愛がっていた米倉と言う人物に思いを馳せる。山室さんが言う位だからきっと、優しい人だったんだろう。
「俺もムショ出てから知ったんだが、十年位前になるかな……米倉さんは死んだ。それが、まあ、あまり良い死に方じゃなくてな。無駄死にだ、恥知らずだなんて言う連中も多い」
 そこ迄話し、山室さんは膝に置いていた拳をキツく握り締めた。暗いアスファルトを見詰める横顔が、抑え切れぬ悔しさに揺れているようにも見えた。
「あの人が國真会を捨てて山室組に鞍替えする少し前かな。将生さんをハネちまおうって事になったらしい。その役目を仰せつかったのが──米倉さんだった。その辺のいざこざは俺の知る所じゃない。だが米倉さんはな、会長の面子も、将生さんの事も、どちらも守りたかったんだろうよ。……どうしたと思う?」
 突然の問い掛けに、俺は慌てて首を横に振る。ヤクザの組長の命令と、可愛がってる舎弟の命。その両方を守る術なんか俺には想像も付かない。
 続きを静かに待っているとしばらくして山室さんはまるで意を決するように、深く息を吐き出した。
「将生さんの目の前で自ら頭撃ち抜いちまったんだよ」
「……え?」
「これは知り合いから聞いた話だがよ、将生さん、その頃の記憶一部飛ばしてるんだと。多分自分では忘れてる事すら忘れてる。……相当ショックだったんだろうな」
 目の前で、人間が突然死んでしまうなんて、俺には想像も付かない。米倉と言う男が白井さんにとってどんな存在だったのかは分からない。けど普通でいられる筈はない。それが、あの人を変えた要因なのだろうか。
「将生さんの抱える膿はかなり根深いもんだ。あの若さでこの裏社会を何の後ろ盾も無くのし上がったんだ無理もねえ。あの人は自分を語る事はないし、まだ誰も知らない何かを抱えているのかもしれない。何より俺は生まれ付き人を愛せない人間なんてのはいねえと思ってる。……お前さんがその全てを受け止める覚悟があるんなら俺は止めねえよ」
 そこで言葉を区切った山室さんの視線が、握り締めた俺の左拳に落ちる。
「だが怖気づいたんなら、それ、置いて行きな。俺も未練に縋ってる方が幸せだと思う。それ位、あの人の心に触れるのは怖えよ。お前も大分苦労して来たんだろ?幸せになって欲しいよ」
 山室さんは言葉の最後に、分かるかと小さく問い掛けた。俺は力無く頷く事しか出来ない。どうしたら良いのかなんて、もう聞けなかった。
 俺みたいなガキが相手取るにはあまりにも巨大な存在。何もかもを闇に沈めて生きてきたあの人を今更変えられる自信なんて更々ない。それでも俺は握り締めた小さなレシートを、離す気にはなれなかった。そこにあるのはただ、好きだと言う浅はかで自分勝手な感情。そして傷付け、傷付いてでも手に入れたいと願う、狂気にも似た執着心だけだ。

 吹き抜けて行く夜風が頬を打ち、俺はようやく下ろした腰を上げた。
「……すみません夜遅くに」
「いや、良いよ。雪に会っていかなくて良いのか?」
 小さく首を振って、半帽を頭に乗せ原付のエンジンを掛ける。そのまま頭を下げて帰ろうとする俺を山室さんは不意に引き止めた。
「冬弥。雪も、勿論俺も、慎太郎だって頼って良いんだからな?将生さんの事だからって抱え込む事はねえ。辛くなったら今晩みたいに呼び出しな」
 淡く浮かび上がる微笑みが、涙で滲む。悟られないように深く頭を下げて、俺は夜道を走り出す。

 雪さんはきっと、凄く幸せだろう。あんな素敵な人と家族になれた。俺は、あの人に何を望む?血が繋がっているかもしれない、あの人に。分からないのに俺の胸の奥底で燻る決意は固かった。
 これから進むべき道にきっと希望は無い。それでも進みたい。その先に見える景色が、目を覆いたくなるような、絶望だったとしても。
 高いビルの隙間から覗く東京タワーが、まるでそんな俺の背中を押してくれているようだった。
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