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『Underground wolF』
ゴミ屑の天上
しおりを挟む東京の空を厚い雨雲が覆い、落ちた雨粒が硬い地面に打ち付ける。絶景の夜景が望めるガラス窓の向こう側で、霞んだ光の群れが不気味に揺れる。俺はそれを見詰めながら押し寄せる不安に震えていた。
幾ら待っても、その日白井さんが帰って来る事は無かった。突然居なくなってから二日目となって、さすがの俺もおかしいと思って連絡してみたが、携帯の電源は切られていた。当然慎太郎さんにも山室さんにも連絡をしたら二人は酷く驚いていた。一週間の休みを言い渡されただけで何処に行ったのかも知らないらしい。二人の慌て様から、それが嘘では無い事が分かる。
一体何処に行ってしまったのだろう。また、俺の前から突然姿を消してしまうのだろうか。幾ら肌を重ねたとしても埋まらない距離がもどかしい。複雑に入り組んだあの人の頭の中を覗き込んでみたい。そうしたら知る事が出来るかもしれない。冷たい瞳の奥底で揺れる、暗い陰りの正体が。
「まさきいい!」
突然響いた壮絶な泣き声に、俺のセンチメンタルな思考は一気に吹き飛んだ。
「あーもううるせえ!このクソバカガキ!」
苛立った雪さんが声を荒げても、大きな子供が泣き止む事はない。宥めようにも純平は逃げ回ってしまうから、近付く事さえ出来なくて、俺は早々に諦めた。何より純平も不安なんだ。
にしても、この子は一体白井さんとどう言う関係なのだろう。〝ただの居候〟と言っていたが俺みたいな物なのだろうか。白井さんはこの子の事も──抱いてるんだろうか。胸を焦げ付かせる嫉妬なんか感じている場合じゃないのに。
「ねえ隆司さん、まだ見付からないの?」
純平を部屋に追い込んだ雪さんが漸く落ち着いて問い掛けると、山室さんは耳に当てていた携帯を下ろして首を振った。
「ああ、ダメだな。冬弥、本当に何も言って無かったのか?」
「う、うん」
何も言って無かったし、何も変化は無かったと思う。何より俺は嘘の上手い白井さんの微かなサインを目ざとく見付けられる程あの人を知らないし、まず賢くない。
八方塞がりの状況に揃って溜息を漏らす俺達を傍観していた慎太郎さんは、突然呆れたように鼻で笑った。
「急に一週間休みくれたと思ったらこれだよ」
誰一人それに答える言葉を持ってはいなくて、自然と重い沈黙が流れた。山室さんももうアテは無いのか、携帯を握り締めたまま呆然と立ち尽くしている。
不意に雪さんの声がそんな静寂を切り裂いた。
「将生さん……死んでんじゃないの?」
「あり得なくもないな」
恐ろしい想像に背筋を寒気が駆け抜ける。
「やっ、やめろよ!」
思わず声を荒げた俺に、雪さんは冷めた視線を向けた。
「何を夢見てんだよ冬弥。あの人は本職の人間だよ?それもどこぞの鉄砲玉にやられたって可笑しく無い立場にいる人間だ。分かっていた筈だろ?」
「でも──」
その可能性すら考えたくない気持ちは、雪さんには分からないのだろう。
この中で白井さんを想っているのは俺だけだ。そう思うと仕方が無い気がして思わず俯いた俺の頭に大きな手が優しく乗せられた。
「雪の言ってる事は正しいが、どうやら今回に関してはハズレだな。その筋の知り合いに連絡してみたがどれも示し合わせたように知らぬ存ぜぬの一点張りだ。鉄砲玉にやられたんなら俺に迄隠す意味もねえよ。これは十中八九内部での揉め事だろうな」
淡々と言い放った山室さんの言葉に安堵したものの、ざわざわと胸を擽る不安が拭いきれない。内部の揉め事だって穏やかじゃない事は事実だ。命があったとしても無事かは分からない。
自然と上がる息。激しくなる動悸。思わず純平のように叫びたくなる程自分が追い詰められている事を如実に感じて、俺は慌てて首を振った。大丈夫。あの人は殺しても死なないような人間だ。例え誰かを貶めたとしても、自分を危険な位置には置かないだろう。皆が言う通り白井将生と言う人間は、しぶとくて、図々しくて、最上の利己主義者。人を傷付けても何も感じない極悪人なのだ。
……本当にそうなのだろうか。俺があの人の何を知ってる。男でも思わず振り向いてしまう程の洗練された美貌の男。冷笑を浮かべ酷く残酷に他人を切り捨て、その癖触れる指先は、誰よりも繊細で優しい。耳元で澄んだ声に囁かれれば、まるで媚薬のように思考が溶かされ、求められてもいないのに、身体があの人を欲してしまう。優しく鼻先を擽って、手を伸ばせば嘲笑う様に身を翻す。あの男は何時も、決して手に入らない物を我を忘れ追い求めてしまう、そんな誰の奥底にも眠る歪んだ狂気を逆撫でされている様な、もどかしくて、それでも手放したくない程にぐずぐずに甘い快感を与えてくれる。白井さんがくれる感情は、普通の高校生が味わうには余りにも刺激的過ぎる。
それも全て、嘘で塗り固めた偽りの姿。本当のあの人が何処にいるかも分からないのに溺れる俺は、榎木さんの言う通り、身の程知らずの大馬鹿者だ。それでも自分では止める事が出来ない。これを純愛と言うには余りにも歪んでる。分かってるのに歯止めが効かないこの感情を、一体何と呼ぶのだろう。
不意に肩を叩かれ身体がビクリと跳ね上がる。完全にトリップしていた事に些か驚きつつ、自分が今しがた考えていた余りにも恐ろしい思考に震えた。そんな俺の肩を叩いた山室さんは、その風貌に似つかわしくない優しい瞳で俺を見下ろしている。
「そんな顔するな。大丈夫だよ」
不思議だ。この人に言われると、本当に大丈夫な気がしてしまう。
「うん……」
小さく頷き、その日は取り敢えず山室さんと雪さんに泊まってもらった。かと言ってどうと言う訳でもない。部屋に引きこもってしまった純平は出てこないし、雪さんと山室さんは仲良く談笑しているし。邪魔する気もないから、俺は白井さんの寝室に篭りベットの上に身を投げた。
何となく手持ち無沙汰で携帯を開くと結城さんから着信があった。理由は分かっている。全く俺が連絡しなかったからだ。ままごとのスパイ活動の後だ、心配してくれているのかもしれない。だけど今は、何も聞きたくなかった。
白井さんの匂いが残る寝室で、少ない記憶に縋り、キツく目を閉じる。一体何をしているんだ俺は。だけど愚かだと詰られても、やはり俺はあの男の事が好きだ。隠された全てを、手に入れたくなる程に。
そのまま枕を抱いてジッとしていると、扉が小さく叩かれ、ゆっくりと開く。顔を覗かせたのは山室さんだった。
「……寝てたか?」
一つ落とした声に小さく首を振ると、山室さんは枕元に腰を下ろす。この人の瞳は、何時でも深い愛情に満ちた優しい色だ。雨が打つ窓に視線を流し、山室さんはゆっくりと口を開いた。
「俺はな、雪を見捨てようとした事が何度かあった。今でこそ上手くやってるが、昔は傷付け合ってばかりでな。……まあ、お前さんも知ってると思うが」
雪さんと山室さんがどれだけ苦労して今の関係になったか、山室さんの言う通り何も知らない訳ではない。一ヶ月だけだけど、一緒に住んだ事があったから。幸せそうに笑う雪さんを見ると俺迄嬉しくなるのは、きっと絶望の淵でもがいていた時を目の当たりにしてしまったからだろう。
「もう無理だ。傷付く雪を見たくない。そう思って逃げようとする度、引き止めてくれたのはな、将生さんだった」
「……え?」
「今でも忘れられないのよ。雪を助けてやって欲しいと言った、あの人の瞳がな」
白井さんがそんな事を?意外だ。雪さんに特別な感情を抱いてるから?そうは見えないけど。
つい考え込んだ俺を置いて、山室さんの言葉が続く。
「決してあの人の事を善人だとは思わねえし、人として大切な物を失ってしまっているとは思う。だが俺は将生さんが根っからの極悪人って訳じゃないと思うんだ。あの人はな、余りにも純粋で、真面目過ぎただけなんだろうよ。だから壁にぶつかる度、自分を守る為に歪んで行ってしまった。あの人には……縋る場所も無かったから」
それが、雪さんが昔言っていた、白井さんとの違い。山室さんと言う存在なのだろうか。闇夜を映す瞳が微かに揺れる。
「こんな事を思う俺はバカなお人好しか?」
自嘲気味に笑う山室さんに向けて慌てて首を振った。
「まあ将生さんが一週間休みくれたって事は、一週間でカタが付くと思っての事だろ。それ迄待ってみようや。大丈夫だよ。あの人は伊達に裏を生きてない。何より頭もキレる」
その言葉に強く頷いた俺の頭を軽く叩いて、山室さんは部屋を後にした。
俺は山室さんのように白井さんの縋る場所になれるのだろうか。こんなガキには到底無理な事なんだろうか。それとももう、手遅れなのだろうか。変わるには、あの人は年を重ね過ぎたんだろうか。そもそも烏滸がましいのかも知れない。まだ自分一人の面倒も見れない俺が、誰かの支えになろうなんて。沈み掛けた思考を慌てて引き戻し、弱い自分から逃れるように窓の外に視線を投げる。
どんなに雨で霞んでいても、どんなに眩い光に包まれていても、そこにあるのは濃いアンバーの光を有した東京タワー。俺がその姿に白井さんを重ねた様に、あの人にも赤い電波塔から逃れられない想いがあるのだろうか。その心にはもう、他の誰かがいるのだろうか。
自然と頬を撫で落ちた涙が、ゆっくりと冷えた。
それから更に三日間。俺達は不安に震えながら生活を続けた。そして白井さんが姿を消してから五日目の昼間。ようやくこの城の主により、黒塗りの扉は開かれた。
「ただいま」
突如玄関から聞こえた声に誰よりも素早く反応したのは、引きこもりの居候だった。勢い良く扉を開け放ち、目にも止まらぬ早さで玄関に走った純平に唖然としつつ、ワンテンポ遅れて俺達はその後を追う。漸く辿り着いたそこでは、困ったように髪を撫でる白井さんにキツく抱き付いた純平と、場違いなチンピラの姿があった。チンピラは驚きに口を大きく開け、抜けた前歯を惜し気も無く披露している。その余りの間抜け面に、俺は感動の対面どころではない。
パクパクと空気を噛んでいた口が、意を決したように言葉を放つ。
「かっ、かっ……隠し子!」
「じゃないよ?」
……デシャブ。
「もう良いよ阿部。お疲れ様」
白井さんがふわりと笑い掛けると、阿部と呼ばれたチンピラはブンブンと首を振った。
「いや、そう言う訳には行かないんすよ!俺は一応──」
「君のその腐ったジャガイモみたいな顔見ていると治る物も治らないの。犬じゃ無いんだから察してくれる?」
チンピラの言葉をバッサリ切って、満面の笑みで言い放つ。
「酷い……」
ジャガイモが項垂れて帰って行ったのは言うまでもない。
泣き付く純平を宥めた将生さんは悠然とリビングに足を運ぶ。俺に雪さん、山室さん、慎太郎さんはその後をぞろぞろと追った。誰一人口を開こうとしない。白井さんは不気味な位何時も通り。だが純平の細い腰に添えられた右手の小指に巻かれた包帯が、嫌な想像を掻き立てる。
リビングに到着するや白井さんは純平を部屋に向かわせ、自分は黒い革張りのソファに腰を下ろしこれ見よがしに長い足を組んだ。
「雁首揃えて、何かあったの?」
冷えた微笑みを浮かべる主はこの重苦しい空気を感じている癖に、まるでからかうような物言いだ。
「……何かあったじゃないですよ。どう言う事か説明してもらえますか?」
鋭い山室さんの問い掛けに、白井さんは何を思ったか、ふふっと小さく笑った。
「可笑しな中国人に好かれたお陰で勘違いされて大変だったんだよ。君のお父さんに指の一本でも献上しようと思ったんだけどいらないって言われちゃってさ。一応反省の意も込めて瀬川先生の所で入院生活を満喫してた訳」
「バカな。今時エンコ詰めなんて……」
信じられないと言った様子の山室さんに、白井さんは口元だけで笑みを作った。
「金を払うだけの禊なんて、詰まらないだろ?」
そんな事の為に?長くしなやかな指先に巻き付けられた白い包帯に視線を向けると、背筋に寒気が駆け上がる。この人は俺が思うよりも危険な人間なのかも知れない。詰まらないから指を落とすなんて、常人には理解出来ない。
だが流石元本職。山室さんはそんな巫山戯た態度に顔色を崩さなかった。
「自分の立場分かってますか?あんたが職を失えば何人が路頭に迷う事になると思ってるんです」
「山室。説教なら沢尻にされたし、禊は済んだ。これ以上他人に何かを言われる筋合いはない」
先程とは打って変わった余りにも冷たい声に思わず誰もが息を呑む。白井さんはそんな沈黙が至極詰まらないと言った様子で煙草に火を付けた。その横柄な態度に誰もが閉口してしまった。
俺達がどれだけ心配した事か。赤ん坊がいる慎太郎さんですら、遅く迄ここにいてくれたりもした。だけどよく考えなくても、この人がそんな事を気にする訳もない。余りにも優雅に紫煙を燻らす暴君に向けて雪さんが先陣を切って溜息を吐き出した。
「無事で何よりだし、俺達の事は百万歩譲って良い。だけど冬弥はあんたが急に居なくなって凄い心配してたんだよ?」
雪さん……いつからそんな優しくなったんだ。そんな感動も一瞬の事で、白井さんの視線が本日初めて俺に向いた。それはそれは面倒臭そうに。
「ごめんね、冬弥」
言わされた感満載だけど、別に俺は謝って欲しい訳じゃない。
「お詫びに何かすれば良いの?」
黙り込んだ俺に向けて白井さんは意地悪く問い掛ける。
一体何を考えているのだろう。まるで分からない。だから余計に腹が立って、この男の事が知りたくなる。
「東京タワー……連れていって下さい」
一瞬眉を顰めた白井さんは、やはりあの赤い巨塔に何か思い入れがあるのだろうか。
「……何故?」
あなたの事が知りたいから。
「俺、登った事なくて」
そうは言えないから、下手くそな嘘を吐く。
「……良いよ」
白井さんはガラス製の灰皿で煙草を揉み消し、不敵な笑みを整い過ぎた顔に浮かべた。
夕陽がビルの谷間に落ちて行き、燃える空が藍色に染まる頃。俺達四人は慎太郎さんを残し、天高く聳えるマンションを後にした。地下の駐車場にはこれまた高級車がズラリと並んでいる。まるで金持ちの見栄の展示場。その中で白井さんが足を運んだのは、見慣れた黒塗りの車ではなく、これまたセダンタイプの国産車だった。
運転席に乗り込んだって事はこの人が運転するのだろうか。ちょっと驚きだ。呆然としている俺を置いて雪さんも山室さんも後部座席に乗り込んだのを見て、俺も慌てて助手席に身体を滑り込ませた。
「……白井さん、運転とか出来るんですね」
そんな俺の率直な感想に、飾り気のない黒縁の眼鏡を掛けながら白井さんは鼻で笑った。
「疲れるから最近は滅多にしないけどね。シートベルトしてくれる?」
俺が慌ててシートベルトを着用するや、車は静かに地下を出た。目が悪いのだろうか。俺はそんな些細な事すらも知らなかった。
流れる街並みを眺めながらぼんやりと考える。例えば女の人とデートに出掛ける時は、自分で車を出すのだろう。今はそう言う相手がいるのだろうか。四回も結婚した人だ。五回目も無いとは言えないし、相手に不足するとは思えない。聞いて見たいけれど、聞くのが怖くもある。大体俺はこの人とどうなろうと思ってるんだろう。
恋人?家族?それとも──身体だけで良い?
そんな事も分からないのに完全な見切り発車でのこのことこの男の元に来た自分が、余りにも情けない。情けないと言うか、本当バカだ。
「冬弥、着いたよ?」
その声にふと我に帰ると車は既に停車していて、隣の白井さんは訝しげに俺を見詰めていた。
「どうしたの?ずっとボーッとしてたけど」
「何でもない」
興味なさげに車を降りる白井さんの後を慌てて追うと、先に降りていた山室さんは高い電波塔を呆然と見上げていた。
「行かないの?」
白井さんの問い掛けに我に帰った顔が俄かに歪む。
「いや、俺達は下で待ってます」
「そう?じゃあ行こうか」
それにも然程興味は無いのか、白井さんは直ぐに踵を返し、赤々と煌めく東京タワーの入り口へと足を進めた。
白井さんが歩く側から振り返る人々の反応はまるでお忍びの芸能人を見た時のような反応だ。一体ここにいる何人がその男の小指の怪我を、ヤクザのイザコザの賜物だと思うだろう。良く良く社会に溶け込んでいる。上へ上がる為のチケットを買ってエレベーターに乗り込むと、なぜか冷たい視線が落とされた。
「……楽しい?」
楽しい?何だその質問は。はっきり言って全然楽しくない。白井さんとはエレベーターに乗る迄何も喋っていないし、その後ろをくっ付いていただけな俺は、この人がどれだけ人の目を引く男かと言うのを目の当たりにしただけだ。
何と答えようか思案を巡らす俺を待つ事にも飽きたのか、不意に白井さんは小さく笑った。
「俺も上るの初めてなんだよね」
「へえ……意外」
「そう?」
俺の貧相な脳味噌で、女を口説く時に一度は上ってるんじゃないかとも思ったけど、そんな必要も無いのかも知れない。歩くだけで人が振り向き、口を開けばその見た目に忠実な、澄んだ耳通りの良い声。一緒にいる相手を気遣うように人波の盾となったり、歩みのスピードを遅めたりもする。それも全て押し付けがましく無いように見せていて、酷く巧妙だ。腹が立つ程に完璧。本来の性格を知らなければ何も疑う余地なく惚れてしまうだろう。
それにしても視線が痛い。例えば今この人と一緒にいるのが雪さんや山室さんだったら、なんの問題も無かったんだと思う。居た堪れなくてなるべく離れたかったものの、エレベーターの中では然程意味をなさなかった。
そんな息苦しい箱が大展望台へと到着するや、俺は逃げるように人混みに紛れた。
「冬弥!迷子になるよ!」
子供じゃないんだから……。珍しく慌てる白井さんから逃れ、人混みを掻き分けて漸くガラス窓に辿り着くと、思わず声が上がってしまった。
「凄い……!」
ずっと見上げているだけだったここに初めて来た感動は、思いの外大きかった。眼下に広がるのは、大気の揺れにチカチカと瞬く色とりどりの光。鼻歌混じりに歩けそうな位に目の前一杯に敷き詰められた大都会の光の絨毯は、自然と頬が緩む程に綺麗だ。白井さんのマンションにいると、色々な事を考えてしまって素直にこの夜景を見る事も出来ないから余計に。ガラス張りの窓に張り付いて東京の夜景を溜息混じりに見下ろす俺とは対象的に、周囲の注目の的は終始冷めた表情を浮かべていた。毎日見下ろしている白井さんにとっては珍しくも無いんだろう。やはり俺とは住む世界が違う気がしてしまう。
そんな事を考えぼんやりと光の海を見詰めていたら、不意に後ろから抱きすくめるように手摺に手を置かれ、大人びた香水が鼻先を掠め俺は思わず息を呑む。同時に周囲から小さな悲鳴が上がった。それは恐怖に慄いた悲鳴でも、嫌悪感から来る悲鳴でも無い。不謹慎な期待に甘く濡れた溜息混じりの媚びた悲鳴。この嫌味な程の色男がまるで愛する恋人にするよう背中越しに身体を寄せる相手は、男。社会に対する秘事を目の前でぶら下げられた人々は、その禁断の姿から目を離せずにいた。羞恥と焦りに加え、触れる身体の熱さに背筋が粟立つ。
「よく見てご覧、冬弥」
澄んだ声が耳元を擽る、不謹慎な優越感。この言葉は俺だけの物だ。だがこの状況に惚けていた俺に続けて囁かれた言葉は、余りにも冷えた物だった。
「俺達はこんなゴミ屑の上に生きている。世界は広く強大で、人はその前では余りにも無力で非力だ。死んでしまえば其処でお終い。何一つ残りはしない」
ゴミ屑──恋人達が愛を語らいながら見下ろす美しい夜景は、この人の目にはそう映っているのかと思うと何だか寂しい。
「なのにどうして、人はそんな小さな命に縛られてしまうのだろうね」
「え?」
思いも寄らない言葉に思わず声が漏れた。
ガラスに映った微かな表情だけでは計り知れない。声色だけで心の内を探る事も出来ないもどかしさ。
「君もそうだろう?こんな男に入れ上げて、大切な時を無駄にしている」
「そんな事──」
思わず身をよじって向き合おうとした俺は、思いの外強く押さえ付けられ、動く事が出来なかった。
顔が見たい。何を思ってこんな事を言うのか知りたい。強くそう求める時に限って、この男はそれを許してはくれない。
白井さんは背中越しに、ゆっくりと言葉を繋いで行く。
「俺はね、幼い時にここで心を捨てて、十七の時にここで裏街道に足を踏み入れた。青春を謳歌すべきたった一度のかけがえの無い時を、大人の汚い金と騙し合いの世界で浪費した。それに対して後悔はない。俺はこの世界に入らなくても、結局青春なんて物と縁はなかったから。……だけど君は違う。大人になればこんな人間に費やした時間を後悔して、そんな自分を憎むだろう」
否定するなら簡単だ。だから俺は、その続きを待った。
「俺はね、それが勿体無いと思うんだ。君は今しか出来ない事をするべきだ。勉強、恋愛、スパイのお友達と遊んだり、沢山あるよ。大切な事だ。ゴミ屑の世界にすら昇れない、下らない人間にしがみ付くよりもね」
吐き出された言葉にある種の違和感が頭を擡げる。
高層マンションに住み、何時でも見下ろしているこの世界に〝昇れない〟と言った。自信家で、常に人を見下すこの男に似付かわしくない言葉は余計に俺の頭を掻き乱す。本当のこの人が何処にいるのかも、何を見てるのかも分からない。
無い頭を回す俺の耳元で一際冷たい声が囁く。
「最後の忠告だよ、冬弥。戻るのなら今だ」
また選ばせるのか。突き放してしまえば簡単な物を、この男は何故こんな回りくどい事をするのだろう。それでも答えなんか聞く迄もない。
「進む」
雑踏に掻き消される位小さな言葉は、それでも真っ直ぐに届いた。
「……愚かだね」
小さく吐き出された吐息が耳元を擽る。
「君が望む関係は何?恋人?家族?それとも金で繋がるだけの愛人?どれでも君の欲しい関係を与えてあげる。けれど──永遠ではないよ」
答えない俺の髪を軽く梳く指先は、やはり優しい温もりを有していて、その温度差に思わず泣いてしまいたくなる。
心を捨てた──それは、どう言う物なのだろう。こんな風に人を傷付けても何も感じなくなる事が、心を捨てたと言う事なのだろうか。
「帰ろうか」
そう言って離れて行く温もりに、思わずしがみ付いてしまいそうになった。俺はその時に、山室さんから聞いた衝撃的な話しを不意に思い出していた。白井さんの為に命を賭した、米倉と言う男の事を。俺にはその男の気持ちがほんの少し、分かった気がしたから。突き放されればされる程、遠退いて行けば行く程、人はこの男が欲しくなる。何事にも表情を崩さず、淡々と世を渡るこの男の〝足枷〟となりたくなる。
この手で乱したい。この手で狂わせたい。何も映さぬその瞳に、我が身を写してみたい。例え、その為に命を賭したとしても良いと思える程に心を奪うのは、恵まれ過ぎた容姿では無い。幾重にも防御線を張り巡らせ誰も寄せ付けない、心の所為だ。
狂っていますか?でもね、狂わせているのはあんたなんだよ。
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