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『Underground wolF』
眠りにつくまで
しおりを挟む久しぶりに訪れた東京タワー。長い間見上げ続けていたそれに上がる事が無かったのは、何故か自分でもよく分からない。何かが変わってしまう気がしたのだろうか。何が?
たかが古い電波塔。今はその役目すら終えたただの鉄骨の塊。やはり上って見ても何も変わらなかったのも事実だ。だが確実に、俺はその無機物の塊にも縛られて生きている事を実感させられた。
母親が吐いた嘘。真夏の缶コーヒー。真っ直ぐだった筈の想いが歪んでしまったのも、あの場所だった。
人は何故、何かに縛られてしまうのだろう。
冬弥との御粗末なデートから帰って来て、俺はそればかり考えている。逃れたかった。いや、逃れる術があるのなら知りたいのだ。米倉輝樹が俺の首に掛けた、愛情と言う、重い枷から。冬弥もまた同じ鎖で俺を縛ろうと言うのだろうか。一点の滲みとなり、この冷酷な極悪人が苦しむ事を望むのだろうか。そんな事の為に費やす時間が無駄だと言ってやっても分からないのは、きっとあの青年がまだ幼いからなのだろう。
風呂上りの冬弥が濡れた髪をバスタオルで雑に拭きながら寝室の扉を開き、そのままベッドで本を読む俺の隣に身を投げた。隣でわしゃわしゃと腕を乱暴に動かす度にスプリングが大袈裟に軋む。何時も乾かさないから髪が傷んでいるんだろうと、取り留めも無い事を考えながら手元の本に視線を戻す。一頻り髪も拭き終わり満足したのか、そのつぶらな瞳は唐突に俺に向けられた。
「何読んでるんですか?」
「人を堕落させる魔性の最低男が変わって行く話し」
冬弥はあからさまに顔を顰めた。
「……何それ、面白いんですか?」
俺もこんな説明をされたなら疑うだろう。人気はあるものの、この土田陽介の最新作は、相変わらずロマンチストな彼の心を曝け出したかのような極甘なもの。世間の若年層はそんな彼の繊細で純粋で、それでいて何処か痛々しい物語を好んで読むようだが、俺は土田陽介と付き合うに当たって読んでいるにすぎない。だがこの物語の主人公である男がまた、俺のような人間で思わず笑ってしまう所が多々あった。世間の言う面白いとは、全く温度が違うが。
「……さあ。でも笑えるよ」
言葉とは裏腹に笑もせずそう言った俺の顔を冬弥は何故かまじまじと見詰めていた。
「白井さんってさ……」
しかしそこで言葉は区切られた。気持ちが悪い。幾ら待ってもその先は出て来ないし、待つのにも飽きて濡れた髪に指を潜らせると、冬弥は俄かに身体を強張らせた。
「……な、何?」
微かに震えた声に笑いそうになる。人のベッドに寝そべっていた癖に警戒心を露わにする辺りがこの青年の面白い所だ。節操も見境も無い男と同じ屋根の下に住んで、何があるかなんて考えなくても分かるだろうに。読みかけの本を枕元に置いて、身を強張らせる冬弥の髪にやんわりと指を絡める。愚かな青年と紡ぐ、甘ったるいピロートーク。
「答えを聞いていなかったと思って。君は俺の何になりたいの?」
終わりの見え透いた嘘の関係に、どんな言葉を望む?
冬弥はしばらく考え込んだ後に、ゆっくりと顔を上げた。
「ねえ、俺が白井さんの弟って……本当なの?」
そんな事が気になっていたのか。
「母親は違うけどね。一応血は繋がっているよ」
「……俺の母さんに会った事ある?」
「一度だけ」
「どんな人だった?」
それを知ったとして何があるんだろう。
「さあ。随分昔だから覚えていないよ」
「そう……」
俺の嘘に冬弥はあからさまに肩を落とした。
冬弥の実の母親である藤原弥生と言う女に会ったのは一度きり。あの女が冬弥を捨てて逃げる時だけだ。たった一度会っただけだが、天性のマゾヒストだと言う印象を受けた。辛い恋路に傷付き嘆く自分に酔い痴れる、趣味の悪い女だった。この青年はよくよくそれを受け継いでしまったようだ。不毛であればある程、辛ければ辛い程のめり込んでしまう。それが恋愛の醍醐味と言うのなら、そうなのかも知れないが。
「君を捨てた人間に何時迄も執着してどうなるの?血が繋がっていようが他人は他人だ。いい加減現実を見た方が良い。ああ……あと、学校が始まったらちゃんと行きなさい。それがここにいる条件だ」
態とらしく大人ぶる俺に向けて、冬弥は明らかな苛立ちを向けた。年の割に幼い顔立ちの中で揺れる、大人びた決意の色。
「……俺、あんたの恋人になりたい」
言わんこっちゃない。それはまた一番、難儀な道だ。
「別に良いけど、どうして?」
「す、好きだから」
浮気性で恋愛に置いて罪悪感と言う物を感じない俺の恋人でいる事が、どれだけ心を窶すか分からない程バカでは無いだろう?それでもこいつらは何時も一番辛い道を無意識に選ぶ。そこに極上の快楽が眠っている事を、本能的に知っているから。まあ俺の知った事では無いけれど。何より、俺はそんなマゾヒズムを嬉々として貪るような、父親譲りの下品なサディズムを持って生まれてしまったのだから。
「良いよ、君の望む物は全部あげる」
だから──そう、嘘を吐く。見え透いた嘘程、ぐずぐずに甘い痛みを与えるものだ。俯いた顎を持ち上げて、物欲しそうに薄く開いた唇を焦らすように撫でる。ゆっくり目を閉じて続く筈の行為を待ち望む初心な表情に思わず小さな笑いを漏らすと、冬弥は羞恥に頬を染めた。
「……嘘つき」
ほらね。焦らされれば焦らされる程堪らない快感を覚えるのは、こいつらの性質だ。お望み通り小さな唇を塞いでやれば、恍惚の溜息が鼻を抜けて行く。
「次は?何が欲しい?」
耳元で意地悪く囁いてやれば肩に額を押し付けたまま、掠れた声が遠慮がちに呟いた。
「全部……」
俺の全てが欲しいなんて、生意気な。
「欲張りだね」
落とす事は簡単だ。だが未練無く終らせる事は、想像以上に難しい。嗚呼──逃げ出してしまいたい。
次の朝、シャワーを浴びてから何時ものようにニュースを見ながら朝食を作る。休みは今日迄。入院で惰れた生活を正さなくては。目玉焼きを焼く傍、目覚めの冷えた珈琲を口に運んでいたら、純平が部屋から姿を現した。
「おはよう」
何時もなら鬱陶しい位に纏わり付いてくる居候。だが定位置に腰を下ろした純平は、今日は目線一つ合わせようとしない。
「純平、おはよう」
再び声を掛けてもまるで反応がない。仏頂面を突き通しながら、興味も無い朝のニュースに夢中な素振りを見せた。珍しい事もあるもんだ。まあそれならそれでこちらとしては助かるのだけど。
そうこうしている内に朝食が出来上がった。目玉焼きと適当なサラダにトーストと言うオーソドックスな朝食を目の前に差し出しても純平はピクリとも表情を崩さない。
「いただきます」
朝に弱い上に、昨晩久しぶりに無理をさせた冬弥は昼迄起きてくる事は無いだろうから、今日は二人きりの朝食だ。邪魔者もいないし甘えてくるかと思ったが、そう言うテンションでも無いらしい。朝食にも手を付けようとはしない。
「どうしたの?具合でも悪い?」
良い加減にブスッとした顔を見ながら朝の時間を過ごすのも嫌気が差して問い掛けると、純平は漸く俺に視線を投げた。
「僕も将生としたい」
箸に引っ掛けたレタスがぼとりと落ちた。朝っぱらから何の話かと思えば。
「……覗き見でもした?君は本当に悪い子だね」
態と子供扱いする俺に、純平は澄んだ色の瞳を細めた。
「あの人は何?」
「可愛い恋人だよ」
純平はその言葉に椅子から勢い良く立ち上がると、強く机を叩いた。優しく微笑み掛けた事が余計にこの少年の嫉妬心に火を付けた様だ。
「じゃあ僕は!?僕は……将生の何?」
綺麗な瞳が胸を渦巻く嫉妬に揺れる。ずっと二人きりの生活に慣れていたのに、ここに来て俺が自分以外の誰かを愛でる事に些か困惑しているのだろう。そんな幼い少年の剥き出しの感情を逆撫でするように、俺は冷えた笑みを向けた。
「君は何を望むの?」
言葉の意味が理解出来ないのか、純平は綺麗な眉を顰める。だから君はダメなんだよ。
「それすらも分からないのに俺に抱かれようなんて身の程知らずも良い所だ。舐めてもらっちゃあ困るんだよ、坊や」
余りの衝撃に、大きな瞳は落ちてしまいそうな程に見開かれた。
ガキでも年増でも求められれば極上の快楽を与えてやる。だがそれにはある種俺の中でのルールがある。純平の様に芽生えたばかりのその感情が、恋だか執着だかも理解していない事さえ分かっていない輩の相手はしない。そう言う生まれたての純情こそ、何より恐ろしい物だから。
突き放された純平は、噛み締めた唇を震わせて真っ直ぐに俺を睨み付けていた。
「……じゃあ僕も、恋人になりたい」
まだ分からないのかこのクソガキ。
「君にはまだその資格はない」
「どうして?突然現れたあの人は恋人になれたのに、何で僕はダメなの!?」
全く、頭が痛い。深い溜息を噛み殺し、手招きをした俺の元におずおずと近寄る少年の髪に指を通す。
「君のその小さな頭が客前に出せるレベルになったら、嫌だと言っても抱いてあげる」
こんな事を言われて悔しいか?だったら変われ。甘えてばかりの人生から、そろそろ抜け出してくれ。
「……ねえ、純平?もう君に頼れる人間はないんだよ?自分の足で歩み、自分の手で生きる道を探さなくちゃならない。世間は君が思うよりずっと厳しいし冷たい物だ。人はそれに一人で立ち向かわなくちゃならないんだよ。良い加減に大人になりなさい」
例えまだ赤子の様なこの少年にさえ、社会は冷たい牙を剥く。親のいない子供を誰も守ってはくれない。それは俺が誰よりも知っている。髪で遊ぶ俺の手を取った純平は、まるで縋るように白い頬を摺り寄せた。
「……僕は、お母さんといれたらそれで良かったんだ。寒い日も、暑い日も、悲しい日も嬉しい日も──ずっとずっと一緒にいられるだけで良かったんだ」
それしか知らないこの少年に、何を言っても無駄なのだろう。だから余りにも辛い現実を否応無く突き付けてやる。目を覚ませ。もう、そんな夢物語は終わってしまったのだから。
「電気の止まったアパートで、寂しさを埋める為に君とキスをして、セックスをする。そんな物愛情なんかじゃない。違うか?」
それに本当は気付いているんでしょう?母親が酷く、歪んでいた事にも。
「君のお母さんが作った借金は何の為だったか知ってる?……君じゃない、男に貢ぐ為のものだ」
言い終わらない内に勢い良く振り払われた掌が、力無くだらりと垂れる。
「お母さんは僕の事愛してた!あいつらが来なかったらずっと一緒にいてくれた!あいつらが邪魔したから、お母さんはいなくなっちゃったんだ!あいつらが悪いんだ!」
自分の内に眠る狂気をまだこの少年は飼い慣らせてはいない。それも知ってはいる。
「ずっと……一緒にいてくれたもん」
続けてポツリと吐き出された言葉が、弱々しく震えていた。頬を滑る涙を掬い上げ、それでも俺はこの少年を責める。
「渥美君の事を考えた事はある?渥美君のお母さんやお父さんの気持ちは?」
君を心配して家に来て、殺されてしまった同級生の事など考えた事も無いだろう。だからこそ、狂言であれ、我が身の悲劇から逃れる為自殺なんてしようとしたんだ。
「人を死に追いやった人間が逃げる事なんか許されない。決して償う事の出来ない大罪を、この身一つで一生背負わなければならないんだよ」
俺もまた同じ、罪を背負う。だから純平。君の気持ちは分かるんだ。それ故に手を緩める事も出来ない。
「部屋に戻りなさい」
冷たい声に身体を震わせ、純平はまるで廃人のように力無くリビングを後にした。その背中に語り掛ける。立ち上がれなくなる程に傷付いたその先で、強くなれ。君はまだ間に合う。
純平の部屋の扉が閉まると、自然と深い溜息が漏れ出て行った。少し眠ろう。そう思って自室の扉を開いた途端、ガツンと何かにぶつかる鈍い音が響いた。何かと思って視線を向けると、なんて事はない。聞き耳を立てていた冬弥が突然開かれた扉に頭をぶつけただけだ。冷めた視線を向けている俺に気付き赤くなった額を摩りながら冬弥はバツが悪そうに俯いた。
「あ……すみません」
「少し出てくれるか?」
そのままベッドに直行しようとしたものの、腰に抱き付かれ思わず足が止まる。他人と生活するとこんな風に思うように行かない事が増えて酷く面倒臭い。
舌打ちを噛み殺し、俺はゆっくりと纏わり付く腕を解いた。
「冬弥。人の話を──」
「米倉って人の事、聞いた。白井さんがその事今も引き摺って、苦しいなら……俺も一緒に背負いたい」
人の言葉を食って吐き出された言葉に思わず眉根を寄せた。どいつもこいつも、米倉米倉うるさいんだよ。一緒に背負う?一体どうやって。何の為に。
「一人になりたいんだ」
なるべく穏やかに声を掛けても、頑固者は首を横に振るばかり。再び深い溜息が唇から漏れ出て行った。
「米倉がどうした。俺が引き摺っているって?俺はあの男が死んだ時にね、心底清々した。終いには可笑しくってね、笑ってしまったよ。涙も出なかった」
「そんな……!」
酷い事を言うもんじゃないって?分かっているよ。あの人は、世間に背を向け、他人を蹴散らして生きるこんな俺を愛してくれた。大きな手で頭を撫でて、時には厳しく叱って、優しく抱き締めて、目一杯の愛情を注いでくれた。
けれど、それに何の意味があった。俺が変われると思った?良心が芽生えるとでも?再び誰かを、愛せるとでも思った訳?下らない。米倉さんのした事は何一つ意味は無かった。それが堪らなく、愚かだと思ったのだ。
自然と乾いた笑いが込み上げる。
「白井さん……?」
突然笑い出した俺を不安気に見上げる青年に冷え切った視線を投げ、俺は小さく微笑んで見せた。
「……君の言う通りだ。米倉さんを殺したのは俺だ。それを十年経った今も引き摺っているよ。夢にまで見る程にね。苦しいよ。気が狂いそうだ」
それが本心。幾重にも重ね合わせた仮面の下の、弱い心根だ。これが知りたかったんだろう?
「これで、お前らは満足か?人の傷口を抉って楽しいか?」
力任せに振り下ろした拳が、硬いドアを打つ。
「何で放っておいてくれない!」
鈍い音と共に吐き出した怒声が、静かな部屋に鋭い空気を呼んだ。
「ごめ、なさい……!」
涙を貯めて小さく震える冬弥の顔に浮かんでいたのは、恐怖。それ以外に無い。
「……出て行け。一人にしてくれ」
逃げるように扉が閉まる音が嫌に耳に残った。
ベッドに腰を下ろし、窓の外に視線を投げる。巨大な入道雲が果てし無く続く空の下、悠々と手を広げていた。
今日も空が青い。雨が降りしきる灰色の空を見上げ、あの人が俺にそう言ったのは何時の日か。
「痛っ──」
鈍く痛む頭を抱え、布団に身体を横たえた。
自分一人の面倒も見切れないお子様が、誰かの責任迄背負おうなんて御門違いも良い所。だがその若さ故の無責任な衝動は、こうして人を追い詰める事を知っただろう。今はそれだけで良しとしよう。
しかし、何故人に寄り添い生きるのか、やはり俺には理解が出来ない。誰かと共に歩んでしまえば、ふとした時にこんな風に乱れてしまう。硬く硬く守って来た物が、剥がれ落ちて行く嫌悪感。それを感じるのはもう沢山だ。
悪夢を見る予感がしていながらもゆっくりと目を閉じる。どうしてだろう。悪夢だとしても、あの人に会えるからだろうか。何て人間らしい。そして何て、俺らしく無いんだろう。
会いたいと願う。問いたい言葉がある。だが夢は繰り返し、衝撃的な命の終わりを見せるだけ。何度も見ても見飽きない悪夢。血に塗れた髪に、ゆっくりと指を通す。そして俺は一人、笑っている。
頭が痛む。何時通り壊れたように笑う自分の姿が映る。その刹那、何か恐ろしい物を見た気がして俺は力の限り目を見開いた。そのまま弾かれるように起き上がり、震える指で一人の男に電話を掛ける。長いコール音が鬱陶しい。早く出ろと悪態を付きかけた所で、漸く耳障りな音が鳴り止んだ。
「おーなんじゃあ、珍しいのお」
電話の向こうで気怠い声が響く。背後が大分騒々しいが、大方女と打ち上げているのだろう。そんな事はどうでもいいし、電話の相手に至っては日常茶飯事だ。
「孝明、俺さ……」
「ああ、今年の墓参りはよした方がええ。金丸組の話し聞いたじゃろう?金絡みじゃけん、しつこうて」
何故か御構い無しに俺の言葉を遮って話し出すのも電話の相手、國真会若頭伊崎孝明の普段通りなのだ。それでも何時ものように適当にあしらう余裕が俺には無かった。
「俺、笑っていたよな?」
その言葉で、遠慮を知らぬ男がピタリと話すのを止めた。どくんどくんと脈打つ鼓動の音が鼓膜を震わせる。
「……あ?何て?」
少しトーンを落として問い掛けられ、俺は再び息を吐き出すように繰り返す。
「俺は……笑っていたよな?」
一瞬の沈黙の後、孝明は何処かに移動したのか、扉が閉まる音と共に静寂が訪れた。
「……思い出したんか?」
「思い出した?」
「何でもねえ」
何でもねえなんて訳がない。問いただそうとしたものの、孝明はそれより早く言葉を続けた。
「将生さん。思うんじゃが、忘れとった方がええよ。あんためげてしまうわ」
「待って待って……誰が、何を、忘れているって?壊れるって何?」
一体何を言っているのか訳が分からない。混乱する俺の事など置き去りに、孝明の低い声が受話器越しで響く。
「もう十年も経つのお。米倉さん、今何してるんかね。まだ将生さんの事心配で、その辺におるんじゃなかろうかね」
懐かしむような優しい声に不覚にもホッとした自分がいた。孝明だけは何時でもそうだ。引き摺るなとも言わない。胸糞の悪い慰めもしてこない。そして俺の他にたった一人、今もあの男の墓参りに出向いている。
「気持ち悪い事言うなよ」
「あ!今後ろ振り向いたじゃろう!」
受話器の向こうで遠慮のない大爆笑が響く。ガキが。
「ほんじゃあな!」
口を開く間も与えず、電話は切られた。まるで何の解決にもならなかったが、嵐のような一方的な会話に早まっていた鼓動も大分落ち着いていた。
孝明は米倉さんが死んだ日、不運にもその場に居合わせた。自害の瞬間は目にしていなくても、同じ罪を背負ってしまったのだろう。あの日、あいつは高笑いをする俺を部屋から引き摺り出して、必死で即死である筈の米倉さんを救おうとしていた。そしてもう帰ってくる事が無いと知り、声が枯れるまで泣いていた。ただ、悔しいと。今はそれが羨ましく思う。俺も涙を流す事が出来ていたなら、こんな夢を見なくて済んだのかも知れない。だが、何を忘れる事がある。匂いも、微かな音さえも、何もかもが鮮明に残っていると言うのに。
弱った心を硬め、純平に言った己の言葉を噛み締める。誰が何と言おうと、俺は一生背負って生きて行く。引き摺ってると言われても、未練がましいと詰られても。罪悪感なんて物もない癖に、自ら傷口を抉る無意味な自虐行為だ。自分が誰よりも愚かな人間である事は分かってる。それでも俺はきっと永遠の眠りに付く迄、あの男が遺した愛情と言う名の鎖に縛られているのだろう。そして自分がどれ程に歪んでいるかを思い知る。それを思うとあなたは誰よりも、狡い男だ。
悪夢の残骸を履き捨てるように煙草に火を付ける。そう、ある訳がないのだ。俺が声を上げて泣いたなんて。それを都合の良いように忘れているなんて──ある訳がない。
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