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『Underground wolF』
七階のアイロニー
しおりを挟む晴れ渡る空。真夏の太陽が相変わらずビル群の輪郭を歪ませる。
「おはようございます」
「おはよう。あとはよろしくね」
何時ものように山室と短い言葉を交わし、俺は一人マンションを後にする。地上迄降り立ち燦々と降り注ぐ太陽の下に出た途端、余りの温度差に眩暈がした。いよいよ夏も本番だ。熱中症で倒れる人のニュースが連日テレビを賑わせている。
「おはようございます」
「おはよう。今日は一段と暑いね」
愛想笑いすら向けてくれない慎太郎の開いた扉の中に身体を滑り込ませると、一瞬で噴き出た汗がこれまた一瞬で冷やされた。それでも流れ出した窓の外を見ているだけで、家を出る前に締め上げたネクタイを今直ぐに解いてしまいたい衝動に駆られる。
冷えた車内の空気を少しでも味わおうと、汗の滲んだ顔を手で扇いでいる俺に向けて慎太郎がミラー越しに冷たい視線を投げた。
「……何か、機嫌良いですね」
そう見えるのならその理由は一つしかない。
「久しぶりに落ち着いて朝食が食べれてね」
今朝は純平も冬弥も、誰一人俺に近付こうとはしなかった。昨日の今日で子供染みた引きこもり達と顔を合わせる気も無いから、俺も特に呼ぶ事もせず、久しぶりに平和な朝を迎えたのだ。
こうして考えるとやはり俺は一人が好きだ。部屋住み時代なんか正に地獄のようだった。朝食を作るだけなのに同じ部屋住みの兄貴衆と殴り合いの大げんかなんてザラ。何時も間を持ってくれる米倉さんは朝が弱くて、調理場の喧嘩をしている頃はまだ夢の中だから若さ漲る荒くれ者を治められる人間はいない。血の付いた卵焼きを仏頂面を並べて食べていた、遥遠い過去の日々。今思うと可笑しくて、ついつい笑ってしまった。そんな事を思う程、邪魔をされずゆっくりと過ごせた朝は気持ちの良い物だった。
その日、ニ件の顔合わせと打ち合わせを終え、空に薄闇が広がる頃、俺は自宅ではないマンションの前で下ろされた。
「お疲れ様。じゃあまた明日」
慎太郎に軽い挨拶を終えてマンションの中へと進む。エレベーターに乗り込み七階迄の道程で、ネクタイを指先で軽く緩め、本日最後の仕事へと向かった。
何時もの如く、玄関前迄辿り着いたと知らせる前に扉が開く。少し驚いた顔の俺を見て、この家の主、土田陽介は照れたように笑う。
「お疲れ様」
「今晩は。遅くなってすみません」
微笑み掛けた俺の腕に引っ掛けていた上着を受け取り、家の中に導く様はまるで嫁だ。二回目に結婚した女はこの男によく似ていた。そんなどうでも良い事を思い出す。リビングに足を踏み入れるや、土田陽介は焦りに変な笑いを漏らす。
「ごめんね、散らかってるんだ」
言葉の通り、酷い有様だった。上着を丁寧に掛けた土田陽介が慌てて床に散らばったゴミに本に書類、おまけに衣類を拾い集める横に、同じように腰を落とす。
「やっておきますよ」
「いや、でも──」
遠慮の塊のような男の手に、本を拾うフリをして、そっと触れる。それだけでピクリと身体が強張った。こんな所に引き籠っているからか、この男は何時迄も初心だ。縫い付けられたように重なった手を凝視している横顔に笑を噛み殺し、頬を隠す黒髪を耳に掛けると濡れた瞳がゆっくりと俺を仰ぐ。甘い快楽への期待と、堕落への恐怖。鬩ぎ合う二つの感情は、俺の指先一つでどちらにでもころりと転ぶ。
「味噌汁……噴いてしまうんじゃない?」
「……あ!」
慌ててキッチンに走る背中を見て、思わず笑が漏れた。
土田陽介の作った夕食を食べ、風呂を借りた後は寝る迄ソファでテレビを見ながらゆったりと寛ぎ珈琲を飲む。たまに身体を重ねる事はあれど、俺達は大概こんな恋人ゴッコをしている。それがこの男の、口には出さない望みだから。甘えるように肩に凭れる髪を梳き、ふと視線を落としたローテーブルに重ねられた本の中から一冊を手に取る。
「これ、面白かったですよ」
溶けていた瞳が途端に鋭く尖り、ほくそ笑む俺を睨め上げた。
「……それ読まないでって言っただろ?」
「どうして?何時も俺の事をどんな風に見てるのか、よく分かったよ」
至極嫌そうにキツく結ばれた唇の端に小さくキスを落とす。ふいと逸らされた視線が、俺の右手で止まった。
「……それ、どうしたの?」
未だ抜糸の済んでいない大袈裟な包帯に向けられた瞳が、不安気に揺れていた。
「ああ、ちょっと包丁でね」
小さな笑と共に吐き出された見え透いた嘘に土田陽介は顔を顰めた。この男は嘘を吐かれる事を何より嫌う。こんなどうでも良い事でも、嫌な想像を巡らせてしまうのは癖みたいな物なのだろう。みるみる少し俯いた顔が色を亡くして行く。ご機嫌取りに抱き竦めようと伸ばした腕は、やんわりと制された。
「……今日はもう帰ってよ。締め切りも、近いしさ」
「別に仕事してて良いよ。何なら夜食作りましょうか?」
迷ったのだろう。一瞬形の良い唇が、きゅっと締まった。
「将生君が側にいると、仕事にならない」
捻じ曲がった嫉妬心から来るツレないフリ。この男はまるで我儘な女みたいだ。
「分かりました」
そんな捻くれた言葉に応じて俺は帰宅の準備を始めた。
「将生君……!」
慌てて立ち上がった男の腰を引いて、驚きに開いた唇を塞ぐ。舌先を差し込み、なぶるように歯列をなぞると、唇の端から小さく漏れた吐息が悩ましい甘さを孕んでいた。尾を引くようにゆっくりと離した唇が、物足りなさに空を噛む。濡れたそれを拭ってやって、俺は惚けた男に微笑み掛けた。
「おやすみなさい。頑張って下さいね」
小憎らしい言葉を残しマンションを後にする。
留まるとでも思った?そんな詰まらない事はしない。そもそも、俺は望まれるように動いているだけだ。あの男は自分でも気付かぬ内に、決して満たされないと言う快感を求めている。上手く手を引いて、飽きる迄、側にいてあげる。愛人なんて所詮はそんな物だ。
俺にしては珍しく、緩んだタイをぶら下げただらしのない出で立ちでマンションの扉を抜けると、横付けされた一台の車の脇で、薄闇に螢火が揺れた。外国生まれの黒塗りのワゴン車に凭れた男を見た瞬間、ぞわりと背筋を悪寒が走り抜けて行った。
「晩上好。マサキさん」
暗闇に浮かぶ人影が発した聞き慣れない中国語。加えて俺の待ち伏せをする人間なんて一人しか浮かばない。
「……どうしてここに?」
警戒心を露わにする俺に、物好きな福建マフィアの男、劉秀蓮は、煙草の火を揉み消し人の良さそうな笑みを向けた。
「貴方に会いたくて。この後どうですか?」
今年は厄年なのかもしれない。そんな事にはついぞ興味の無い俺がそう思う程、最近ついてない。
「生憎今日は疲れているので」
「では送りましょう」
間髪入れずに言葉が続く。随分と必死な男に向けて、俺は嫌味にも取れる程良い笑顔を向けた。
「そんなお気遣い頂かなくて結構ですよ。タクシーを呼びますから」
「乗って」
相変わらず半ば食って言葉が投げられる。フルスモークで中は伺えないが、車内に人の気配は無い。それに前のセダンタイプとは違う事から、今回の突撃は十中八九プライベートだ。だとすれば狙いは一つ。思わず漏れそうになった舌打ちを、口の中で噛み殺す。
「……しつこい男は嫌われますよ?では、再見」
背の高い男の耳元に唇を寄せて、聞き齧りの中国語でさよならの挨拶を囁く。そのまま歩き出そうとした俺の身体は、厳つい腕で簡単に引き戻された。
硬い鉄板が背中を打つ。一瞬何が起きたか分からない程に素早く身体の自由は奪われた。生温い夜風に紛れ、熱い吐息が頬を掠める。同じ男の筈が片手で両腕の自由を奪われ、この男の体格の良さを思い知らされた。それもこれは特別な訓練を受けた人間の成せるワザだ。多分、軍隊とかそこら上がりだろう。
呑気に脳内解析している隙に、空いた手が首元にぶら下がるだけのネクタイを抜き取った。何でも無い筈のしゅると抜ける衣擦れの音がいらぬ色を孕む。そのお陰か、男の深い漆黒の瞳にまるで野生の欲情の色が燻り始めていた。
「私がそんな風に逃げられると追い掛けたくなる事は承知の筈でしょう?誘っているとしか思えない」
この男の言う通り、今夜はやけに人をおちょくってみたかった。それもこの世で最も危険な猛獣をね。だが、おちょくるだけで十分。既に頭はこの状況からどうやって逃げるかに変わっていた。深夜の高級住宅街に人の通りは一切無い。最近穏便に事は済ませたい派の俺としては不幸中の幸いなのかもしれない。
息を呑む一瞬の内に頭を巡らせ、口元だけで笑みを作る。
「俺は男も好きですよ。女とはまた違った魅力がある。だが、生憎抱かれる趣味はない」
「相手が私だからですか?」
劉はそう言って、風体に似合わず切な気に眉尻を下げた。
「性質の問題ですよ」
「よく分かりました。ですが、私は諦めない」
それは分かってるとは言わないんだが。そんな事を心の内でボヤいている隙に、劉は抜き取ったタイで後ろ手に手首を締め上げた。その縛り方までも常人の其れじゃない。全く思ったより恐ろしい男を挑発してしまったもんだ。
抵抗もせずされるがまま後部座席に押し込まれると、腰を下ろした劉は何を血迷ったか向き合うようにその膝に俺を乗せた。細身ではあれど、日本人にしてはタッパはある方なんだが、こう易々と抱き上げられたのでは不安になる。余りに至近距離にある顔面から逸らそうとした顔は、ゴツゴツした指で簡単に引き戻された。
「よく見て、マサキ。貴方が誘惑した男を」
誘惑──した訳ではないんだが、結果としてそうなってしまったのだろう。ねっとりと熱を帯びた視線に顔の細部を舐め回される嫌悪感は半端な物ではない。腰に添えられた手が緩々と身体のラインを撫で上げ、顎を辿る熱のこもった指先に、自分に向けられた恐ろしい欲情の色をまざまざと見せ付けられた気になった。だがそんな粘っこい痴漢行為よりも、太腿に跨る俺の下半身に押し当てられた怒張に思わず顔が引き攣る。一体何処の馬だと引いてしまう程に劉秀蓮は立派な物を持っていた。そんな凶器を突っ込もうと言うのだろうか。どうかしている。俺を殺す気か。
「……言っときますけど、何をされても無理なものは無理です。何度も言うように俺は男に抱かれる趣味はない」
諦めの悪い俺に向けて劉は小さく笑うと、腰に添えた手を離し何かをポケットから取り出した。
「日本のマフィアにもあるでしょう?どうしても手に入れたい物を、落とす方法が」
欲情に淀んだ瞳で射抜かれ、逸らす事の出来ない視線の片隅にチラリと映ったのは、俺の見る限り完全な違法薬物。そんな物迄仕入れているとは正直恐れ入った。薬物系に一切手を染めて来なかった俺にはさぞや効く事だろう。これは本当にそろそろ身を危ぶまねばいけないのかもしれないと、取り敢えず時間稼ぎに口を開く。
「俺の事を抱きたいならそんな物に頼らず溶かしてみな。……出来るものならね」
一丁前に啖呵を切って、さてどうしようと頭を巡らす。一瞬鋭く瞳を細め、劉の右手が再びポケットに沈む。
「貴方の言う通りだ」
取り敢えず薬を使わせない事には成功した。こんな事を言われて迄薬に頼るなんて、この男には出来ない。地球上に生きる人間の中でも自尊心はかなり強い方だろうから。それでも状況はさして変わる訳ではないのだけれど。力尽くで抵抗しないのは元々の性か、この男に力で勝てる気がまるでしないからか。何方にしても暴れ回る気は毛頭無かった。
そうこうしている内に、シャツのボタンが焦らすように殊更ゆっくりと外されて行く。一つ外れる度に熱すぎる唇がその後を辿り落とされ、俺は嫌悪感を噛み締めながらひたすらに逃れる術を探していた。だが考えている内に劉は全てを外し終えてしまった。其処で漸く身体を離したと思えば、次いでざらりとした指先がなぞる様に肩から鎖骨を滑り落ち、胸の手前でピタリと止まる。
「……見ても?」
そう問い掛ける男の瞳に淀みを放つ物は、宛ら欲望に忠実な本物の獣の其れ。
「どうぞご自由に」
こんな絶望的な状況でも余裕をかます自分が嫌になる。非常識な仕打ちをしている癖に、劉はあくまで優しく俺を膝の上から下ろし革張りのシートにうつ伏せに寝かせた。猛獣の前に献上された生贄のように、俺は息を潜める。まあ実際それと何ら変わりはない。
緊張と暑さでベタついたシャツがゆっくりと剥ぎ取られ、縛った手首に引っ掛かりその動きを止めると、背後の男が生唾を呑み込んだのが空気で感じられた。大きく甘い吐息が吐き出されたのを皮切りに、背中につと指が這う。
「美しい──。マサキ、これは?」
肩越しにちらりと見やった男の瞳に、まるで少年のような幼さが宿っていた。そんな熱い視線を嘲笑うかのように、俺は小さく鼻で笑って見せる。
「地獄絵図ですよ」
程良く付いた背筋の隆起を我が物顔で這い回る真赤な業火と、その中を踊り狂う餓鬼共。俺の背中一面に精緻に彫り込まれているものは、そんな至極趣味の悪い不気味な絵面だ。一歩間違えればまるで酷い火傷の痕にも見て取れるそれは、紛いも無い裏社会の刻印。だがこれを見て俺の正体に気付く女は不思議といなかった。若気の至りで入れたお洒落だよと言ってやれば不思議とそれを信じる。それどころか、背中だけに留まらず、左肩を這って胸に伸びる真紅の蛇にも似たそれを見て瞳を濡らす酔狂な女もいた位。
社会的な地位も有る。何よりこんな品の良いヤクザはいない。そんな先入観が正常な判断を鈍らせるのだろう。全く愛だの恋だのに現を抜かす人間程おめでたい物はない。
「どうしてこの美しい躯にこの絵を?」
思慮の波間に漂っていた俺は、耳元で囁かれた言葉にぞわりと身体を震わせた。美しい美しい、気持ちの悪い奴だ。確かに鍛え過ぎている訳でもなく、元々線は細いが軟弱にひょろっと伸びている訳でも無いこの身体を良い体と表現する輩は数多くいた。見てくればかりの立派なスーツを脱いでも幻滅されない程度に気を使ってはいるから。それは女に不自由しない為でもなく、全て金の為だ。そんな物を美しいだなんてほざかれた事が、何だか無性に笑えた。
「劉さん。あんたも同じじゃないのかい?俺達の生きているここは何処だ?何もかも金で思い通り。快楽も、明日の生死も思いのまま。表の地位迄手に入れる事が出来る。目に見える幸せ。満たされた高揚感に満ち溢れている」
其処で一旦思わせ振りに言葉を区切り、組み敷かれた身を捩って見下ろす男と視線を合わせる。反射的に添えられた無骨な手に頬を擦り寄せながら、惚ける男に向けて、俺は唇の端を持ち上げて見せた。
「ここはそんな、極楽浄土だろう?」
俺の言葉を噛み砕くように揺れる深い瞳には、不適に笑う何とも淫靡に乱れた自分が映り込んでいた。
これはやはり、危機感が足りなかったと反省するしかない。そもそも男に迫られる事が初めてではないのだから。俺は至極危うい位置に立っている事は自覚済みだ。どんな性癖の、どんな性質の人間も、一度は手を出してみたくなる全くの中立点。俺を抱きたいなんて奴は片っ端から蹴散らしては来たが、どちらもいけたらさぞや楽しかったろう。俺はこんな風に、抱かれる気も無い癖に、微笑み一つで理性の箍を外してやる事も出来るんだから。
卑屈な笑みを浮かべる俺を見下ろす劉は、小さく頷いた後に俺と大差ない卑屈な笑みを口元に作った。
「だからこそ、貴方は美しい」
そしてそんな言葉を呟いて焔が這う鎖骨に伸ばされた指は、何故か触れる事なくピクリと強張る。この不気味な絵面に触れる事が今更恐ろしくなったのだろうか。それとも、神聖な物に思えた?何方にしてもこれ程面白い事はない。
視線を縫い付けられた男の耳元に唇を寄せて──。
「気後れでもしましたか?」
俺は殊更意地悪く囁いた。最後の挑発に耐え切れなくなった獣は、湧き上がる怒りにも似た征服欲を抑え切れずに無抵抗の獲物に食らい付く。乱暴に塞がれた唇が衝撃に薄く開いたのを良い事に、無遠慮な分厚い舌が我が物顔で口腔をなぶり上げた。上顎を撫で上げたかと思えば直ぐに引っ込めた舌を吸われ、挙句丁寧に歯列迄なぞりまた大きく唇を食む。苦しくて漏れ出た吐息さえ、この男によって貪欲に絡め取られて行く気がした。
自分でも呆れる程に俺は人の自尊心を掻き乱す事が好きらしいとは、この時に強く実感した。残念ながら今の俺にはこの男を受け入れる事しか出来ない。どんなに牙を剥こうとも、この状況が何一つ変わる事は無いと分かってはいた。仮に俺が性病だと言ってもこの男は諦めないだろう。だからこそ、意味の無い負け惜しみで煽るのだ。それでも諦め切れない俺はなけなしの頭を働かせる。だが考えれば考える程、捻くれた性質のお陰で自ら絶った退路は最早遥か彼方。これから先の逃げ道と言えば、精々初めての痛みに狂う自分を存分に可愛がってもらう事位。可愛く啼いてやる気は毛頭無いが、結局どうしようもないのが現実だ。
執拗に繰り返される貪るようなキスに耐え兼ねて小さく首を振ると、思いの外簡単に劉は引き上げた。
「しつ、こい……!」
息も絶え絶えに吐き捨てる俺の乱れた髪を掻き上げ、唇の端から零れた淫靡なぬめりを劉は態といやらしく指先で掬い上げる。
「すまない。遂に貴方を私の物に出来ると思うと」
照れたように笑う男を前に、現実から目を背ける為に細めた瞳がぐわっと開いた。誰が、お前の物になるって?
「ほざくなデカブツ」
最早酸欠でぼやける頭では、キレの良い悪態さえ付けない。だが普段手綱を握ってばかりいる俺は、自分のペースとはまるで違うこの男が一秒毎に憎らしくなって行くのを感じていた。支配される事は好きじゃない。と言うよりも、何より嫌いだ。
今正に男に犯されようかと言うには、余りに空気の読めない鋭い敵意を態とらしく剥き出してやる。そんな愚かな俺を見下ろす男の顔に揺れる仄暗い欲情の色は、随分と濃くなっている気がした。
「私は貴方のそう言う所が愛しくて堪らない」
脇腹から這い上がるザラついた掌の感覚に、背筋が粟立つ。跳ね上がった喉にキスを落とし、劉はうっとりと瞳を細めた。
「貴方の躯は、本当に美しい」
耳に熱い吐息が掛かり、上った指先が一点を乱暴に弾く。
「あぁっ──!」
敏感なそこへ与えられた乱暴な刺激に思わず情けない声が上がり慌てて口を噤むも、時既に遅し。捕食者は嬉々として瞳を輝かせ、先程の鋭い刺激で勃ち初めた小さな突起に熱い舌を絡ませた。それでも飽き足らず、更なる快楽の谷底に引き摺り下ろす為に空いた手が素肌を撫で上げる。
眼前の獲物を骨迄も味わい尽くさんばかりのねっとりとした愛撫は、酷くこの男らしい物だ。身体中の性感帯を探り当てようとしている癖に、核心には決して手を出さないのもまた然り。だが焦らしている、と言うよりは、まるで芸術品を愛でると言った表現が適切だ。劉秀蓮は俺と言う生きる娯楽品を隅の隅迄鑑賞し、興奮を最高潮迄引き上げた上で、最後に快楽と言うスパイスを上乗せする気なのだろう。全く趣味も頭も悪い事を。だがそんな事を解析した所で何も意味は無い。俺の、嫌な癖だ。
そんな思考はそっちのけで、身体は男の思うように弄ばれてしまう。尖った舌先で転がされる度に情けなく腰が浮いて、強く吸われれば漏れる小さな呻き声すら、この男の耳には毒となっていた。
「……気持ち良いのかい?」
肌に熱い吐息が掛かり、全身がまたぞわりと粟立つ。互いのスラックス越しにも感じる程逞しさを増して行く凶器をぐりぐりと内腿に撫で付けられ、久しく感じていない恐怖と言う感情さえ沸き起こりそうだ。漸く執拗な愛撫から解放された胸の小さな突起は、紅く熟れてまるで誘うように勃ち上がっている。何を思ったか、劉は突然其れを爪先で摘み上げた。
「んっ……!」
びりっと走る痛みにも似た鋭い感覚にびくりと身体が跳ね上がる。咄嗟に唇を噛み締めたのが災いして、漏れ出た悲鳴はまるで仔猫の上げる媚声となってしまった。
「随分と感度が良いね、マサキ。こんな所を弄られるのは初めてじゃないのかい?」
唾液で滑る其処をしつこく弄くりながらしたり顔で問われ、思わず頭に血が昇る。
「くそっ、死ね……!」
俺らしくもない子供染みた稚拙な暴言は、更に男の顔を恍惚の色に染めた。
「可愛いよ」
粘っこく囁かれた言葉に全身の力が一気に堕れた。なんたる屈辱。
細いベルトに手が掛かり、俺も漸く腹でも括ろうと深く息を吐き出して見た。唇が震え、吐息が思いの外熱い事を知った以外何ら変わる事は無かったが。いや、それを知っただけで更に頭に血が昇りクラクラした。そう、これは正に絶望だ。俺はこれから誰も触れた事のない初心な蕾に凶器を穿たれ、激痛にもがくのだ。絶望だ──。
文字通り、ポキンと心が折れた。その刹那、後部座席の分厚い扉が思いっきり良く開かれた。
「そこ迄にしてもらおうか」
次いで耳に入った聞き覚えのある声に、俺の口から珍しく素っ頓狂な声が上がる。
「沢尻!?」
ピタリと静止した劉の後頭部には、何とも物騒な拳銃が突き付けられていた。
「劉秀蓮さんよ。ウチの幹部に手付けて唯で済むと思ってますか?それもその人は組長の大のお気に入りと来てる」
喋りながらも固まる男越しにとっとと車を降りろと目配せをされ、俺は慌ててのしかかる男の下から車外に這い出た。それを見届けた沢尻がジリと後退りながら間合いを取る。危険なのだ。例えこちらがどんな武器を持っていても、軍隊上がりの人間の間合いにいるなど。
「悪いね。この色男は女でも男でもその気が無い癖に誘惑するのが趣味だ。だが手に入れる事は誰にも出来ない。例えこのまま無理矢理に犯したとしてもね。分かるだろう?そう言う悪趣味な男なんだよ。あんたも男なら潔く身を引きな」
劉は背を向けたまま、黙って沢尻の言葉に耳を傾けていた。拳銃を突き付けられ恐怖に固まっている訳では無い。それが酷く不気味に感じた。
これ以上留まるのも危険と察し、乱暴に車の扉を閉めると、沢尻が走り出す。必然的に俺もその後を追った。
マンションの裏手迄走り、ようやく停めてあった車の前に辿り着くや、息を切らせた沢尻が鋭い視線を俺に投げた。
「何をしてるんですか!」
「……見てた?」
まるで母親に稚拙な悪戯が見付かった子供のように悪びれなく肩を竦める俺を前に、沢尻はそれはそれは深く溜息を吐き出す。
「……本当、勘弁して下さいよ。自分がどの性質の人間からも欲情される質だって分かっていますよね?男も、女も、抱かれたい奴も抱きたい奴も、五万といる。本当危なっかしいったらないですよ。楽しむのは良いですけど、相手を選んで下さいよ」
くどくどと説教が始まりそうになって、俺は慌ててそれを遮った。
「ところで何でここに?神戸に帰ったんじゃなかったの?」
「御宅の組長が張っとけって言うからですよ。他の組員は皆あんたに近付きたがらないですからね」
そもそもだったら何でもっと早く助けに来てくれなかったのかと詰め寄ろうかとも思ったが、未遂で終わったのだから今は良しとしよう。そんな心の中の独り言を知らず、沢尻は淡々と言葉を続けた。
「この件は元々どうもきな臭い所はあった。あんただって薄々は気付いていたでしょう?劉と繋がっている奴がいる筈なんです。組長は端からあんたを疑ってもいなかったし、そもそもあの臭い芝居もハッパ掛けただけだって筒抜けですよ。まさか本気でやるとは思わなかったって笑っていましたけどね。あんたの気持ちも分かりますけどね、もう少し節度を持って行動して下さいよ」
溜まった鬱憤を全て吐き出し、ふと沢尻の視線が顔から上半身へと移行した。
「……取り敢えず服着てくれますか?こんな所で立派なモン見せびらかさないで下さいよ品が無い」
「ああ、ごめん」
思いの外お互い福建マフィアのストーカー行為に舞い上がっていたようで、上半身が劉に剥かれたままだった事さえ忘れていた。シャツを羽織ろうとしたものの、思った通りに腕が動かずそこでも俺は愕然とした。縛られていた事さえ忘れていたのだ。
「……解いてくれる?」
くいと肩を上げ、自分では解けないアピールをする俺を心底嫌そうに見やると、沢尻は渋々背後に回る。
「しかし……何時見てもあんたの身体は見惚れますね。劉の気持ちも、あのマンションの小説家の気持ちもよく分かる。まるで歩く食虫植物ですよこの色魔」
褒めているのか貶しているのか良く分からない物言いだが、沢尻の此れは照れ隠し。その昔まだ俺の本性に気付いていない時、確かにこの男が性的な目で俺を見ているなんて事もあった。今では目が覚めたようだけど。しかしコソコソ俺と土田陽介の関係迄探っていた事に多少の面白くなさを覚える。
「抱いて欲しい?」
背後でタイと格闘する沢尻は、無駄に艶っぽく囁かれた言葉にピタリと手を止めた。落ちていた視線が侮蔑を含みゆっくりと上げられる。
「……その情けない格好のまま環八のど真ん中に捨て置かれたいですか?」
「嫌だな冗談だよ」
可笑しそうに笑う俺とは対象的に、沢尻は複雑な表情を浮かべた。キツく縛られた手首が漸く解放され、軽く痛む腕に優しくシャツが通される。
頭はキレるが二番手がお似合いのこの男らしい気遣いは、何年経っても居心地が良い。沢尻が神戸に引き抜かれなければ山室も慎太郎も必要は無かっただろう。口煩い性格は鬱陶しいが、それ位俺はある種この男をあの二人同様に認めてはいるし、この男はこんな事を言いつつ俺を認めている。まあ、結局沢尻が引っこ抜かれて惜しいと思うのも俺が煩わないってだけなのだけど。
「将生さん。約束してくれますか?」
そんな事を考えていた俺の耳元で、不意に囁かれた低い声に一瞬息が詰まる。
「……ん?」
手渡されたネクタイを適当に締めながら態と気の無い返事をする俺の後頭部に、こつんと額が押し当てられた。
「これ以上、生き急ぐような真似はしないで下さい」
普段冷めた面で唯一俺を詰るこの強気な男には似つかわしくない、弱々しい声色。神戸に戻らなかった訳が、其処にも確かに息衝いていた。
「……そんな事、していないよ」
その嘘に沢尻は答えなかった。唯薄いガラスの向こうで、弱い街灯の光を宿した瞳が、微笑む俺を見詰め淋し気に揺れていた。
そんな傍迷惑な事態が収束し、ようやく家に辿り着いた頃には深夜一時をとっくに回っていた。俺について家に上がった沢尻はリビングに出るや細い眉を目一杯吊り上げた。
「託児所でも始めたんですか?」
訝し気な視線の先ではリビングのソファで何故か仲良く眠る、冬弥と純平の姿。そして対面には几帳面に身を縮込めて眠る山室の腕の中で、これまた猫みたいに丸まって眠る雪がいた。眠る居候と監視者達を起こさぬよう沢尻を寝室に招き、窓の外の見飽きた夜景が目に入った途端、俺は思わず吹き出してしまった。
「……何です?気持ち悪い」
本気でそう思っているのだろう。最早狂人を目の当たりにした時のように怯えと嫌悪感を色濃く滲ませていた。そんな一歩引いた沢尻を軽い手招きで呼び寄せる。
「沢尻、耳貸して」
そして不信感を露わに近付く男の耳元で、今宵行われた余興の代金を、仕掛け人たる人物に支払って頂く旨を伝えた。沢尻は驚きに目一杯瞳を開き、微かに唇を震わせていた。
「裏、取れるよね?」
嫌な笑を口元に浮かべ問い掛けた言葉に、沢尻は恐る恐る小さく頷いた。
俺は自分を欲求不満の軍隊上がりの福建マフィアに売った人間を、そう易々と許せる程残念ながら心は広く無い。それどころか気性は人一倍、荒い方だ。未だに身体に残る粘り付く様な感触に、耐え切れず傍の椅子を蹴り上げる。静まり返る寝室に突如轟いた乱暴な音に、空気が心なしか、ピリと痺れた。こんな最高の気分は初めてだよ。
「思い知らせてやる──古狸が」
吐き捨てた言葉に、沢尻が小さく震えた。
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あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~
hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。
同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。
けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。
だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。
★BL小説&R18です。
恋なし、風呂付き、2LDK
蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。
面接落ちたっぽい。
彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。
占い通りワーストワンな一日の終わり。
「恋人のフリをして欲しい」
と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。
「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。
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