Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

悔恨

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 深夜の高層マンションに、物凄い轟音が鳴り響いた前日の事。俺は一人、広いリビングで後悔に暮れていた。
 間違った事をしてしまった。それは分かっている。だからこうして息の詰まる後悔に暮れる。それでも悔しかった。白井さんの心にはやはり他の誰かがいる事が。それでもどうしてもその瞳に自分を写したかった。寂しいあの人を変えたかったからじゃない。俺が不安だったから。捨てられる事が怖かったから。
 だけど俺の愚行は思いも寄らぬ結果を生んだ。あの人の心に傷痕を残す事など誰一人無理だと、分かってしまった。あの人が硬く閉ざしてしまった心の扉はきっと、原因を作ったその人にしか開ける事はできないのだと思う。

 その日は合わせる顔が無くて、早朝にソファの上で目を覚ましてから、白井さんが入らない押入れのような部屋に逃げ込んだ。押入れと言っても唯使ってない部屋で、紐を解いていない段ボールが三箱部屋の隅に置かれているだけ。余計な物を置かないあの人は、前のマンションでも持て余した部屋があった事を思い出す。
 寂しい部屋でぼんやりと膝を抱え時を過ごしていると、リビングの方で物音が聞こえた。白井さんが起きて来たのだろう。シャワーを浴びて、ニュースを見ながらキチンとした朝食を作る。あの人の変わらない生活スタイルに、不思議と胸が疼いた。それは一緒に暮らさないと分からない事。もっと沢山の事を知りたい。でも、知るのが怖くもあった。
 こうして会社を動かしながら社会に紛れて生きてはいるけれど、やはり思い出されるのは、その小指。白井さんは何があったのか俺なんかが知ってはいけないような、そんなディープな世界を生きている。米倉と言う男の事も。山室さんが聞かなかった事にしろと言った意味が漸く分かった。
 そもそも俺に何が出来る?例え血が繋がっていたとしても俺なんか眼中にあるわけ無い。だって白井さんは相手に苦労するような人じゃない。雪さんのように、誰もが振り向く容姿だったなら自信が持てただろうか。何の取り柄もない俺を、やはりあの人が愛してくれる訳は無いんだ。
 虚しくて、抱えた膝に額を押し付けてみる。そんな事をしても何にも変わらなかった。

 不意にコンコンと扉を叩く音が耳に触り、ふと目を開く。どうやら一瞬落ちていたらしい。
「……冬弥?いるのか?」
 扉越しに聞こえる無駄に渋い良い声は山室さんの物だった。と言う事は白井さんはもう家を出た。慌てて扉を開くと、訝し気な顔が見下ろす。
「そんな所で何してんだ。将生さん朝飯作ってくれてるぞ?」
「いや、うん……」
 歯切れの悪い答えに些か困惑しながらも山室さんは踵を返し、我が物顔でソファに寛ぐ雪さんの隣に腰を下ろした。山室さんが座るやその肩にこてんと頭を凭れる後姿を見ながら、テーブルに視線を移す。ラップに包まれた塩鮭にほうれん草の胡麻和え。今日の気分は和食だったようだ。ひっくり返された茶碗とお椀が、変に律儀なあの人らしい。まだほんのり温かい味噌汁とご飯をよそい席に付いてふともう一つ朝食が用意されている事に気付く。
「……純平は?」
「さあ。拗ねてんじゃないの?」
 此方を見るともしに答えてくれた雪さんは、さっき迄しおらしく頭を凭れていたはずが、気付けば山室さんの膝の上でごろごろと雑誌を読んでいる。一体何をしに来たんだか分かったもんじゃない。山室さんといちゃつきに来たのだろうか。
「……拗ねてる?」
 半ば呆れ半分で聞き返した俺の言葉に、何故か雪さんは乱暴に雑誌を閉じた。
「お前だよ、お前」
「何が?」
 小馬鹿にした言い方にムッとした俺を横目でチラリと見やると、雪さんは鼻で小さく笑った。
「わかんないの?純平は将生さんに惚れてるだろ?……惚れてるとはちょっと違うかもしれないけど。其処に見ず知らずの男がのこのこ介入して来たら?嫌だろ?そう言う事」
 のこのこって。
「純平より俺の方が付き合い古いし」
 血だって、繋がっている。純平よりもずっと、俺は白井さんと奥深くで繋がってるんだ。大体あの子は一体何なんだ。俺にしてみれば、純平こそ突然現れた存在。白井さんとの関係も何一つ分からない。だからこそ余計にあらぬ想像を巡らせてしまう。
「それ何の意味がある訳?付き合い古いからどうなの?」
 考え込んでいる俺に向けて、雪さんの攻撃が続く。思わず小さく唸ってしまった。雪さんの言う通り付き合いが古かろうが、多分俺と純平は大差ない。悔しいけど白井さんにとってみれば居候のガキが二人に増えて煩わしい程度だ。しかしどうしたんだろう。何で雪さんは今日こんなに攻撃的なんだ。いや、何時もだけど今日は少し違う気がした。虫の居所が悪いだけならとんだ迷惑だ。
 苛立ちを抑え切れず黙々と朝食に箸を入れる。完全に悪くなった空気を払うように、今迄傍観を決め込んでいた山室さんが漸く口を開いた。
「悪いな冬弥。唯の八つ当たりだ」
 呆れたようにそう言った山室さんは、膝の上で転がる雪さんを退けて俺の向かいに腰を下ろした。
「どうした。何かあったのか?」
 何か──山室さんとの約束を守れなかった事に、胸の奥が竦む様に痛む。
「……米倉って人の事、言っちゃったんです」
 悪いなと思いつつ顔色を伺った俺の目には、余りにも悲しそうな顔が映る。やっぱり俺は、してはならない事をしてしまったんだと実感した。
「嫌がったろう」
 ポツリと呟かれた言葉に小さく頷く。それっきり、顔を上げる事が出来なかった。自分の愚さが恥ずかしい。唯それだけ。
 そんな俺の頭上で、山室さんはゆっくりと言葉を繋いだ。
「俺もな、気になって昔の二人を知る奴に連絡を取ってみたんだ」
「隆司さんはお人好しが過ぎるんだよ。将生さんの為に伊崎と連絡取るなんて、どうかしてる」
 伊崎が誰か良くは分からないが、相当嫌だったのか、雪さんは不機嫌そうに足を組んだ。そんな雪さんの様子に困ったように微笑むと、山室さんは顔を上げた俺の目を真っ直ぐに見ながら言葉を噛んだ。
「やっぱりな、触れてやるなと言われたよ。そりゃあそうだ。将生さんがどれ程自分を責めたか。米倉さんを知る俺が分からない訳じゃない。あの人はバカに一途で……不器用な人だったからな」
 懐かしむように吐き出された言葉は、何処か優しい寂しさが滲んでいた。
「俺も一度聞いた事がある。今もまだ引き摺ってるのか、ってな。あの人は俺に言ったよ。米倉さんはもうこの世にはいない。それだけが、真実だと」
 与えられた言葉を噛み砕くように、ゆっくり頭の中で廻す。だけどまるでバラバラのパズルの様で掴み所が見当たらない。山室さんはそんな俺を待った上で、その答えをくれた。
「……分かるか?冬弥。将生さんは残された人生、立ち止まり続ける事を選んだ。後悔でも、罪悪感でも無い。唯米倉さんの命を背負い、生きる事を選んだんだよ。勿論、それが無意味だとあの人は分かってる。それでもそうせずには居られない程、本当は米倉さんを大切に思っていたんじゃないかと俺は思う。だが全て憶測だ。其処に行き着いた理由は将生さんにしか分からねえし、俺達が触れて良い事じゃあ無いんだよ」
 立ち止まり続ける。それがどう言う事か、俺にはいまいちピンと来なかった。一秒毎に変わりゆくこの世界で、そんな事が可能なのだろうか。そして白井さんはそんなにも、やはり米倉と言う男を慕っていた現実に、頭の中が暗く色を変えて行く気がした。これを愛と呼ぶには余りにも独りよがり。余りにも……自分勝手だ。悔しくて、握った拳が微かに震えた。
「……俺ね、妹がいたんだ。血は繋がって無かったけど」
 突然語り出した俺の言葉にも、山室さんは優しく頷き続きを促してくれた。
「小さい頃からずっと俺が面倒見てた。二人とも家に居ないし、いたらいたで母親は親父と喧嘩ばっかしててさ。仕方なく。でもさ、何時の間にか愛情が芽生えてた。お兄ちゃんって言って抱き付いてくるあいつが可愛くて、愛しくて、世界で一番大切だった。だけど俺が中学の時に、母親が連れて逃げたんだ。それ以来会ってない」
 まだ幼かった妹。今はもう、小学生だ。元気に暮らしてる?幸せに笑ってる?それが心配なのは、兄としての自分の本心。だけどもう一つ、俺の心の中で燻り続ける不気味な影。その正体に、俺はずっと気付いていた。
「俺ね、ショック受けるより先に、何で、って思った。俺は、捨てられたのに。あんな親父の元に、まともな人生なんか送れる筈も無い場所に捨てられたのに。どうして母さんは俺を連れて逃げてくれなかったんだ。何で美冬だけって。一瞬でも憎んだんだ」
 自分には無い物に向けた嫉妬心。それが健やかな心を押し潰す。捻じ曲がった愛情への渇望は何時しか異常な執着となっていた。
「白井さんが初めてだった。髪を梳いて、手を握って、俺の為に何かをしてくれて。そんな、普通の、優しい愛情をくれたのはあの人だけだったんだ」
 白井さんは俺を見てくれた。一度捨てられてからも、その想いがどんどんと俺の心の中で膨れ上がり、耐え切れない焦燥に追われ俺は此処に来た。愚かだと詰られ、先が何も見えないと知っていても、心は白井さんだけを欲していた。
「嘘だって分かってる。母親だって愛せなかった俺が、誰かに愛される事が出来る筈も無い事も。白井さんが、誰かを愛せる筈も無いって事も。でも、失うのが怖いんだ。だから傷付けても繋ぎ止めておきたかった。忘れられたくなかった。……側にいたいんだ」
 俺が自分勝手な告白を終えると、山室さんは大きく息を吐き出した。
「そうかい」
 それっきり、黙り込んでしまった。何かを言おうとしてくれてるのだろうと思う。だけど今の俺が何を言われても前に進む事は出来ないと、山室さんは知っているんだ。
「……純平起こして来ます」
 山室さんの為にも、自分の心を落ち着ける為にも、俺は朝食を一時中断して引き篭もっている居候の部屋に向かった。軽くノックをしてから扉を開き、俺は思わず息を呑み込んだ。窓の前に膝を抱えて座り込む後姿が、どうにも不気味に見えたから。
「純平、朝食」
 一瞬チラリと此方に視線を向けて、再び薄茶色の綺麗な瞳は晴れ渡る空を映した。
「……純平?」
 何と無く心配になって近付いてみると、思いの外鋭い敵意を宿した瞳が俺を捉えた。
「お前将生の何なの?」
「……何で?」
「邪魔しに来たの?」
「邪魔?」
 よく分からなくて復唱すると、純平はスッと立ち上がった。
「何で、将生はお前とは寝るのに僕とは一緒に寝てくれないの?」
 そう言うと、純平は突然俺の胸倉を掴み上げた。
「お前が来る前は一緒に寝てくれたのに!」
 その言葉と共に、握った拳が胸を叩く。細い腕は力も弱くて、痛みも余り感じない。綺麗な少年だと思った。子供のように我儘で、自分勝手。そして余りにも純真だ。
 二度三度振り下ろされただけで胸を打っていた拳は重力に習いずるりと落ちた。
「白井さんの事、好き?」
 小さな頭が頷くと、その反動で貯まった涙が零れ落ちた。純平もきっと同じ。愛情に餓え、白井さんを求めた。他人を愛せないあの人にそれを求めるなんて、矛盾しているだろうか。だけど高見で冷く見下ろしているように見えるあの人が、こうして傷付いた子供達を使う理由。それはこうして深く沈んで行ってしまう幼い心を、救いたいからなんじゃないかと思うんだ。そんな事を考える俺は山室さんと同じ、バカなお人好しなのかも知れないけど。
 日に透ける薄い髪に指を通し、小さく微笑んで見せる。
「俺もだよ。だからごめん……譲れないんだ」
 純平と俺では想いのベクトルが違うのかも知れない。それでも根本は同じ。あの男の色の無い瞳に、自分を映したい。それだけなんだ。
「……将生は、大切な人?」
 深く頷いて見せると、純平の細い眉尻が落ちる。
「そっか……」
 そう呟き窓の外に視線を流す横顔に、困惑の色が滲む。この子はどうしてこんなにも幼いのか。知りたくもあり、知るのが怖い。
「……痛かった?」
「え?」
 此方を見るとも無しに呟かれた言葉に思わず聞き返してしまった。バツが悪そうに眉を顰め、純平はぽつりぽつりと言葉を噛んだ。
「お母さんが、痛い事したら、謝りなさいって言ったから」
「……純平はお母さん好き?」
「好きじゃない」
 半ば食って吐き出されたのは、この少年の本心では無いのだろう。それでもその横顔に揺らぐ不気味な陰りに、それ以上考える気も失せた。
「……そうなんだ。俺も、よく分かんない。あんまり覚えてないんだ。好きか嫌いかもわかんない。唯、何で俺を捨てたのか……それだけが聞きたい」
 家族と言う物は不思議な物だと、その時に実感した。顔ももう覚えていないのに何時迄経っても焦がれ、そして縛られる。そんな事を考えても遣る瀬無さが積るばかりだから、俺は純平の小さな手を取った。
「純平、ご飯食べよう?白井さんが作ってくれたから」
 目を合わせてはくれなかったが、純平は小さく頷いてくれた。

 それから純平は何だか俺に懐いてくれた。何処に行くにも後ろをちょこちょこと付いて回り、まるで仔犬を飼ったような気分になる。やる気の無い雪さんに勉強を教えてもらった後も俺の側にぴったりとくっ付いて離れず、寝る時間になったら一緒に寝ると迄言い出した。困ってしまったけど、仕方が無しに俺はソファで純平と身を縮こめて眠った。
 そしてその日の深夜。突然轟いた轟音に四人揃って飛び起きた。思わず声を上げそうになった俺に向けて、薄闇の中山室さんが人差し指を唇に当てる。思わず揃って息を呑み、寝室の扉を凝視していると、白井さんが何食わぬ顔で顔を出した。
「あれ、ごめん起こしちゃった?」
 当たり前だろうと非難してやりたい気持ちと、白井さんが余りに何時も通りであった安堵感に全身の力が一気に抜けた。ソファの背に深く沈んだ俺に目もくれず、電気を付けた白井さんはキッチンに足を運ぶ。
「山室どうする?帰る?どっちでも良いよ。タクシー代は出すから」
「ああ、そうですね。どうする?」
 傍迷惑そうに欠伸をしていた雪さんは、その問い掛けに眠気を抑え切れずころんと転がった。
「泊まる。面倒臭い」
「そう、分かった」
 そっちのカタが付いた所で、漸く視線が俺の方に向いた。
「おはよう。二人は仲良くなったの?」
 何と言ったら良いのか分からなくて曖昧に頷くと、寝室の扉から何故か見知らぬ男が姿を現し、一瞬場の空気が凍り付く。あっさりした顔付きに、銀縁の薄いフレームの眼鏡をかけた知的な人だった。その場の誰もが一体誰だと思っているだろう。そんな空気を察してか、白井さんが思い出した様に答えをくれた。
「ああ、こちら沢尻和磨って言ってね、神戸からわざわざ俺に会いに。沢尻と山室は初めてだよね?ほら、秀司さんの兄貴。噂は聞いてるでしょ?」
「ええ、噂は予々。初めまして。嶋河会の沢尻です。秀司さんには生前随分とお世話になりました」
 そんな丁寧な自己紹介で、その男がヤクザだと知る。この人も……見えないな。山室さんが軽く会釈すると、沢尻と名乗った男は横目で俺を見やった。
「にしても何ですかこの乳臭い連中は。あんたに少年趣味があるとは思いませんでしたよ」
 呆れたように吐き捨てられた言葉に、心臓がギクリと竦む。白井さんが何て答えるのか知りたいのに、聞けば傷付く気がした。伺うように盗み見ると視線がぶつかり、思わず顔を逸らす。そんな俺を見てか、白井さんは小さく笑った。
「まさか。純平は唯の居候だよ。ああ、でもこの子はね、今の俺の恋人」
 白井さんが飄々と言ってのけたそれは、望んでいた筈の答えだった。だけどどうしてだろう。俺は嬉しいと、思えなかったんだ。恋人になりたいと言ったのは俺で、白井さんの事が好きだ。それは変わらない。唯少し、胸が切なくなった。
「悪い男に捕まっちゃったね、僕。早いうちに目覚ましといた方が良いよ?」
 沢尻さんから発せられた予想外の優しい声色に思わず小さく頷いてしまった。嫌味でも無くそれは本心なのだろう。そんな事、言われなくても分かってる。
「さあもう寝ようか。明日から忙しくなるからね」
 白井さんはそう言って微笑んで見せたが、何時も以上に目が笑ってはいなくて、背筋がゾッとした。もしかしたら俺の事を怒っているのかもしれないと言う恐怖心が、ジワリと汗を滲ませる。やっぱりちゃんと謝った方が良いんだろう。そうは思ったものの、こんなに人がいる前だとお互い気まずい。
 取り敢えず眠そうに目を擦る純平を部屋に連れて行った。駄々をこねられて大分時間を食ったけど、睡魔には抗えなかったのか、暫くしたら事切れたように眠ってくれた。子供らしい寝顔に一安心してリビングに戻ると、山室さんも雪さんも既に寝の体制に入っていて、沢尻と言う男の姿は見えなかった。白井さんを探し寝室の扉を開けるも其処に主の姿は無い。何処に行ったのかと考える俺の耳に、水の落ちる音が掠めた。別に疚しい気持ちがある訳じゃ決して無いけど、何と無く風呂場に足を運ぶ。広い脱衣所の扉をこっそり開いたのと、浴室の薄い曇りガラスの扉が開いたのはほぼ同時だった。
「……びっくりした」
 そう言う割に白井さんは余裕だ。そのまま脱衣所に出て俺の事も気にせず身体を拭き始めた。いや、男相手に照れる方が可笑しいか。
 しかし初めて煌々と灯る明かりの下でその裸体を見たが、驚いた。触れた感じちゃんと気を使ってはいるんだろうと思っていたけれど、想像以上に完成されている。まるで石膏像を見ているような気分になった。白井さんはその類稀なる肉体美を見せ付けるように白いバスタオルで悠々と水滴を払って行く。呆然と見惚れていた俺の目にふと止まったのは、その背中に描かれていたおどろおどろしい絵面。こんな禍々しい刺青が入っていたなんて、まるで知らなかった。目の覚めるような真紅の業火がしなやかな筋肉の隆起を這い回る。常に凛と立ち、鼻筋を上に向けて歩くその姿は品格すら伺える。だが背中の其れは、地の底を意味する地獄絵図。そのアンバランスさがこの男らしくも思える。
「どうしたの?」
 熱い視線に耐え切れず振り向いた白井さんが溜息混じりに問いかける。肩から纏わり付く様に胸元に伸びる真赤な焔を目で追いながら、俺は震える唇を開いた。
「……ねえ、俺さ、恋人じゃないの?」
「それが?」
「これ、どう言う事?」
 言いながら湿った肌をなぞる。浮き出た鎖骨の少し下。繊細な刺青をかわし、とある一箇所が赤く鬱血していた。誰がどう見ても、キスマークだ。鏡を横目で見やった白井さんの顔から一気に色が抜けた。
「……やってくれるね」
 忌々し気に吐き捨てられた言葉に、どくんと心臓が脈打った。
「否定、しないんだ」
「その話はまた今度で良い?もう休みたい」
 至極面倒臭いと言った様子に、一気に血が逆流して行くのを感じる。苛立ち抑え切れなかった。反射的に俺は白井さんを壁に押さえ付けていた。一瞬驚きを露わにしたものの、直ぐに口元が皮肉に歪む。
「俺が浮気した事が、そんなに悔しい?」
「だったら、どうなんだよ!」
 思わず叫んだ瞬間、顎が乱暴に引かれ、端正な顔がぐいと目の前に迫った。不純物など一つもない漆黒の瞳には、惨めな自分さえ映らない。ダウンライトの光を纏いキラキラと輝いている筈なのに、深い闇の底を覗き込んでいるような錯覚に陥った。
「もっと狂えよ」
 そして、目を覚ませ。そう、言われた気がした。
「冬弥。俺は変わらないんだ。何があってもね」
 スッと手が引かれ、身体が支えを失いずるりと崩れ落ちる。立ち上がる事さえ出来なかった。浴室から流れる湿気を帯びた生温かい空気に呑まれ、そのまま訳も分からず泣いた。

 触れても、掴んでも、傷付けても、愛しても。あの人は離れて行くだけ。その時に本当の意味で、これが先の無い道だと知った。
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