Undergroundシリーズ

鴻上縞

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『Underground wolF』

ハローブラザー

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 身体に残された劉秀蓮の痕跡が、頭の芯を熱くさせる。復讐?違うね。これは単なる大人の遊び。ギリギリのスリルを味わう事の出来る、滑稽で、至極趣味の悪い戯れ合いに過ぎない。
「──おはようございます、白井です。今晩一杯お付き合い願えますか?……ええ。少し、お話しが」
 電話を切った途端、抑え切れない笑が口を付いて出て行った。
 さあ、楽しい宴を始めようか。

「それじゃあよろしくね」
 何時ものように純平を山室に任せ家を出る。何時もと違うのは、隣に沢尻がいる事位。マンションの下に辿り着き外に出ると、車の横で突っ立っていた慎太郎が驚きに瞳を見開いた。
「おー!え、おー!和磨さん!?お久しぶりです!」
 沢尻と慎太郎は少し被っていた時期があるから面識がある。今の若頭の前、つまり山室の弟である山室秀司の下に付いていたのが慎太郎。二人が再会したのも秀司さんの死を機に慎太郎が足を洗って以来だろう。
「相変わらずの猿面だな慎太郎。元気だったか?」
 心なしか沢尻の瞳も懐かしい弟分との再会に輝いていた。
「元気ですよ!今神戸じゃなかったです?どうしたんすか?」
「将生さんの御守りで呼び寄せられちゃってね」
「ああ……お互い苦労しますね」
 柔かに人の悪口を言い合う男達を急かすように踵でタイルをコンコンと鳴らす。
「ああ、すみません」
 ぞんざいに吐き捨てた慎太郎が後部座席の扉を開き、何時ものように身体を滑り込ませる。沢尻は慎太郎と会えたのが嬉しかったのか、助手席に陣取った。走り出しても二人は終始思い出話に花を咲かせていた。面白くも、そもそも興味もないし、その日はぼんやりと窓の外に視線を投げて過ごした。

 そして十八時を回る頃、今日は何時もより少し早く慎太郎は解放となった。代わりに阿部が車で迎えに来て、俺は表の人間から裏の人間へと頭を切り替える。屈辱と絶望に歪む顔を拝める事が、唯々楽しみだ。久しく感じてはいなかった暗い悦びに胸が震えた。
 奥まった路地裏にひっそりと佇む日本料亭。何も伝えずとも通された個室に、沢尻と並んで躾の良い犬の様に正座で待つ。畳の青臭い匂いが立ち込める狭い和室に物音は無い。まるで嵐の前の静けさのような不気味な静寂に、心なしか隣の男が緊張しているのが肌で感じ取れる。それだけで思わず笑い出してしまいそうだ。
 板張りの廊下が軋む音が近付き、雪のように白く褪せた指先が、すらりと障子を引き開けた。品の良い着物姿の女将が膝を付いて頭を下げるその横を一人の老人が悠々と通り過ぎ、俺と沢尻は同じ角度で頭を下げる。
「お疲れ様です」
「おう、待ったか?」
 地を這うような低い声を合図に俺が先に顔を上げた。
「いえ、今来た所ですよ、組長」
 にこりと微笑んだ俺に一瞥くれると、山室晋三はどかりと腰を下ろした。其処で漸く沢尻も顔を上げ、晴れて三人顔を付き合わせる事となった。
「それで?話ってのは?」
 組長は酌をしようと手を伸ばした女将を片手で下がらせ、性急に話しを切り出す。俺は沢尻がすかさず代わりに注いで行くのを態とらしく勿体ぶって待つ。
「お忙しい中すみませんね。どうしても話しを通しておかなきゃならなかったんで」
「だからそれが何だって聞いてんだ。早よ話せ。焦れったい」
 全くせっかちな爺だ。やはり山室とはまるで似ていないなと心の中でボヤきながら、沢尻が注いでくれた高い酒を味わう事も無く呷る。
「気付いていたらしいじゃないですか。劉秀蓮と繋がっている人間がいるって」
 お望み通り早々に話しを切り出してやると、組長は小さく鼻で笑い、俺と同じく品も無くなみなみと注がれた液体を一気に飲み下した。
「そりゃあお前、突然俺の所まで二年前の話しが上がって来るのは可笑しいだろうよ。敵の多いお前さんの事だ。何処ぞの誰かが仕組んだと勘繰るのも無理はねえさ」
 喉の奥で小さく笑いを噛み殺した後に、鋭い眼光が俺を射抜く。三万を越す構成員を従える男の放つ鋭利な空気は、こんな俺でも思わず寒気がする程だ。だが俺に向けられた視線の中に、微かな温かみが伺えた。
「何より、俺の前で二度と裏切らないと誓った時のお前さんは、珍しく漢の目をしてたからな」
 その言葉がどうしてか、無防備な胸の奥に爪を立てた。確かに十年前俺が誓った、二度と裏切らないと言う言葉。それは一体誰に、誓った物だったのだろう。それもまた、俺を地獄の底に縛り続ける鎖の一つ。
「……そんな面すんな。それで?目星は付いたんだろう?どうしたい」
 組長の声にふと我に返り、俺は慌てて何食わぬ風を装った。そして足元に置いていた黒いアタッシュケースを老君に差し出す。
「俺は何もしない。そう言う事で一つよろしくお願いしますよ」
 軽く開いた後、組長は直ぐにそれを元の形に戻した。
「よく分かった」
 それきり、再び酒を呷るその姿に俺も心持ち胸を撫で下ろす。組長は話しの分かる男だ。それなりの筋が通っていて、剰え金なんか積んでやれば大概事は上手く運ぶ。それがこの世界だ。そしてこれはガキのお遊びじゃない。何事もキチンと組まれた段取りが必要。人様に迷惑を掛けず愉しむのが組織に組みする大人のルールって物だ。

 その後は適当に談笑しながら運ばれて来た料理に箸を入れ、二時間程度だらだらと飲み続け、宴のお許しを頂いた所で本日は御開きとなった。沢尻が障子を開くとヒヤリとした空気が生温い外気に負けて忽ち消え失せ、重い湿気が纏わり付く。それを払うように後ろを歩む俺に、組長は振り返る事も無く言葉を掛けた。
「将生が人に慕われるような人間だったらよ、次代は一平じゃあなくてお前だったかもな。気にしてくれる沢尻位大事にしてやんな」
 そう言われ思わず隣の男に視線を投げると、沢尻はバツが悪そうにそっぽを向いた。全く頭はキレる癖に分かり易い男だ。
 一平とは今の若頭、田島一平の事。組長の言う通り、人に慕われる才に長けている男だ。そもそも本気で思ってはいないだろう。組長の中では息子同然の田島さん一択だったはずだ。
 俺も別に今の地位に不満がある訳でも無いし、何より俺が山室晋三の後釜に腰を据えたとしたら、田島さんの時とはまた違い大々的な内紛が起こる事は間違いない。それ位は心得ているつもりだ。俺は適度な幹部と言う立場で齷齪と金を稼ぎそれなりの自由の上で生きるのが性に合っている。そう言う意味でも、この男はやはり人の上に立つべくして立った人間だ。よくよく人を見ている。
 呑気に感心しながら料亭を出ると、細い道には既に車が二台横付けされていた。その傍に控えていた男が頭を下げた後に素早く後部座席の扉を開く。俺も組長の御帰宅に頭を下げようとした所で不意に振り向いた老君と視線がぶつかった。
「そうだ、将生。篠原に会ったらこれ渡しといてくれや」
「……わかりました。お疲れ様でした。良い夢を」
 差し出された物を受け取り、車の中へと消えて行く背中に今度こそ深く頭を下げる。タイヤがアスファルトを転がる音が聞こえなくなる迄、俺達はバカみたいに頭を下げていた。
 ようやく上げた視界に薄暗い夜道が揺れる。小さく舌打ちすると、小指が疼いた。俺より先に気付いていたと言う訳か。全く食えない爺だ。気付いていたならあんな下らないパフォーマンスなんてやらせてくれるなと一人ゴチてみるも後の祭り。底意地の悪い所もまた、山室とは似ても似つかない。
 深く息を吐き出し、振り返りざまにまだ頭を下げていた阿部に蹴りを入れる。小さな悲鳴と共に飛び上がった三下は、慌てて後部座席の扉を開いた。俺が乗り込んだ隣に沢尻を乗せ、車が夜の路地裏を抜けて行く。直ぐに出た幹線道路は、テールランプが赤々と点る大渋滞だった。そう言えば工事をしているんだったか。そんな事を考えながら、俺は暫く面白くも無い窓の外を見るともなしに見詰めていた。
「ああ、手配出来たの?」
 ふと思い出して運転席に問い掛けると、小さな身体が微かに強張る。
「はい……」
 歯切れ悪く答えた後にちらりとバックミラーで俺を見やり、阿部はおずおずと口を開いた。
「……本当に大丈夫なんすか?」
 図々しい発言に思わず舌打ちが漏れる。
「お前に心配されるなんて俺も舐められたもんだな」
 余りにあからさまな侮辱の言葉を投げた俺に向けて沢尻が呆れ顔で溜息を吐き出した。
「気にするな阿部。酔っ払いだ。加えて機嫌も悪いしな」
「え、時間的にそんな飲んでないですよね?将生さん弱いんすか?」
 沢尻のいらないフォローに心なしか耳障りな声の音量が上がった。眉を顰めた俺を見詰める沢尻の顔は、腹が立つ事に楽しそうだ。
「そう。普段は酔いをアホな気力で隠してんだけど、どうも俺がいるとセーブしないと言うか、羽目を外したがるんだよ」
 余計な事を──。
「寝る」
 強ち否定出来ないだけに、俺は早々尻尾を巻いて瞼を閉じた。確かに今日は機嫌も悪く、沢尻が隣にいた事もあって、酒豪である組長のペースに合わせてしまった。それ故にかなり酔っている。足元がおぼつかないのも、窓に写っていた自分の瞳がまるで生まれたての仔犬のように潤んでいたのも自覚はしている。沢尻は良いとして、阿部なんかに悟られるのはどうにも癪だ。しかし瞼を閉じても眠れやしない。普通は飲むと直ぐに眠くなるのだが。どうした事か、その日は興奮して中々眠気が訪れなかった。瞼の裏に焼き付いたテールランプの残像だけが、ぐるぐると回る。
 しばらくその赤い光と遊んでみたが、やはり眠れる気はしなかった。だがこうして目を閉じていれば取り敢えず余計な事は言われなくて済む。そう思っていた。
「阿部も物好きだな。何だってこの人付きやめないんだ?」
 だが俺が寝たと思ったのか、沢尻が突然運転席の三下に向けて話しを切り出した。阿部が俺付きをやめないのは上からの命令であって、好き好んでやってる訳では無い。そう考えると不憫な男だ。だからと言って優しくしてやる気は毛頭無いが。
 沢尻の言葉を受けた阿部の小さな笑いが車内に響く。
「一匹狼なんかいないって知ってます?」
「ん?」
 突拍子もない言葉に沢尻も困惑しているようだ。だが阿部は気にする事もなく言葉を繋ぐ。
「狼って群れで生活する生き物でしょう?厳しい自然界で生き残り、子孫を残す為には一匹じゃ何も出来ないんです。人間だって、そう言うものでしょう?」
 一旦言葉を止めた阿部は、噛み締めるように優しく息を吐き出した。
「俺ね、将生さんの事嫌いじゃないんです」
「……そうか」
 小さく呟いた沢尻の声色もまた、優しい物のように感じる。実際、阿部がどうしても俺の側を離れたいと懇願すれば上は誰一人止めないだろう。問題児で、捻くれ者の厄介者であると言う認識は共通だ。阿部が辞めても若い三下が新しく付いて万事解決。それをしない理由を、俺は初めて知った。全く、バカな手下共だ。ここにも一人、頭の悪いマゾヒストがいたのかと思わず笑い掛けた時、不意に長い指先が髪に触れた。
「俺が嶋河会に引き抜かれた時な、この人は止めもしなかった。それどころか顔色一つ変えず、宜しくお願いしますと言ってのけた。悔しかったよ。俺は将生さんの目に止まらなかったのかってね。別に変な意味じゃなく、簡単に手放せる程俺は使えなかったのかと思っていた」
 随分と懐かしい話しを持ち出したもんだ。もう何年も前の事だ。俺の下に付いていた沢尻を引き抜くんだから当然嶋河会若頭である沖島さんは俺の許しを貰いに来た。俺はそれを快く承諾した。出世欲も未来も無い、利己主義の塊である俺の下にいるよりは沢尻も幾らかマシだろうと思っていたが、沢尻は珍しく駄々っ子のように嫌だ嫌だと聞かなかった。だが俺は耳を傾ける事もなく、沢尻を神戸に送った。その理由が無い訳ではない。
「でもな、違ったんだよ」
 耳の下から顎に掛け、輪郭を確かめるようにゆっくりと指が這う。
「将生さんは怖いだけなんだ。誰かの、大切な存在になる事が」
 やはり、この男は他の誰より俺を理解している。だからこそ、側には置けない。
「俺は弾かれた人間だ。この人に呑まれ過ぎた。だからもう、どんなに頼んでも俺を側には置いてくれないだろう。だから将生さんの事を、頼むな」
 山室は特異なタイプの人間だと思っていた。憎むに余りある行為を働く俺にさえ、優しく心を摺り寄せる、そんな胸糞の悪いお人好し。だがどうして、俺の元にはそんな人間ばかりが寄って来るのだろう。阿部と沢尻は違う。沢尻はマゾヒストでも何でもなく、本当に物好きなだけだ。優しい空気の漂う車内で、胸を締め付けるような苛立ちに眠気はどんどんと遠ざかるばかりだった。

 渋滞を抜け、ようやくマンションに到着した頃にはもう二十一時を回っていた。狸寝入りから起きて阿部と別れ、沢尻と共にエレベーターに乗り込むや、抑え切れない苛立ちが口をつく。
「……阿部に余計な事を言うなよ。恥ずかしくない?」
「起きてたんですか?」
 沢尻は心底嫌そうに俺を横目で見やると、深い溜息を吐き出した。
「そんな俺の下で働きたい訳?」
 態と小馬鹿にしたように鼻で笑った瞬間、薄い硝子の向こうで鋭い眼光が放たれた気がした。それはほんの一瞬の出来事だった。
 突然肩を強く押され、背中に硬い衝撃が走る。宙吊りのエレベーターが大袈裟に揺れた。反射的に閉じた瞼を開いた俺の目の前で、苛立ちに揺れる瞳が真っ直ぐに射抜いていた。
「何であんたはそんなに、無防備なんだよ。だから劉みたいな奴に襲われるんだろ?付け入る隙を与えるんだろ!」
 沢尻が発した怒声に、俺は珍しく素直に目を丸くした。この男に怒鳴られた事なんか一度も無い。いや、俺だけでは無い筈だ。クレバーなイメージが強いこの男は、舎弟にだって声を荒げた事は無い。
「……落ち着けよ沢尻。どうした?」
 酔いの所為で甘さを孕んだ声が反響して己の耳に届く。緩やかに上る腕が、まるで壊れ易い物を愛でるかのように、下がる肩に優しく触れた。
「……あんたと離れて、神戸に行った。そうしたらどうだ。不思議と長年身体を蝕んでいた毒が抜けたように、ずっと俺の心を掻き乱していた訳の分からない激情は収まったよ。あんたを手に入れたいだなんて……どうかしていたんだと思っていた」
 沢尻は淀みない声で言葉を紡ぎながら、真っ直ぐに俺の瞳を見据えていた。逸らしてしまいたくなる程、唯真っ直ぐに。
「再会して、こうして共に動いて、気付いたんだ。いや、思い知らされた。やっぱり俺は──」
「沢尻」
 鋭い瞳を覗き込み細い腰に腕を絡めると、腕の中の男はピクリと震えた。その先の告白を俺に許す事は出来ない。
「この件のカタが付いたら、直ぐに神戸へ戻れ」
 だからこそ最上に手酷いやり方で、突き放すしか無いのだ。
 掴まれた肩に力が篭り、空気がピリと痺れる。
「お前の事は認めていたよ。でもその穴は山室と慎太郎で埋まる。もう、君は必要無いんだ」
 腰から解いた腕が、密閉された空間を漂う無機質な冷たい空気を掻く。だが微かな動きで回されたそれは、変わらずに息苦しい物だった。
 分かるか?沢尻。慕われるよりも、愛されるよりも、俺は憎まれていたいんだ。俺を愛した男は余りにも、報われない人生を歩んでしまったから。
 トラウマのような思い出に沈んだ思考とほんの一瞬の緊張が、余計に酒を回す。ぐらりと揺れる視界に耐え切れず崩れ落ちた俺の身体は、素早く伸ばされた腕に支えられた。
「将生さん!?大丈夫ですか!?」
 口を開くのも億劫で生返事をする俺を何とか立たせ、沢尻は深い溜息を吐き出した。
「すみません……取り乱して。もうすぐなんで辛抱して下さい」
 沢尻も酔っているのだろう。今迄こんな風に奥底を剥き出してくる事は一度も無かった。
 罪な男だとは良く言われる。否定はしない。冷静沈着で誰よりも弁えている男を、こんな風に乱してしまうのだから。だから唯、祈るのだ。二度と償えない罪を背負う事の無いように。同じ過ちを、繰り返す事の無いように、と。

 それから二日後。俺達は晴れて楽しい楽しい報復の宴を開催する事となった。夜も眠らぬ繁華街に建つ、山室組の事務所。滅多に訪れない俺の姿に、事務所番は驚き過ぎて椅子から転げ落ちていた。
「ちょっと借りるよ。これで遊んでおいで」
 札束を握らせ若い組員を追い払えば、後は主役の登場を待つだけだ。革張りのソファに深く腰を沈め、長い足を大袈裟に組む俺の横で、沢尻は何とも浮かない顔をしている。当然だ。幾ら組長のお許しを得たとしても、組織にいる以上上に逆らう事程嫌な物は無い。後腐れなど生まれない訳もなければ、これを機に他から総叩きに合う可能性も大いにある。その為に金を渡し、筋を通したものの、そんな物関係ないと思う人間は少なくはない。だが生憎、俺はそんな事に臆する程品が良くは無い。俺を潰そうなんて巫山戯た連中は、完膚無きまでに踏み躙ってやりたくなる。
 鼻歌交じりの俺と、緊張で吐きそうな沢尻の温度差で、事務所内は異様な熱気に満ちていた。穴が空く程見詰める焦茶色の扉が開けば、遂に主役のご登場。
「今晩は、お兄さん」
 浅黒いスキンヘッドの兄貴分に向けて、唇の端を歪め、顎を上げての挑戦的なご挨拶。
「おう、お疲れ。話しって何だ?」
 何食わぬ顔で対面のソファにどかりと腰を下ろした篠原は、早々煙草に火を付けた。何で呼ばれたか分かっている癖に、臭い芝居しやがって。心の中で悪態を付きつつ、笑みは絶やさない。
「先日はどうも」
 煙草を挟む指先が微かに震え、俺は思わず吹き出しそうになる気持ちを必死で抑えた。
「……何がだ」
「いやだなあ。刺激が好きな俺の為に楽しい遊びを提供してくれたじゃないですか」
 思い出しても震えるよ。厳つい男に弄ばれたなんてね。
「貴方の用意してくれた余興ですがね、中々乙なもんでしたよ。いやあ、初めてですね。本気で犯されそうになったの。貴方がそう言う趣味をお持ちだったとは知りませんでしたよ」
「はあ?何訳の分からねえ事言ってんだ」
 核心を明かしてやったと言うのに、往生際の悪い古狸はソファの背に凭れ開き直った態度に出る。俺としては全く面白くない。
「分からないなら結構。その臭い口、閉じてもらえます?」
「何だと?てめえ誰に口聞いてんだよ。おい」
「威勢だけは年相応に成長しているんですね」
 煽れば煽るだけ、愚かな男は苛立つばかり。単細胞の葛野郎が。
「なっ、何で俺が!」
 これは予想外。金を払って許されるとでも?全くおめでたい思考の持ち主だ。尤も、少し頭が良ければ俺を売ろうなんて考え無いだろうけどね。
「何を寝ぼけた事言っているんです?あの人の嫌いな異国民に金落としたのは誰?そいつに下らないやっかみで舎弟レイプさせようとしたのはどこのどいつだって聞いてんだよ!」
 再び蹴り飛ばした机が、床に膝を付いたお陰で顔面に命中し、何とも嫌な音が響く。それと共にカエルが潰れたような声を上げて、大の大人が鼻をおさえ床を転げ回った。眉を顰める沢尻を置いてソファから立ち上がり、静かに悶絶する男の目の前に立つ。
「ほら、答えてよ」
 爪先でこずいてやれば、血に赤く染まり、恐怖に引き攣った醜い顔が俺を見上げた。緊張と興奮と痛みとで荒く吐き出される息すら、醜いと感じてしまう。詰まらない。それしか思う事は無い。
「それにね、ここは実力社会。そうだろう?足元掬われて唯狼狽える事しか出来ない能無しに最早席はない」
 トドメを喰らいがくりと肩を落とす男と目線を合わせる様にしゃがみ込み、俺はこの場にそぐわぬ笑みを向けた。
「貴方の始末は掃除屋さんにお願いするって手もあったんですよ?でもねえ──あんなに楽しい時間を味合わせてくれたあんたには、直接御礼に伺いたかった。義理堅いでしょう?」
 可愛らしい弟分を気取り小首を傾げて問い掛けたが、見開いた瞳が再び俺を捉えただけで返事は無い。
「さあ、篠原さん。日頃の感謝の意を込めて、マカオ好きな貴方の為に素敵な旅行プランを用意してみたんです。ファーストクラスで行く、中国三千年の歴史ツアー」
「ああ!?」
 何の事か分からなかったのか、予想外だったのか。上がった間抜けな声に思わず吹き出してしまった。
「最後の豪遊を楽しんで来てくださいよ。ね?」
 青褪めた男の肩に手を掛け、耳元に唇を寄せ殊更優しく囁く──。
「勿論知っていますよね?中国から麻薬を大量に密輸入しようとした日本人が、あっちで死刑になったってね。篠原さん、くれぐれも気を付けて下さいね?」
 死刑宣告。
「まっ、将生……!悪かった!劉には俺から手を引くよう言っておくから!」
 これだからバカは困る。
「おや、今更命乞いですか?チャンスはあげた筈ですよ?俺がエンコ詰めしようとした時に許してくれれば良かったのに、貴方は手を引かなかった」
「お、遅くはねえだろ!?な!?頼むよ!」
「残念だ。手遅れなんですよ」
「……え?」
 そう、今更幾ら篠原を責め、報復しようがもう遅いのだ。
「大陸の狼は知ってしまったんですよ。手の届かない筈の獲物の味をね」
 檻の外から見ているだけでは無く、あの男は触れてしまった。それがどう言う事かこの男に分かる筈も無い。それでも自分が何をしでかしたのか、知らしめなければ腹の虫も収まらない。あいつはもう止まらない。俺を手に入れる迄はね。それを思うとこんな小者を相手にしているのにも急に疲れてしまい、この下らない宴も御開きにする事に決めた。
「用は済んだ。その薄汚い面そろそろ引っ込めてもらえます?胸焼けして夕飯も喉を通りそうにないんで」
 絶縁状を握り締め、乾き始めた血に顔を汚したまま力無く立ち上がる男の背中は、ここに来た時より一回りも小さく見える。扉を出る直前、あからさまに敵意に満ちた瞳が投げ掛けられ、俺は思わず溜息を吐き出した。
「篠原さんよ。タレ込もうなんて考え無い方が良いですよ?出てくるのはあんたの汚れ位だからね」
 駄目押しの一言に、残っていたなけなしのプライドさえ消え失せたようだ。
「では、良い旅を」
 柔かに手を振る俺に目をくれず、事務所の扉は静かに閉まった。
「……相変わらずエゲツないですね」
 思わず漏らした沢尻の隣に腰を沈め、細い煙草に火を付ける。
「何を言っているんだよ。見張りを付けている訳じゃないし、明日の朝迎えが来る迄にバカでも死ぬ気で逃げるでしょ。こんな穏便に済ませてんだ。感謝して欲しい位だね」
 麻薬の買い付けは俺の範疇じゃない。何より、制裁の為に大事な商品と取引先を危険に晒すなんてナンセンスな事は出来ない。本気になればやってやらない事もないけれど、あいつはもう東京にもいられなくなるし、裏稼業からも足を洗う他道は無い。加えて五十歳を超えての再就職なんかあの能無しには厳しいに決まっている。だが命だけは助かった。こんな温情を掛けてやる俺は何と優しい人間なんだろう。尤も、有り余る金に塗れて生きて来たあいつにとっては、生き地獄だろうがな。
「……ああ、でも、金だけはきっちり貰わないとねえ。赤字は嫌だな。後で脅しでも掛けとくか」
 組長に払った金。この後劉秀蓮に手切れ金として五百万に上乗せする分。合わせて一千万はゆうに越す。俺がまさか身銭を切る訳も無い。そこら辺の計算は、ちゃんと練って動くのは性分だ。
 ふと、とことん裏社会に染まり切った自分が可笑しくて笑いが漏れた。下らない、人生だ。自分が如何に薄汚い地の底を歩んでいるか実感する度に思うのだ。報われない、愚かだと詰った米倉さんは、俺よりはマシな人生だったのではないか。他人の為に命を賭す事を良くは思わない。だがそれ程に他人を愛せる人間であると言う事は、素晴らしい事だ。俺がもしもそんな人間だったなら、歩けない程に重い枷を背負う事も無かった。あの人を死に追いやる事も無かった。だがその思いは、己の罪から逃れようと足掻く都合の良い物に思えてならない。結局は何一つ、変わる事はない。
 米倉輝樹は死んだ。この俺の所為で。それは二度と動く事の無い、真実でしかないのだ。貴方を思う度に、苦しくなるよ。
 天井を仰ぎ細く紫煙を吐き出す俺を横目に、沢尻は俄かに眉を顰めた。
「……篠原、引きますかね」
「引かなかったら今度こそ本気で大陸に逆輸入する迄。大体嫌いだったんだよね、あいつ。下品で」
 人様の病室で煙草を吸うわ、今時見ただけでカタギの人間じゃないと分かるような風貌。挙句俺を端金で売るなんて。消えて心底清々する。
「それより問題は劉だ。一番楽しい時に寸止めされて俺への執着心が膨れ上がってる頃だろうね。組織に組みしてる人間に下手に手も出せないし。……全く厄介だよ」
 手切れ金を渡したとして、あっさり引き下がるとは思っていない。例え一度身体を許してやったとしても然りだ。あの男は、俺の心髄を知っている。浅知恵も通用しないだろう。幾ら頭で考えたとて打開策はまるで見当たらないが、かと言って好きにさせる気は毛頭無い。そのジレンマに苛立ちは増すばかりだ。
 床に転がる灰皿を拾い、半分以上残る煙草を乱暴に揉み消す。苛立ちを露わに舌打ちを噛み殺す俺の横顔に、不安気な視線が投げ掛けられた。
「将生さ──」
「約束だろう、沢尻。明日朝一で神戸に戻れ。劉の事は俺が自分で片付ける」
 これ以上側にいれば、戻れなくなるのは沢尻だ。例えこの身に何が起ころうと沢尻は嶋河会の人間であり、沖島さんの右腕。その男をみすみす危険に晒す訳にはいかない。そんな事は百も承知の癖に、沢尻は一歩も引く気は無いようだ。
「今度こそ、未遂じゃ済まないですよ?」
「どうしようかねえ。あいつ凶器みたいな物持っていたから、死ぬ程痛そうだよね」
 全く本気にしていない風を装い笑ってやる。だが見飽きた塩顏は、ピクリとも崩れなかった。それどころか突然ソファに押し倒され、天井の釣り電球が視界に映る。
「だったら今ここで、俺が貰ってやるよ」
 これはまた、とんだ伏兵だ。
「バカな真似はよせよ。軍隊仕込みの中国人ならいざ知らず、君なら簡単に組み伏せられる」
 少しだが俺の方が背も高い。唯細いだけのこの男に力で負ける気もしない。言葉通り力任せに腕を引き、ぐるりと体制を変えれば早くも形成逆転。
「奪われるのは、どちらかな?」
 キチンと締められたネクタイをゆっくりと指で引っ張る俺を、沢尻は細い目を見開いて見上げた。困惑と、未知への恐怖が白い肌を青く変える。衝動で動いた事に後悔したんだろう。だが自ら誘った為に引く事も出来ない。不器用な沢尻らしい反応に、思わず笑いが漏れた。
「悪ふざけが過ぎるよ」
 身体を離した途端、沢尻は余りの安堵から顔を両手で覆った。
「あんたは……罪な男だよ」
 分かっている。だから君は、離れるべきなんだ。

 次の日、沢尻は始発で東京を発った。あいつはやはり賢い。だからこそ余計に思う。本当は側に置いておきたかった、と。沢尻が右腕として動いてくれると楽で仕方がないから。仕事も何もかも。俺は知らず知らず、人間としてあの男を認めていたのだろう。全くらしくない。だが俺にだって、人間らしい一面は一つ位あるものだ。
 早朝のリビングに残された一枚のメモ書き。〝鍛えて出直す〟その沢尻らしい書き置きに、自然と頬が緩む。待っているよと、遥遠く、西の空へ向けて呟いた。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【R18+BL】甘い鎖~アイツの愛という名の鎖に、縛られ続けたオレは……~

hosimure
BL
オレの1つ年上の幼馴染は、強いカリスマを持つ。 同性でありながら、アイツは強くオレを愛する。 けれど同じ男として、オレは暗い感情をアイツに持ち続けていた。 だがそれと同時にオレ自身もアイツへの気持ちがあり、そのはざまで揺れ続けていた。 ★BL小説&R18です。

恋なし、風呂付き、2LDK

蒼衣梅
BL
星座占いワースト一位だった。 面接落ちたっぽい。 彼氏に二股をかけられてた。しかも相手は女。でき婚するんだって。 占い通りワーストワンな一日の終わり。 「恋人のフリをして欲しい」 と、イケメンに攫われた。痴話喧嘩の最中、トイレから颯爽と、さらわれた。 「女ったらしエリート男」と「フラれたばっかの捨てられネコ」が始める偽同棲生活のお話。

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