Undergroundシリーズ

鴻上縞

文字の大きさ
58 / 80
『Underground wolF』

遠吠え

しおりを挟む

 忘れていた小指の抜糸も済んだ二日後。その日は深夜近くにホテルで赤坂との商談があり、タクシーで帰るからと慎太郎も先に帰していた。来るなら今日だとは思っていたが案の定。俺が一人の所を狙い澄ましたかのように黒塗りのワゴン車がホテルの前に横付けされていた。こちらの動きを完全に把握しているこの男はやはり、俺が思うよりも危険人物なのかもしれない。
「今晩は、ご機嫌如何かな?」
 それでもそう言って柔かに近付く俺の姿に、劉秀蓮も同じく微笑みを浮かべる。
「貴方に会えたお陰で最高ですよ」
 これまた笑えないジョークだ。
「丁度俺も貴方にお会いしたかった所ですよ。ここではなんですから」
 意味深に微笑む俺の言いたい事が分かっているかのように、劉が車の扉を開く。俺が乗り込むや車は静かに走り出した。
 さて、どうなる事やら。これから起こるべく事態の想像も付かなくて、自然と身体が震えた。

 慣れない助手席からの景色を眺めながら、一応色んな想定をして対処法を考えてみる。そのどれも無駄な気がして思わず吐きかけた溜息を噛み殺すと、運転席から小さな笑が漏れた。
「シノハラから連絡が来ましたよ。貴方から手を引けとね」
「そう」
 当然のようにそれを無視した訳か。まあそれは想定内だ。
「随分と怯えていましたが、何をしたんです?」
 劉はそう言ってまるで少年のように瞳を輝かせた。
「……別に何も。最近の日中間で起きた事件を教えてあげただけです。小さい男だったから、変な気を回したんですかね」
 小馬鹿にしたように鼻で笑う俺をちらりと見やり、劉はまた、くすりと微笑んだ。それきり、俺達の間に会話は無かった。

 しばらく走った車が止まったのは最近出来た噂のタワーマンション。このマンションについては組長がチャイニーズマネーがどうとかとゴチていたが、やはりこの男の母国が噛んでいたのかと妙に納得した。慣れた手付きで暗証番号を入力する広い背中をぼんやりと眺めながら、デカイなと思わず感心する。何を食ったらそんなにデカくなれるのか不思議なもんだ。山室もデカいが、組長もやはりデカい。この男の父親も相当立派な図体なのだろう。部屋迄の道程、俺はそんならしくもない現実逃避に明け暮れた。
 通されたリビングで、部屋の電気を付ける背中に俺は性急に声を掛ける。一秒でも早くここを出たい。
「早速ですがお話しを始めても?」
「どうぞ」
 まるで愛しい絵画を愛でる金持ちのようなねっとりとした視線を受けながら、俺は手に持っていたアタッシュケースを劉に向けて突き出した。
「ここに一千万あります。篠原が貴方から受け取った分に倍額上乗せさせてもらいました。これでどうか手を引いてもらえませんか?」
 劉にしても想定内だったのか、鋭い一重瞼をピクリとも動かさずその顔には相も変わらず不気味な微笑みが浮かんでいる。一体何を考えているんだ。そう勘繰っていたら、長い手が伸び、アタッシュケースを受け取ってくれて俺は一瞬だが心底ホッとした。しかし俺の手から離れた其れは、そのまま無造作に床に転がった。大金を粗末に扱うその姿に眉を顰める俺を前にしても劉は悪びれた様子すら見せない。
「ボスはお許しになるのかな?」
「御心配どうも。あの老いぼれの頭の中では俺は何もしていない事になってますよ」
 老いぼれだなんて、酷い言い方だと自分で笑ってしまう。
 そんな俺を他所に、軽く頭を振ると、大陸らしい凛と張った顔立ちから笑みが消え失せた。ぞわりと駆け上る悪寒は、気の所為では無い筈だ。
「マサキ。分かっている筈でしょう?私は見飽きたマネーよりも──貴方が欲しい」
 言うが早いか太い腕が俺の腰を引き寄せる。触れた肉体は鋼のように硬い物だった。やはり俺なんかではとてもとても力じゃあ敵わない。年の割に気を遣っている山室でさえ、きっとこの男の前では残念ながら赤子も同然だろう。一体軍隊仕込みのこの男に、何人の日本人が勝てる事やら。だがまあ、日本はそれだけ平和な国だと言う事だ。
 呑気な思考を持て余し、一触即発のこの恐ろしい状況にも俺は口元だけで卑屈な笑みを浮かべた。
「それは無理な相談だ」
 挑戦的な態度に細い眉が寄せられ、深い皺が三本、綺麗な眉間に筋を作った。
「貴方は俺を抱きたいだけ?俺の身体を好きに弄んで満足?……どちらも違うでしょう?」
 綺麗だとよくよく言われる指先で、触れるか触れないか程度に輪郭をなぞる。
「貴方が欲しい俺の心はね、遠い昔、何処かに捨ててきてしまったんですよ」
 抱きすくめられた腕の中。逃れる事のできない敵の居城。それでも牙を剥くのは、俺の性分だ。
 頬から落ちて胸元を辿る指を絡め取った男の瞳が、甘く揺らぐ。
「捨ててしまった心は、私が拾ってきてあげよう」
 余りにこの男がロマンチストで、俺は思わず吹き出して笑ってしまった。
「貴方は本当に、面白い事を言いますね」
 そう言って見上げると、思いの外近くにあった顔は何故かピタリと止まっていた。
「また、新しい顔だ」
「……は?」
 何の事だと首を傾げる俺の頬を、骨張った指が撫で上げる。
「そんな笑顔も見せてくれるなんて」
 いや、見せた訳では無いんだが。
 思わず顔を引き攣らせた途端、劉はぐるりと身体を反転させ、自分よりも一回り小さな身体をいとも簡単に壁へと押さえ付けた。
「貴方は無防備だと言われませんか?」
 何処かで聞いた台詞だ。全く耳が痛いよ。
「……言われますね」
 満足気に微笑んだ男は余裕なフリをしながらも、この距離に耐え切れなかったようだ。
「マサキ……もう、良いですか?」
 良いも悪いも答える前に奪われた唇が、熱過ぎる熱に溶かされ緩やかに湿って行く。手首を掴む無骨な手も、唇を辿る舌先も、触れる箇所の全てが驚く程に熱い。体質か、はたまたこの状況に興奮しての事か。どちらにしても相変わらずしつこい口付けに息苦しさを覚え軽く身動ぎすると、劉はあっさりと唇を離した。
 潤んだ瞳に愛おし気に見詰められ背筋を駆け上がって来る悪寒を隠し、俺はなるべく冷静に言葉を繋ぐ。
「……劉さん、俺をどうするつもりですか?」
 のこのことこんな所迄来ておいて貞操が守れるとは微塵も思ってはいない。だが知る権利位俺にもある筈だ。
 劉は少し考える仕草を見せた後、耳の付け根に小さな口付けを落とした。
「このままここに閉じ込めておきたい。ずっと私の側で、私だけを見ていて欲しい」
 耳元で低く囁いた言葉は、強ち冗談とも思えない。
「それはまた……良い御趣味だ」
 ゾッとするよ。
 さて、本当にどうしたものか。この男を諦めさせる術を探し頭を回したのも束の間。骨張った指が唇をなぞる。もう覚悟を決めるしか無いと踏んで、促されるまま薄く開く。一瞬躊躇を見せたそれは、直ぐに我が物顔で口内への侵入を始めた。態とらしくねっとりと舌を絡め、吸い上げてやれば男の口から漏れた熱い吐息が前髪を揺らす。
「マサキ……本当に男を受け入れるのは初めて?余りにも御上手だ」
 吐息混じりに囁いて、淫靡な挑発に耐え切れず逃れる指を追い掛けた舌が唇の隙間から微かに覗く。白い歯と紅く熟れたその色のアンバランスな誘惑に、劉は大袈裟に喉を鳴らした。
「貴方は芯が強く、暗鬱を引き摺る美しさが儚くて、この身体中に抑えきれぬ熱が走る程妖艶だ。私は今まるで、朽ちた芸術品を手にした気分ですよ」
 落ちぶれたヤクザ者にはお誂え向きの例えだ。夢見がちな癖に現実を真っ直ぐに受け止めるこの男が、その時に少し、認められた気がした。それと共にもう逃れられない事を思い知る。ならば一度抱かれてやって、二度と抱きたくないと思わせる程の醜態を晒せばいい。それしか、道はない。
「初めてなんだ。こんな色気の無い所で抱かないでくれよ」
 態とらしい皮肉を口走る俺を愛おしそうに見下ろし、劉は漸く身体を離した。
「すみません、私とした事が。こちらへどうぞ」
 異国のジェントルマンがまるで淑女を扱うように腰に手を添え優しく寝室へと導く。広い寝室に鎮座するのはこの男にはお似合いのキングサイズのベッド。緩やかに引かれた身体が白すぎるシーツに沈む。スプリングが軋む度に野生を隠した瞳が獣のそれへと近付いて行くのを俺はぼんやり眺めていた。
「今日は縛らなくても良いようですね」
 悪戯っぽく笑いながら首元に指を掛け、タイがするりと抜けて行く。
 嗚呼──俺は今日ここで犯されてしまうのか。そう思うだけで息を飲む喉さえ詰まる。
「震えていますよ」
 当たり前だろうと言い掛けて、慌てて笑みを貼り付ける。
「武者震いですよ。せっかくだ、楽しみましょうよ」
 楽しむ余裕が、俺にあればの話しだが。
 我ながら全く嫌な性質を持ってしまったものだ。どうなるか百も承知の癖に、己の身が危うければ危うい程相手を煽ってしまう。これを生き急ぐと言われても仕方が無いか。そんな軽い諦めに身体の力を抜くと、大きな手がゆっくりとシャツのボタンを外して行く。二度目となるが、相変わらず嫌味な程に焦れったい。態とらしく気怠気にその様子を眺めていると、劉はそんな俺を上目遣いで見やりまだ半分も開けていないシャツの前を肌けさせた。小さな蕾が息を吸う度に微かに顔を覗かせ、息を吐き出すと顔を隠す。俺は男の筈なのに、その艶かしい誘惑が自分の物だと思うと何故か嫌な汗が滲んだ。
「変な事をするな」
 下手な羞恥プレイに耐え兼ねて自ら脱ぎ捨てようとした腕は、当然のように制止された。
 小さな笑いに肩を揺らし、劉はシャツの上から平らな胸を撫で付ける。
「恥ずかしい?不思議なものですね。見えるか見えないか、そこには想像を絶する浪漫が広がっている」
 一体何処のエロ親父なんだこいつは。呆れ半分で睨み付けては見たが、然程と言うかまるで効果はない。それはそうだ。今俺は正に捕食される側であって、首筋に歯を立てられながらももがく哀れな草食動物に相違ないのだから。
「俺は女じゃない」
 屈辱に唇を噛み締める俺を嬉しそうに見下ろす男を睨み付け、口から飛び出すものは空気を読まない挑発ばかり。見詰める瞳がギラリと淀んだ瞬間、緩やかに円を画いていた指先が一点に鋭く爪を立てた。
「いっ……!」
 針が落ちたかのような痛みに思わず身体を跳ね上げた俺を見て、劉は不適に口元を歪める。
「どうしました?」
 ……屈辱的だ。
 次第に熱を持ち始めるそこへの集中的な愛撫をやめさせようと手を出してもみたが、当然軽くあしらわれて徒労に終わる。女でもあるまいに、耐えれば良いさ。そう高を括って腕の力を抜いたものの、じんわり広がる熱にどうにもぞわぞわと背筋が粟立つ。
「もう、そこは良いですから」
 絞り出した声も何処か悩まし気だ。常に逆の立場で男も女も見下ろして来た俺は、自分が悪くない反応を見せていると自覚するに易しい。一体どうなっているんだ。
「ここはもっと、触って欲しいと言っていますよ」
 その言葉通り、涼し気な淡い色のシャツの上からでも良くわかる。小さくとも存在を主張し始めたそれは、指が掠めるだけでピリと痺れてしまう。劉の与える強弱に翻弄されふわりと浮いた腰を撫でさすられるだけで、熱い吐息が鼻を抜けて行く。その何もかもが、屈辱でしかない。
 ふとしつこい男の手が止まり何事かと逸らした視線を戻すと、何やら訝し気な瞳が見下ろしていた。それも何処か、怒りを含んで見える。
「……しかし、余りに敏感だ。どうして?初めてなのでは?」
 男は処女性を追い求めるとはよく言ったもので、例に漏れずこの男の頭は初めてだと豪語する俺が良い反応を見せる事に不信感を持ったようだ。これは面白い。
「触られた事位は、あったかな」
 口元を皮肉に歪め囁く、負け惜しみ。己の冒したその愚行に後悔したのは、ほんの一秒後の事だ。
「ん、あっ……!」
 俺を睨め上げたまま、劉は敏感に色付いた突起に歯を立てた。余りに突然過ぎてよく分からない呻きが上がる。もうやめよう。危険人物を挑発してスリルを愉しむ期は過ぎた。
「……誰に?」
 やめよう──。
「昔の男に嫉妬かい?これは面白い」
 そう思ってるのにどうして、俺は自ら暗い方へと足を進めてしまうのだろう。
「おや、意外ですか?私は誰よりも嫉妬深いんだよ」
「あぁっ……!」
 再び与えられた痛い程の刺激に跳ねる身体すら、劉は無情にも押さえ付けた。
「それで?何処の誰?」
 耳元を擽る甘ったるい囁きは、まるでピロートークのような無意味な尋問。そんな物知って何になるって言うんだ。過去の人間を気にする気持ちが俺には全く理解が出来ない。
 上がる息を整えながら遠い記憶を手繰り寄せ、思わず眉間に皺が寄った。
「もう……いませんよ」
 予想外だったのか、鋭利に研ぎ澄まされた瞳が途端少年のように丸く泳ぐ。
「いないとは?」
「言葉通りだ」
「……亡くなったのですか?」
 そう、あの人は死んだんだ。
「だから嫉妬するだけ無駄ですよ」
 ふいと逸らした視線の隅で揺らぐのは、同情心でも何でもない。明らかな嫉妬の焔。
「……そうですか。ではこの苛立ちは何処にぶつけたら良いのでしょうね」
 知るかそんな物。本当、いい迷惑だ。そんな苛立ちに押され、俺は見下ろす男の首に腕を絡めた。頭を擡げ、耳元で囁く、最後の挑発。
「妬けますか?だったら──忘れさせてみれば良い 」

 口を開けば何もかも裏目に出て、逃れられない崖っぷちへと追い込まれて行く。俺はそうして何時も、自ら破滅の道を選ぶ。その全て貴方を忘れたいがための稚拙な現実逃避なのだろうか。あの人は今もこの胸の奥に棲んでいる。唯優しい微笑みを浮かべ俺を見詰めているんだ。何より危険な猛獣の腕の中で感じた絶望的な真実。
 一つの嘘が剥がれ落ちれば、自ずと見えてくる真実の姿。逃れるように目を閉じて、この部屋の支配者を導く。
 忘れたい。忘れていたい。何もかも。
 無理矢理引き摺り出された憂鬱に相変わらずそっぽを向いていると、突然無骨な指先が顎を乱暴に引き寄せた。首筋に走る痛みに思わず目を閉じた途端、ぬるりと湿った舌が硬く閉じた唇を割って歯列をなぞり上げる。苦しくてもがいている隙に、何やら不穏な動きを見せたのは気付いていた。だがそれを止めるに俺は非力過ぎるのだ。横暴に口内を犯していた舌が抜き取られたと同時に、生温かい液体が流れ込む。息を付く間も無く再び唇を奪われ、苦しさのあまり、俺は得体の知れないそれを飲み下してしまった。さすがに身の危険を感じ、力任せに暴れる俺から劉は漸く身体を離した。盛大にむせた後、口元だけで笑みを作る男を睨め上げる。
「何を飲ませた」
「催淫剤」
 悪びれ無く放たれた言葉に愕然とした。これは迂闊だったと言うべきだろう。
 喉を落ちた物を慌てて吐き出そうとしたものの、手首を押さえつけられ再び深く唇を塞がれそれもまた徒労に終わった。諦めの悪い俺は暫く抵抗を試みてみたが、やはりしつこいこの男のお陰で半ば酸欠状態ではそう長くは続かず。やがて弄ばれるまま、ぐったりと力を抜いた。それに満足したのか、再び上に跨る巨体が退く。
「薬が回るまで、どうです?ワインでも」
 ふわりと微笑み寝室を後にする背中を見送り、起こした頭を再びベッドに沈めた。
「……勘弁してくれよ」
 思わずくしゃりと握り締めた前髪が、微かに湿っていた。

 陰鬱に浸る暇も無く、戻って来た男がベッドルームの小脇に置かれたテーブルに二つのグラスとボトルを置く。軽い微笑みに誘導されるまま、俺はベッドから起き上がり一人がけのソファに腰を落とした。いけすかない中国人と洋酒なんか嗜む気にもなれないが、ジタバタした所で時既に遅しである事は重々承知。男向けの催淫剤なんて、精力剤みたいな物だ。そんなに構える必要も無い……が、もしも俺の予想を上回る効果を発揮したら?耐え切れるだろうか。
「乾杯」
 カチンと軽い音を立てグラスを合わせると、ヤケを起こした俺は味う事も無く、一気に飲み下してやった。しかし珍しく弱気な思考に、鼻を抜ける葡萄の芳香はキツい。途切れる事無い緊張に、酒に薬にと、とんだ災難続きの身体は何もかもを余計に吸収してしまい、次第に熱を帯びて行った。

 どれだけ二人でワイングラスを揺らしていただろう。ほんの一瞬のようで、何時間のような、ふわふわとした時間軸。唯気付けば空のボトルが二本並べられていて、結構経ったのではないかと予想は出来た。しかし先程から、目の前で長い足を組む男が何か喋ってる気はするのに耳に入って来ない。
 熱い──。伸ばされた指先が頬を滑り、すりと微かな音を立てた。
「ん、ん……」
 喉元を擽るようなもどかしい刺激にさえ、思わずくぐもった声が鼻を抜ける。
「効いて来たようですね」
 ……勘弁してくれ。
「こんな事……らしくないね」
 負け惜しみのつもりで吐いた言葉に、劉は何故か、切な気に眉を下げた。
「貴方は私に微塵も心を許さない。この先幾ら進んでもそうなのでしょうね。だからこそ、揺るがない孤高の美しさがある。だが大切な身体に傷を付けたくないのでね、私ももう、手段は選ばない」
 こんなにもこの男を駆り立てたのは誰だと考え、自分の罪深さをよくよく思い知る。
 淀んだ欲望を放つ瞳に囚われ、なす術もなく純白のシーツに沈み、性急に身を包むスーツを脱がされた時。紳士面したこの男も相当我慢を強いられていた事を知った。そんな面白い状況にさえ今は噛み付く事が出来ない。布が擦れるだけでもう、堪らなく疼くのだ。
「んっ、あぁ……!」
 唇を噛み締める事もままならず、なぶるように尖った舌先で裸身を撫でられる度に誘うような吐息が漏れる。それだけではない。熱い吐息が擦れるだけで、身体がしなるのだ。何とか逃れようと身を捩るも、背中を這い回る熱い舌の感覚にまた、昇り詰めて行く。
「どうですか?私の国では一番効く物です。直ぐに果ててしまうでしょう?」
 屈辱に身を縮め、俺は肩越しに鋭い視線を投げ掛けた。
「早くっ、終わらせろ……!」
 悪態をつく俺を乱暴にひっくり返す男の瞳から、遂に優しさが消え失せた。
「全く困った人だ」
 早く、家に帰りたい──。
 男の太い指で、熱い舌で、一体何度果てただろう。立ち込める熱気は茹だるような夏が齎す物ではない。吐き出される吐息。上がり続ける体温。昇り詰める度に漏れる短い媚声。重なった唇の端から零れた水滴でさえ、灼けるような熱を持つ。俺達が発するそんな淫靡で重苦しい熱は、昼夜を問わず回る冷房何かに冷やされる事はなかった。
「マサキ」
「あっん、ぁ……!」
 せり上がる快感に眉を寄せる度、汗で張り付く前髪を柔らかく掻き上げ、掠れた声が俺の名を呼ぶ。少し前から沈められた指の数はもう、数えるのも億劫だ。奥深くを擦り上げられる度に情けない声で啼く俺は、さぞや良い格好をしているのだろう。刻々と男を受け入れるべく解され熱を上げる身体。だが一方で、我慢強いこの男の怒張を擦り付けられる度に頭の何処かが冷えて行く。どんなに解したとしても、それは俺にとって凶器でしかない。
「……そろそろ良いか」
 独り言のように漏れた其れが何を意味する言葉か、分からない程愚かではない。だが微かに震える身体は、与えられる刺激以外に動く術を無くしていた。俺にはもう、何もかもを受け入れる事しか出来ない。相も変わらずに屈辱だ。に
 微かに残るプライドで、足を割ろうと掛けられた力に抵抗するように逆に向けて力を入れる俺を、劉は可笑しそうに嘲笑った。
「まだ諦めきれないのですか?」
 態とらしく内腿を撫で上げられ、其れだけで身体が快感に打ち震える。
「早くっ……!」
 切迫した声が甘さを孕み、悪戯に男を煽る。俺の中では早く終わらせてくれと言う願いも、この状況では真逆の懇願に形を変え、それが文字通り、最後の引鉄となった。
「あああぁぁっ──!」
 劉がぐっと腰を沈めると、入念に解された筈の其処は指などでは到底不可能な程に押し広げられ、目の覚めるような痛みが駆け抜ける。
「痛っ……!無理だっ、抜け!」
 余りの痛みに思わず逃れようと暴れる俺を押さえ付け、硬く閉じた瞳から零れる涙を舐め取ると、劉は耳元で殊更優しく囁いた。
「大丈夫。直に良くなる。息を吸って」
 何を言っているんだ。大丈夫な訳がない。だがこの痛みがどうにかなるのなら、そう思って言われた通り息を吸ってはみたが、やはり気休めにもならなかった。
「もっ、無理……!」
 無理だ──そう思いながらゆっくりと腰を進められる度に内壁を擦り上げられ、鋭利な痛みに身体がしなる。痛みさえも今の俺にとっては快感だ。ここにはもう、絶望しかない。
 まだきっと半分も呑み込まないうちに、俺は限界を迎えた。腹に吐き出された欲望を指先で絡め取りながら、劉はうっとりと瞳を細めた。
「果てる瞬間の貴方は、一段と美しい」
 もう、何も言わないでくれ。ボヤける頭でそう願った瞬間。床に丸まったスーツのポケットから着信を知らせる呑気な電子音が響いた。熱せられた身体から血の気が一気に引いたのも束の間、一瞬にして浮かんだ最悪の予想はまんま最悪の形で突き付けられた。震えて動けない俺の代わりに伸ばされた腕が、通話ボタンを見せ付けるようにゆっくりと押す。
 これは……そう、悪夢だ。
「将生さん!?今何時だと思ってるんですか!」
 通じた途端スピーカーから響く山室の声に、苛立ちは募るばかり。畜生、もうそんな時間か。
「切れっ……!」
 自分の中では押し殺したものの、制御の効かない疼きがアダとなり吐息混じりの艶かしい声となって吐き出された。電話の向こうの山室はそれだけで大方察したのだろう。
「……今、何処です?」
 なるべく落ち着いた風を装いながら伺いを立てる男の声に、事もあろうか劉は一気に最奥を突き上げた。
「ひっあ、ああぁっ!」
 悲鳴にも似た叫び声が天井に反響し、俺はだらしなくまた果てる。
「おい、どうなってる!将生さん!」
 痺れるような余韻に震える俺の耳に響く山室の声。それに感化され、硬さを増す侵入者。残酷なサディズムを開花させる、異国の男。
 突然ぐいと引き寄せられた身体が、あろう事か繋がったまま劉の腰に落ちる。より深く穿たれた凶器に耐え切れず身体が大袈裟に跳ね上がった。漏れる悲鳴はやはり甘美な色を孕んでいて、受話器の向う側にいる山室はそれこそ絶句していた。どうにか気休めでも劉の手に握られた携帯から離れようと暴れれば暴れる程、呑み込んだ凶器に弱い所を突かれ墓穴を掘った。断続的に続く絶頂の痛みにさえ、薬のお陰で萎える事も無い。
 過呼吸にでもなったかの如く荒い呼吸を繰り返す俺を、劉は今更労わるように再びシーツに沈めた。しかし花開いたサディズムは、留まる事を知らない。
「おはようございます。ヤマムロさん……だったかな?」
「……あんたは誰だ?」
 慎重派の男はこんな時にも慌てた素振りを必死に隠し、今俺の携帯を握る相手に探りを入れる。俺としては一刻も早く、切って欲しい。そんな浅はかな願いを踏み躙るかのように、骨張った指先が身体のラインを撫でて行く。痛みにも似た刺激と、擽るような柔らかい愛撫に頭がおかしくなりそうだ。唇を噛んで短い悲鳴を噛み殺せば、反応して脈打つ杭に身体が過剰な反応を見せてしまう。正に悪循環。
 どうしようもない絶望に頭を振る俺を見下ろしながら、劉は薄い唇を皮肉に歪めた。
「貴方のボスは只今お楽しみ中でね、今日は全てキャンセルしておいて下さい」
「何言って……!ふざけるな!」
「安心して。必ず貴方の元に返しますよ」
 言いながら緩やかに律動を再開され、頭の中が白く濁り始める。
 今しかない──そう感じた俺は残された力の限り、携帯に向けて叫んだ。
「や、ま……むろ……!切れっ!」
 その断末魔の叫びが通じ、直ぐに規則的な電子音が通話の途切れた事を知らせる。
「……残念。賢い部下をお持ちですね」
 携帯をぞんざいに放り投げ意識が俺に集中すれば、再び逃れられない泥沼が訪れる。
 この行為は何時迄続くのだろう。息を吸う度に、灼けた喉がひりひりと痛む。
「も、くるしっ──」
 思わずそうポツリと呟いた瞬間、獲物を味わい尽くさんばかりに鋭く尖っていた瞳が、途端優しい光を取り戻す。腰に優しく手を添えて、穿たれた凶器がゆっくりと引き抜かれ、意思に反しまるで逃すまいと不自然に腰が揺れる。解放感から悩ましく吐き出された吐息すら男の瞳を揺らす。一気に拡げられた形がすぐに戻る事も出来ず、まるで、劉の形を覚えてしまったかの様で気持ちが悪い。
「マサキ、涙を拭いて。苦しかった?」
 慌てた様子で乱れた髪を撫で付け、目尻に小さくキスを落とすこの根は優しいジェントルマンには、泣き真似でもしておけばここで許されたのかもしれないね。だが俺には残念ながら出来そうもない。
「あんた、デカすぎるんだよ……。俺を、壊す気か?」
 息を切らせながらもぞんざいに吐き捨てた俺を見下ろす瞳が切な気に揺れて、劉は自嘲気味に笑った。
「壊れてしまえば……私が本国に帰っても誰にも奪われないね」
「……は?」
 本国に帰っても?
「私はどうやら貴方を、愛してしまったようだ」
 疑問が何も解決されない内に、無骨な指先が濡れた唇を撫でる。
「キスをしても?」
 散々勝手に奪って来た癖に今更何を言っているんだ。落とされる甘ったるい口付けに、胸の奥底が酷く痛む。
「こんなにも心を奪われたのは貴方が初めてなんだ。本当は優しくしたい。ですが貴方は、少し刺激的すぎますよ。私も余裕がない」
 余裕がないなんて良く言ったもんだ。相当我慢強いのかなんなのか知らないが、実際劉はまだ一度もイっていないのだ。はち切れんばかりに脈打つ怒張は、いつ弾けても可笑しくはないのに。
「俺は、あんたが……怖いよ」
 劉はその言葉に、小さく笑った。
 手を引かれ身体を起こすと、力の入らない俺の腕を自らの首に回し、凶器が再び初心な窄まりに導かれて行く。幾ら暴かれてもまだ発展途上の秘部にひたりと触れた先端が脳裏に激痛を蘇らせる。無意識に力が入った事を感じたのか、まるで落ち着けるように背中を摩る腕が酷く優しい物だった。
「マサキ」
 低い声が響く。腰を浮かせ身を強張らせる首筋に舌が這い、堪らなく喉を反らせれば、答えるように熱い口付けが落とされる。
 白い喉を見せる──野生に生きる獣にとってそれは、正しく敗北を意味する物だった。
 緩々と降下した唇が胸の突起を包み込み、次いで立てられた硬い歯が鋭い刺激を送り込む。かと思えば紅く腫れ上がった其処を舌先に嬲り上げられ、思わず崩れ落ちそうになる身体は優しく支えられはしたものの、湿ったシーツに沈む膝は子鹿のように震えた。痛みと快感。隣り合わせのその鋭利な刺激に震える身体が熱を取り戻し、薬が回り始めてから鎮まる事を知らぬ芯を弱く扱かれるだけで、先端が濡れて光を放つ。
「気持ち良い?」
 ぶんぶんと弱く頭を振るだけで、カーテンを閉め切ったベットルームに放たれた飛沫がダウンライトの光を反射し一瞬輝き散って行く。
「貴方は本当に……困った人だ」
 そう言って双丘を割られた瞬間、思わず目の前の頭をキツく握り締めた。
「うぁっ、あぁ……!」
 硬さを増した凶器が、随分と柔らかくなった蕾を押し広げゆっくりと沈む。相変わらず想像を絶する圧迫感で息苦しいのに、先程よりも深い快感を感じている身体が確かにあった。
「ねえ、マサキ?貴方が今呑み込んでいる物が分かりますか?初めてのなのに健気に、私を欲している」
 言いながらざらついた指が結合部をゆっくりとなぞり上げる。身体の震えと同様、絶え間無くひくついているのが無駄に良くわかる。
「いうな……!」
 最高に趣味が悪い。効き過ぎた薬に、この男の陰湿なセックスは相性が悪すぎる。まるで髪の毛一本、足の爪先迄犯されているようだ。
「一体どれだけの男が貴方をこうしたいと願ったでしょうね。その憎らしい程に高貴なプライドは、どんな男もこんな風に、獣に変えてしまう」
 腰を支えていた腕がふと緩められた瞬間、力の入らない身体は当然、今俺を支配する男の腰に落ちた。
「いやっあ、ああぁ……!」
 痛い程に脈打つ怒張を呑み込んだ身体が耐え切れず小刻みに痙攣し、俺は思わず言葉を無くす。後ろを掘られて昇り詰めるなんて……信じられない。否、信じたくない。
 それにしても愛してると言われた時からどうもおかしい。口から漏れるのはもう悲鳴などでは無く、甘ったるい媚声に他ならない。
「も、無理だ……!」
「真に屈服してはいない癖に、痛いほどに締め付けて、そんな声で私を煽る。イケナイ人だね」
 びくびくと引き攣る身体を緩やかに撫で上げ、劉は腰をゆっくりと揺すり始める。
「やっ、お願いだ!」
 これ以上はもう、やめてくれ。
「もっと……激しくして欲しいですか?」
 違うと、叫びたかった言葉さえ、甘い媚声となって男を煽った。耐え切れなくなった男が再びシーツに俺を沈めると、脈打つ凶器を一際深く穿つ。それだけでは飽き足らず、先程とは比べ物にならない程に激しい律動にまた、背筋を官能だけが駆け上がった。
「もっあぁ……!や、うごかな、で……!」
 揺すられながら悲鳴を上げてももう遅い。ダメだ。これ以上はおかしくなる。堕ちてしまいそうだ──。
 肩に担がれた右足の爪先が空気を掴み、再び昇りつめる絶望的な絶頂の味を思い出させる。
「あっあぁ、りゅ……!」
 遂に心身共に限界に達した俺が、思わず縋り付くように伸ばした腕を慌てて引き寄せた支配者は、今にも泣き出しそうな程切な気に顔を歪めたのだ。俺は何一つ悪くない。この件に関しては完全なる被害者だ。なのにどうして……こんなにも胸が痛む。
 まるで俺を落ち着けるような優しいキスをして、震える身体はキツく抱き締められた。より深く繋がった事で、この男も限界だと言う事を知る。
「愛してる」
「あああぁぁっ──!」
 愛の言葉と共に奥底にぶちまけられた随分と溜め込んだ欲望は、気が狂いそうになる程に熱い。劉と共に俺も一際大きな絶頂の波に攫われ、腕の中で震えた。
「も……いや、だ──」
 思わず零れた本音に、劉は抱き締める腕に力を込める。
「ごめんなさい、マサキ」
 耳元で囁かれた言葉を最後に、張り詰めていた俺の意識も遂にそこで途切れた。

 朧げに揺蕩う水面で願う。そんなに優しい声で、愛してるだなんて、言わないでくれ。何故自ら破滅を手繰り寄せたのか、気付いてしまいそうになるから。
 ──髪を梳く指先が頬へと落ちる。俺は寝たフリをして、無骨な指先に頬を摺り寄せた。懐かしい。この感覚。これは夢などでは無いのに、目を覚ましたくない。
 俺が眠れば何時も、貴方はこうして俺の髪をやわく梳く。〝すまんな〟そう言って、まるで男手一つで息子を育てる父親のように、額に優しい口付けを落す。眠っている時の俺は薄汚い欲に塗れ歪んでしまう前の、穢れを知らぬ子供のようだから。
 貴方はそんな俺が好きだった。そんな俺だけじゃない。歪んだ俺も、汚れた俺も、何もかもを、愛していた。貴方が訪れる度に、俺は深く深く愛されている事を胸に刻み付けて生きて来たのだ。何が起こるかは分かっていた筈。なのにどうして、気付いてやれなかったのだろう。どうして、得意の嘘でも受け入れてやれなかった。

 重い瞼を開くと、薄暗い間接照明に照らされた顔が優し気に見詰めていた。気を失う前まで充満していた淫靡な空気は何処にも感じられない。自然と心が落ち着くような心地良い不思議な匂いが立ち込めていた。
「気分はどう?一応マッサージはしましたが……何処か痛みますか?ごめんなさい。貴方が初めてだなんて、やはりとても信じられなくて」
 素直な謝罪の言葉さえ、今は要らない。
 支配欲に駆られた鋭い眼光を隠し怒られた犬のように首を垂れる男の顎を掬い上げ、俺は揺れる瞳を合わせる。
「……あんたは誰かの為に、命を賭ける事が出来る?」
 劉はゆっくりとその言葉を噛み砕き、乱雑に瞳を隠す俺の前髪を弱く掻き上げる。そしてこの世の何よりも、優しい微笑みを浮かべた。
「貴方のその深い悲しみは、何よりも美しい」
 そのまま鼻頭に落とされる唇の感触にゆっくりと瞼を閉じて、まだ薬に酔っているんだと言い聞かせ、俺は与えられた優しさに縋った。
「……悲しくなんかない。唯、苦しいんだ」
 〝すまない〟だなんて言わせたくは無かった。赤く腫らした目で、眠る俺を見詰めて欲しく無かった。
「側に……居たかった──」
 まだ甘さを孕んだ声が微かに掠れ、自分でも思いも寄らぬ言葉を紡ぐ。そんな俺の髪を劉は再び優しく撫でた。
「愛していたんですね」
 小さく首を横に振り、両手で顔を覆う。微かに睫毛に触れた指の隙間から温かい雫が一滴、頬を伝った。

 何時でも俺は貴方に会いたいと願う。罪の意識では無い。唯会いたい。その願いは二度と叶う事がないからこそ思い知る。無償の愛情を与えられ、そしてその誰かを愛する。その感情は俺にとっては身を裂くように苦しくて、だから忘れていたい。認めたくない。これを愛と呼ぶのなら、余りに悲し過ぎるから。
 今更気付いて何になる?今更認めて何になる。思い出したとして俺に、何が出来ると言うのだ。俺は唯、こんな気持ちを知りたくはなかったんだ。

 俺が解放されたのは、あの後再び眠りに堕ちてから大分経った夜更けだった。劉が母国式のマッサージをしてくれたらしいが、どうにも節々が痛い。人に言えない所も痛い。お陰で間も無く迎えが来ると言われても服に腕を通す気になれず、広過ぎるベッドの上で小さく身動ぎしていた。風呂はどうやら入れてくれたようで乾いた汗でベタつく不快感も無い。それが余計に苛立ちを呼ぶ。だがとんだ紳士のお相手に疲れ果て、溜息すらも出なかった。
 インターホンが鳴ってしばらく、玄関から劉の後ろにくっ付いて入って来た山室は、不貞腐れてシーツに包まる俺を見下ろし、思わずと言った様子で吹き出す。そして枕元に腰を落とすと、この男には似つかわしく無い、下卑た笑みを張り付けた。
「あんたも良い声で啼くじゃねえか」
「殺すぞ」
「たまの仕返し位大目に見て下さいよ」
 そう言って屈託無く笑う山室を見上げ、また胸が痛む。
 山室と米倉さんは似ている。顔立ちでは無く、纏う雰囲気と言うのだろうか。人の警戒心を自然と解くような胸糞の悪い温かみ。だが人に慕われる二人の圧倒的に違う点は、山室は理性的で、頭が良かった所。あの人は直情的で、酷く、不安定だった。そして底抜けに……バカな男だった。
「それではヤマムロ、マサキを宜しくお願いします」
「ああ」
 そう言って粗末に扱われたアタッシュケースを受け取った山室が、異国の紳士に微笑んで見せる。お前らは一体俺の何なんだ。そう毒吐けるのも心の中だけ。醜態を晒した俺の言葉に最早微塵も威力は無い。全くとんだ災難をおっ被ってしまったもんだ。
 山室との会話を終えた劉は痛みで真っ直ぐに立てず、偉そうに腕を組み壁に凭れる俺の頬をすりと撫でた。
「マサキ」
 そう言って落とされるこの男の優しい口付けも、山室の眼前だからと払う気力はなく、唇をやわく食む感覚に唯耐える。味わい尽くした唇を離し、劉は切な気に微笑んで見せた。
「再見」
「さようなら」
 あんたには二度と、会いたくはないよ。
 重厚な玄関の扉を出ると生温い夜風にいらぬ記憶を呼び起こされ、思わず眉間に深い皺が寄る。それを見てか、山室がそっと腰に手を添えた。
「肩、貸しますか?」
「……頼む」
 嵐が過ぎ去った後も、真夏の夜は不気味に心を蝕んで行く。……頭が痛い。

 これは後日談となるが、劉秀蓮はこの事件の数日後に日本を発ったそうだ。俺は勿論心底ホッとした。俺を犯したあの男がこの小さな島国に棲息していると思うだけでどうにも落ち着かなかったから。これで安心して暮らせる。ただ、俺の事を諦めたとは思えない。だが次来た時はもう俺はこんな失態をおかさない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【BL】死んだ俺と、吸血鬼の嫌い!

ばつ森⚡️8/22新刊
BL
天涯孤独のソーマ・オルディスは自分にしか見えない【オカシナモノ】に怯える毎日を送っていた。 ある日、シェラント女帝国警察・特殊警務課(通称サーカス)で働く、華やかな青年、ネル・ハミルトンに声をかけられ、【オカシナモノ】が、吸血鬼に噛まれた人間の慣れ果て【悪霊(ベスィ)】であると教えられる。 意地悪なことばかり言ってくるネルのことを嫌いながらも、ネルの体液が、その能力で、自分の原因不明の頭痛を癒せることを知り、行動を共にするうちに、ネルの優しさに気づいたソーマの気持ちは変化してきて…? 吸血鬼とは?ネルの能力の謎、それらが次第に明らかになっていく中、国を巻き込んだ、永きに渡るネルとソーマの因縁の関係が浮かび上がる。二人の運命の恋の結末はいかに?! 【チャラ(見た目)警務官攻×ツンデレ受】 ケンカップル★バディ ※かっこいいネルとかわいいソーマのイラストは、マグさん(https://twitter.com/honnokansoaka)に頂きました! ※いつもと毛色が違うので、どうかな…と思うのですが、試させて下さい。よろしくお願いします!

隣の席のイケメンに懐かれた

しょうがやき
BL
隣の席のイケメンに懐かれた平凡男子の話

悪役令息の僕とツレない従者の、愛しい世界の歩き方

ばつ森⚡️8/22新刊
BL
【だって、だって、ずぎだっだんだよおおおおおお】 公爵令息のエマニュエルは、異世界から現れた『神子』であるマシロと恋仲になった第一王子・アルフレッドから『婚約破棄』を言い渡されてしまった。冷酷に伝えられた沙汰は、まさかの『身ぐるみはがれて国外追放』!?「今の今まで貴族だった僕が、一人で生きて行かれるわけがない!」だけど、エマニュエルには、頼りになる従者・ケイトがいて、二人の国外追放生活がはじまる。二人の旅は楽しく、おだやかで、順調に見えたけど、背後には、再び、神子たちの手がせまっていた。 「してみてもいいですか、――『恋人の好き』」 世界を旅する二人の恋。そして驚愕の結末へ!!! 【謎多き従者×憎めない悪役】 4/16 続編『リスティアーナ女王国編』完結しました。 原題:転んだ悪役令息の僕と、走る従者の冒険のはなし

仮面の王子と優雅な従者

emanon
BL
国土は小さいながらも豊かな国、ライデン王国。 平和なこの国の第一王子は、人前に出る時は必ず仮面を付けている。 おまけに病弱で無能、醜男と専らの噂だ。 しかしそれは世を忍ぶ仮の姿だった──。 これは仮面の王子とその従者が暗躍する物語。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

処理中です...