待雪草

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待雪草

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「可愛いお花を飾りましょう、小さくて真っ白な待雪草を。私はその上で踊りを踊って、そうして、やがて眠りにつくの。雲の上みたいに優しくて、そこでは誰も私を縛れない。月の光が私を照らし、行くべき場所を示してくれるの。誰もいない夜の闇に吸われても、きっと私はあなたのそばに。」


 私は遠く読まれる詩の音に呼び起こされると、ふと目を開けた。
 少し肌寒い風が吹き荒び、ゆらめく小枝は瀬音と共に、朱金の空を漂う白雲の魚群をがやがやと囃し立てていた。私は乱れた襟元を正しながらゆっくりと上体を起こすと、自分が川端の大きく聳える老木の袂にいたのだと分かった。
「あら、起きたのね。」喧騒の中を銀糸が縫う様な声がした。
 声のする方を覗こうとしたが、私の脚は重い石の下敷きにでもなってるかの様にびくともせず、ただ胴体と、ぼんやりと靄かかった頭とを繋ぎ止めている首を捻ってみても、後方はその寄り掛かっている大木の幹の太さに阻まれ、四方八方へと落ち着きなく鼻先を揺らめかせるしかない様であった。
「いいのよ。無理しなくて」
 ふふっと薄ら笑いを含んだ声色に変わったそれは、私の行動を見ているようではあるが、私からは何処にいるか検討も付かないほど、不思議と全身を包み込むように届く声であった。
「君は誰だい、何処にいるのかね。」私がそう尋ねると、声は言った。
「いやね、あなた。わたしの声を忘れるなんて、冗談はよしてくださいな」声はそう言うと、先程までの柔和な雰囲気を少しの沈黙の間でぴんと張り詰めてこう続けた。
「わたしは今、あなたの近くにいるわ。でもね、そう、冷たい水と尖った川底の石を踏み分けて、わたしは、向こう岸に渡らなくてはならないの。」
 なぜ残雪を纏った川へ入らねばならないのか、なぜそれほどまでに向こう岸に渡らねばならないのか、私には聞きたいことは山ほどあったが、彼女の妙に物悲しい声調が、それらの疑問をぐっと私の喉の奥へと追いやるように感じた。そうした僅かな私の心の揺らぎに気付いたのか、または、私と彼女というものが今この場所に存在しているにも関わらず、その営みの感ぜられない轟々たる自然の喧騒に辟易したのかはわからなかったが、声は、その確かな振動を以てこの揺蕩う空気を変えようと試みているかのように、静かな強さをもってこう続けた。
「わたしの人生は、誰かの夢でした。」
 私の耳から、すっと騒音が消えた。
「わたしはね、きっと、こんなに愛されたひとは、世界どこを見たって、わたし以外にいないのではないかと思えたの、」
「なぜ、そんなことを私に伝えるのかね、」私は、そう発した直後に、まだ彼女の話の終わらぬうちに、わっと湧き上がった疑問と、好奇心とに身を任せて割り入った事を後悔したが、声はそんな私の対応にも不思議と慣れている様子で、うんうんと頷く様にこう続けた。
「そうね、なぜかしらね。きっと、わたしはあなたをよすがに、この人生をここまで続けてこられたの。わたしの事となると、いつも子供みたいに無邪気にムキになるあなたが愛らしくて、頼もしくて、とても心強かった。あなたが居てくれたから、わたしは死ぬのがちっとも怖くなかったわ。ただ、それをあなたに知って欲しかったのかしらね。」
 私は何も言えずに、上下の奥歯を強く向かい合わせた。だが不思議なことに、エナメルで被覆された象牙質の塊は一つの噛み合う音すら発さずに、いや、気付けば寒風に踊る小枝達ですら黙りこくって、私の鼓膜を揺らすものは、ただ冷水を踏み分ける、人の、その小さく離れゆく歩みだけであった。
 そうしているうちに、やがて弱々しい足音はざぶりざぶりと岸に上がる様な、水飛沫を打ち上げるものに変わっていき、私はその音の方へと無性に近付きたい一心で、渾身の力で身を捩って腕に精一杯の力を込めたが、やはりこの身体はまるで杭にでも穿たれたかのように、立つどころか引き摺ることですら困難であった。
「わたしはとっても幸せでした。」立ち止まった足音の発した、名残惜しさと決意の狭間を漂うような声は、確かに私の耳に届いてしまった。

「待ってくれ」咄嗟に引き留めようとする私の声が受取り手を失い彷徨うと、先程までの夕陽の温もりはすっと失われ、突如押し寄せた突き刺すような寒気と全身の痛みに、私はいつの間にか強く閉じられていた瞼を開けた。
 私はまたしても川端の大木の袂に横たわっていた。先刻との違いと言えば、ぐっしょりと濡れた着物の裾から、おそらく自分の脚であろうものがひしゃげ捻れて折れ曲がり、ほんのりと粉雪の舞う夜空を枯草のように仰ぎ揺らめいており、砕けた歯だか砂だかわからぬものがじゃりじゃりと口の中で濃厚な鉄の香りを広げていることであった。私がその痛みをも凌駕する混乱を鎮めようと、動かぬ頭蓋の中でぐりぐりと目玉だけを動かし見回していると、この薄雪広がる自然の中に似つかわしくもない真赤な塊が、小さな待雪草の隣に落ちていることに気が付いた。それは私の妻であった。
 私は軋む身体に鞭を打ち、裂けた皮膚から滴る血液と山嶺から下る冷水とに塗れて、月光にぬらぬらと輝く自分の腕を川岸の丸石の中へ突き立てると、先程までとは違いなんとか身体を引き摺ることはできそうではあったので、ずるずると石の中を蛞蝓の様に無様に這って彼女の元へと向かった。
 彼女は、嫁入りの際に持参した赤無地の地味な一張羅に身を包み、川岸にくしゃりと捨て置かれていた。かつてはそのみすぼらしい着物ですら、彼女の流麗な曲線を縁取るものとすると、なんとも言えぬ色っぽさに溢れるものであったが、今、私の前に横たわる彼女のはだけた胸元にその面影はない。ただ青白く透ける肌の下から白瑪瑙の胸骨が木の根のように連なって突出するばかりで、その痩せ細った老馬のような惨めな様は、この冷淡な夜風を引き立てるばかりであった。
「おい。おい、起きなさい、」私は彼女を揺すった。すると懐に仕舞い込んでいたであろう紙切れが一枚、するりと彼女の胸前へと滑り出た。
 それはかつて私が、遠い外国の詩歌を綴った手紙であって、褪せた薄紙の経年と水濡れとで皺立った姿は、図らずもしまい込まれていたこの手紙を渡した時の記憶にふっと色を甦らせ、私は思い耽るように吐息混じりに口から溢した。
「あの時、私は約束したっけね。覚悟も無いのに、君の死ぬところを見届ける、なんてよく口走ったものだ。こうしてその時が差し迫った今でさえ、私は、君を失うのを恐れているよ」
 私は横たわる彼女の寝顔のような美しい横顔をちらりと見ると、息をぐっと飲み込み、続けた。
「私達は死にゆくことを解って呼吸を重ねなければならない、なんて言ったけれど、よっぽど別れを恐れていたのは、私の方なんだ。」
 彼女のやつれた顔に掛かった濡れ髪を優しく払うと、遠退く僅かばかりの温もりが指先を伝った。
「けれど、もういいんだ。よく辛抱したね、」
 私がそう言うと、彼女は、か細い呼吸の中で肺胞に溜めた最後の空気を深々と吐き出して、胸の皮膚をぺたりとへこませたまま、淡い気霜を夜風に溶かした。
 初春の、月が溶けて流れるこの川は、先の告白を押し流すかのように音を立て続けている。それはまるで、彼女と私との間で小さく揺れる、一輪の待雪草が咽び哭いているかのようにも感じられた。




 
 
 
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