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静水
しおりを挟む扉を開ける。眩しい光が私の顔を照らす。
貴方の潤んだ綺麗な瞳が、私をじっと見つめている。
貴方は朝に、トーストと固めに焼いたスクランブルエッグを頬張っていた。皺の寄ったシャツに黒いタイを緩く巻き、髪に少しばかりの寝癖を付けたままテレビに映る他愛もないニュースに目を向けている。
テーブルに置かれた、薄らと湯気の立ち上るお皿を挟んで、私は貴方の斜め向かいに座ると、その愛らしい顔に目を向けた。
「今年は全国的に、例年より早い桜の開花となりそうです。」
テレビのニュースがそう伝えると、貴方はほんのりと焦げたトーストを齧りながら、何かを思い出す様に表情を濁らせ、隙間から陽が漏れ出しているカーテンの向こう側を気にしている様子だった。
そんな視線に気付いてか、不意にカーテンがその身をゆららかに動かすと、春はその隙間をするりと抜け、部屋を駆けて行った。
「おっと。」
突然の音に、少しびくりとした私が貴方の方を見ると、貴方は慌てた様子でジャケットを羽織り始めていた。弛んだネクタイをすっと締め直し、草臥れたカバンを乱雑に掴み、そのままスタスタと廊下の奥へと消えてゆく。
私も風に乱れた長い黒髪を耳へ掛けると、貴方を見送るべく立ち上がり、廊下へと爪先を向けた。
廊下の先では、革靴をトントンと蹴る音が聞こえる。
「いってきます。」
そう言い放った貴方に応えるべく、急ぎ廊下へ首を突っ込み、玄関を覗き込んだが、私に見えたのは、扉の枠へと吸い込まれてゆく貴方の影だけだった。
私は足早に部屋を過ぎ、ベランダへと足を踏み出す。小さな鉢植えの中で、いつか植えたシラーの花がひっそりと咲き誇っている姿が目に入った。
凛とし、純朴たる装いは、私を柵側へ呼び寄せる様に小さく、小さく、その身体を揺らしている。
軋むベランダの手摺の上から、軽く身を乗り出すと、またしても貴方はビル影の中へ溶けて行った。
私は、胸に痞える感情を指先に込めると、遠退く貴方の微かな足音に共鳴するかの様に、花茎は千切れ、住宅街の喧騒の中を薄青が滑り落ちた。
私が部屋に戻ろうとすると、霞んだ窓ガラス越しに、飾られたモノクロの写真が目に入った。
「もう、いっか。」
そう声帯が放った空気の振動は、誰の耳に届く訳でもなく、窓の開け放たれた空虚な部屋に吸われて消える。
一筋に登る白檀の煙に押され、カーテンがその身を揺らし、それを隣で見ていた一輪の白いアングレカムも小さく一度だけ首を縦に振った。
目を細めるほどの朝日。清々しい春のぬくもり。
あの日と同じ。眩しい光が私の顔を照らす。
遠くから薄らと響くスキール音に、私は口角を少し上げると、溜め込んだ静水は緩やかに目尻に溢れた。
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