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前章
罠に嵌められて!
しおりを挟む膝をついたままのクリスに近づいて、その手から書類を受け取る。
『旧国派』の有志による嘆願の手紙と資料だった。素早く内容に目を通す。
『私』の心根と成してきた事を丁寧に綴り、心情的に処刑回避を訴える美しい筆跡はナディル先生。現状への疑問は癖の強いラニエル子爵の文字。『旧国派』が独自に調べた事実など、他の資料は知らない誰かのものだけど、少ない枚数でよく伝わる書類だった。
『私』の為に誰かが動いてくれている事に、熱いものが込み上げてくる。
「レナート王子?」
やや高い声に問いかけられて、慌てて顔を上げる。
「あっ、失礼致しました。読むことに気を取られて――」
「書類はお持ち下さって大丈夫です。僕に託された方も、そう希望されておりました。それよりも、時間がないので今後の相談をしてもいいですか?」
クリスが薄紅の柔らかな巻き毛を揺らして小首を傾げる。
書類をジャケットの内側にしまいながら、クリスの言葉に考えを巡らせていく。今後という事は、クリスは私と『旧国派』の間で、これからも動くつもりなのだろう。
「今後ですか……。変わった提案が、気になってお呼びしたのですが。続きがあるのですか?」
言葉を濁した私の回答に、クリスが困ったと言いたげに肩を竦める。
「僕は本音で、お話がしたいです。レナート王子は今の状況に迷われているか、リーリア様を助けたいとお考えなのだと思ってました」
「何故そう思うのです?」
透き通るような頬を人差し指で軽く叩いて、愛らしい笑顔をクリスが私に向ける。
「僕と謁見されたからです。貴方が現状を良しとしているなら、何を申し上げてもお会いにならないでしょう?」
「そんな事はありませんよ。『旧国派』が何を伝えたがっているのか、それは常に知っておきたい情報です」
クリスが不満げに頬を膨らませる。少年にしか見えなしぐさと表情に心の中で苦笑いする。舞踏会の時に会っていなければ、間違いなくクリスの事を見誤るだろう。
「うーん。レナート王子は意外と頑固なんでしょうか? それとも慎重なのか? 僕はリーリア様を助ける為に、連絡役を『旧国派』の方から引き受けしたんです。リーリア様を助けないなら、『旧国派』の情報を無駄に渡すだけですから、これ以上のお手伝いはできません」
少し意外な言葉だった。クリスの目的は、レナート王子と友誼を深める事で私を助ける事じゃない。だから、もっと中間の立場を表明すると思っていた。
今のクリスの立ち位置なら『旧国派』の為の連絡役でも、『教会派』の為の間者役でも、相手が望むままに選べる。
「クリス様――」
「クリスで結構です。大国セラフィンの王太子に『様』をつけられては落ち着きません」
「では、クリス。私の立場で本音など、口にはできません。ただ、貴方の助けを借りる時が今後あるかもしれません。これでお察しください」
秘密だけど、迷っているから助けてもらうかもしれない。そう暗に伝えたつもりの言葉は、無事に伝わったようだ。
クリスが安堵したように、胸の前で手を合わせる。
「良かった。必要な時は、いつでも僕を使ってください。『旧国派』の方々は締め出されてしまって、正攻法が使えずにとても困っています。ですから、別の手段を検討しているでしょう。レナート王子が決意を固めたらなら、必ず支援されると思います」
正攻法ではないとしたら、搦め手か裏取引か。叩けば『教会派』からは山ほど埃が出てくる。『旧国派』は、きっとその辺りを押さえている筈だ。さっきの書類にもそれらしい言葉が見て取れた。
「貴方の見解としてなら、私の様子を『教会派』の中心に伝えて頂いて構いません。ただ、広まるのは困ります。貴方とは仲良くしたいので、ぜひご配慮下さい」
クリスが跳ねるように立ち上がって、親し気に私の手を両手で取る。
「ええ。必ずお約束します。僕を呼び出す時には、何か口実が必要ですね? 僕は知見を広める為にここに来たのですが、グリージャ皇国への支援を求めてきたという事にしますね。貴方は個人的な友誼を前提に検討されているという事でどうでしょう?」
艷やかな眼差しに、顔が引き攣りそうになる。
クリスの目的は知見を広めることじゃなく、初めからグリージャ皇国への支援だ。口実に使う事を皮切りにして、最終的な目的へとつなげていく算段なのだろう。やっぱりクリスは狡い大人だ。
でも、グリージャ皇国とレナート王子個人の友誼なら、『教会派』はきっと歓迎する。会う理由としては、悪くない。
溜息を飲み込んで、私は口を開く。
「わかりました。必要ならば、その件でお呼びする事にします。ところで、親書は宜しいのですか?」
「貴方しか見ない親書など、不要ですよね。誰かに聞かれたら、時節の挨拶など一般的な内容だとでもお答えください」
クリスが小さく舌を出す。愛らしい仕草は何処までが演技なのだろうか。まじまじと見つめた視線が合う。
「そろそろ臣下の方たちが、レナート王子を心配して苛々してるのでは? もう、終わりにした方が宜しいですよね」
やんわりと進言された言葉に頷く。
これ以上待たせたら、後で色々煩そうだ。入室を許可しようとして、最後に一つ聞いてみる。
「貴方は何故、リーリアを助けたいんですか?」
天使の笑顔でクリスが答える。
「一度ダンスのお相手を頂いた時に、私のお願いに、快く善処すると答えて下さいました。素直で愛らしく、長くお付き合いがしてみたい方です」
快く善処すると答えた覚えは一切ない。褒め言葉も斜に見れば、クリスにとって『私』は扱いやすいという意味に聞こえる。
『私』自身にクリスが利益を見出すとは思えないし、レナート王子と関わる事がクリスの利益なのだろう。今の私の邪魔をされる事はなさそうだけど、頼り過ぎは禁物だ。
クリスとの密談が終わると、不満顔で『教会派』の重臣たちが部屋に戻る。
幾つか社交辞令を重ねた所で、少しだけクリスが口実に触れてきた。今後使う事になるから必要な過程ではあるけど、やや乗り気な重臣の表情を見ると着実に外堀を埋められている気がした。
謁見が終わってクリスが退室すると、ストラーダ枢機卿が残った重臣に向かって手を払う。全員が退出するのを確認して、まっすぐに私の元にやって来る。
「レナート殿下、一体何なのですか?」
かつては令嬢たちの注目を一身に浴びた、ストラーダ枢機卿の整った顔をじっと見つめる。
先ほどの重臣たちへの態度から、『教会派』の中でもかなり力があるのだろう。お父様の評価は、裏の見えない人。私の件にどこまで関わっているのだろうか。
「何がとは?」
「この謁見です。ニアンテ大公とは、処刑日以降の謁見予定だった筈です」
とぼけた私を非難めいた眼差しで見たストラーダ枢機卿に、真実と嘘を少しだけ混ぜた言い訳をする。
「私の従者がニアンテ大公から、先ほどの件を仄めかされたんです。悪い話ではないので、急遽お会いしました」
ストラーダ枢機卿がわざとらしくため息を吐く。
「悪い話ではありませんが、ご相談頂きたいですね。他国の使者とはいえ、カミッラ正妃と縁がある者です。『旧国派』の思惑にどのような形で繋がるか分からない」
「そうですね。でも、グリージャ皇国の状況は悪いですから、クリスは国益を優先するでしょう。こちらの悪いようには動かないと思います」
穏やかに微笑んで伝えると、ストラーダ枢機卿は再びわざとらしい大きなため息を落とす。
「いいですか? 本来は国王陛下がキュールに入ってから動くはずだった。それが貴方の突然の婚約破棄で予定が変わってしまった。ほんの数日とはいえ、早まった所為で計画通りではない事が幾つもある。これ以上、余計な真似はなさらないで下さい」
突然、核心に触れる話題が飛び出る。
本来なら? レナート王子が突然? 大きく予定が変わった?
とにかく、出来るだけ情報が引き出したい。さり気ない風を装って水を向ける。
「予定通り進んでいるのは、どの部分ですか?」
「リーリア嬢を『魔女』に仕立てる部分は順調です。二か月前から教会を中心に市井で悪い噂を流したかいがありましたよ。民や下級騎士、下級貴族の間に良く広まっています。『聖女』と『魔女』の構図は確実に受け入れられる」
教会が噂の出所の予感はあった。
獄吏の少年は、私の屋敷の捜索結果を早く知っていた。簡単に入ってくる情報じゃないけど、その頃には教会長が色々吹聴してたとデュリオ王子が言っていた。身分の違う獄吏の少年が教会長と関わるとしたら、教会が一番可能性が高い。
声が震えるのを抑えて、ストラーダ枢機卿に尋ねる
「我儘で浪費家の『悪女』リーリア。第一王子を操った『魔女』。噂を民に広めて、『魔女』に祭り上げて処刑してしまう。令嬢の処刑なんて滅多にありませんから、噂は俄然真実味を帯びるでしょう。そして、ディルーカ伯爵は失脚。『旧国派』の筆頭が倒れれば、その影響は全体に及ぶ」
入れ替わる前の外苑で、私の髪を掬ってレナート王子は『私』の影響が何処まで及ぶかと口にした。
私の推測交じりの言葉に、ストラーダ枢機卿が眉を顰める。
何か間違えた? 身を強張らせた私に、ストラーダ枢機卿が予想を超えた事を告げる。
「大事な事を抜かしておりますよ。まさか、国王陛下を退陣に追い込むことに、まだ躊躇いがあるのですか?」
国王陛下退陣。その言葉が意味するのは、もう派閥の争いではなく『叛逆』だ。
背中を冷たいものが滑り落ちて、続く言葉を失う。顔色を失った私を見て、ストラーダ枢機卿が鼻で笑う。
「この期に及んで、迷うなどなさいますな。貴方だって覚悟を決めた筈だ。もう、時間は決して巻き戻らない。貴方に残された時間は少ない。それは我々にとっても、残された時間が少ないという事だ」
時間は決して巻き戻らない。残された時間は少ない。
それは、一連の『叛逆』がもう動き出していて、あと少し『私』の『魔女』としての処刑で事が決まるということなのか。
「そ、そんな……」
そんな、馬鹿な事が許される訳ない。そう言おうとした言葉を震えた唇が飲み込む。
それは、私の言葉であって、レナート王子の言葉じゃない。ストラーダ枢機卿は、レナート王子は覚悟を決めたと言った。ならば、馬鹿な事をレナート王子は理解して許したという事だ。
一人で抱えるには大きすぎる内容に震える私の腕を、ストラーダ枢機卿が掴む。そして、そのまま玉座に無理矢理に座らせる。
「この玉座に座る。それは第一皇子の役を一七年間担った貴方の使命だ。シルヴィア……シルヴィア二妃が貴方を愛し育てた時間、『旧国派』が跪く意味、貴方が生きる事を許された意味。その全てに報いる為に、動き出した以上は立ち止まる事は許されない」
腕を掴んだストラーダ枢機卿の指に力が籠る。怖いぐらいの熱を帯びた金色の眼差しが、怯える私を見下ろす。
『私』は、『教会派』の『叛逆』の狼煙。
数か月前から民の間に周到に悪い噂を流されて、大逆罪という名で捕らわれて処刑される。
処刑された後には、瞬く間に『魔女』の処刑という噂が広まるのだろう。
民の噂と声に後押しされて、『魔女』の父であるディルーカ伯爵が失脚する。『旧国派』は力を失って『教会派』の力が増す。
その隙を狙って、ディルーカ伯爵を右腕とした国王陛下が責をとわれ退陣を迫られる。
レナート王子は王太子の指名を済ませているし、『聖女』との婚約が決まっている。
『教会派』が『魔女』を追い払った『聖女』とでも喧伝すれば、民はきっとその物語に熱狂するのだろう。
描かれた絵図を想像して、力をいれていないと体が震えるのが分かった。
「……」
何かを言わなくてはと思うのに、言葉が全く出てこない。
何故、こんな事をレナート王子は選んだのか。『また、いつか』とは全く別の未来だ。
私達の浅い呼吸の音しか聞こえなかった謁見室の静寂を、突然扉の外の喧騒が破る。
ストラーダ枢機卿が腕から手を放して、扉の方を訝し気に見つめる。
「何か起きてたようだな。見てまいります」
扉に向かったストラーダ枢機卿を追って、玉座から立ち上がった私も扉へと向かう。
騎士の制止する声に、良く知る人の声が混じって、泣いて縋りたいような気持ちが胸に湧き上がる。
激しい音と共にドアが開いて、騎士の一人を振り切ったデュリオが真っ直ぐ私に向かって歩いてくる。
「デュリオ王子……」
私の言葉が滑り落ちた瞬間、激しい怒声が謁見室に響く。
「レナート! 説明しろ!! 俺はお前の言葉で聞きたい!」
思わず、身がすくんで目を閉じる。デュリオ王子はよく怒る。でも、こんなに激しい怒りを帯びた声を聴くのは初めてだった。
「私は……」
私は、どうしたらいいの? 正しいレナート王子の言葉が、何一つ浮かばない。
ただ、一人の私に戻って、どうしたらいいのかと縋りたかった。
私の怯えた眼差しと、デュリオの鋭い眼差しが交錯する。突き動かされる様に一歩踏み出した私の前にストラーダ枢機卿が庇うように出て、デュリオ王子を一喝する。
「レナート殿下の御前です。デュリオ王子、お静まり下さい」
「ストラーダ、下がれ! 『教会派』の重鎮だろうと、第二王子に指図する権限などない!」
デュリオ王子の激しい剣幕に押されて、ストラーダ枢機卿だけでなく周囲の騎士までもが動きを止める。
静まり返った中を、デュリオ王子が誰にも邪魔させる事なく私の元へまっすぐ歩いてくる。ストラーダ枢機卿を押しのけたデュリオが、私の……レナート王子の胸倉をつかんで引き寄せる。
「デュリオ――」
「レナート、説明しろ。何を馬鹿な事をしてるんだ?」
深碧の瞳が私を射貫くように見つめる。
ここで全てを打ち明けたなら、デュリオ王子はその強さで何もかもを覆してくれるだろうか。きっと……してくれる。いつだって無理ばかり押し通す人だ。でも……
力なく落ちた自分の手を強く握る。
「何でもありません。私は、私に必要な事を進めているだけです」
まっすぐ見つめて、はっきりと拒絶の言葉を口にする。
レナート王子になって分かったことがある。レナート王子は『教会派』の中で、絶対権力者ではない。
ここにいるストラーダ枢機卿は、多分レナート王子より力がある。彼の前で私が何か不審な動きを見せれば、軟禁されて身動きがとれなくなってしまうかもしれない。
まだ、私は真実に少し触れただけで、ひっくり返す道も見えていない。全てをデュリオ王子に託して、私が舞台を降ろされる訳には行かない。
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