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前章

もう、分からなくなる!

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 『私』の元に向かう前に、グレイの話を聞く為に自室に向かう。
 心無しか足取りが軽いのは、明日を乗り切る道が見えているからだろう。 
 意気揚々と扉を開けると、ソファーに寝そべって本を読むグレイが目に入ってきた。私に気づいたグレイが、起き上がる事もなく首だけで一礼する。

「おかえり、レナート殿下」

 ここは一国の第一皇子の部屋、その主が帰還してこの態度は余りに酷い。よくもこの態度で、これまで貴族社会でやって来れたと感心する。全てが終わったら、ジャンの下で教育してもらった方がいいかもしれない。
 ため息をつくと、漸く少年を過ぎた年齢の従者がグレイを起こそうと必死に引っ張る。

「なりません! そのような態度で王子にご挨拶など失礼ですよ! レナート王子も呆れておいでです!」

 彼がジャンの言っていた手塩にかけて育てた見習い従者なのだろうか。小さく咳ばらいをしたジャンが進み出て、見習い従者を咎める。

「ニコロ。貴方もですよ。グレイ様に注意をする前に、レナート王子に礼をしなくてはなりません」

 弾かれるようにニコロが姿勢を正して向き直ると、私に向かってジャンを思わせる丁寧な一礼をする。

「はじめまして、レナート王子。ニコロと申します。お仕えさせて頂けることに、心より喜びを感じております」
「はじめまして、ニコロ。宜しくお願しますね」

 顔を上げたニコロが、ほんの少し頬を染めて嬉しそうに笑う。素朴で親しみやすい笑顔には、まだあどけなさが残っていて、思わず頭を撫でてあげたくなってしまう。
 もしも、レナート王子の側に居たのが、ジャンとニコロならもっとレナート王子も自由でいられただろうか。
 アベッリ公爵、ストラーダ枢機卿、シスト。彼らの態度は余りにもレナート王子を蔑ろにしていて、とても冷たかった。大馬鹿な選択の言い訳にはならないけど、本来の姿でいれなかった環境を可哀想と思ってしまう。
 でも、私が頑張れば、今日で全てが変わるかもしれない。

「ジャン。ニコロ。一つお仕事をお願いします。この後に西棟に行きますが、途中でクリス様に一言伝えたい事があります。上手く整えて下さい」

 子弟従者が双子のように一斉に礼をして、揃って部屋を出る。二人だけになると、ソファのひじ掛けに顎を乗せたグレイがつまらなそうに口を開く。

「この後もクリス様と約束ですか? レナート殿下はまだまだ忙しいみたいですね。個人的にもっと貴方を知る話が、僕も少しはしたかったな」
「それは、全てが終わった後にしましょう」

 器用にグレイがひじ掛けの上で小首を傾げる。

「そんなに必死になるのは、やはり姫君が大事な人だからですかね?」

 度々出てくる『姫君』が、相変わらず誰を指すのか分からない。肯定とも否定ともとれる風に、曖昧に首を傾げて微笑む。
 金が混じった紫の瞳が、探るような落ち着かない眼差しで私を見つめる。

「やっぱりレナート殿下には、なんだか秘密の香りがする。それに、たくさんの矛盾の影がある気がする。とても興味がそそられるから、僕は貴方を全力で応援しますよ」

 秘密の香りと矛盾の影。まさか、レナート王子が元のレナート王子じゃない、私である気配に気づいているのか。
 一瞬うろたえそうになったけど、ある訳がないとすぐに否定する。ジャンですら気づいていない事に、グレイが気づくわけない。
 小さく首を振って、表情を引き締める。 

「応援して下さるのなら、今は時間を無駄にしないで下さい。今朝の話の続きをお願いします」

 ソファーから体を起こして、グレイが気だるい一礼をみせる。

「知っている事を話すのは面倒ですが、仰せのままに。リーリア様を置いて逃げたけど、僕はこういう性格ですからね。事の成り行きも気になった。だから、中庭をこっそり見下ろせる場所を探した。そこで、貴方と会ったんです」

 逃走したグレイと出会ったのならば、きっと人目に付かない場所で中庭が見下ろせるのだろう。婚約発表をしたばかりのソフィア様が襲われたのに、レナート王子はそこで何をしようとしていたのか。
 促すように、軽く頷くとグレイが再び口を開く。

「僕は、ずっと気になっていたんです。中庭を見下ろす貴方の顔が、苦し気で泣きそうに見えた。貴方は騎士に運ばれていくリーリア様をどんな思いで見ていたのですかね?」

 泣きそうな顔でレナート王子が私を見ていた? 
 一応は、私がソフィア様を襲ったことになっているのだ。大事な婚約者を襲われて、苦々しく睨むならわ分かるけど、苦し気で泣きそうなんて意味が分からない。
 そもそも、少し前にレナート王子は嘲りながら婚約破棄を告げた。その数日後には、大っ嫌いだと言った。私の事なんて、もうどうでもいい筈だ。

「グレイ。それは、気のせいだと思います。それに、私への質問は今は無しです」
「つまらないな。貴方と会った僕はとても焦っていた。貴方とストラーダ枢機卿は近しい。でも、今日の事では対立してた。一か八かで、何一つ話さないから助けて欲しいと泣きついた。何の感情も籠らない瞳で私を見て、貴方は逃げていいよと言いました。それで、僕は今度こそ城を出ようと踵を返した」

 何故、そんな矛盾した行動ばかりレナート王子は取るのか。
 『私』の証言を裏付けできるグレイが逃げたら、『教会派』のレナート王子は困る。きっとグレイが秘密の香りと言うのも、同じ様に一連の行動を見て思ったからなのだろう。
 ソファーから立ち上がったグレイが、ゆっくりとした足取り私の方へと歩み寄る。

「でも、貴方は途中で呼び止めた。旅券とお金を融通するから、お姫様を同行させて欲しいと頼んできた。勿論、飛びつきましたよ。自分の旅券での逃亡は危険ですが、王子様発行の旅券なら呼び止められる事無く何処へでも簡単にいける」

 一旦言葉を切ると、妙な色気のある唇をグレイが赤い舌でなぞって湿らせる。 

「僕が数歩進む間に、貴方は何を計画したんでしょうね? 僕に同行させたかったお姫様って、一体誰なんですか?」

 予想外の発言に、うっかり僅かに眉を上げてしまう。
 『お姫様』が誰かなのかは、グレイは把握していると思っていた。

「それは秘密です」

 追及を許さないように短くぴしゃりと告げると、不満げにグレイが鼻を鳴らす。

「約束の場所で約束の夜に、僕はちゃんと待っていた。でもお姫様は来なかった。旅券とお金を持ち逃げしても良かったんですが、見逃して頂いた恩もあるので後味が悪い。それに約束違反と、旅券を差し止められては困ります。次の計画を窺おうと決めて林で様子を窺っていたら、こうしてお会いできた。森であった貴方は――」
「その後は、結構です。約束の時間と場所を間違った可能性はありませんか?」

 出会った後の事も語ろうとしたグレイの言葉を遮って、曖昧な約束について尋ねる。腕を組んで首を傾げると、グレイが約束の場所と時間を口にした。

「貴方とお会いした三日後の夜更け、外苑に接した川の上流。間違ってますか?」

 三日後の夜更け……。レナート王子が私を外苑に連れ出した時間と重なる。『私』が事の真相を仄めかされて、レナート王子の頬を打った時、外苑の崖の下の川の上流では、グレイが『お姫様』を待っていた。

「グレイ、有難うございます。間違いはないように思います」

 笑いながら告げた胸の中は、嵐みたいに混乱してた。
 グレイが一歩進み出ると、顔を近づけて艶やかな微笑みを浮かべる。

「『お姫様』はリーリア様ですよね? 貴方が泣きそうだった訳も、『お姫様』が現れなかった訳も、それなら嵌る。レナート殿下は確か水魔法でしたね。川の水を操って、リーリア様を上流で待つ僕の元に運ぶ予定だったのでは? でも、何かが起きて無理になった。違いますか?」

 辻褄は合わないこともない。でもレナート王子の言動を思えば、『お姫様』と呼んで私を逃がす筋書きは簡単には受け入れられない。

「その質問に、私は答える事ができません。時間ですから、もう行きます。夜になったら部屋を移って下さい」

 踵を返すと、グレイが私の背に苛立たし気にもう一度問いかける。

「ソフィア様とリーリア様。リーリア様を『お姫様』と呼ぶのなら、貴方にとって、愛する人はどちらでしょうか?」
 
 舞踏会の晩にソフィアを見た愛し気な眼差しと、腰を抱き寄せた綺麗な手。答えるように頬を染めたソフィア。
 もしも、レナート王子が私を『お姫様』と呼んで逃がそうとしていても、愛する人の答えだけは出ている。
 足を止めて振り返って、呆れたような笑顔を浮かべて見せる。

「お姫様をリーリアと断定なさらないで下さい。それに、その可能性には愛ではなくて、幼馴染への情けという選択もありますよ」

 これは『罪滅ぼしの散歩』だと、レナート王子は確かに言った。
 『お姫様』と呼ばれたとしても、グレイの指摘する愛なんて私には見つけられない。

 扉を開けると、ジャンとニコロが揃って笑顔で待っていた。心が和む笑顔を見ていたら、少しずつ心の嵐が治まってきた。
 グレイの金が混ざる紫の瞳。何かを探しているような貪欲さが時折浮かんで、追い詰められているような気分になる。図々し所よりも、もっと苦手かもしれない。
 気分を変えるために、一度両手で頬を打つ。ジャンは少し慣れた様子だけど、ニコロの方は驚いた様に目を丸くする。
 
「すみません。少し気合を入れました。準備は上手くしていただけたみたいですね?」

 微笑んで告げると、二人が息を合わせたように一礼する。

「はい。準備は万端でございます。西棟に向かわれますか?」

 ジャンの言葉に頷いて、ニコロを見る。

「ニコロ、手のかかる人ですが、グレイをお願いします。夜にはシストの部屋に連れていってください」

 一瞬見惚れたような顔で言葉を失ったニコロが、慌てて体ごと跳び跳ねるように大きく頷く。

「お任せください! 首に縄をかけてでも、夜にはこのお部屋から追い出してみせます!」

 ジャンが手塩にかけて育てただけあって、ニコロからもレナート王子至上主義の空気を感じた。これなら、任せても安心そうだ。

 ジャンに案内されて、西棟へは北棟を迂回した道を選ぶ。このルートは人気が少ないから、あまり多くの目に触れずにクリスと言葉が交わせるだろう。

 西棟に入ってすぐ、柔らかな薄紅の髪の小さな背を見つけた。足音に気付いたのか、クリスが振り返って柔らかな微笑みを浮かべる。

「あぁ、レナート王子。こんなところでお会いできるなんて、今日はとても運がいい」

 天使のような顔をじっと見つめる。実年齢は私よりもずっと上なのに、下手をしたらニコロよりも幼気にみえる。
 でも、こうしてしれっと嘘をはけるのだから、中身はやっぱり狡い大人だ。

「本当に奇遇ですね」

 奇遇と返して、口元を僅かにあげる。
 クリスを呼んだのは、これから起こる事を仄めかして、事が起きた時に『旧国派』呼応してもらう為だ。
 
「明日は、祭りになります。後には、クリス様とお茶会を開きたいと思います。お友達と一緒にご参加ください」

 明日は『旧国派』にとって良い事件が起きて、後々『旧国派』と談合すると暗に仄めかす。狡い天使は即席の符号を素早く理解してくれたみたいで、一瞬だけ意味ありげに目を細めて大人の表情で笑う。

「祭りとは、大変素晴らしいですね。この国のお友達には、是非お土産を用意して頂きましょう」

 交渉役には厄介だけど、繋ぎ役としてのクリスはこれ以上ないくらい優秀だ。頭の回転も速いし、大人の狡さもある。なのに見た目は愛らしい少年だから警戒されにくい。

「『お土産』を期待しております」

 軽く互いに礼をして別れる。
 『旧国派』は、いくつか『教会派』の罪を握っている。レナート王子を信頼する事はないだろうけど、今回は『お土産』としての資料は用意してくれる筈だ。処刑の日を終えた後に、それが簡単に元に戻させない一助にきっとなる。

 全てやれることはやった。そんな達成感に近い気持ちを胸に、西等の廊下を歩む。日差しはすっかり熱を失って、柔らかな日差しがもう長い影を作っていた。
 レナート王子と会ってから一日しか経っていないのに、もうずっと会っていない気がする。それだけ、この二日が目まぐるしいものだったという事だろう。

 兵が立つ扉が見えると、逃げるように背を向けた別れとグレイの言葉を思い出す。何から話そうか、どうやって最初の言葉を切り出すかを考えながら、今日は扉を叩いてから防音の魔法を書く。
 
 結局、最初の一言はみつからなかった。なるようにしかならないと、糸に釣られた様に背筋を整え直して扉を開く。
 待っていた『私』と視線が交わって慌てて身を翻すと、今日は丁寧に扉を閉じる。

「今日はきちんとらしくできているね、リーリア」

 『私』の声でレナート王子が最初の言葉を告げる。
 
 離れていても、いつだって変わらない。
 十四歳のあの日に無理やり引き離されても、舞踏会で目が合えば、レナート王子は遠くから優しく微笑んでくれた。
 一緒にいない気まずさもぎこちない不安も、いつだってその笑顔だけで溶けていった。今日も、同じ様にレナート王子の一声が、私の中のこわばりを簡単に溶かす。
 ほっとした気持ちで、いつも通りに笑って振り返る。

「当然です。私はやればできる子ですから」

 優雅な私らしくない笑顔で『私』が微笑むと、なんだか悩んでいたのが馬鹿々々しくなる程自然と体が動き出す。軽い足取りでベッドの側に近づいて、手近な椅子を引き寄せて腰を下ろす。

「レナート王子は、今日もベッドの中なんですか? 『私』の体がなまってしまいます」

 今日もベッドに座るレナート王子に注意をすると、肩を竦めてから苦笑いが返ってきた。

「仕方ないだろう? 私は囚われの身なのだから、他にする事がない」
「そんな事ありませんよ。ちゃんと立って手を回したり、その場で足踏みをしたり、狭くても体を動かす事はいくらでもできます」
 
 レナート王子らしく『私』が軽く噴き出す。

「リーリアは、やっぱりがさつなんだね。君の屋敷では、いつでも君がバタバタする音が聞こえるんだろうな」

 頬を膨らまして軽く睨む。
 雨の日は部屋でそうするけど、晴れの日はきちんと庭に出て運動する。だから、屋敷がバタバタする事なんてそれほどない。
 拗ねる私を見て、『私』が目を細めて楽し気に笑う。
 
 長い髪を一度、くるりと指に巻く。
 私がした事を、今なら切り出せる。そう思って、ほんの少し身を乗り出して私の成果を口にする。

「処刑を止めます。頑張って色々したんです。すごい大きな変化が起きるんですが……。だけど、元に戻る方法も今は分からないし、しばらくは私が責任をとるからいいですよね?」

 一言切り出すと、言葉が止まらなくなった。
 レナート王子が笑いを収めて表情を消したから、答えが怖くなって言葉を止められなくなる。
 
「レナート王子は勝手やり過ぎと思うかもしれませんが、処刑を止めないと私もレナート王子も困ります。元に戻ったら沢山頑張って貰わないとダメだけど、ジャンも戻って来ます。可愛い見習い従者もいるし、ソフィアもいるし、新しい環境でやり直しをしてくれますよね。それに――」

 レナート王子が『私』の小さい手で、私の言葉を遮る。

「落ち着いて、リーリア。君が何かをしでかすのは、分かっていたから怒らないよ。ちゃんと何をしたかを、一つ一つ説明してごらん」

 慌てて首を縦に何度も振って、小さく深呼吸をする。それから、ここに来るまでにあった全ての事を説明していく。
 『私』は顎に手をあてて、私の話をじっと静かに聞いていた。時折、話が飛ぶと首を傾げて詳細を促す。

「わかった」

 レナート王子が『私』の声でそう言った時には、もう日差しは赤に色を変えていた。暫くじっと考え込んでいた『私』が、顔を上げて私を見る。

「リーリア。アベッリ公爵の証拠はまだ手元にないんだよね?」
「はい。まだ、ありません。でも、そろそろ届くころだと思います」

 もうすぐ陽が沈むから、そろそろ騎士団に戻らなくてはいけない。レナートが『私』の手をじっと見る。そういえば、はじめてここに来た時もレナート王子は『私』の手を見ていた。

「『私』の手に何かありますか?」

 尋ねると、レナート王子が小さく首をふって弱々しく微笑む。

「君になってから、リーリアの手は本当に小さいなと思ってた」

 思わず首を傾げる。『私』になる前からも、レナート王子は『私』の手を取る度に小さいと何度も言っていた。だから、今更どうしてと思う。

 『私』が『私』の手をかかげて、見つめながら口を開く。

「知ってたよりも、ずっと小さい。この小さな手に何度も助けられて、この手が私を包んでくれたら何でも耐えられると私は思ってしまった。だから、無理矢理縋って求めてしまった」

 長い息を吐いて、ゆっくりと『私』の手を降ろすとケットを強く握りしめる。

「レナ――」
 
 私が名を呼ぶより先に、レナート王子が私を見つめて言葉を口にする。

「ごめん。こんなに小さな手なんだから、きっと縋られるよりも縋りたかったはずだ。あの日、君が外苑で縋りたかったのはデュリオだったのに、私がそこにいて君に縋った。ごめんね、リーリア」
「謝らないでください! 私が決めたんです。そうするって、だって……」
 
 言葉を飲み込んで、唇を噛む。
 気づくのに時間がかかった初恋は、気づいた時にはもうどうしょうもないぐらいの大好きだった。
 デュリオ王子が大好きで、大好きで仕方なくて。自分の思いでいっぱいだったから、レナート王子が私に寄せてくれた『恋』に気付けてなかった。

 レナート王子から婚約の申し込みがあって、私を好きだという事も知って、申し出が派閥にとって最善だと分かっていた。なのに、返事が出来ない程、デュリオ王子に私は『恋』をしていた。

 あの日、外苑に来たのがデュリオ王子だったなら、私はどうしていたのか。

 考えても仕方ない。だって、現実にはデュリオ王子はそこにいなくてレナート王子がいた。偶然って言ったけど、偶然じゃないことぐらいわかる。
 あの時、デュリオ王子は私ではなく、レナート王子の幸せを望んだ。

 いつだって、初恋と片思いに同時に気づいたあの日から、私の思いはずっと一方通行だ。
 だから……。だから……。だから、レナート王子を選んだの?
 
 分からない。
 あれからずっと、私は自分の恋心に一度だって正面から向き合えていない。
 でも、『恋』じゃななくても、レナート王子の事を支えると誓った気持ちに偽りはない。

 私の浅い吐息だけが聞こえる沈黙を、レナート王子の囁く声が破る。

「リーリア」

 今の私には答える言葉が見つからなくて、強く頭を振る。

「リーリア」

 『私』の手が、レナート王子の私の手に触れる。

「処刑の前日の今、もう一度だけリーリアに縋らせて」

 顔を上げると不安げな『私』の瞳と視線がぶつかる。揺れて今にも泣きそうな眼差しに、胸が潰れそうな程苦しい。

「君が私を抱いて、私の体に一度だけ君を抱かせてほしい」

 この願いが、処刑の前の不安なのか。それとも、別の不安や恐怖なのか分からない。でも、縋られたあの日に頷いた時、私はレナート王子を支えると確かに決めた。
 それが、終わった今でも……今だけは、ただ答えてあげたい。
 
 『私』に、私がレナート王子の手を伸ばす。レナート王子の手に納まる肩を引き寄せて、優しく胸に抱きしめる。目を閉じると真っ暗で、互いの体温だけが伝わってくる。

「リーリア、抱きしめ返してもいい?」

 頷くと『私』の手が背中を優しく包むように抱く。互いの体温が溶け合うと、私が抱いているのか、私が抱かれているのか分からない。
 
 どのくらいそうしていたのか。
 背中から手の感触が消えて、『私』が長い息を吐く。

「デュリオも君が好きだよ。好きだったに、選べなかったのは私がいたからだ。元に戻ったら、君はもう自由だよ。私とは何の関係もない。だから、デュリオに今度は縋るんだよ」

 頬を温かいものが滑り落ちる。自分が何故泣いているのか分からない。
 デュリオ王子が私を好きだと知った事が嬉しいのか、もう自由と突き放された事が悲しいのか。

「グレイに会いました。レナート王子は、私を救おうとしたんですか? 何故、どうして?」

 言いながら体をゆっくりと『私』の手が押し返す。

「リーリアにはお世話になったから、罪滅ぼしだと言った筈だよ」

 レナート王子と同じ微笑み方で微笑んだ『私』が、涙を指で優しく掬った。
 罪滅ぼし。縋って求めた『恋』はもうレナート王子の中では終わっている。そう思うと、長く胸の中にあった何かが壊れて、胸に大きな穴が開いた気がした。

 何かを言わなければ、何かを聞かなければと、口を開いたのに言葉がもう出てこない。 

 扉が突然開いて、ジャンが飛び込んでくる。

「レナート王子、お戻りください!」
 
 振り返って立ち上がろうとした私の腕を、レナート王子が掴む。

「天と地の理、『奇跡』はあちらの計画にある。だから、きっと処刑はある。デュリオに縋るんだ。私は君として必ずそれに頷く」

 手が離れると、既に『私』が掬った涙を、もう一度腕て擦って払う。
 ジャンと共に騎士団に向かう為に駆けだす。

 ここまできて、一体何があったのか。
 天と地の理と『奇跡』。その言葉が夕立ち雲のように、胸の中に不安になって広がっていく。
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