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攫われる事になりました!【前章終話】
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ゆっくりだけど炎は、確実にその勢いを強めていく。応じる様に人々の無常な歓声も、また大きくなる。
このままでは、『私』が……『レナート王子』が失なわれてしまう。
こぶしを握り締めて、ゆっくりと体の中の魔力を動かす。
ここで諦めてはいけない。例え魔力が封じられても、出来る事はしなくては駄目なんだ。
独特の魔力のうねりが、内側ではっきりと動くのを感じた。枷の所為で魔力が外に出る事はないが、内側はいつもと変わりない。魔法と違って、魔術は外に出す必要がない。
だから、できる!
理解すると同時に、いつもと同じ様に術式に魔力を流し込んでいく。体の内側から魔力がどんどん吸い込まれる。
レナート王子である『私』の身に近づく炎を見つめながら、あと少しと心の中で唱える。
突然、視界がぐらりと揺れた。均衡を崩した身体が前のめりになって、バルコニーから落ちそうになる。鎖を掴んだアベッリ公爵が、後ろへと強引に引き倒す。
背中から床に叩きつけられた痛みを、気にする余裕はなかった。視界の揺らぎがどんどんと激しくなって、それに呼応するかのように魔力が何処かへと抜けていく。
これ以上、魔力が抜けたら術式が使えない。押しとどめる様に身を屈めた私の髪を、アベッリ公爵が掴んで顔を上げさせる。
「落ちて騒ぎを起こして、処刑を止めようとでも考えたか? どれだけ儂に楯突けば気が済むのだ。卑しい贋物が!」
『卑しい贋物』耳に残った言葉が何を指すのか、考えて問うより先に視界が大きく波打った。
束の間、私の視界が真っ暗な闇に飲まれる。
ぱちぱちと炎が爆ぜる音が聞こえて目を開く。息をすると煙が喉と鼻に入り込んで、慌てて息を止める。
私の目に映る世界は一転していた。
私を囲む煙の向うには、糾弾を叫ぶたくさんの人が見える。背中には荒々しい木の感触があって、後ろ手に縛られた手は少しも動かすことができない。慌てて俯くと、炎が舐める様に足元を脅かす。
私……『私』に戻っている?
弾かれる様に王族のバルコニーを見ると、レナート王子が私に向かって何かを叫ぶ姿が見えた。
一体何が起きたのか分からない。だけど、私とレナート王子は再び入れ替わって元に戻った。
安堵すると同時に、煙が目に沁みて顔を顰める。
二つが一つづつに戻った今、レナート王子が『私』として失われないのは良かった。だけど、私だけが失われる危険な状況には変わりない。
はっきりした熱が、時折足元をよぎる。
入れ替わりなんて冗談じゃないけど、処刑で死ぬのも冗談じゃない!
どうしたらいい?
術はレナート王子の身体に書いた。元に戻ってしまったら使えない。
使えない? 本当に?
駄目だと思ったけれど、さっきだって何とかなった。だったら、今度も何とかなるかもしれない。
体の中でもう一度、魔力を動かしてみる。レナート王子に書いた術式と同じ場所に、魔力が吸い込まれる。
足首に強い熱と痛みが走って、慌てて魔力を一気に流し込む。
「水よ。火を消して」
火と水が爆ぜる短い音の後に、炎が水に一気に飲み込まれる音がした。足元から、真っ白な水蒸気が立ち上って、溢れた水が地を濡らして色を変えていく。
あり得ない事態に、観衆が大きなどよめきに包まれる。ざわざわとした囁きには、まだ驚きの色が強くて嫌悪の色はない。
バルコニーの上から、アベッリ公爵が叫ぶ。
「何があった? 早く新しい木を用意して、もう一度火をつけろ」
弾かれたように、予備の木材に向かって走る騎士の背中を見つめて、もう一度魔力を術に流し込む。二日前にいくつも術を書いたから、運が良ければあの中にも術を書いた木が残っている筈だ。
幸い腕の送りの術には沢山魔力が残っていて、二回目の魔術が直ぐに発動される。
「水よ。木を濡らして」
呟くと同時に積み上げられた木材から、勢いよく水が湧き出て押し流す。予想外に事態に後ずさった騎士は、足元に流された木に足をとられて大きな尻もちをついた。
静まり返った。闘技場に再びアベッリ公爵の激高した声が響く。
「火が使えぬのなら、そこで打ち捨てろ! 『魔女』であるリーリア・ディルーカ伯爵令嬢を殺せ!」
尻もちをついていた騎士が、青い顔をして私を見つめて躊躇らう。そのまま諦めてと願ったけれど、それは叶わなかった。ずぶ濡れで立ち上がった騎士が、恐る恐る私に向かって剣を抜く。
今回の魔術は、単純に水を出す事しか出来ない。剣を振われれば、もう私になすすべはない。
そっと目を閉じて、空を仰ぐ。
私は頑張った。最後までちゃんと抵抗した。レナート王子は助かる。
でも、私はもう駄目かもしれない。
終わりたくない。だから、助けて……。お願い……。
闘技場の大門が開く音が響いて目を開けると、馬で駆けてくる明るい金の髪が見えた。
見つめると深碧の瞳が柔らかな孤を書いて私の眼差しと交わる。
狡いと思う。何がかは分からないけど、デュリオ王子はいつだって狡い。
馬を降りたデュリオ王子が、私に向かって手を伸ばす。
「約束を守りにきた」
レナート王子の言葉が頭を過る。
自由だから縋っていい。
縋られた私、王妃になる筈の私、友の私、恋をした私。
どれを選んでもいいと言われても、簡単になんて動き出せない。
そう思うのに、差し出された手を見つめていると、ただ縋りたくなってしまう。泣きそうな顔で頷いた私に向かって、デュリオ王子が手首を一閃させる。
微かな風に手足の戒めが解かれると、レナート王子の体だった時と同じく力が上手くはいらなかった。
前へと倒れ込んだ私が伸ばした手に、デュリオ王子の指先が触れる。絡んだ指先が私を捕まえて、逞しい胸に引き寄せる。
「デュ、……リオ王子」
涙を堪えて見上げた私の頭を乱暴にデュリオ王子が撫でる。それだけで心から怖い気持ちが溶けていく。
私を胸に抱いたまま、デュリオ王子が王家のバルコニーを見上げる。
「俺は、第二王子デュリオ・セラフィンの名にかけて、リーリア・ディルーカの処刑中止を求める。遅くなったが、証拠と呼ばれた手紙を捏造した者を捕らえ、既に騎士団に引き渡した」
デュリオ王子の低いけどよく通る声が告げると、静かだった観衆が再びざわめく。
バルコニーから身を乗り出したアベッリ公爵が真っ赤な顔で首を振る。
「なりません。他にも目撃証言もございます。何よりも、その女は恐ろしき『魔女』です。得体の知れない力で、水を呼び起こし炎を消した。ここにいる民もそれを目の当たりにしております」
心配していた通り、魔術を魔女と断じられる。
民の間で同意するような声がいくつか上がって、次第に大きくなっていく。
水浸しの処刑台を一度見ると、デュリオ王子が残念そうに顔をしかめる。
「俺がいない隙に、また面白い事をしたのか?」
あり得ない事を簡単に面白いと言って、デュリオ王子が私の頬を指ではじく。
受け入れてくれる安心感と軽い言葉につられて、いつもみたいに頬をふくらませる。
「面白くありません。魔女ではないし、怪しい力でもありません。ちょっと禁忌の魔術を使って、水を生んで炎を消したんです」
国の決まりに触れる禁忌の告白に、デュリオ王子が唇の端を上げて楽しげに笑う。
「禁忌の魔術とは、お前はやっぱり面白い。ます、前を向いて胸をはれ。それから、今から一言も喋るなよ。喋ったら口を塞ぐ」
指をつきつけて、念をおされる。喋らないぐらい簡単と大きく頷いて、バルコニーの方を向いて胸を張る。ついでにアベッリ公爵を睨んだところで、デュリオ王子の声が高らかに響く。
「何故、魔女の力と断じる? 何もないところに水を生み出す。これのどごが悪しき力だ? 聖女も同じことをしている!」
しんと静まり返った中で、慌てて振り返る。
「聖女! 一緒しないでください。あちらは『奇跡』、私のは種も仕掛けもある――」
「喋るなと言った筈だぞ」
唇を指で叩かれて、黙り込む。反論すべき事は頭に浮かぶのに、デュリオ王子の指先に魔法があるかのように唇が動かない。
静かになった私に満足げにうなずくと、表情をひきしめたデュリオ王子が静まり返った人々を見渡す。
深碧の瞳には、人の心を奪う特別な何かがある。ただ、無言で見渡しただけなのに、闘技場の全ての視線が集まるのが空気でわかった。
「民よ! 力を見たのであれば、わかる筈だ。リーリア・ディルーカの力は聖女と同じ。ならば、その存在は魔女ではなく、聖女と呼ぶのが正しい。神の贈り物である二人目の聖女が、過ちで失われなかった事実を寿ぐがよい」
ざわめきの色が二つに割れた。歓迎する興奮気味の歓声と、真偽を訝しむ囁きが周囲を包む。
聖女? 二人目の聖女?
たくさんの視線が私に集まるのに気づいて、デュリオ王子の袖を必死に引く。
「私が聖女とかあり得ません。今すぐ取り消し――」
硬くて熱い指先が私の顎を引き寄せて、柔らかなものが唇のすぐ横に触れた。
触れる程近くに、閉じた瞼と金の睫毛が見える。肌の熱が感じられそうなくらい頬が近い。
でも、目に映る衝撃よりも、唇の横の柔らかな感触に全神経を攫われる。
私の口元に触れた唇は、僅かに顔をずらせばきっと重なる。
口づけじゃ無いけど口づけに近い何かに、胸が激しく高鳴って体中が熱く目眩がしそうになる。
溺れるような気持ちでデュリオ王子の服を掴むと、新碧の瞳がゆっくりと開かれてデュリオ王子が顔を離す。
歓声の音が、何一つ耳に届かない。突然の事に誰もが言葉を失っているのか、私の鼓動がうるさすぎるのか分からない。
私の顔を隠す様に大きな手で包んで、デュリオ王子が囁く。
「次は、喋ったら唇を塞ぐ。攫うと決めたら、俺は容赦しない。だか、こんな衆目で奪わせるな。お前の溶ける顔は人に見せたくない」
少し怒った顔なのに、デュリオ王子の眼差しは優しかった。見つめた瞳の奥に知らない熱を見つけて、鍵をかけたはずの懐かしい感情が揺さぶられる。
片手を首筋に指を這わせて、デュリオ王子が以前に渡したネックレスを引き出す。私の首に掛けたままで、先に輝く指輪を周囲に見せるように掲げる。
「これは第二王子の証たる指輪だ。それをリーリア・ディルーカが持っている。この意味が分からぬ者はおるまい! この国の第二王子と二人目の聖女の婚約に祝福を」
人を魅力してやまない太陽みたいな笑顔でデュリオ王子が宣言すると、今日一番大きく明るい歓声が上がった。
私が『魔女』から『聖女』に変わる。
そして、婚約者がレナート王子からデュリオ王子に変わる。
戸惑う様に見上げると、私の頬を包んでいた手が頬を優しく撫でて肩へと落ちる。そっと肩を抱き寄せられて、胸に頬を預けると私のものじゃない早い鼓動が今日は聞こえた。
目を閉じて耳を済ますと、私の中の鼓動とデュリオ王子の鼓動が重なる。
何が起きているのか、これからどうなるのか、何も分からない。でも、長い長い片思いだった初恋が、実を結ぼうとしているのだけは分かった。
次第に小さくなる歓声に身を離すと、デュリオ王子が片手を上げて民の声を静めていた。
私に向けた顔と違う、厳しい表情で王族のバルコニーをデュリオ王子が見つめる。
「兄上! 俺との二つの約束を覚えているか。一つはたった今、俺が貰いうけた。もう一つの為に、献上したいものがある。今しがた、教会長であるドゥランテ・アベッリの『反逆罪』を示すものが騎士団に届いた」
胸に広がる感慨に目を閉じると、どよめきの中に幾つか悲鳴のような声が混じる。
私のした事が、ちゃんと届いた。粘って粘って、今度こそ『奇跡』に勝った。
「馬鹿な! 例えて第二王子とて、侮辱する事は許されませんぞ」
アベッリ公爵の叫びに振り返ると、バルコニーに入ってきたグレゴーリ公爵と数名の騎士の姿が見えた。一瞬にして、バルコニーの手すりにアベッリ公爵が組み伏せられる。
レナート王子が書状の様なものを手にして進み出る。その手首には、もう腕をとらえた枷はない。
穏やかなのによく透る声が、ざわめきを沈める。
「皆、静かに。たった今、騎士団長アレッシオ・グレゴーリより、第二皇子デュリオが示したものを受け取った」
水を打ったように静まり返った観衆が、対峙する様に見つめ合ったレナート王子とデュリオ王子の顔を交互に見つめる。
小さく息を吐いて、デュリオ王子が穏やかな笑顔を浮かべる。
「次期国王として、兄上にご判断をお任せします」
応えるようにレナート王子が優雅に柔らかく微笑む。
「確かに、厳正に決まりに基づいた判断を約束しよう。デュリオ……」
一度言葉を切って、レナート王子が私を見つめる。
『卑しい贋物』。その言葉が過ぎると、笑っているのにレナート王子が泣きそうに見えた。
レナート王子が国王代理としての言葉を告げる。
「ディルーカ伯爵令嬢。いわれなき悪評に辛い立場に立たされたことを、国の代表としてお詫びしよう。そして、私の弟との婚約に心より祝福を。どうか、幸せに」
デュリオ王子が一礼するのを見て、慌てて私も一礼する。
顔を上げた時には、バルコニーからレナート王子の姿は消えていた。
私を聖女と呼ぶ声と、デュリオ王子の婚約を祝福する声が湧き上がる。
「デュリオ王子! 私、どうしたらいいんですか?」
全く想像していなかった事態に、黒いドレスの裾を握りしめる。
聖女が嘘だと叫ぶわけにもいかないし、婚約だって本当にそれでいいのか自信がない。
深碧の瞳が私を見下ろして、僅かに顰める。
「どこまで理解しているんだ?」
理解。理解できているのだろうか。
全く自信がなくて首を大きく横に振ると、デュリオ王子が私を抱き上げる。
近づいた顔が私の耳元に唇を寄せて囁く。
「俺はお前を攫うぞ。もう手放すつもりはない」
その言葉の意味に、一瞬で頬が熱くなって、俯く事しか出来なくなる。
多分、私はデュリオ王子への恋を忘れていない。だから、言葉一つ指先一つで、簡単に魔法に掛けられてしまう。
頷けば止まっていた初恋が動き出す。でも、これで本当に全てが終わりなの?
何故、私とレナート王子が入れ替わったのか。
もう、元に戻って全てが終わったのか。
そして、『贋物』とはなんなのか。
「攫われたいのですが……。まだ、終わりじゃない気がするんです」
デュリオ王子の胸に体を預けて呟く。
歓声の中を抱かれて進みながら、幸せと不安と変わりだす何かををはっきりと感じていた。
このままでは、『私』が……『レナート王子』が失なわれてしまう。
こぶしを握り締めて、ゆっくりと体の中の魔力を動かす。
ここで諦めてはいけない。例え魔力が封じられても、出来る事はしなくては駄目なんだ。
独特の魔力のうねりが、内側ではっきりと動くのを感じた。枷の所為で魔力が外に出る事はないが、内側はいつもと変わりない。魔法と違って、魔術は外に出す必要がない。
だから、できる!
理解すると同時に、いつもと同じ様に術式に魔力を流し込んでいく。体の内側から魔力がどんどん吸い込まれる。
レナート王子である『私』の身に近づく炎を見つめながら、あと少しと心の中で唱える。
突然、視界がぐらりと揺れた。均衡を崩した身体が前のめりになって、バルコニーから落ちそうになる。鎖を掴んだアベッリ公爵が、後ろへと強引に引き倒す。
背中から床に叩きつけられた痛みを、気にする余裕はなかった。視界の揺らぎがどんどんと激しくなって、それに呼応するかのように魔力が何処かへと抜けていく。
これ以上、魔力が抜けたら術式が使えない。押しとどめる様に身を屈めた私の髪を、アベッリ公爵が掴んで顔を上げさせる。
「落ちて騒ぎを起こして、処刑を止めようとでも考えたか? どれだけ儂に楯突けば気が済むのだ。卑しい贋物が!」
『卑しい贋物』耳に残った言葉が何を指すのか、考えて問うより先に視界が大きく波打った。
束の間、私の視界が真っ暗な闇に飲まれる。
ぱちぱちと炎が爆ぜる音が聞こえて目を開く。息をすると煙が喉と鼻に入り込んで、慌てて息を止める。
私の目に映る世界は一転していた。
私を囲む煙の向うには、糾弾を叫ぶたくさんの人が見える。背中には荒々しい木の感触があって、後ろ手に縛られた手は少しも動かすことができない。慌てて俯くと、炎が舐める様に足元を脅かす。
私……『私』に戻っている?
弾かれる様に王族のバルコニーを見ると、レナート王子が私に向かって何かを叫ぶ姿が見えた。
一体何が起きたのか分からない。だけど、私とレナート王子は再び入れ替わって元に戻った。
安堵すると同時に、煙が目に沁みて顔を顰める。
二つが一つづつに戻った今、レナート王子が『私』として失われないのは良かった。だけど、私だけが失われる危険な状況には変わりない。
はっきりした熱が、時折足元をよぎる。
入れ替わりなんて冗談じゃないけど、処刑で死ぬのも冗談じゃない!
どうしたらいい?
術はレナート王子の身体に書いた。元に戻ってしまったら使えない。
使えない? 本当に?
駄目だと思ったけれど、さっきだって何とかなった。だったら、今度も何とかなるかもしれない。
体の中でもう一度、魔力を動かしてみる。レナート王子に書いた術式と同じ場所に、魔力が吸い込まれる。
足首に強い熱と痛みが走って、慌てて魔力を一気に流し込む。
「水よ。火を消して」
火と水が爆ぜる短い音の後に、炎が水に一気に飲み込まれる音がした。足元から、真っ白な水蒸気が立ち上って、溢れた水が地を濡らして色を変えていく。
あり得ない事態に、観衆が大きなどよめきに包まれる。ざわざわとした囁きには、まだ驚きの色が強くて嫌悪の色はない。
バルコニーの上から、アベッリ公爵が叫ぶ。
「何があった? 早く新しい木を用意して、もう一度火をつけろ」
弾かれたように、予備の木材に向かって走る騎士の背中を見つめて、もう一度魔力を術に流し込む。二日前にいくつも術を書いたから、運が良ければあの中にも術を書いた木が残っている筈だ。
幸い腕の送りの術には沢山魔力が残っていて、二回目の魔術が直ぐに発動される。
「水よ。木を濡らして」
呟くと同時に積み上げられた木材から、勢いよく水が湧き出て押し流す。予想外に事態に後ずさった騎士は、足元に流された木に足をとられて大きな尻もちをついた。
静まり返った。闘技場に再びアベッリ公爵の激高した声が響く。
「火が使えぬのなら、そこで打ち捨てろ! 『魔女』であるリーリア・ディルーカ伯爵令嬢を殺せ!」
尻もちをついていた騎士が、青い顔をして私を見つめて躊躇らう。そのまま諦めてと願ったけれど、それは叶わなかった。ずぶ濡れで立ち上がった騎士が、恐る恐る私に向かって剣を抜く。
今回の魔術は、単純に水を出す事しか出来ない。剣を振われれば、もう私になすすべはない。
そっと目を閉じて、空を仰ぐ。
私は頑張った。最後までちゃんと抵抗した。レナート王子は助かる。
でも、私はもう駄目かもしれない。
終わりたくない。だから、助けて……。お願い……。
闘技場の大門が開く音が響いて目を開けると、馬で駆けてくる明るい金の髪が見えた。
見つめると深碧の瞳が柔らかな孤を書いて私の眼差しと交わる。
狡いと思う。何がかは分からないけど、デュリオ王子はいつだって狡い。
馬を降りたデュリオ王子が、私に向かって手を伸ばす。
「約束を守りにきた」
レナート王子の言葉が頭を過る。
自由だから縋っていい。
縋られた私、王妃になる筈の私、友の私、恋をした私。
どれを選んでもいいと言われても、簡単になんて動き出せない。
そう思うのに、差し出された手を見つめていると、ただ縋りたくなってしまう。泣きそうな顔で頷いた私に向かって、デュリオ王子が手首を一閃させる。
微かな風に手足の戒めが解かれると、レナート王子の体だった時と同じく力が上手くはいらなかった。
前へと倒れ込んだ私が伸ばした手に、デュリオ王子の指先が触れる。絡んだ指先が私を捕まえて、逞しい胸に引き寄せる。
「デュ、……リオ王子」
涙を堪えて見上げた私の頭を乱暴にデュリオ王子が撫でる。それだけで心から怖い気持ちが溶けていく。
私を胸に抱いたまま、デュリオ王子が王家のバルコニーを見上げる。
「俺は、第二王子デュリオ・セラフィンの名にかけて、リーリア・ディルーカの処刑中止を求める。遅くなったが、証拠と呼ばれた手紙を捏造した者を捕らえ、既に騎士団に引き渡した」
デュリオ王子の低いけどよく通る声が告げると、静かだった観衆が再びざわめく。
バルコニーから身を乗り出したアベッリ公爵が真っ赤な顔で首を振る。
「なりません。他にも目撃証言もございます。何よりも、その女は恐ろしき『魔女』です。得体の知れない力で、水を呼び起こし炎を消した。ここにいる民もそれを目の当たりにしております」
心配していた通り、魔術を魔女と断じられる。
民の間で同意するような声がいくつか上がって、次第に大きくなっていく。
水浸しの処刑台を一度見ると、デュリオ王子が残念そうに顔をしかめる。
「俺がいない隙に、また面白い事をしたのか?」
あり得ない事を簡単に面白いと言って、デュリオ王子が私の頬を指ではじく。
受け入れてくれる安心感と軽い言葉につられて、いつもみたいに頬をふくらませる。
「面白くありません。魔女ではないし、怪しい力でもありません。ちょっと禁忌の魔術を使って、水を生んで炎を消したんです」
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「禁忌の魔術とは、お前はやっぱり面白い。ます、前を向いて胸をはれ。それから、今から一言も喋るなよ。喋ったら口を塞ぐ」
指をつきつけて、念をおされる。喋らないぐらい簡単と大きく頷いて、バルコニーの方を向いて胸を張る。ついでにアベッリ公爵を睨んだところで、デュリオ王子の声が高らかに響く。
「何故、魔女の力と断じる? 何もないところに水を生み出す。これのどごが悪しき力だ? 聖女も同じことをしている!」
しんと静まり返った中で、慌てて振り返る。
「聖女! 一緒しないでください。あちらは『奇跡』、私のは種も仕掛けもある――」
「喋るなと言った筈だぞ」
唇を指で叩かれて、黙り込む。反論すべき事は頭に浮かぶのに、デュリオ王子の指先に魔法があるかのように唇が動かない。
静かになった私に満足げにうなずくと、表情をひきしめたデュリオ王子が静まり返った人々を見渡す。
深碧の瞳には、人の心を奪う特別な何かがある。ただ、無言で見渡しただけなのに、闘技場の全ての視線が集まるのが空気でわかった。
「民よ! 力を見たのであれば、わかる筈だ。リーリア・ディルーカの力は聖女と同じ。ならば、その存在は魔女ではなく、聖女と呼ぶのが正しい。神の贈り物である二人目の聖女が、過ちで失われなかった事実を寿ぐがよい」
ざわめきの色が二つに割れた。歓迎する興奮気味の歓声と、真偽を訝しむ囁きが周囲を包む。
聖女? 二人目の聖女?
たくさんの視線が私に集まるのに気づいて、デュリオ王子の袖を必死に引く。
「私が聖女とかあり得ません。今すぐ取り消し――」
硬くて熱い指先が私の顎を引き寄せて、柔らかなものが唇のすぐ横に触れた。
触れる程近くに、閉じた瞼と金の睫毛が見える。肌の熱が感じられそうなくらい頬が近い。
でも、目に映る衝撃よりも、唇の横の柔らかな感触に全神経を攫われる。
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口づけじゃ無いけど口づけに近い何かに、胸が激しく高鳴って体中が熱く目眩がしそうになる。
溺れるような気持ちでデュリオ王子の服を掴むと、新碧の瞳がゆっくりと開かれてデュリオ王子が顔を離す。
歓声の音が、何一つ耳に届かない。突然の事に誰もが言葉を失っているのか、私の鼓動がうるさすぎるのか分からない。
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「次は、喋ったら唇を塞ぐ。攫うと決めたら、俺は容赦しない。だか、こんな衆目で奪わせるな。お前の溶ける顔は人に見せたくない」
少し怒った顔なのに、デュリオ王子の眼差しは優しかった。見つめた瞳の奥に知らない熱を見つけて、鍵をかけたはずの懐かしい感情が揺さぶられる。
片手を首筋に指を這わせて、デュリオ王子が以前に渡したネックレスを引き出す。私の首に掛けたままで、先に輝く指輪を周囲に見せるように掲げる。
「これは第二王子の証たる指輪だ。それをリーリア・ディルーカが持っている。この意味が分からぬ者はおるまい! この国の第二王子と二人目の聖女の婚約に祝福を」
人を魅力してやまない太陽みたいな笑顔でデュリオ王子が宣言すると、今日一番大きく明るい歓声が上がった。
私が『魔女』から『聖女』に変わる。
そして、婚約者がレナート王子からデュリオ王子に変わる。
戸惑う様に見上げると、私の頬を包んでいた手が頬を優しく撫でて肩へと落ちる。そっと肩を抱き寄せられて、胸に頬を預けると私のものじゃない早い鼓動が今日は聞こえた。
目を閉じて耳を済ますと、私の中の鼓動とデュリオ王子の鼓動が重なる。
何が起きているのか、これからどうなるのか、何も分からない。でも、長い長い片思いだった初恋が、実を結ぼうとしているのだけは分かった。
次第に小さくなる歓声に身を離すと、デュリオ王子が片手を上げて民の声を静めていた。
私に向けた顔と違う、厳しい表情で王族のバルコニーをデュリオ王子が見つめる。
「兄上! 俺との二つの約束を覚えているか。一つはたった今、俺が貰いうけた。もう一つの為に、献上したいものがある。今しがた、教会長であるドゥランテ・アベッリの『反逆罪』を示すものが騎士団に届いた」
胸に広がる感慨に目を閉じると、どよめきの中に幾つか悲鳴のような声が混じる。
私のした事が、ちゃんと届いた。粘って粘って、今度こそ『奇跡』に勝った。
「馬鹿な! 例えて第二王子とて、侮辱する事は許されませんぞ」
アベッリ公爵の叫びに振り返ると、バルコニーに入ってきたグレゴーリ公爵と数名の騎士の姿が見えた。一瞬にして、バルコニーの手すりにアベッリ公爵が組み伏せられる。
レナート王子が書状の様なものを手にして進み出る。その手首には、もう腕をとらえた枷はない。
穏やかなのによく透る声が、ざわめきを沈める。
「皆、静かに。たった今、騎士団長アレッシオ・グレゴーリより、第二皇子デュリオが示したものを受け取った」
水を打ったように静まり返った観衆が、対峙する様に見つめ合ったレナート王子とデュリオ王子の顔を交互に見つめる。
小さく息を吐いて、デュリオ王子が穏やかな笑顔を浮かべる。
「次期国王として、兄上にご判断をお任せします」
応えるようにレナート王子が優雅に柔らかく微笑む。
「確かに、厳正に決まりに基づいた判断を約束しよう。デュリオ……」
一度言葉を切って、レナート王子が私を見つめる。
『卑しい贋物』。その言葉が過ぎると、笑っているのにレナート王子が泣きそうに見えた。
レナート王子が国王代理としての言葉を告げる。
「ディルーカ伯爵令嬢。いわれなき悪評に辛い立場に立たされたことを、国の代表としてお詫びしよう。そして、私の弟との婚約に心より祝福を。どうか、幸せに」
デュリオ王子が一礼するのを見て、慌てて私も一礼する。
顔を上げた時には、バルコニーからレナート王子の姿は消えていた。
私を聖女と呼ぶ声と、デュリオ王子の婚約を祝福する声が湧き上がる。
「デュリオ王子! 私、どうしたらいいんですか?」
全く想像していなかった事態に、黒いドレスの裾を握りしめる。
聖女が嘘だと叫ぶわけにもいかないし、婚約だって本当にそれでいいのか自信がない。
深碧の瞳が私を見下ろして、僅かに顰める。
「どこまで理解しているんだ?」
理解。理解できているのだろうか。
全く自信がなくて首を大きく横に振ると、デュリオ王子が私を抱き上げる。
近づいた顔が私の耳元に唇を寄せて囁く。
「俺はお前を攫うぞ。もう手放すつもりはない」
その言葉の意味に、一瞬で頬が熱くなって、俯く事しか出来なくなる。
多分、私はデュリオ王子への恋を忘れていない。だから、言葉一つ指先一つで、簡単に魔法に掛けられてしまう。
頷けば止まっていた初恋が動き出す。でも、これで本当に全てが終わりなの?
何故、私とレナート王子が入れ替わったのか。
もう、元に戻って全てが終わったのか。
そして、『贋物』とはなんなのか。
「攫われたいのですが……。まだ、終わりじゃない気がするんです」
デュリオ王子の胸に体を預けて呟く。
歓声の中を抱かれて進みながら、幸せと不安と変わりだす何かををはっきりと感じていた。
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