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六月十日 義徳、ひとまずホッとする
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その日、緒形義徳はいつものようにオフィスで仕事をしていた。とは言っても、午前九時から午後五時までの間を、ボーッとして過ごしていただけだ。テレビを観たり、雑誌を読んだり、スマホをいじったり……。
最近、ちょくちょくオフィスに現れるようになっていた西村陽一も、今日は姿を現さなかった。陽一との会話は、暇潰しにはもってこいだったのだ。
退屈だな。
ふと、そんなことを思った。次に、そんなことを思った自分に違和感を覚えた。今まで、ずっとこんな生活だったはずなのだ。それなのに、いつの間にか退屈だと感じるようになっている。
厄介な話だ。人間というものは、刺激のない生活には耐えられないように出来ている。だからこそ、人は非日常に憧れるのだ。銃をバンバン撃ち合うアクション映画を観るのも、スリリングな絶叫マシンに乗るのも、舌がとろけそうな料理を味わうのも、全ては非日常を体験したいからだ。
もっとも、非日常も繰り返していれば……やがては日常と化し、退屈をもたらすだけなのだった。
五時になり、義徳は立ち上がった。机の上の物を片付け、オフィスを後にする。今日は本当に静かであった。陽一がここに来る前、自分はどのように過ごしていたのだろうか。義徳は、妙な寂しさを感じた。
いつものように電車に乗り、人ごみに揉まれる。やがて電車を降り駅を出て、自宅に帰り着いた。
「ただいま」
声をかけながら、扉を開ける。すると最初に玄関にて義徳を迎えたのは、いつものごとく黒猫のマオニャンであった。こちらを見上げて、にゃあと鳴く。さらに、人の声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
声とともに出迎えに来てくれたのは、これまたいつもと同じく有希子だ。
「ただいま」
にっこりと笑い、義徳は革靴を脱いだ。そう、このいつもと同じ風景こそがいとおしいのだ。義徳にとって、どんな手段を用いても守るべきものだった。
その夜。
義徳がベッドで寝ていた時、不意にメールの着信音が聞こえてきた。義徳は体を起こし、携帯電話を手に取る。
メールの送り主は、陽一だった。
(桜田将太が塚本孝雄を殺しました。いま警察に連行されていくところです。明日、会社で会いましょう)
そのメールを見た後、義徳はホッと一息ついた。ようやく、この面倒な仕事は終わったのだ。真幌の絞殺魔は通り魔によって殺され、連続絞殺事件の幕は降りた。
明日から、ワイドショーには新たなヒーローが誕生することとなる。桜田将太という名の、路上でチンピラを狩っていた通り魔……いや、自警団だろうか。
陽一は既に、将太のこれまで犯した罪の証拠を警察に送りつけているはずだ。しかも塚本孝雄の部屋からは、孝雄が真幌の絞殺魔であることを示す数々の証拠が出る手はずになっている。
この先しばらくの間は、孝雄と将太は世間の注目を集めることとなる。ふたりの経歴、さらに覚醒剤中毒の殺人鬼と、その殺人鬼を素手で殺したという男……マスコミは放っておかないであろう。
一方、神居公彦は何事もなかったかのように、不起訴処分で終わりだ。公彦は不起訴になると同時に、しばらく海外に旅行に行くなどと言っているらしい。どこまでも、おめでたい男だ。
もっとも、そんなことはどうでもいい。
この仕事は、終わったのだから。
「どうしたの?」
隣で寝ていた有希子が上体を起こし、声をかけてきた。
義徳は、にっこりと微笑む。
「いや、仕事先の人からメールが来てね。やっと仕事が片付いたんだよ」
「そう……よかったね。最近の父さん、何かピリピリしてて怖かったよ」
「怖かった? 私が?」
訝しげな表情で尋ねる。自分のどこが怖いのだろう。
「うん……ちょっとだけ、ね」
そう言って、微笑む有希子。義徳は目を逸らし、ベッドの上を見つめる。
もう、終わってしまったのだ。
義徳の胸の中に、形容の出来ない感情が蠢く。心を疼かせ、不安を呼び覚ますかのような……その感情に突き動かされるまま、義徳は有希子を抱き締めた。
彼女の唇を吸い、押し倒す。何もかも忘れてしまいたかった。自身のしたことも、自身の裡に蠢く感情の存在も──
「ちょっと……明日も仕事でしょ」
そう言いながらも、有希子は抵抗しなかった。
やがて、ふたりは激しく求め合う。義理とはいえ、父と娘の獣じみた交わりを、部屋の隅からじっと見つめている者がいた。
黒猫のマオニャンだ。マオニャンはどこか哀れむような目で、両者を見つめている。
初めは、純粋な気持ちだったのだ。
まだ十歳の幼い少女が、学校も行かずに売春宿で客の相手をさせられている……それは、あまりにも痛々しい光景である。だからこそ、義徳は彼女を養女にしたのだ。幼い少女を救ってあげたいという純粋な気持ちに突き動かされるまま、義徳は売春宿の主人に話をつけ、大金を払い少女を引き取ったのである。
そして有希子という名を付け、日本に連れて来た。結果、それまで勤めていた仕事を辞めることになってしまった。義徳は地位も名誉も失い、かろうじて満願商事の幽霊社員として生活していたのだ。
しかし、有希子が女として成長するにつれ、ふたりの関係は変わっていった。
親子から、男女へと。
きっかけは、有希子の方からだった。ある日、彼女に想いをぶつけられ……義徳はそれに対処する術を知らなかったのだ。父として、人として恥ずべき行為。だが、義徳は有希子の誘惑に屈した。
後悔していない、と言えば嘘になる。
だが、もう後戻りは出来ない。
有希子なしの生活など、義徳には耐えられないのだから。
最近、ちょくちょくオフィスに現れるようになっていた西村陽一も、今日は姿を現さなかった。陽一との会話は、暇潰しにはもってこいだったのだ。
退屈だな。
ふと、そんなことを思った。次に、そんなことを思った自分に違和感を覚えた。今まで、ずっとこんな生活だったはずなのだ。それなのに、いつの間にか退屈だと感じるようになっている。
厄介な話だ。人間というものは、刺激のない生活には耐えられないように出来ている。だからこそ、人は非日常に憧れるのだ。銃をバンバン撃ち合うアクション映画を観るのも、スリリングな絶叫マシンに乗るのも、舌がとろけそうな料理を味わうのも、全ては非日常を体験したいからだ。
もっとも、非日常も繰り返していれば……やがては日常と化し、退屈をもたらすだけなのだった。
五時になり、義徳は立ち上がった。机の上の物を片付け、オフィスを後にする。今日は本当に静かであった。陽一がここに来る前、自分はどのように過ごしていたのだろうか。義徳は、妙な寂しさを感じた。
いつものように電車に乗り、人ごみに揉まれる。やがて電車を降り駅を出て、自宅に帰り着いた。
「ただいま」
声をかけながら、扉を開ける。すると最初に玄関にて義徳を迎えたのは、いつものごとく黒猫のマオニャンであった。こちらを見上げて、にゃあと鳴く。さらに、人の声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
声とともに出迎えに来てくれたのは、これまたいつもと同じく有希子だ。
「ただいま」
にっこりと笑い、義徳は革靴を脱いだ。そう、このいつもと同じ風景こそがいとおしいのだ。義徳にとって、どんな手段を用いても守るべきものだった。
その夜。
義徳がベッドで寝ていた時、不意にメールの着信音が聞こえてきた。義徳は体を起こし、携帯電話を手に取る。
メールの送り主は、陽一だった。
(桜田将太が塚本孝雄を殺しました。いま警察に連行されていくところです。明日、会社で会いましょう)
そのメールを見た後、義徳はホッと一息ついた。ようやく、この面倒な仕事は終わったのだ。真幌の絞殺魔は通り魔によって殺され、連続絞殺事件の幕は降りた。
明日から、ワイドショーには新たなヒーローが誕生することとなる。桜田将太という名の、路上でチンピラを狩っていた通り魔……いや、自警団だろうか。
陽一は既に、将太のこれまで犯した罪の証拠を警察に送りつけているはずだ。しかも塚本孝雄の部屋からは、孝雄が真幌の絞殺魔であることを示す数々の証拠が出る手はずになっている。
この先しばらくの間は、孝雄と将太は世間の注目を集めることとなる。ふたりの経歴、さらに覚醒剤中毒の殺人鬼と、その殺人鬼を素手で殺したという男……マスコミは放っておかないであろう。
一方、神居公彦は何事もなかったかのように、不起訴処分で終わりだ。公彦は不起訴になると同時に、しばらく海外に旅行に行くなどと言っているらしい。どこまでも、おめでたい男だ。
もっとも、そんなことはどうでもいい。
この仕事は、終わったのだから。
「どうしたの?」
隣で寝ていた有希子が上体を起こし、声をかけてきた。
義徳は、にっこりと微笑む。
「いや、仕事先の人からメールが来てね。やっと仕事が片付いたんだよ」
「そう……よかったね。最近の父さん、何かピリピリしてて怖かったよ」
「怖かった? 私が?」
訝しげな表情で尋ねる。自分のどこが怖いのだろう。
「うん……ちょっとだけ、ね」
そう言って、微笑む有希子。義徳は目を逸らし、ベッドの上を見つめる。
もう、終わってしまったのだ。
義徳の胸の中に、形容の出来ない感情が蠢く。心を疼かせ、不安を呼び覚ますかのような……その感情に突き動かされるまま、義徳は有希子を抱き締めた。
彼女の唇を吸い、押し倒す。何もかも忘れてしまいたかった。自身のしたことも、自身の裡に蠢く感情の存在も──
「ちょっと……明日も仕事でしょ」
そう言いながらも、有希子は抵抗しなかった。
やがて、ふたりは激しく求め合う。義理とはいえ、父と娘の獣じみた交わりを、部屋の隅からじっと見つめている者がいた。
黒猫のマオニャンだ。マオニャンはどこか哀れむような目で、両者を見つめている。
初めは、純粋な気持ちだったのだ。
まだ十歳の幼い少女が、学校も行かずに売春宿で客の相手をさせられている……それは、あまりにも痛々しい光景である。だからこそ、義徳は彼女を養女にしたのだ。幼い少女を救ってあげたいという純粋な気持ちに突き動かされるまま、義徳は売春宿の主人に話をつけ、大金を払い少女を引き取ったのである。
そして有希子という名を付け、日本に連れて来た。結果、それまで勤めていた仕事を辞めることになってしまった。義徳は地位も名誉も失い、かろうじて満願商事の幽霊社員として生活していたのだ。
しかし、有希子が女として成長するにつれ、ふたりの関係は変わっていった。
親子から、男女へと。
きっかけは、有希子の方からだった。ある日、彼女に想いをぶつけられ……義徳はそれに対処する術を知らなかったのだ。父として、人として恥ずべき行為。だが、義徳は有希子の誘惑に屈した。
後悔していない、と言えば嘘になる。
だが、もう後戻りは出来ない。
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