悪魔の授業

板倉恭司

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落第

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 そこには、巨大な建物があった。
 かなり長い歳月、雨風にさらされて変色したらしい外壁。ところどころガラスを割られた窓。入り口とその周辺にはロープが張られ、立ち入り禁止と書かれたボロボロの札が立っていた。
 車を一時間ほど走らせて到着したのは、この奇妙な廃墟である。ここで、いったい何をするのだろうか。
 困惑する郁紀だったが、ペドロは彼に構わず車を降りた。振り返ると、静かな表情で口を開く。

「付いてきたまえ」

 そう言うと、ペドロはすたすたと歩き建物の中に入っていった。郁紀は、慌てて車を降りる。そして、彼の後を追った。

「暗いから、足元に気をつけるんだ。転んで怪我でもしたら、トレーニングに差し支えるからね」

 歩きながらのペドロの言葉に、郁紀は混乱する。ここでトレーニングをするのか?

「トレーニング? ここでやるんですか?」

 思わず聞き返していた。すると、ペドロは立ち止まる。

「そう、ここでやるんだよ。人目がないし、音も外には聴こえにくい。なかなかいい場所だ。この中で、君には俺の出した課題をしてもらう。俺の言う通りにしていれば、君は変わることが出来るよ。間違いなく、ね」

 そう言うと、再び歩き出す。郁紀も、その後を追った。
 少し歩くと、下の階へと進む階段があった。ペドロは、迷うことなく階段を降りて行く。郁紀も、慎重に階段を降りた。
 下の階は、さらに暗い。前が全く見えないのだ。ペドロは懐中電灯を取り出し、足元を照らしながら降りて行く。郁紀は、慎重に彼の後を付いて行った。
 しばらく歩いた時だった。突然、ペドロは立ち止まる。

「さてと……ここだ。これから、人をひとり殺してもらう」

 郁紀は仰天し、ペドロの顔をまじまじと見つめる。

「こ、ここで殺すんですか?」

「ああ、そうさ。人といっても、人形だがね。この部屋の中には、一体の人形が置かれている。その人形を人間だと想定し、君に殺してもらう。いいね?」

 言いながら、ペドロは目の前にあるものを指差す。そこには、鉄製の扉があった。

「まず、俺が入って明かりをつける。君は、後から入ってきたまえ」

「わかりました」

 郁紀の返事を聞き、ペドロは扉を開けて中に入って行った。直後、室内がパッと明るくなる。郁紀は、すぐさま部屋に入った。
 その途端、呆気に取られて立ちすくむ──

 室内は外と違い、綺麗なものだった。六畳ほどの広さの部屋に、事務用の机と椅子が置かれている。机の上には、ペン立てとペン、それにパソコンが置かれている。さらに、天井にはカンテラが吊されていた。
 椅子の上には、人形が座っていた。郁紀と同じくらいの大きさだが、目や鼻などは付いていないし、衣服も着けていない。なんとも異様な光景である。

 なんだよ、これ?

 郁紀は混乱し、動きが止まる。その時、後ろから声が聞こえてきた。

「何をしてるんだい?」

 ペドロからの言葉に、郁紀はハッと我に返った。同時に、彼から言われたことを思い出す。人形を、人間だと思って殺せと言われていたのだ。
 直後、郁紀は動いた。机を飛び越えながら、人形の顔面めがけ飛び蹴りを叩き込む──
 手応えは、確かにあった。だが、人形は壊れていない。かなり頑丈な材質で出来ているらしい。不気味なのは、妙に弾力があることだ。人体に近い感触である。
 もっとも、今は人形の材質などどうでもいい。郁紀は、人形の頭を掴む。床の上に、強引に投げ倒した。さらに後ろから組み付き、首に腕を巻き付け絞め上げる──

「もういい」

 冷たい声が、室内に響き渡る。郁紀はビクリとなった。慌てて腕をほどき、立ち上がる。
 ペドロは立ったまま、郁紀をじっと見つめていた。その表情からは、何を考えているのか判断できない。だが声の調子からすると、彼は郁紀の動きに納得していないらしい。
 何がいけなかったのだろうか……神妙な顔つきの郁紀に、ペドロは言った。

「申し訳ないが、全く駄目だ。君は落第だよ……まあ、想定していた通りの結果だったがね」

 予想していたとはいえ、落第と言われると納得できないものを感じる。郁紀は、思わず言い返していた。

「ちょ、ちょっと待ってください。何がいけなかったんですか?」

「細かい点を数えあげたら、キリがないね。だから、重要な点をひとつだけ述べておこう。君はなぜ、あんな手段を用いたんだい?」

「あんな手段、というのは?」

「俺は、部屋にある人形を人間だと想定して殺せ、と言ったね。そこで君は、人形の顔に飛び蹴りを食らわせ、投げで倒して首を絞めた。あのまま絞め続けていれば、相手は確実に死んでいただろう。殺す、という最低限の目的は達成できる。だが、それだけでは落第だな」

 その言葉に、郁紀の頭はさらに混乱した。格闘の技術面について駄目出しされるかと思っていたのだ。
 ところが、ペドロの言いたいことは別にあるらしい。相手を殺したのに落第とは、どういうことだ?

「な、なぜですか?」

「確かに、俺は部屋の中にいる者を殺せと言った。だが、素手で殺せという条件は出していないんだよ」

 言いながら、ペドロは部屋の中を見回した。

「見たまえ。壁、床、机、椅子、ペン、パソコンなどなど……ここに凶器として使えそうな物は、いくらでも転がっている。わざわざ、素手で殺す必要はない。確実に殺すのなら、パソコンのモニターを頭に叩きつけるなり、ペンを頸動脈に突き刺すなり、方法はいろいろあったはずだ」

 その言葉に、郁紀は下を向いた。
 言われてみれば、その通りだ。戦いに、ルールなどない。武器を用いたところで、責められはしない。
 にもかかわらず、郁紀は今まで素手で戦ってきた。その理由は……心のどこかに、自分を正当化したい気持ちがあったのではないか。
 さらには、素手で倒すことにより、ひそかな自己満足に浸っていたのかもしれない……。

「君も、格闘技をやっているならわかるだろう。打撃技を使えば、手足を痛めることがある。手足を痛めてしまったら、君は確実に弱体化する。特に、足を痛めてしまったら致命的だ。戦うことも逃げることも出来なくなる。状況が許すなら、素手で戦うのはやめた方がいい」

 ペドロの言っていることに、反論の余地はない。格闘技の試合にて、自らの放った蹴りにより、足を痛めてしまうケースは珍しくないのだ。事実、自らの放ったローキックを防御され、すねが折れてしまった選手もいた。
 足を痛めれば、その時点で戦いは終わりである──

「覚えておきたまえ。その場にあるものを、いかに上手く利用するか……それこそが、本物の戦いにて生死を分ける。俺なら、部屋に入った瞬間、凶器になりそうなものを探す。そして、一秒以内に凶器を見つけて手に取り、彼を殺していた」

 言いながら、ペドロは倒れた人形を指さした。

「もちろん、素手で戦う技術は必要だ。時には、素手で倒さねばならない状況もあるだろう。しかし、今の君は素手の技術に固執しすぎている。臨機応変に、身の回りのものを凶器に変えられる……それこそが、本物の戦士だ」

 ペドロの言葉は、郁紀の中に染み渡っていく。実に不思議な気分だった。これまでに教えを受けたどんな人間よりも、彼の言葉はわかりやすい。その上、説得力がある。 
 その説得力の源は……この男の、圧倒的なまでの自信だ。仮に、今の言葉を普通のサラリーマンに言われたとしたら、ここまでは響かなかっただろう。
 だが、ペドロという怪物に言われれば……納得するしかない。現に、この男は素手の闘いでも、郁紀の遥か上のレベルにいるのだから。

「これが、前に言った幹の部分なんだよ。今の君に拳銃の撃ち方やナイフでの戦闘術を教えたとしても、大した役には立たない。それよりも、発想そのものを変えなくてはならない。君はまず、周囲がどんな状況であるか、きちんと把握することを覚えなくてはならないね」

「わかりました」




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