悪魔の授業

板倉恭司

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またしても落第

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 翌日、昼の一時過ぎ、郁紀は車に乗っていた。
 ペドロは、無言のままハンドルを握っている。郁紀も無言のままだ。車内は、重苦しい空気に包まれていた。
 異様なまでに、居心地が悪い。郁紀は、何度か口を開きかけた。だが、沈黙を貫いた。

(君は今、沈黙に耐えられなくなった。だから、くだらない質問をした。覚えておくといい。沈黙していると、向こうから勝手に情報を漏らしてくれることもある。君は、沈黙に耐えることを覚えた方がいい)

 以前、ペドロにいわれた言葉だ。となると、今も話しかけてはいけないのだろう。郁紀は口を閉じ、外の景色をじっと見ていた。これから、どこに向かうかは知らないが……恐らくは、昨日のように人目のない場所であろう。



 だが、連れて来られたのは意外な場所だった。

「あ、あの……」

 郁紀は、思わず口ごもる。
 二人は今、道路沿いのファミリーレストランの前に立っている。ごく普通の、どこにでもあるような店だ。
 ここで、トレーニングをするとは考えづらい。となると、何の用だろうか。まさか、トレーニングの前に腹ごしらえでもしようというのか?

「ちょっと、ここに入ろうか」

 困惑している郁紀に構わず、ペドロは店内に入って行った。郁紀は、慌てて後に続く。
 女の店員に案内され、二人は席に着いた。ペドロは、ホットコーヒーを二つ注文する。
 そんな彼を見ながら、郁紀はどういうことかと考えていた。ひょっとして、本当に腹ごしらえなのか?

「まずは、ここで話をしよう。昨日の授業は、どうだった?」

「えっと、それは──」

 その時、店員がコーヒーを運んできた。郁紀は、すぐに口を閉じる。
 ペドロは、カップに手を伸ばした。

「では、いただくとしよう」

 直後、中身を一気に飲み干す。当然ながら、砂糖もミルクも入れていない。味わっているような様子もない。まるで、車がガソリンを補給するかのようだった。
 つられて郁紀も、目の前に置かれているカップを手にする。
 その時、声が飛んで来た。

「君は飲むな」 

 カップを持ち上げた手が止まる。注文しておいて飲むな、とはどういうことだろう……だが、続けて放たれたペドロの言葉に、郁紀の表情は引き締まる。

「今から、トレーニング開始だ。俺の言うことを、よく聞いていてくれ」

「はい」

 まさか、ここでトレーニングをするとは予想外だった。郁紀は、固唾を飲んでペドロの言葉を待つ。一体、何を言ってくるのだろうか。

「では、問題だ。何者かが、俺たち二人を消そうと考え、このコーヒーに毒物を混入したとしよう。最初に飲み干した俺は毒に気づき、君に注意した。結果、コーヒーを飲み干した俺は死ぬ。しかし、君は助かるわけだ」

 ペドロは、静かな声で語る。郁紀は、無言で耳を傾けていた。周囲の音楽や話し声などの雑音は、彼の耳に入っていなかった。

「ところが、俺たち二人を消そうとしていた人物は、さらなる手を用意していた。突然、この店の中にいる者すべてが暗殺者として、君に襲いかかってきたとしよう。その場合、君はどう対処する?」 

「えっ?」

 さすがに、こんな質問は想定外だった。郁紀は、慌てて周囲を見回す。
 店内にいるのは、サラリーマンとおぼしきスーツ姿の中年男と、学生風の若い男女が二人だ。さらに、女の店員が二人いる。合計五人だが、うち三人は女だ。体格も小さい。パンチ一発で倒せるだろう。あとのサラリーマンと若い男も、恐らくは素人だ。やろうと思えば、ひとりにつき一分もかからず殴り倒せる。
 いや、待てよ。素手で闘うのはマズイ。昨日、言われたばかりではないか。ならば、武器になるものを探すのが正解ではないか──
 その時、冷たい声が響く。

「落第だ」 

「はい? 落第?」

 郁紀は、思わず顔を歪めていた。いくらなんでも早すぎる。こんな僅かな時間では、何も答えられない──

「ちょっと待ってください。なんで落第なんですか? もしかして、時間切れということですか?」

 気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。すると、ペドロはくすりと笑う。

「時間切れではない。それ以前の問題だよ。君は今、戦おうとしていたね」

「は、はい」

 反射的に返事をした。が、直後に驚愕する。なぜ、わかったのだ? 今、自分は一言も発していなかったはずだが。
 そんな郁紀に向かい、ペドロは語る。

「だがね、こんな状況で戦うなど愚か者のすることだよ。俺は、どう対処するかを聞いたんだよ。どう戦うかは聞いていない」

「えっ……」

 呆然となる郁紀。一方、ペドロは真剣な面持ちで語り出す。

「今の状況を考えてみたまえ。店から出されたコーヒーに、強力な毒物が混入されていたんだよ。つまり、我々は待ち伏せを受けたということだ。向こうは、君と俺を殺すためにさらなる仕掛けを用意しているはず……こんな状況で戦いを続行するなど、愚か者のすることだよ」

 郁紀は、何も言えなかった。
 確かに、その通りだ。運ばれてきたコーヒーに、毒物が入っていた。直後、客と店員が襲いかかって来る……圧倒的に不利だ。逃げるのが、一番の得策だろう。
 沈黙する郁紀に向かい、ペドロは語り続けた。

「わかったかね? ここは君にとって、圧倒的に不利なんだよ。そんな状況で、相手を倒す必要などない。まずは、離脱するのがセオリーだ。にもかかわらず、君は戦おうとした。これは、完全に間違いだ」

 その言葉に、郁紀は頷いた。
 ペドロの言っていることは正しい。やはり、この男は本物なのだ。子供の喧嘩とは違う、本当の殺し合いを経験してきているからこそ、何のためらいもなく「逃げる」という言葉を口に出来る。

「これが大事なんだよ。自分の置かれた状況を、瞬時に判断し適切な行動がとれる能力……これは、コンクリートブロックを素手で破壊したり、百メートル先の的をライフルで正確に撃ち抜けるスキルより、ずっと大切だ」

 これまた、頷かざるを得ない言葉だった。どんなに優れた能力を持っていようが、人は簡単に死ぬ。コンクリートブロックを素手で破壊できる超人でも、切られれば血は流れる。銃で撃たれれば死ぬ。

「もちろん、時と場合によっては、不利な状況でも闘わなくてはならないこともある。しかし、それは逃げ道がない場合だけた。今の状況を、もう一度よく見てみたまえ。逃げ道など、いくらでもあるはずだよ。なのに、ここで戦う必要があるのかい?」

「いいえ、ありません」

「そう、戦う必要などないんだよ。もう一度言うが、これこそもっとも大切な能力だ。マシンガンを乱射し敵を皆殺しにしたり、わけのわからない武術で敵をバッタバッタと倒していく……こんなものが通じるのは、コンピューターゲームの世界だけだ。実際の戦いは、生き延びることを第一に考えなくてはならない。避けられる戦いは避ける。待ち伏せを受けたら、脱出を第一に考える。これは、俺にとってごく当たり前のことだ」

 落ち着いた口調で、ペドロは語る。郁紀は、神妙な面持ちで彼の言葉を聞いていた。

「覚えておきたまえ。見知らぬ場所に行った時には、まず周囲の様子をよく観察する。次いで、もし何か起きた場合、そこからどうやって脱出するか……その手段を、頭の中で考えておくんだ。出来れば、三種類は考えておきたいな。戦いでは、不測の事態が付き物だからね」

 そう言った後、不意に目線を逸らした。

「ついでに聞くがね、あの二人の名前は?」

「はい?」

 あの二人、とは誰だろうか。郁紀は、ペドロの視線の先を見てみる。そこには、店員がいた。二人で談笑している。

「あそこにいる二人の店員だよ。彼女らの名前は?」

 反射的に、わかりませんと答えようとした。だが、すんでのところで思い留まる。これは、ペドロの出した問題だ。ならば、わからないという答えは許されない。
 どうやって、名前を知ればいい?
 その時、閃くものがあった。

「つまり、聞き出してこい……ということですか?」

 恐る恐る聞いてみた。
 すると、ペドロの顔に奇妙な表情が浮かぶ。これまでに、見たことがないものだ……郁紀は不安になり、必死で考えを巡らせた。この表情は、何を意味しているのだろう。
 直後、ペドロはにこやかな表情に戻った。

「なるほど、君はそう解釈したのか。いや、これは意外だった。まさか、そんな解釈をするとはね。想定外だったよ」

「えっ?」

 想定外、とはどういうことだろう。郁紀は、思わず首を傾げていた。

「俺が言いたかったのはね、彼女たちはネームプレートを付けているということさ。周囲を常に観察していれば、彼女たちの名前を知ることも出来た」

「なるほど、そういうことですか」

 ようやく合点がいった。見れば、確かに彼女らはネームプレートを付けている。ペドロ並みの観察力がなくとも、店に入った時点で気づいていたはずだ。
 改めて、自身の観察力のなさを痛感した。が、その後に続く言葉は意外なものだった。

「君は、彼女らのネームプレートの存在に気づいていなかった。当然、名前などわかるはずがない。しかし君は、わからないという答えを出したくなかった。そこで、君は閃いた。これは実に簡単だ。名前がわからなければ、聞けばいいじゃないか……とね」

「は、はあ」

「はいといいえ、答えはそれだけではない。わからないなら、わからないなりに違う形で答えを見つけようとする。これは、実に立派な姿勢だ。やはり君は、俺の思っていた通りの人間だ」

 ペドロは、満足げに頷く。これは、褒められたと解釈していいのだろうか。郁紀は、狐につままれたような気分だった。

「さて、授業は終わりだ。何でも好きなものを頼みたまえ」

「お、終わりですか?」

「ああ、そうさ。今日は、これで終わりだよ。ただし、明日は想像を絶する厳しい訓練が待っている。だが、君なら必ず耐えられるはずだ。俺は、そう信じている」



 


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