悪魔の授業

板倉恭司

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狂気の一夜(1)

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「えっ、ここですか……」

 郁紀は、思わず呟いた。
 目の前には、巨大な建物がある。雨風にさらされて変色した外壁と、ところどころガラスを割られた窓は、前回来た時となんら変わっていない。入り口とその周辺にはロープが張られ、立ち入り禁止と書かれたボロボロの札が立っている。これもまた、前回と同じだ。
 まさか、ここに来るとは。



 今日もまた、昼過ぎにペドロが部屋を訪れた。その後、二人は車に乗り込む。
 一時間ほど走り、到着した場所は………二日前に来たばかりの廃墟であった。前回はここで、人形を人だと思って殺せ……という指示をうけたのだ。そこで飛び蹴りを食らわし、ぶっ倒してバックチョークで絞め上げた。挙げ句、ペドロに落第を宣告されたのである。
 また同じ場所に来るとは、さすがに思っていなかった。

「一昨日、君と一緒に来た場所だよ。忘れたのかい?」

 こともなげに言うと、ペドロはずかずか入って行く。

「そ、そうですよね」

 もちろん、そんなことはわかっている。問題は、ここで何をするかだよ……などと思いながら、郁紀は後に続いた。
 


 前回と同じく、二人で暗い建物内を歩く。階段を降りて、下の階まで来た。
 さらに廊下を歩いていき、突き当たりの部屋の前で立ち止まった。ドアを開け、郁紀を招き入れる。
 郁紀は、恐る恐る……といった表情で入っていった。六畳ほどの広さだろうか。天井がやたら高く、壁はくすんだ灰色だ。中は暗く、家具らしきものは置かれていない。いるだけで気が滅入りそうな雰囲気である。
 前回、使った部屋とは造りが違う。

「ここは、かつて病室だった。きわめて凶暴で、手の付けられない患者を閉じ込めておくためのものさ。人権に対する意識の進んだ現代では、考えられない話だね」

 まあ、そうだろうな……などと思いながら、次の言葉を待った。が、それは予想外のものだった。

「明日の朝まで、この部屋で過ごしてもらう。ただ、それだけさ」

「それだけ、ですか?」

 さすがに、これは考えてもいなかった。この部屋で一晩過ごすことに、何の意味があるのだろう。
 サバイバル訓練のようなものだろうか。
 あるいは、他に何かあるのか?

「ああ、それだけだよ。では、これを飲みたまえ」

 郁紀の当惑をよそに、ペドロはポケットから小さなケースを取り出した。蓋を開け、中から錠剤を手に取る。
 その錠剤と水の入ったペットボトルを、こちらに差し出して来た。
 郁紀は、不安を感じた。これは、いったい何だ?

「こ、この薬は何ですか?」

「排便を抑制する薬だよ。この部屋には、水洗トイレなどというものはない。あとあと糞尿の匂いが充満しては困るだろう。さあ、飲みたまえ」

 確かに、ここでそんなものの匂いを嗅ぎつつ過ごすのは嫌だ。郁紀は、促されるまま錠剤を飲みこんだ。ペットボトルの水で流し込む。
 水を飲み終えた時、ペドロが再び語り出した。

「今から、このドアに鍵をかける。そうなると、中から開けることは出来ない」

「は、はい」

「君は、独力で外に出ることは出来なくなる。俺が来るまで、誰もこの部屋を訪れることはない。君は一晩中、たったひとりで過ごすことになるわけだ。食糧はなく、水もそれだけだ──」

「あの、本当にそれだけなんですか? 一晩、ここで過ごすだけなんですか?」

 思わず、言葉の途中で口を挟んでいた。それだけ、だとは思えない。
 だが、ペドロの答えは素っ気ないものたった。

「ああ、それだけだよ。では、失礼させてもらう」

 そう答えると、ペドロは部屋を出ていく。
 金属のきしむような音とともに、ドアが閉ざされた。次いで、ガチャリという音が聞こえた。鍵が閉められたのだ。



 部屋には、郁紀だけが残された。
 改めて、周りを見回してみる。不気味な部屋だった。窓には鉄格子が付いており、ガラスを割ることが出来ない構造になっていた。かつては、こんな場所に患者を収容していたのか。
 これでは囚人ではないか。

「人権も何も、あったもんじゃないな」

 呟いた。昔、逮捕された時に留置場に入ったことがあったが……その時より、さらに嫌な雰囲気だ。
 ふと気づいたが、時おりカサコソという音が聞こえてくる。おそらく虫だろう。壁や床には、あちこちにひび割れがある。小さな虫なら、入り放題だろう。
 ここで一晩、たったひとりで過ごす……それだけなら、さほどキツイものではない。もともと郁紀は、孤独には慣れている。ひとりでいることは苦痛ではない。食事も暇潰しの手段もない上、虫が徘徊する中で寝るのは辛いが、これも耐えられないほどのものではない。眠れなければ、眠らないだけの話だ。
 問題は、これから何が起きるか──

 郁紀にはわかっている。ペドロという男が、ここで一晩過ごすだけ……などというトレーニングをさせるはずがない。恐らく、何者かが襲撃をかけて来るはずだ。隙を見せたら、何をされるかわからない。

 この部屋で、どう戦う?

 もう一度、室内をじっくり観察してみた。窓には鉄格子が付いている。したがって、この部屋に侵入する手段はドア以外にはない。
 となると、ドアからの侵入だけに注意しておけばいいだろう。次に考えるべきは、侵入して来るのが何者か、だ。まさか、ペドロ本人が来るとは思えない。
 毎日、部屋に食事を運んで来る痩せた中年男……あれは、間違いなくペドロの部下のひとりだろう。ああした者が、他にもいるはず。
 ペドロの部下のひとり、あるいは数人が、ドアを開けて侵入して来る……いや、ひょっとしたら金で雇われたチンピラが、襲撃をかけて来るのかもしれない。
 いずれにせよ、何者かが襲撃してくる可能性は高い。そうなった場合、どう戦うか。
 武器になりそうな物はないかと、周りを見回した時だった。窓のへりに、何か置かれているのを発見する。薄い金属片だ。手に取り、じっくり見てみる。
 それは、錆びた果物ナイフであった。ただし、刃の金属部分だけである。柄の部分はない。ボロボロの刃だが、まだ人に傷を負わせることは出来る。 
 こんなものが、病院にあるとは考えづらい。病院とは無関係の第三者がもちこんだものだ。となると、ペドロが置いたものだろう。
 これを使って戦え、ということなのだろうか。郁紀は、ナイフを手に持ってみた。刃はボロボロで、切るのは難しい。それでも、刺すことは出来る。
 そのナイフをもて遊びながら、郁紀は待っていた。
 襲撃の時を──



 どのくらいの時間が経ったのだろうか。
 辺りは闇に包まれ、窓から見える空には微かに星の光が見える。正確な時間は不明だが、恐らく七時は過ぎているだろう。今のところ、誰かが襲撃してきそうな気配はない。
 郁紀は首を捻った。ペドロの言うとおり、本当にここで一晩過ごすだけなのだろうか。だとしたら、あまりにも簡単だ。
 その時、思い出した。

(俺が来るまで、誰もこの部屋を訪れることはない。君は一晩中、たったひとりで過ごすことになる)

 ペドロは、確かにそう言っていた。あの男は、嘘はつかない。なぜか、その点に関しては確信めいたものがある。
 その嘘をつかない男が、誰も来ないと言っていた。となると、本当にこの部屋で一晩過ごすだけなのか。
 この部屋は、不気味ではある。だが、それだけだ。いったい、何のトレーニングになるのだろう。

「これじゃあ、ガキの肝試しじゃねえか」
 
 呟いた時だった。
 突然、室内の雰囲気が一変する──






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