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悪魔の告白
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「今度は、何をするんだ? まさか、ここで強盗でもやれってのか?」
郁紀は、軽口を叩いた。
一昨日までは、ペドロに対し敬語を用いて話していた。が、今はくだけた口調だ。まるで、友人に接するがごとき態度である。
そんな失礼ともとれる態度に対し……ペドロの方は、気分を害しているわけではなさそうだ。むしろ、愉快そうな様子で口を開いた。
「いいや、今日は君と話がしたくてね……だから、ここに来た。嫌かい?」
「嫌じゃないよ。あの部屋は退屈だからね。ただ、あんただったらもっと高級な店に連れていってくれるんじゃないかと思ってさ」
「行きたいのかい?」
「いや、冗談だよ。ドレスコードがあるような店なんざ、死んでも行きたくないからな。ここでいいよ」
二人は、ファミリーレストランに来ていた。先日、来たのと同じ場所だ。いつもと同じく、ペドロの運転する車に乗り連れて来られた。
リラックスした表情を浮かべてはいるが、郁紀は油断なく周囲の様子を観察していた。この男、次は何をやらせる気だろう……などと考えつつ、ペドロの動きに神経をとがらせている。なにせ、涼しい顔で幻覚剤を飲ませるような男だ。次に何を仕掛けてくるか、想像もつかない。
だが、直後に放たれた言葉は、さすがの郁紀も唖然となった。
「突然だがね、俺には潜在制止の機能障害があるんだよ」
「えっ?」
いきなり何を言い出すのだろう。郁紀はどうにか平静を装いつつ、彼からの次の言葉を待った。
ペドロの方は、落ち着いた表情で話を続ける。
「わからないようだね。まあ、わからなくても恥ではない。説明しよう。俺の障害は、視界に入るものが全て、情報として脳に入って来てしまうのさ」
説明されたところで、何を言っているのか全くわからない。視界に入るものが情報として入って来るのは、当たり前のことではないのか。
そんな郁紀の表情を見て、ペドロは苦笑した。
「もう少しわかりやすく言おうか。あれは、何に見える?」
言いながら、指差した先は天井だった。蛍光灯が付けられている。
郁紀は、口元を歪めた。この男の話は、本当にわかりにくい。
「あれか? ただの蛍光灯だろ。あそこに霊がいる、とでも言いたいのか?」
軽い口調で、言葉を返した。すると、ペドロの表情が僅かに変化した。
「俺には、あれが君とは違うものに見える。もちろん、蛍光灯であることは理解しているが……それだけではない。ひとつひとつの部品や、それを留めている小さなボルトなども、全て情報として入って来てしまうのさ」
「えっ……」
郁紀の眉間に皺が寄る。もう一度、蛍光灯を見てみた。言われてみれば、確かに様々な部品の集合体ではある。だが、いちいち意識したことはない。当たり前の事実だ。普段、空気があることを意識しないのと同じである。
ようやく、ペドロの言わんとしていることが呑み込めてきた。
「俺の脳はね、情報を上手く遮断できないんだよ。そのため、あの蛍光灯をひとつの物体として処理できない。構成している部品のひとつひとつの情報が、見た瞬間から脳に流れ込んで来るんだ。なんとも面倒なんだよ」
ペドロは、静かな口調で語る。
聞いている郁紀の方は、奇妙な感覚を覚えていた。この怪物の裡にあるのは、常人には想像もつかないものだ。
その内面に今、自分は迫ろうとしている──
「普通の人間は、無意識のうちに目から入って来る情報を、ある程度は遮断している。見慣れたものなら、なおさらだ。そうでなければ、脳から入ってくる情報を整理しきれなくなるのさ。ところが、俺の脳は遮断できない。生まれた時から、ずっとそうだったが……当然ながら、幼い子供に障害の有無などわかるはずがない。自分が障害者だと知ったのは、二十歳を過ぎてからだ。刑務所で医師の診察を受け、初めて知らされた」
聞いている郁紀は、完全に呑まれていた。何も言えないまま、ペドロの話に耳を傾けている。
「この障害を持つと、ほとんどの場合が心を病んでしまうそうだ。大量に入ってくる情報を処理しきれないため、外界を遮断し己の中にこもってしまう。幸か不幸か、俺はそうならずに済んだがね。ただし今も、知りたくない情報が向こうから入ってきてしまう」
そう言うと、ペドロはすっと目線を逸らし横を向いた。
つられて、郁紀も彼の目線の先にいる者を見る。そこには、若い女性がひとりで座っていた。年齢は十代だろう。地味な服装で、化粧も薄い。下を向き、スマホをいじっている。
あの女の子がどうしたのだろう……と思った時だった。
「例えば、あそこにいる女子だが……身長は百五十八センチ、体重は四十二キロ。男女共学の高校に通っている。一見すると真面目そうだが、昨日は中年男とラブホテルで性交し金をもらった」
「は、はあ?」
郁紀は顔を歪めた。なぜ、そんなことまでわかるのだ? 思わず、もう一度見てた。だが、そのような気配は全く感じられない。思わず、眉間にシワを寄せ凝視する。
そんな彼の反応に構わず、ペドロは語り続ける。
「そして、壁際の席に座っている男は……年齢三十八歳、身長百七十センチ体重九十キロ。スーツを着ているが無職だ。運動不足のため、体に脂肪が多い。体毛も濃い。先ほどから、俺たちに興味ありげな視線を向けている。特に、君の肉体に対し強い欲望を抱いている。君のことが、気に入ったようだね」
「んだと?」
聞いた瞬間、周りを見回す。それらしきスーツ姿の男が、慌てて目を逸らすのが見えた。確かに、ペドロの言う通り脂肪の多めな体型の中年男だ。
チッと舌打ちし、ペドロの方に目線を戻した。
「あんた、なんでわかるんだよ? あの女の子がホテル行ったとか、オッサンのこととか」
「まあ、統計学みたいなものだね。君だって人の顔を見て、男か女かの判断くらいは出来るだろう。化粧の濃さや髪型にもよるが、大体は当てられるはずだ」
「たぶんな」
「だがね、それは凄い能力なんだよ。君は顔を見ただけで、犬がオスかメスかを識別出来るかい? 恐らく無理だろう。しかし、人間が相手だと識別できる。これは、なぜだと思う?」
そんなことを問われ、一瞬ではあるが言葉に詰まる。だが、すぐに答えが浮かんだ。
「慣れ、か?」
「まあ、そんなところだね。人間の脳には、これまでに会った人物のデータが入っているんだよ。そのデータと照らし合わせて、目の前にいる者が男か女かを無意識のうちに、瞬時に判断している」
言われるまで、意識すらしたことのない話だった。だが、その通りなのだ。
「ところが俺の場合、目から入って来る情報が君らより多い。俺の脳内には、様々なタイプの人間の途方もない種類のデータがある。それと目の前の人間とを照らし合わせる。そうすれば、相手がどんな人間なのか割り出せるのさ。相手の身長や趣味嗜好、昨日なにをしたか……なんてことまで当てられるようになってしまった」
聞いている郁紀は、ただただ唖然となっていた。事実だとするなら、この男は紛れもない天才だ。瞬時に脳内に入って来る大量の情報を整理し、目の前にいる人間の性格や趣味嗜好を導き出す……常人には、想像もつかない世界である。
「俺の脳には、瞬時に大量の情報が送り込まれて来る。非常に面倒だよ。だがね、君も昨日、俺と似た状態を経験した」
「はあ?」
「君は昨日、幻覚を見たはずだ。なぜ、そんなものを見たかというと……君の視覚や聴覚といった五感や、思考や想像力といった部分が、薬によって急激に拡大した。その結果、脳には急激に大量の情報が入って来た。君の脳は、それを上手く処理しきれなくなり、幻覚を見せたのさ」
確かに、昨日は異様な感覚だった。暗闇であるにもかかわらず、室内がはっきり見えた。音にいたっては、エコーがかかったような状態だった。
「その結果、君にとってもっとも見たくないものが見えたはずだ。違うかい?」
「いいや、違わないよ。あんなもの、もう二度と見たくねえ」
顔を歪め、忌ま忌ましげな表情で答える。それは郁紀にとって、偽らざる本音であった。
「そう。ほとんどの人間はね、あの薬がもたらす幻覚に耐えられない。結果、ほんの数時間で精神を病んでしまう。事前に薬の効果を知らされている人間ですら、ビルの窓を叩き割った挙げ句に飛び降りてしまったケースもあったと聞く」
ペドロは、とんでもない話を淡々と語っていく。その言葉が嘘でも大袈裟でもないことを、郁紀は己の体で理解していた。
「君はね、そんな恐ろしい薬に耐えた。これは、誇っていいことだよ」
その言葉を聞いた時、郁紀の中にひとつの疑問が浮かぶ。
「もし仮に、俺がイカレてたら……いや、俺が自殺してたら、あんたどうしてた?」
「簡単だよ。死体を始末するだけさ」
即答した。郁紀は苦笑する。ここまで正直だと、むしろ心地好い。
「あんたは、本当に悪魔の生まれ変わりみたいな奴だな」
その時、ペドロの表情が僅かに変化する。
「悪魔、か。郁紀くん、君は神を信じるかい?」
「はあ? あんた、何を言ってるんだ。おかしな宗教にでも入ったのか?」
眉をひそめる郁紀だが、ペドロの表情は変わらない。冗談めいた問いを無視し、語り続ける。
だが、その内容は郁紀の表情を凍りつかせるものだった……。
「俺は今まで、百人以上の人間を殺してきた。うち何人かは、死ぬ間際に神に祈った……お願いだから、助けてくれとね。あいにく、神は助けに来なかった」
不思議だった。
今、ペドロははっきりと言ったのだ……百人以上の人間を殺している、と。それが本当なら、ペドロは殺人鬼である。それも、歴史に名を残すような犯罪者だ。
さらに、郁紀は知っている……ペドロが、嘘をつかない男であることを。
にもかかわらず、郁紀は彼の言葉を受け入れていた。
「ひょっとしたら、炎の剣を持つ天使が、俺を殺しに天から舞い降りて来るのではないか……そんな期待があった。あいにく、天使を見ることは出来なかった。どうやら、神は存在しないらしい。あるいは、人間とは違う価値観を持っているのかもしれないね」
「い、いや、どうだろうな……」
さすがの郁紀も、完全にうろたえていた。先ほどまでのふてぶてしい態度は、完全に消えている。
そんな郁紀に、ペドロは奇妙な問いを放った。
「もし神が存在しないなら、罪とはなんだと思う?」
「つ、罪?」
「神が存在しないなら、罪という概念は人間が作り出したもの、ということになる。そうなると、全ての罪はバレなければいいということになるね。現に、俺は百人以上の人間を殺している。にもかかわらず、こうやって大手を振って歩いていられる。俺の存在を、神はどう思っているのだろうね」
そう言うと、ペドロはニヤリと笑った。
「まあ、いい。こんな店で悪いが、好きなものを頼みたまえ。ただし明日は、さらに厳しい試練が待っているよ。覚悟しておくのだね」
郁紀は、軽口を叩いた。
一昨日までは、ペドロに対し敬語を用いて話していた。が、今はくだけた口調だ。まるで、友人に接するがごとき態度である。
そんな失礼ともとれる態度に対し……ペドロの方は、気分を害しているわけではなさそうだ。むしろ、愉快そうな様子で口を開いた。
「いいや、今日は君と話がしたくてね……だから、ここに来た。嫌かい?」
「嫌じゃないよ。あの部屋は退屈だからね。ただ、あんただったらもっと高級な店に連れていってくれるんじゃないかと思ってさ」
「行きたいのかい?」
「いや、冗談だよ。ドレスコードがあるような店なんざ、死んでも行きたくないからな。ここでいいよ」
二人は、ファミリーレストランに来ていた。先日、来たのと同じ場所だ。いつもと同じく、ペドロの運転する車に乗り連れて来られた。
リラックスした表情を浮かべてはいるが、郁紀は油断なく周囲の様子を観察していた。この男、次は何をやらせる気だろう……などと考えつつ、ペドロの動きに神経をとがらせている。なにせ、涼しい顔で幻覚剤を飲ませるような男だ。次に何を仕掛けてくるか、想像もつかない。
だが、直後に放たれた言葉は、さすがの郁紀も唖然となった。
「突然だがね、俺には潜在制止の機能障害があるんだよ」
「えっ?」
いきなり何を言い出すのだろう。郁紀はどうにか平静を装いつつ、彼からの次の言葉を待った。
ペドロの方は、落ち着いた表情で話を続ける。
「わからないようだね。まあ、わからなくても恥ではない。説明しよう。俺の障害は、視界に入るものが全て、情報として脳に入って来てしまうのさ」
説明されたところで、何を言っているのか全くわからない。視界に入るものが情報として入って来るのは、当たり前のことではないのか。
そんな郁紀の表情を見て、ペドロは苦笑した。
「もう少しわかりやすく言おうか。あれは、何に見える?」
言いながら、指差した先は天井だった。蛍光灯が付けられている。
郁紀は、口元を歪めた。この男の話は、本当にわかりにくい。
「あれか? ただの蛍光灯だろ。あそこに霊がいる、とでも言いたいのか?」
軽い口調で、言葉を返した。すると、ペドロの表情が僅かに変化した。
「俺には、あれが君とは違うものに見える。もちろん、蛍光灯であることは理解しているが……それだけではない。ひとつひとつの部品や、それを留めている小さなボルトなども、全て情報として入って来てしまうのさ」
「えっ……」
郁紀の眉間に皺が寄る。もう一度、蛍光灯を見てみた。言われてみれば、確かに様々な部品の集合体ではある。だが、いちいち意識したことはない。当たり前の事実だ。普段、空気があることを意識しないのと同じである。
ようやく、ペドロの言わんとしていることが呑み込めてきた。
「俺の脳はね、情報を上手く遮断できないんだよ。そのため、あの蛍光灯をひとつの物体として処理できない。構成している部品のひとつひとつの情報が、見た瞬間から脳に流れ込んで来るんだ。なんとも面倒なんだよ」
ペドロは、静かな口調で語る。
聞いている郁紀の方は、奇妙な感覚を覚えていた。この怪物の裡にあるのは、常人には想像もつかないものだ。
その内面に今、自分は迫ろうとしている──
「普通の人間は、無意識のうちに目から入って来る情報を、ある程度は遮断している。見慣れたものなら、なおさらだ。そうでなければ、脳から入ってくる情報を整理しきれなくなるのさ。ところが、俺の脳は遮断できない。生まれた時から、ずっとそうだったが……当然ながら、幼い子供に障害の有無などわかるはずがない。自分が障害者だと知ったのは、二十歳を過ぎてからだ。刑務所で医師の診察を受け、初めて知らされた」
聞いている郁紀は、完全に呑まれていた。何も言えないまま、ペドロの話に耳を傾けている。
「この障害を持つと、ほとんどの場合が心を病んでしまうそうだ。大量に入ってくる情報を処理しきれないため、外界を遮断し己の中にこもってしまう。幸か不幸か、俺はそうならずに済んだがね。ただし今も、知りたくない情報が向こうから入ってきてしまう」
そう言うと、ペドロはすっと目線を逸らし横を向いた。
つられて、郁紀も彼の目線の先にいる者を見る。そこには、若い女性がひとりで座っていた。年齢は十代だろう。地味な服装で、化粧も薄い。下を向き、スマホをいじっている。
あの女の子がどうしたのだろう……と思った時だった。
「例えば、あそこにいる女子だが……身長は百五十八センチ、体重は四十二キロ。男女共学の高校に通っている。一見すると真面目そうだが、昨日は中年男とラブホテルで性交し金をもらった」
「は、はあ?」
郁紀は顔を歪めた。なぜ、そんなことまでわかるのだ? 思わず、もう一度見てた。だが、そのような気配は全く感じられない。思わず、眉間にシワを寄せ凝視する。
そんな彼の反応に構わず、ペドロは語り続ける。
「そして、壁際の席に座っている男は……年齢三十八歳、身長百七十センチ体重九十キロ。スーツを着ているが無職だ。運動不足のため、体に脂肪が多い。体毛も濃い。先ほどから、俺たちに興味ありげな視線を向けている。特に、君の肉体に対し強い欲望を抱いている。君のことが、気に入ったようだね」
「んだと?」
聞いた瞬間、周りを見回す。それらしきスーツ姿の男が、慌てて目を逸らすのが見えた。確かに、ペドロの言う通り脂肪の多めな体型の中年男だ。
チッと舌打ちし、ペドロの方に目線を戻した。
「あんた、なんでわかるんだよ? あの女の子がホテル行ったとか、オッサンのこととか」
「まあ、統計学みたいなものだね。君だって人の顔を見て、男か女かの判断くらいは出来るだろう。化粧の濃さや髪型にもよるが、大体は当てられるはずだ」
「たぶんな」
「だがね、それは凄い能力なんだよ。君は顔を見ただけで、犬がオスかメスかを識別出来るかい? 恐らく無理だろう。しかし、人間が相手だと識別できる。これは、なぜだと思う?」
そんなことを問われ、一瞬ではあるが言葉に詰まる。だが、すぐに答えが浮かんだ。
「慣れ、か?」
「まあ、そんなところだね。人間の脳には、これまでに会った人物のデータが入っているんだよ。そのデータと照らし合わせて、目の前にいる者が男か女かを無意識のうちに、瞬時に判断している」
言われるまで、意識すらしたことのない話だった。だが、その通りなのだ。
「ところが俺の場合、目から入って来る情報が君らより多い。俺の脳内には、様々なタイプの人間の途方もない種類のデータがある。それと目の前の人間とを照らし合わせる。そうすれば、相手がどんな人間なのか割り出せるのさ。相手の身長や趣味嗜好、昨日なにをしたか……なんてことまで当てられるようになってしまった」
聞いている郁紀は、ただただ唖然となっていた。事実だとするなら、この男は紛れもない天才だ。瞬時に脳内に入って来る大量の情報を整理し、目の前にいる人間の性格や趣味嗜好を導き出す……常人には、想像もつかない世界である。
「俺の脳には、瞬時に大量の情報が送り込まれて来る。非常に面倒だよ。だがね、君も昨日、俺と似た状態を経験した」
「はあ?」
「君は昨日、幻覚を見たはずだ。なぜ、そんなものを見たかというと……君の視覚や聴覚といった五感や、思考や想像力といった部分が、薬によって急激に拡大した。その結果、脳には急激に大量の情報が入って来た。君の脳は、それを上手く処理しきれなくなり、幻覚を見せたのさ」
確かに、昨日は異様な感覚だった。暗闇であるにもかかわらず、室内がはっきり見えた。音にいたっては、エコーがかかったような状態だった。
「その結果、君にとってもっとも見たくないものが見えたはずだ。違うかい?」
「いいや、違わないよ。あんなもの、もう二度と見たくねえ」
顔を歪め、忌ま忌ましげな表情で答える。それは郁紀にとって、偽らざる本音であった。
「そう。ほとんどの人間はね、あの薬がもたらす幻覚に耐えられない。結果、ほんの数時間で精神を病んでしまう。事前に薬の効果を知らされている人間ですら、ビルの窓を叩き割った挙げ句に飛び降りてしまったケースもあったと聞く」
ペドロは、とんでもない話を淡々と語っていく。その言葉が嘘でも大袈裟でもないことを、郁紀は己の体で理解していた。
「君はね、そんな恐ろしい薬に耐えた。これは、誇っていいことだよ」
その言葉を聞いた時、郁紀の中にひとつの疑問が浮かぶ。
「もし仮に、俺がイカレてたら……いや、俺が自殺してたら、あんたどうしてた?」
「簡単だよ。死体を始末するだけさ」
即答した。郁紀は苦笑する。ここまで正直だと、むしろ心地好い。
「あんたは、本当に悪魔の生まれ変わりみたいな奴だな」
その時、ペドロの表情が僅かに変化する。
「悪魔、か。郁紀くん、君は神を信じるかい?」
「はあ? あんた、何を言ってるんだ。おかしな宗教にでも入ったのか?」
眉をひそめる郁紀だが、ペドロの表情は変わらない。冗談めいた問いを無視し、語り続ける。
だが、その内容は郁紀の表情を凍りつかせるものだった……。
「俺は今まで、百人以上の人間を殺してきた。うち何人かは、死ぬ間際に神に祈った……お願いだから、助けてくれとね。あいにく、神は助けに来なかった」
不思議だった。
今、ペドロははっきりと言ったのだ……百人以上の人間を殺している、と。それが本当なら、ペドロは殺人鬼である。それも、歴史に名を残すような犯罪者だ。
さらに、郁紀は知っている……ペドロが、嘘をつかない男であることを。
にもかかわらず、郁紀は彼の言葉を受け入れていた。
「ひょっとしたら、炎の剣を持つ天使が、俺を殺しに天から舞い降りて来るのではないか……そんな期待があった。あいにく、天使を見ることは出来なかった。どうやら、神は存在しないらしい。あるいは、人間とは違う価値観を持っているのかもしれないね」
「い、いや、どうだろうな……」
さすがの郁紀も、完全にうろたえていた。先ほどまでのふてぶてしい態度は、完全に消えている。
そんな郁紀に、ペドロは奇妙な問いを放った。
「もし神が存在しないなら、罪とはなんだと思う?」
「つ、罪?」
「神が存在しないなら、罪という概念は人間が作り出したもの、ということになる。そうなると、全ての罪はバレなければいいということになるね。現に、俺は百人以上の人間を殺している。にもかかわらず、こうやって大手を振って歩いていられる。俺の存在を、神はどう思っているのだろうね」
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