悪魔の授業

板倉恭司

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悪魔の教え

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「気分はどうだい?」

「気分って、何のだよ」

「初めて人を殺した気分さ」

 郁紀は、無言で視線を逸らした。昨日、確かに人を殺したから。

 ・・・

 ナイフを振り上げ、女の体に振り下ろした。刃は、あっさりと胸のあたりに突き刺さる。
 その途端、血が流れ出す。直後、高山が暴れ出した。拘束されているにもかかわらず、凄まじい勢いでバタバタもがく。繋いである革ベルトがちぎれてしまうのではないか、と思うくらいの激しさだ。
 郁紀は、思わず後ずさる。だが、ペドロに腕を掴まれた。

「これで終わらせる気かい? 最後まで、やり遂げるんだ」

 その声を聴いた時、郁紀の裡から得体の知れない何かが湧いてきた。同時に、ペドロの手が動く。掴まれている郁紀の手も動く。
 ペドロの手に誘導され、郁紀は再びナイフを握った。

「このまま放っておいても、出血多量で死ぬだろう。だがね、君の手でとどめを刺さないと意味がない。最後までやり遂げるんだ」



 ようやく、全てが終わった。
 放心状態で、死体を見つめる郁紀。床は血まみれだ。自身の手も、真っ赤に染まっている。
 その時、ペドロがタオルを差し出した。

「まずは、これで血を拭きたまえ。それが終わったら、すぐに帰ろう」

「あ、ああ」

「大丈夫、死体は始末しておくよ。骨の一本も残らないようにね」

 ペドロが、そう言ったのをはっきりと覚えている。

 ・・・

 そんな体験をしているにもかかわらず、昨日は普通に眠れたのだ。
 何かを感じるはず……漠然とだが、そう思っていた。ところが、あの女を殺して部屋に戻ると、ひどい疲れを感じただけだった。
 気がつくと、何も食べずに熟睡していた──



 どのくらいの時間、眠ったのだろう。
 目を覚ました時、既に日は高く昇っていた。空腹を感じ、タッパーに入ったお粥を食べる。昨日までと、ほとんど変わらない生活。
 人を殺したはずなのに、罪悪感らしきものは一切ない。

 しばらくして、ペドロが現れた。彼の運転する車に乗り、先日と同じファミリーレストランにやって来た。一昨日と、全く同じだ。車内は、ずっと無言だったのも同じである。

「やはり君は、思った通りの人間だ」

 不意に発せられたペドロの言葉に、郁紀はドキリとなった。

「は、はあ? どういう意味だよ?」

「意味はわかっているだろう。君はね、俺と同じタイプの人間なんだよ」

 同じタイプ、と言われた。
 殺した人間の数が、百人を超す殺人鬼。しかも、高い知能と異様な観察眼を持つ、常識を超越した怪物なのだ。
 そんな男と自分は、同じタイプだというのか……郁紀は、奇妙な感覚を覚えていた。
 嫌悪感と、恍惚感とを──

「自分の中の悪魔を認めること、それが人生を豊かなものにするのさ。どんな人間の中にも、悪魔は潜んでいる。しかしね、そこから目を逸らしたら、永遠に前には進めないよ。大半の人間は、己の裡に棲む悪魔から顔を背けて生きている」

 ペドロは、そこで言葉を止めた。ゆっくりと、周囲を見回す。つられて、郁紀も周囲を見回した。
 店内には、客が三人と店員が二人いる。皆、年齢も仕事もバラバラだが、普通に生きている……そんな風に見えた。
 彼らの中にも、悪魔が潜んでいるのだろうか。

 ややあって、ペドロは語り出した。

「だがね、顔を背けているだけでは何も解決しないんだよ。いいかい、人間には悪に惹かれる部分がある。闇を好む部分もある。それらを排除するだけでは、永遠に今のままだ。混沌は、直視されなくてはならないのさ。混沌を直視しなければ、人類は永遠に前に進めないだろう」

 人類とは、またグローバルな言葉が出てきたものだ。郁紀は、完全に圧倒されていた。まるでネズミ講の親玉か、インチキ宗教の教祖が使いそうな単語である。にもかかわらず、郁紀は聴き入っていた。
 が、直後の言葉には唖然となる。

「ところで、あの部屋だが……まだゴキブリはいるのかい?」

「はあ? ゴキブリ?」

 予想もつかぬ単語を聞かされ、素っ頓狂な声が出ていた。ペドロの方は、冷静な表情で頷く。

「ああ。この前、部屋にゴキブリがいると言っていたはずだ。まだいるのかい?」

「あれから見てないからな。いるかもしれないし、いないかもしれない。それがどうかしたのかよ?」

 ペドロが何を言っているのかわからず、思わず質問を口にしていた。。ゴキブリが、いったいどうしたというのだろう。まさか、ゴキブリが先生だとでも言い出すのだろうか。
 すると、ペドロはくすりと笑った。

「ゴキブリという生物にはね、面白い特性がある。人間の殺気を感じ取れるんだよ」

「殺気?」

「そう、殺気だ。君も、覚えがあるだろう。自宅でリラックスしている状態の時、突然ゴキブリが目の前に現れた……こんな体験をしたことがあるはずだ」

「あ、ああ」

「君はゴキブリに気づき、慌てて殺そうとする。ところが、その瞬間にゴキブリは反応した。敏捷な動きで、さっと物陰に逃げ込む……君も、こんな経験があるはずだ」

 その言葉に、一応は頷いた。確かに、そんな経験はある。現に数日前にも、部屋に出たゴキブリに逃げられたのだ。

「その現象だがね、おかしいと思わないかい? ゴキブリは、君がリラックスして気を抜いた状態の時は、目の前に平気で現れる。ところが、殺そうという意思を持った途端に物陰に逃げ込む。ゴキブリから見れば、君という生物の微かな変化など、わからないはずなのにね。これは、なぜだと思う?」

「えっ、それは……」

 郁紀は、思わず口ごもる。言われてみれば、その通りだ。ペドロに言われるまで、考えたこともなかった。

「ゴキブリは、君の殺意を読み取っているんだよ。気を抜いている時には、当然ながら殺意はない。したがって、ゴキブリも警戒する必要はない。ところが、ゴキブリの姿を確認した瞬間、人間には殺意が生まれる。その殺意を敏感に読み取り、ゴキブリは隠れるというわけさ。これを、殺気という」

 淡々と語っていくペドロ。その言葉は、郁紀の中に染み込んでいく……いつのまにか、真剣な表情で耳を傾けていた。

「これはね、何もゴキブリに限った話ではない。漁師が偶然、海に潜った。すると、大量の魚の群れを発見した。漁師は、慌てて陸にモリを取りに戻った。ところが、再度潜ってみたところ、魚は姿を消していたという。これもまた、漁師の殺気を感じとったためさ」

 固唾を呑んで聞いていた郁紀だったが、ある考えが浮かぶ。ペドロにも、そんな能力があるのだろうか。
 そんな思いをよそに、ペドロは語り続ける。

「実のところ、これは全ての野生動物に備わっている能力だ。何も、ゴキブリだけが特別というわけではない。まあ、ゴキブリは様々な点で優れた生物だがね」

 そこで、郁紀は口を挟んだ。

「あんたは、それが可能なのか? 相手の殺気を感じとったりとか、出来るのか──」

「出来るよ」

 言い終わらぬうちに、ペドロは答えた。簡単だ、とその表情は告げていた。

「君と俺が、初めて会った時のことを思い出すんだ」

 その言葉に、郁紀は記憶を辿る。
 あの時、郁紀は部屋にいた侵入者に意表を突かれたが……すぐさま叩きのめそうとした。
 もっとも、すぐに返り討ちにあったが。

「あの時君は、俺に殺意にも近い感情を抱いた。まあ、それも当然だろうね。自宅に帰ったら、見知らぬ男が中でくつろいでいる……叩き出そうと考えるのも当然だ。その感情が、こちらに強く伝わってきた」

 感情が伝わってきた、か。恐ろしい話だ。それは自分の表情に出ていたのか、あるいは体のどこかに表れていたのだろうか。
 さらなる疑問が浮かぶ郁紀を尻目に、ペドロの話は続く。

「君がどう動こうとしているか、手に取るようにわかった。だから俺は制止したんだよ、あの時の君では、どう足掻いても俺には勝てなかったからね」

 その言葉を聴いた時、当時の記憶が蘇った。瞬時に間合いを詰め、顔面に蹴りを叩き込む。そう決めた瞬間に、ペドロが声を発していた。やめるんだ、と。その言葉に、郁紀の動きは止まった。次の展開が、完全に読まれていたかのように。

「武術の達人を自称する輩は、相手の放つ殺気を感じ取れるという。だがね、実際に殺気を感じ取れる者はほとんどいない。なぜだかわかるかい?」

 わかるかい? と聞かれても、わかるはずがない。

「さ、さあ。練習不足のせいとか──」

「違う。彼らは、本物の殺意を知らない。そんな人間が、敵の放つ殺気を感じ取れるはずがないんだよ」

 本物の殺意。
 普通に生きていれば、知ることのないものだ。知る必要もない。だが、郁紀は知っている……。

「殺意を知るには、まず殺意とはなんであるかを自分の体で理解する必要がある。つまりは、人を殺さなくてはならない。でなければ、殺気など永遠に理解できないんだよ」

 その言葉に、どきりとなった。ある恐ろしい考えが、頭に浮かぶ。

「まさかあんた、俺にそのことを教えるために……」

「さあ、どうだろうね。それは、君の解釈しだいだよ。ところで……明日、奥村雅彦を君の前に連れて来る。どうするか、じっくり考えておきたまえ」

 郁紀の表情が硬直した。まじまじとペドロを見つめる。何か言おうにも、言葉が出てこない。頭の中では、様々な考えが浮かんでは消えていく──
 そんな郁紀に、ペドロは静かな表情で語り続けた。

「彼は、昨日の高山さんと同じく薬物依存症だった。裁判でも、彼女と同じ手を使ったんだよ。薬物の影響化にあったため、正常な判断能力を欠いていた、と主張したのさ」

「んだと……」

「結果も、高山さんと全く同じさ。心身喪失での無罪は叶わなかったが、心身耗弱は適用された。おかげで、本来なら十年以上は刑務所に入っていなくてはならないのに、たった六年で出てきた。今では、裏社会の住人として活動している。反省する気など、欠片ほどもないらしい」

「はあ? ふざけやがって……」

 湧き上がってきた怒りが、郁紀の体の硬直を解いた。獣のごとき形相になる。さらに拳を握りしめ、ペドロを睨みつける。まるで、憎むべき敵がそこにいるかのように。
 そんな郁紀に、ペドロはにこやかな表情で語り続ける。

「こちらとしては、早く出てきてくれて助かったよ。脱獄させるというのは、なかなか厄介だからね。とにかく、彼と会ったらどうするのか……今のうちに、じっくり考えておくといい」



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