悪魔の授業

板倉恭司

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宣戦布告

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 真幌市は、もともと下町であった。
 今でこそ開発が進み、駅前にはおしゃれな店などが軒を連ねているが……かつては工場が建ち並び、違法な風俗店が密かに営業していた。刑務所を出たばかりの日雇い労務者たちが、上半身裸でワンカップ酒を片手に徘徊していたような町なのだ。
 駅を百メートル離れると、そこは昔ながらの下町の風景が広がっている。道端にタバコの吸い殻や空き缶や注射器が転がり、夜の公園には怪しげな男たちがたむろしている。もっとも最近では、チンピラを狩る男が出るという噂により、多少は平和になってきたが。
 そんな真幌市の路地裏で、黒いパーカー姿の郁紀は金髪の若者と話していた。
 既に陽は沈み、あたりは闇に覆われている。両者が会話している場所から数メートル離れた道端には、数人の男たちが倒れていた。月明かりに照らされた彼らは、いかにも騒ぎを起こしそうに見える。陽気で、他人に迷惑をかけることが大好きそうだ。もっとも、今は意識を失い無様な姿で倒れている。完全に無害だ。
 そんな中、郁紀はゆっくりと口を開いた。

「お前、さっき言ってたことは本当か?」

「な、何のことです?」 

 怯えながら答える若者。郁紀は、この若者が桑原興行の構成員と知り合いである……という情報を事前に得ていた。チンピラ同士のネットワークは、案外バカにならない。有名人や有名な組織にかかわっている者は、簡単に見つかる。しかも、チンピラという人種は口が軽い。少し脅せば、たちどころに知っていることを話してくれる。

「お前は、桑原興行に友達がいるそうじゃねえか。本当か?」

 言いながら、郁紀は若者の首を掴んだ。そのまま強い握力で絞め上げ、同時に壁に押し付ける。これは、かつてペドロにやられた「技」だ。初めて食らった時、郁紀は苦痛よりも強い恐怖を感じた。恐怖のあまり、抵抗しようという気すら起きなかった。自身がやられたからこそ、効果のほどがわかる。
 予想通り、若者は苦しそうにもがき出した。

「く、桑原興行ですか? じっでまずげど……ぐ、ぐるじい……」

 その瞬間、郁紀は手の力を緩める。若者は、苦しそうにゲホゲホむせた。

「そいつらは、どこにいる?」

 静かな口調で尋ねた。

「と、友達ってほどじゃないんですけど……知り合いから駅近くの雀荘が桑原興行のシマだ、とは聞いています」

「シマ? どういうことだ?」

「いや、自分もよくは知らないんですが、駅近くに龍《ロン》ていう雀荘があるんですよ。そこは桑原興行の人間が経営してるんですが、麻雀だけじゃなくドラッグもやらせるって聞きました」

「ドラッグだと……ふざけやがって」

 郁紀の表情が、凶悪なものに変わっていく。その途端、若者はヒッと叫んだ。じたばたもがき、少しでも遠ざかろうとする。だが、郁紀は彼の首元を掴んだまま離さない。

「もう一度聞く。駅近くのロンだな?」

「は、はい。龍って書いてロンです。こっから、歩いて十分くらいです」

 その途端、郁紀は手を離す。若者は、その場に倒れ込んだ。

「わかった。いいか、お前だけは無傷で帰してやる。だから、とっとと家に帰れ。そして、俺と話したことは忘れろ。いいな?」

「わ、わかりました」

 若者はペコペコしながら、逃げるように去っていった。
 その後ろ姿を、郁紀は冷たい目で見送る。恐らく、今日のうちに自分の噂は広まるだろう。桑原興行の情報を知りたがっている、得体の知れない男の噂が……だが、構わない。
 これは、桑原興行への宣戦布告だ──


 若者の言っていた龍という雀荘は、すぐに見つかった。怪しげな雑居ビルや古い木造住宅などが立ち並ぶ区域であり、どう見てもカタギの人間の住んでいる雰囲気ではない。
 郁紀は、ちらりと周囲を見回した。人の気配はない。
 直後、扉を開け入っていった──

 狭い店内には、麻雀卓らしき四角いテーブルが数個設置されている。さらに、そのテーブルを囲むように椅子が四脚置かれていた。さらに入口付近には、カウンターのようなものがあった。
 これまでテレビでしか見たことのない、場末の雀荘の風景がそこにあった。ヤクザ映画や刑事ドラマの舞台になりそうな、淀んだ空気が漂っている。客らしき者は、ひとりもいない。
 ただし、店員らしき者はいる。カウンターからは、不気味な男が郁紀をじっと見つめている。染みの付いたワイシャツと紺色のズボンを履いた、ガリガリに痩せている男だ。年齢は三十代後半から四十代であろうか。目つきや物腰から滲み出る雰囲気からして、堅気には思えない。
 店員は、いきなり入ってきた郁紀に向かい、鋭い視線を向けつつ近づいてきた。

「あのう……おたく、どこの人? 連絡くれてないよね?」

 こんな声をかけてくる時点で、まともな店でないのは明白だ。郁紀は、フードを降ろしたまま口を開いた。

「なあ、教えてくれよ。桑原徳馬ってのは、どこにいる?」

「はあ? てめえ、何言ってんだ?」

 言いながら、郁紀に顔を近づけてきた。顔をカクカク上下に揺らしながら歯を剥きだし睨んでくる。一昔前のチンピラの威嚇だ。郁紀は呆れ果て、思わず苦笑する。ここまでバカとなると、組織でも最末端だろう。たいした情報は得られそうもない。

「お前、日本語わかんねえのか? あんたらの親分の桑原徳馬はどこだって聞いてんだよ。バカなのか? アホなのか?」

「てめえ、いい加減にしねえと……」

 男は、そこで言葉を止めた。郁紀を、じっと見つめる。
 その表情が、みるみるうちに変わっていった。何かに気づいたらしい。と同時に、カウンターへとダッシュしかけた。
 だが、郁紀の動きの方が早い。男の首根っこを掴み、反対方向に放り投げる──
 男は、あっさりと吹っ飛ばされた。床に倒れ、呻き声をあげる。異常な軽さだ。恐らく、五十キロもない体格だろう。薬物をやり過ぎれば、肉は削げ落ち骨はスカスカになる。
 もっとも、こんな男の痩せた理由など知ったことではない。郁紀はしゃがみ込むと、男の襟首を掴む。

「これが最後だ。二度と言わねえから、よく考えて答えろ。桑原徳馬はどこにいる?」

「し、知らねえよ。俺みたいな下っ端が知るわけねえだろ」

「だったら、知ってる奴はどこにいる?」

「杉野駅にあるピーチピットってバーに行けよ。桑原興行の安岡って人がいるはずだ」

「ピーチピットだあ? ふざけた名前つけやがって……」

 低く唸る。途端に、店員はヒッと声を上げた。殴られると勘違いしたのだろうか。
 郁紀は彼を無視し、立ち上がった。もう、こんな奴に用はない。立ち去ろうとした時、店員の震える声が聞こえた

「お前、山木だろ? 山木郁紀だろ?」

「だったら、どうした?」

 言った途端、店員が立ち上がった。同時に、手のひらで口を押さえ、何かを飲み込むような仕草をする。
 直後、目つきが変わった──

「お前は、もうじき終わりだ。ウチの池野さんが、お前を探し回ってるんだよ。見つかるのも、時間の問題だ。お前、死ぬより辛い目に遭わされるぞ」

 郁紀は無言で、得意げにほざく店員をじっと見つめた。先ほどまで怯えていたのに、今や別人のようだ。恐らく、ドラッグを飲んだのだろう。
 その顔は、どこかで見た誰かに似ている。そもそものきっかけとなった、あいつ。紗耶香を殺しておきながら、刑務所を出てのうのうと生きていたクズ野郎。顔の形そのものは全く似ていない。背格好や体格も違う。にもかかわらず、目の前にいる男は奥村雅彦を連想させた。
 そんな郁紀の反応を見て、自身の言葉に怯んでいると勘違いしたらしい。男は、さらに饒舌になった。

「お前みたいなチンピラ、埋められちまうのがオチだ。今のうちに、ママに甘えとくんだな──」

「俺には、ママはいねえ。パパもいねえ」

「な、なんだと……」

 眉間に皺を寄せる男の前で、郁紀は拳を挙げ構える。

「俺にはな、親がいねえんだよ。とっくに死んでるんだ」

 直後、郁紀の拳が放たれる。顔面に炸裂し、男は呻き声を漏らして倒れた。

「親がいないから、実家を襲われる心配もない。ついでに言うと、俺が死んで悲しむ奴もいない。だから、何も怖くないんだよ」

 そんな言葉を呟きながら、郁紀は拳を叩きつける。彼の頭の中には、ある言葉が浮かんでいた。

(あんたが死んで、誰が悲しむの? あんたが死んで、泣く人はいるの?)

(あんたは、生きてても仕方ないんだよ)

 あの日に見た、紗耶香の幻覚が放った言葉。
 なぜ、そんなものを思い出したのか。目の前にいる名前も知らない男が、奥村雅彦と同じ腐った匂いを醸し出していたからだった。

「お前も、似たようなもんだろ。ここで死ね」

 うわごとのように呟きながら、郁紀は殴り続けた──



 ぐったりした店員を尻目に、郁紀は店の中を物色する。
 見つかったのは……三十万円の現金、ビニールに入った大量の怪しげな粉、百錠は優に超える色とりどりの錠剤だ。
 現金はポケットに入れ。粉と錠剤を雀卓に乗せる。ライターで火をつけ、その場を後にした。




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