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死闘
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桑原徳馬は椅子に座り、じっと連絡を待っていた。既に、手下から連絡は受けている。板尾が、山木を見つけたと。
あとは、板尾が山木を連れて来るのを待つだけだった。だが、連絡が遅い。
「あのバカ、何をやってんだ」
思わず毒づいた。元力士であり、それなりに修羅場も潜っている板尾が、あんなチンピラに不覚を取るとは思えない。
にもかかわらず、桑原の裡に潜む何かが異変を感じていた。
最近の板尾は、己の強さを過信している節があった。あいつは、確かに強い。素手の喧嘩……いわゆるステゴロは、自分より上だろう。だが、それだけで決まるものではない。
もっとも、板尾が仕損じたとしても、山木は必ず自分の前に現れる。逃げたりしない。
あの若者は、かつての桑原と似ている。普通の人生は歩めないタイプだ。
若い時、桑原は銀星会に所属していた。
下っ端の組員として、様々な荒事をこなしていた。もともと冷酷な性格であり、他人を思いやる気持ちなど全く持ち合わせていない。彼は、瞬く間に出世していった。
その過程で、見たくないものもたくさん見てきた。若い時は飢えた狼そのものだった男が、地位と金とを掴むと豚になる。幹部という地位を得て荒事を手下に任せ、己の保身のみを考えるようになっていく。それは、あまりにも無様だった。
ああはなりたくない、と思った。保身を考えるなら、最初からヤクザなどになっていない。狼として生き、狼のまま死にたい……そう願っていた。
やがて、桑原の運命を変える出来事が起こる。彼の仕切っていた賭場の売上金が、何者かに奪われた。銀星会は事態を重く見て、桑原に責任を押し付け破門にする。
破門にされた桑原は、桑原興行を興《おこ》す。桑原興行は、あっという間に勢力を拡大していった。
時が経つにつれ、桑原は奴らのようになりつつあることを自覚していた。
片腕となった佐藤隆司や池野らに大半のことを任せ、己は何もしない。自らの手を汚さず、全てを手下に任せての左うちわの生活になりつつある。
隆司は、それを良しとしている。だが、桑原は釈然としないものを感じていた。このまま老いて、奴らのような豚になっていくのかと思うと、焦燥感のようなものが湧き上がる。これでいいのか? という感情に襲われる。
同時に、人生など所詮こんなものか……という諦念をも感じていた。
そんな時、事務所が爆破される。さらに、あの奇妙な電話──
(ところで、ひとつ有益な情報を教えよう。君の部下の奥村雅彦氏だがね、彼をあんな目に遭わせた人物の名前を知っている。知りたいかい?)
(まあまあ、短気は損気だよ。とりあえずは、真幌市に住む山木郁紀という男に聞いてみたまえ。追って、住所をお伝えしよう)
あの声を聞いた瞬間、裡に眠っていた何かが目覚めた。このまま年老いて、何の刺激もない生活を送るのか……という思いが、完全に消え失せた。代わりに、獲物を追うハンターのごとき感覚が蘇る。
若い頃に、何度も味わっていた感覚が──
あの男だけは、絶対に自身の手で仕留めたい。そのためだけに、山木を生かしておいたのだ。
・・・
郁紀は、ゆっくりとビルの階段を上がっていく。ビルというより、下町の団地のような雰囲気だ。まだ五時になっていないのに、建物内は暗い。死臭が漂っているかのような錯覚に襲われる。
ここの三階に、桑原興行の事務所がある。あちこちのチンピラを脅して得た情報だ。間違いはないだろう。
やがて三階に着き、目当ての部屋に来た。金属製の扉の前には、『有限会社 画竜点睛』と書かれた標札が掛かっている。
ふざけた名前をつけやがって、などと思いつつ、郁紀はドアノブに手をかける。
捻ってみると、あっさり開いた。
中の光景に、郁紀は唖然となる。広い室内は、がらんとしていた。床にはタイルカーペットが敷き詰められ、壁は白い。だが、それ以外には事務用の机と椅子があるだけだ。
あとは、椅子に座っている男がひとり。
そこにいるのは、ごく普通の中年男だった。髪型は、昭和のサラリーマンによく見られていた七三分けだ。眼鏡をかけ、グレーのスーツを着ている。そのスーツも安物だ。ぱっと見は、冴えない中年サラリーマンだと映るだろう。
だが、郁紀にはわかっている。これは擬態なのだ。己の本性を隠し、近づいてきた者を食い殺す……あたかも、食虫植物のように。桑原という男には、虚勢を張る必要がないのだ。自らに対する圧倒的な自信が、彼を支えている。
恐ろしい男だ。
だが、あいつほどではない。
「山木か。お前がひとりで来たってことは、板尾はしくじったってことだな」
不意に、桑原が口を開いた。郁紀は、ゆっくりと彼に近づいていく。
「あのデカイ奴か? あいつなら、階段から落ちたよ。俺が見た限り、死んではいなかった」
答えると、桑原は舌打ちした。
「何をやってんだ、あのバカは……まあ、いいや」
そういうと、ため息を吐いた。
「なんで、こんなことをした? 正直なところを、おじさんに聞かせてくれや」
「あんたの手下が、俺の家を燃やしたんだろうが」
静かな口調で、郁紀は言葉を返す。同時に、室内を目の動きだけで確認していた。武器の類いは見当たらない。誰かが隠れている気配もない。机の上には、灰皿があるだけだ。
「ああ、あれか。あれはな、リロイってバカが勝手にやらかしたことだ。俺の指示じゃねえ」
桑原の言葉に、郁紀の目がスッと細くなった。
「そうか。けどな、んな理屈は通用しねえんだよ。奴は、あんたの部下だろうが。部下のやったことの責任を取るのは当然だろう」
「だったら、ウチの事務所はどうなるんだ? ウチの若い者が、二十人以上死んでるんだよ。その落とし前は、どうするんだ?」
「あれは俺じゃねえ。ペドロっておっさんの仕業だ」
その途端、桑原は顔を歪めた。鋭い目で郁紀を睨みながら、懐からタバコを一本取り出す。
口に咥え、火をつけた。煙を吐きつつ、語り出す。
「お前はさっき、こう言ったな。んな理屈は通用しねえ、と。その言葉、そっくりそのまま返すぜ。こっちはな、それじゃ済まねえんだよ。そのペドロっておっさんを、今すぐ呼び出せ。そうしたら、命だけは助けてやる。マグロ船に一年乗れば、あとは自由にしてやるよ」
「あいにくだがな、ペドロは俺なんかが呼んだところで来やしねえんだよ。あいつを呼び出すことに比べりゃ、悪魔を召喚する方がまだ簡単だろうよ」
その言葉に、桑原はフッと笑みを浮かべる。だが、その笑みはすぐに消えた。
「もう一度言うぞ、それじゃ済まねえんだよ。お前の生き延びる道はひとつだけだ。ペドロを呼びだし、俺の前に連れて来ることだけだ」
「だったら、俺を殺してみたらどうだ。そしたら、奴は来るかもしれないぜ」
「バカ言うな。お前、自分を何様だと思ってるんだ? お前なんざ、殺そうと思えばいつでも殺せたんだよ。はっきり言うと、お前は殺す値打ちもねえザコだ」
言った直後、桑原は立ち上がった。
と同時に、何かが飛んで来る──
飛んできたものが、火のついたタバコであることすらわからなかった。それが何であるか判別する前に、郁紀の体は自動的に動いていた。飛んできたタバコを、ぱっと手で振り払う。
直後、桑原が動いた。事務用の机を飛び越え、一気に間合いを詰める。
次の瞬間、拳が飛んできた。大振りのパンチか……いや、その手には何かを握りしめている。
郁紀は、簡単に躱した。見え見えの攻撃だ。と思った瞬間、桑原の頭が飛んで来る。
その一撃は避けられなかった。強烈な頭突きを受け、郁紀はよろめく──
頭突きは、拳の打撃よりも威力がある。硬く重い部位である頭を、相手の顔面に叩き込むのだ。
プロレスの頭突きは相手の額にこちらの額を当てるが、これは実際の戦いでは全く使えない。本当の戦いで使う頭突きは、相手の鼻や口や顎に叩き込む。一発で、相手をノックアウトさせることも可能なのだ。
桑原が放った頭突きは、郁紀の頬骨に当たっていた。鼻に当たっていたら、確実に鼻骨が折れていただろう。それほど重い一撃だった。想定外の痛みに、思わず顔をしかめる。
それは、ほんの一瞬のことだった。しかし桑原には、その一瞬があれば充分だ。続いて、またしても大振りのパンチが飛んで来る。
いや、パンチではない。その手には、ガラス製の硬い灰皿が握られている。
灰皿の一撃を側頭部にくらい、さすがの郁紀も耐えられなかった。ばたりと倒れる。
「おい、これでわかったか。てめえが今までやってたのは、ただの遊びなんだよ」
桑原の声のトーンは、先ほどと変わっていなかった。表情も冷静なものである。
倒れた郁紀を、桑原はじっと見下ろしていた。だが、郁紀はぴくりとも動かない。
「おいコラ、寝てんじゃねえ」
桑原は、郁紀の体を踏み付ける。
その瞬間、郁紀は動いた。彼が待っていたのは、その不用意な動作である。伸びてきた桑原の右足を掴み、足首を脇に抱え込む。
さらに、桑原の左足を己の両足で挟み刈り倒す。
完全に不意を突かれ、桑原は転倒する。郁紀は脇に挟んだ右足首を全力で捻りあげる。
グキリ、という音が鳴る。アキレス腱固めという関節技で、足首の関節を一瞬で破壊した──
常人が相手ならば、これで終わるはずだった。しかし、桑原は止まらない。
「このガキャ!」
吠えると同時に、桑原は左足だけで起き上がった。右足首の関節を破壊されたにもかかわらず、強引に立ち上がってきたのだ。普通の人間なら、戦意を喪失し泣きわめくほどの激痛を感じているはずなのに。
何なんだ、こいつは──
一秒にも満たない僅かな時間。郁紀の中に、得体の知れない感情が湧き上がる。この桑原は、今までの相手とは違う。本物だ。己の苦痛を無視し、相手を叩き潰すことのみを考え行動できる。
かつて格闘技のジムに通っていた時、プロ選手から聞いたことがあった。オリンピックに行くような連中は、一般人とはまるで違う。あれは、本物の化け物だと。
この桑原も、オリンピックに行くような連中と同類の化け物なのだ。身体能力はもちろんのこと、精神の強さも一級品である。板尾のように、相手を甘く見て油断した挙げ句に不覚を取るということもない。戦国時代に生まれていれば、この男は天下を狙えるような武将になっていただろう。
三ヶ月前の郁紀ならば、この時点で恐怖に支配され動くことすら出来なかっただろう。だが、今の郁紀は違う。
こいつは、本当に恐ろしい奴だ。
だが、ペドロに比べれば大したことはない。
郁紀は、零コンマ何秒かの間に判断する。この男は、手負いの野獣と同じだ。殺さない限り終わらない。殺らなければ、こっちが殺られる。
直後、桑原が拳を振り上げた。その瞬間、郁紀も動く。下から、思い切り蹴り上げる。
足の一撃が顔面に入り、桑原は後方に倒れた。左足だけでは、衝撃に耐えられなかったのだ。倒れた拍子に、床に後頭部を強打する。
素早く立ち上がった郁紀。間髪入れず、桑原の喉に足を振り下ろす──
一撃で、桑原の首は砕けた。
あとは、板尾が山木を連れて来るのを待つだけだった。だが、連絡が遅い。
「あのバカ、何をやってんだ」
思わず毒づいた。元力士であり、それなりに修羅場も潜っている板尾が、あんなチンピラに不覚を取るとは思えない。
にもかかわらず、桑原の裡に潜む何かが異変を感じていた。
最近の板尾は、己の強さを過信している節があった。あいつは、確かに強い。素手の喧嘩……いわゆるステゴロは、自分より上だろう。だが、それだけで決まるものではない。
もっとも、板尾が仕損じたとしても、山木は必ず自分の前に現れる。逃げたりしない。
あの若者は、かつての桑原と似ている。普通の人生は歩めないタイプだ。
若い時、桑原は銀星会に所属していた。
下っ端の組員として、様々な荒事をこなしていた。もともと冷酷な性格であり、他人を思いやる気持ちなど全く持ち合わせていない。彼は、瞬く間に出世していった。
その過程で、見たくないものもたくさん見てきた。若い時は飢えた狼そのものだった男が、地位と金とを掴むと豚になる。幹部という地位を得て荒事を手下に任せ、己の保身のみを考えるようになっていく。それは、あまりにも無様だった。
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破門にされた桑原は、桑原興行を興《おこ》す。桑原興行は、あっという間に勢力を拡大していった。
時が経つにつれ、桑原は奴らのようになりつつあることを自覚していた。
片腕となった佐藤隆司や池野らに大半のことを任せ、己は何もしない。自らの手を汚さず、全てを手下に任せての左うちわの生活になりつつある。
隆司は、それを良しとしている。だが、桑原は釈然としないものを感じていた。このまま老いて、奴らのような豚になっていくのかと思うと、焦燥感のようなものが湧き上がる。これでいいのか? という感情に襲われる。
同時に、人生など所詮こんなものか……という諦念をも感じていた。
そんな時、事務所が爆破される。さらに、あの奇妙な電話──
(ところで、ひとつ有益な情報を教えよう。君の部下の奥村雅彦氏だがね、彼をあんな目に遭わせた人物の名前を知っている。知りたいかい?)
(まあまあ、短気は損気だよ。とりあえずは、真幌市に住む山木郁紀という男に聞いてみたまえ。追って、住所をお伝えしよう)
あの声を聞いた瞬間、裡に眠っていた何かが目覚めた。このまま年老いて、何の刺激もない生活を送るのか……という思いが、完全に消え失せた。代わりに、獲物を追うハンターのごとき感覚が蘇る。
若い頃に、何度も味わっていた感覚が──
あの男だけは、絶対に自身の手で仕留めたい。そのためだけに、山木を生かしておいたのだ。
・・・
郁紀は、ゆっくりとビルの階段を上がっていく。ビルというより、下町の団地のような雰囲気だ。まだ五時になっていないのに、建物内は暗い。死臭が漂っているかのような錯覚に襲われる。
ここの三階に、桑原興行の事務所がある。あちこちのチンピラを脅して得た情報だ。間違いはないだろう。
やがて三階に着き、目当ての部屋に来た。金属製の扉の前には、『有限会社 画竜点睛』と書かれた標札が掛かっている。
ふざけた名前をつけやがって、などと思いつつ、郁紀はドアノブに手をかける。
捻ってみると、あっさり開いた。
中の光景に、郁紀は唖然となる。広い室内は、がらんとしていた。床にはタイルカーペットが敷き詰められ、壁は白い。だが、それ以外には事務用の机と椅子があるだけだ。
あとは、椅子に座っている男がひとり。
そこにいるのは、ごく普通の中年男だった。髪型は、昭和のサラリーマンによく見られていた七三分けだ。眼鏡をかけ、グレーのスーツを着ている。そのスーツも安物だ。ぱっと見は、冴えない中年サラリーマンだと映るだろう。
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恐ろしい男だ。
だが、あいつほどではない。
「山木か。お前がひとりで来たってことは、板尾はしくじったってことだな」
不意に、桑原が口を開いた。郁紀は、ゆっくりと彼に近づいていく。
「あのデカイ奴か? あいつなら、階段から落ちたよ。俺が見た限り、死んではいなかった」
答えると、桑原は舌打ちした。
「何をやってんだ、あのバカは……まあ、いいや」
そういうと、ため息を吐いた。
「なんで、こんなことをした? 正直なところを、おじさんに聞かせてくれや」
「あんたの手下が、俺の家を燃やしたんだろうが」
静かな口調で、郁紀は言葉を返す。同時に、室内を目の動きだけで確認していた。武器の類いは見当たらない。誰かが隠れている気配もない。机の上には、灰皿があるだけだ。
「ああ、あれか。あれはな、リロイってバカが勝手にやらかしたことだ。俺の指示じゃねえ」
桑原の言葉に、郁紀の目がスッと細くなった。
「そうか。けどな、んな理屈は通用しねえんだよ。奴は、あんたの部下だろうが。部下のやったことの責任を取るのは当然だろう」
「だったら、ウチの事務所はどうなるんだ? ウチの若い者が、二十人以上死んでるんだよ。その落とし前は、どうするんだ?」
「あれは俺じゃねえ。ペドロっておっさんの仕業だ」
その途端、桑原は顔を歪めた。鋭い目で郁紀を睨みながら、懐からタバコを一本取り出す。
口に咥え、火をつけた。煙を吐きつつ、語り出す。
「お前はさっき、こう言ったな。んな理屈は通用しねえ、と。その言葉、そっくりそのまま返すぜ。こっちはな、それじゃ済まねえんだよ。そのペドロっておっさんを、今すぐ呼び出せ。そうしたら、命だけは助けてやる。マグロ船に一年乗れば、あとは自由にしてやるよ」
「あいにくだがな、ペドロは俺なんかが呼んだところで来やしねえんだよ。あいつを呼び出すことに比べりゃ、悪魔を召喚する方がまだ簡単だろうよ」
その言葉に、桑原はフッと笑みを浮かべる。だが、その笑みはすぐに消えた。
「もう一度言うぞ、それじゃ済まねえんだよ。お前の生き延びる道はひとつだけだ。ペドロを呼びだし、俺の前に連れて来ることだけだ」
「だったら、俺を殺してみたらどうだ。そしたら、奴は来るかもしれないぜ」
「バカ言うな。お前、自分を何様だと思ってるんだ? お前なんざ、殺そうと思えばいつでも殺せたんだよ。はっきり言うと、お前は殺す値打ちもねえザコだ」
言った直後、桑原は立ち上がった。
と同時に、何かが飛んで来る──
飛んできたものが、火のついたタバコであることすらわからなかった。それが何であるか判別する前に、郁紀の体は自動的に動いていた。飛んできたタバコを、ぱっと手で振り払う。
直後、桑原が動いた。事務用の机を飛び越え、一気に間合いを詰める。
次の瞬間、拳が飛んできた。大振りのパンチか……いや、その手には何かを握りしめている。
郁紀は、簡単に躱した。見え見えの攻撃だ。と思った瞬間、桑原の頭が飛んで来る。
その一撃は避けられなかった。強烈な頭突きを受け、郁紀はよろめく──
頭突きは、拳の打撃よりも威力がある。硬く重い部位である頭を、相手の顔面に叩き込むのだ。
プロレスの頭突きは相手の額にこちらの額を当てるが、これは実際の戦いでは全く使えない。本当の戦いで使う頭突きは、相手の鼻や口や顎に叩き込む。一発で、相手をノックアウトさせることも可能なのだ。
桑原が放った頭突きは、郁紀の頬骨に当たっていた。鼻に当たっていたら、確実に鼻骨が折れていただろう。それほど重い一撃だった。想定外の痛みに、思わず顔をしかめる。
それは、ほんの一瞬のことだった。しかし桑原には、その一瞬があれば充分だ。続いて、またしても大振りのパンチが飛んで来る。
いや、パンチではない。その手には、ガラス製の硬い灰皿が握られている。
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「おい、これでわかったか。てめえが今までやってたのは、ただの遊びなんだよ」
桑原の声のトーンは、先ほどと変わっていなかった。表情も冷静なものである。
倒れた郁紀を、桑原はじっと見下ろしていた。だが、郁紀はぴくりとも動かない。
「おいコラ、寝てんじゃねえ」
桑原は、郁紀の体を踏み付ける。
その瞬間、郁紀は動いた。彼が待っていたのは、その不用意な動作である。伸びてきた桑原の右足を掴み、足首を脇に抱え込む。
さらに、桑原の左足を己の両足で挟み刈り倒す。
完全に不意を突かれ、桑原は転倒する。郁紀は脇に挟んだ右足首を全力で捻りあげる。
グキリ、という音が鳴る。アキレス腱固めという関節技で、足首の関節を一瞬で破壊した──
常人が相手ならば、これで終わるはずだった。しかし、桑原は止まらない。
「このガキャ!」
吠えると同時に、桑原は左足だけで起き上がった。右足首の関節を破壊されたにもかかわらず、強引に立ち上がってきたのだ。普通の人間なら、戦意を喪失し泣きわめくほどの激痛を感じているはずなのに。
何なんだ、こいつは──
一秒にも満たない僅かな時間。郁紀の中に、得体の知れない感情が湧き上がる。この桑原は、今までの相手とは違う。本物だ。己の苦痛を無視し、相手を叩き潰すことのみを考え行動できる。
かつて格闘技のジムに通っていた時、プロ選手から聞いたことがあった。オリンピックに行くような連中は、一般人とはまるで違う。あれは、本物の化け物だと。
この桑原も、オリンピックに行くような連中と同類の化け物なのだ。身体能力はもちろんのこと、精神の強さも一級品である。板尾のように、相手を甘く見て油断した挙げ句に不覚を取るということもない。戦国時代に生まれていれば、この男は天下を狙えるような武将になっていただろう。
三ヶ月前の郁紀ならば、この時点で恐怖に支配され動くことすら出来なかっただろう。だが、今の郁紀は違う。
こいつは、本当に恐ろしい奴だ。
だが、ペドロに比べれば大したことはない。
郁紀は、零コンマ何秒かの間に判断する。この男は、手負いの野獣と同じだ。殺さない限り終わらない。殺らなければ、こっちが殺られる。
直後、桑原が拳を振り上げた。その瞬間、郁紀も動く。下から、思い切り蹴り上げる。
足の一撃が顔面に入り、桑原は後方に倒れた。左足だけでは、衝撃に耐えられなかったのだ。倒れた拍子に、床に後頭部を強打する。
素早く立ち上がった郁紀。間髪入れず、桑原の喉に足を振り下ろす──
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