化け猫のミーコ

板倉恭司

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コスモナーフトの小娘(4)

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 ゴングが鳴り、試合が始まった──
 唯子は軽快なフットワークで、リングの中を動き回る。その構えは極端な半身であり、右手と右足を前にしたサウスポーのスタイルだ。一方、前川はパンチ主体の選手に有りがちな前傾姿勢でじりじりと近づいて行く。太い両腕でガッチリと顔面をガードし、野獣のような目で唯子を睨みつけている。
 じりじりと間合いを詰めていく前川。しかし唯子は、軽やかなフットワークで間合いを離す。
 前川は口元を歪めた。彼女の身長は百六十センチである。得意のパンチを炸裂させるには、もっと接近しなくてはならない。だが、フットワークが早く捉えきれない……そう思った瞬間、唯子の右膝が上がるのが見えた。
 直後、腹に鋭い痛みが走る──

 唯子は、半身の姿勢から右の横蹴りを放ったのだ。横蹴りには、回し蹴りほどの威力はない。ただし、相手を突き放し間合いを調節することが出来る。
 しかも唯子の横蹴りは、ボクシングのジャブのような速さである。前川は、想定外の攻撃に面食らっていた。
 直後、また横蹴りが放たれる。膝のスナップを利かせた、非常に鋭い蹴りだ。前進あるのみのブルファイターである前川が、思わず下がっていた。
 オオッという声が、観客席から聞こえてきた。伝説のアクション俳優である故ブルース・リーそのものな動きに、観客はどよめく。
 そのどよめきは、前川をいらつかせた。こんなふざけたスタイルの選手に、負けるわけにはいかない。
 前川も、フットワークを使い前進していく。横蹴りの間合いを潰しながら、強引に接近し大振りのパンチを叩き込む作戦だ。右のパンチが当たれば、必ず倒せる。前川は、小刻みに左のジャブを打ちながら前進していく。
 その時、唯子の体が回転した。時計とは逆回りの方向に回転し、左足が襲いかかる──
 唯子のかかとが、弾丸のような速さで前川の顔面を襲った。前川はかろうじてガードしたものの、その圧力に押されてまたしても後退させられる。

 今、唯子が繰り出した蹴りは上段後ろ回し蹴りだ。通常の回し蹴りとは逆の軌道を描き、踵や足裏などをヒットさせる。威力のある大技だが、初動作が大きくて当たりにくい上、隙も大きい。リスクの多い技のため、キックボクサーで好んで使う者は少ない。
 ところが、唯子の後ろ回し蹴りは回転が早く、隙も小さい。しかも回転が早いということは、威力も大きいということだ。
 前川も、その威力をまざまざと痛感していた。とっさに反応し頭部をガードできたが、受けた腕には痛みが残っている。まともに顔面に入れば、一撃で倒されていただろう。
 極端な半身の構え、横蹴り、そして後ろ回し蹴り……キックボクシングのセオリーを無視したトリッキーで派手な戦い方に、リングを割れんばかりの歓声が包む。
 一方、前川は顔をしかめていた。接近すれば横蹴りで突き放され、さらに後ろ回し蹴りが飛んで来る。あの後ろ回し蹴りがまともに当たれば、確実に倒される。
 かといって、近づかなければパンチは当たらない。
 前川の中に迷いが生まれ、一瞬ではあるが動きが止まる。すると、今度は唯子の方から接近してきた。
 ハッとなった時には既に遅く、唯子の体はくるりと回転している。先ほどの後ろ回し蹴りと同じ初動作だ……前川は、とっさに顔面をガードした。
 しかし、唯子の蹴りは顔面には来なかった。彼女の踵は、前川の腹に突き刺さる──
 思わず顔をしかめる前川。体の回転を充分に利かせ、全体重を乗せた中段後ろ回し蹴りが、彼女の腹部に炸裂したのだ。並の選手なら耐え切れず、ダウンさせられていただろう。
 打たれ強さには定評のある前川ですら、今の一撃によるダメージは隠しきれない。一瞬ではあるが、彼女は棒立ちになった。
 その時、黒崎の野太い声が飛ぶ。

「腹効いてるぞ唯子!」

 直後、唯子は右の横蹴りを放つ。速く、鋭い蹴りが腹をえぐる。このままでは、腹へのダメージが蓄積していくだけ……長期戦は不利だ。短期決戦で、一気に仕留めるしかない。
 前川は覚悟を決めた。顔面を両腕でガードし、すり足で強引に間合いを詰めていく。狙いは、相打ち覚悟のパンチと首相撲の展開だ。間合いさえ詰めてしまえば、横蹴りも後ろ回し蹴りも威力は半減する。そうなれば、あとは回転の早い左右フックの連打を浴びせるだけ……接近しパンチの攻防に持ち込めば、左腕が使えない唯子には成す術がないのだ。
 唯子の右膝が上がる。横蹴りの初動作だ。しかし、その動きは読めている。前川は体をずらしながら前進し、右のオーバーハンドパンチを放つ。
 その瞬間、唯子の体が回転した。時計とは逆回り……右横蹴りのフェイントから、左後ろ回し蹴りのようだ。わずか零コンマ何秒かの間のことだが、前川にはその動きがはっきりと見えていた
 だが、何の問題もない。既に、後ろ回し蹴りの間合いは潰している。当たったとしても、大したダメージはない。
 あとは、パンチを叩き込むだけ。仮に外れたとしても、接近してしまえばこっちのものだ。首相撲に捕らえ膝蹴りの連打を叩き込めば、片腕しかない唯子には対処できない。
 確実に勝てる……前川は、勝利を確信した。
 だが次の瞬間、予想もしないことが起きた。硬く重い何かが、彼女のこめかみにヒットする──
 覚えているのは、そこまでだった。前川の意識は途切れ、うつぶせの状態でリングに倒れる。レフェリーは、即座に試合をストップさせた。
 その途端、会場は割れんばかりの歓声に包まれる──

 唯子は、前川の突進に合わせて左肘によるバックスピンエルボーを叩き込んだのだ。
 バックスピンエルボーとは……後ろ回し蹴りと同じように体を回転させ、足ではなく肘を叩き込む技だ。威力は大きいが、これも初動作が大きいため反応されやすい。
 だが唯子は、最初からこれを狙っていた。横蹴り、さらに上段と中段の後ろ回し蹴りとで遠くから攻撃し、ダメージを蓄積させていく。同時に、遠くからの足技に相手の意識を集める。
 前川が足技を躱して接近戦を挑んできた瞬間に、カウンターのバックスピンエルボーで倒す……コーチの黒崎が、唯子に授けた秘策である。
 そう、唯子の左前腕は欠損している。だが、左肘は残っていた。その残されていた左肘を、時間をかけて最強の武器へと変えたのだ。



 そんな唯子を、じっと見つめている者たちがいた。ひとりは、気の優しそうな青年である。トレーナーにカーゴパンツのラフな服装だ。身長は百七十センチほどで、痩せ型だ。リングの上の彼女を、眩しそうに見つめている。もうひとり……いや一匹は、尻尾が二本ある黒猫だ。
 青年は両手で黒猫を抱いたまま、リングのすぐ近くに立っている。だが驚くべきことに、彼らの存在には誰も気づいていないらしい。

「ミーコ、よかったね。唯子さん、完全に立ち直ったよ」

 青年の言葉に、黒猫はプイと横を向く。

「ふん、あたしの知ったことじゃないニャ。あんな小娘がどうなろうと、あたしには関係ないニャ」

「もう、素直じゃないなあ。でもさ、あの唯子さんも、ミーコのお陰で立ち直れたんだよね。君がいなかったら、どうなってたか──」

「それは違うニャ」

 そう言いながら、ミーコは青年の顔を見上げる。

「あの小娘は、コスモ何とかになるために必死で努力していたニャ。その努力は、小娘の人間としての器を広く深いものにしていったニャ。その器には、コスモ何とかは入らなかったかもしれない……でも、他のものが入るだけの容量は充分に備えていたニャ。そこに今、新しい夢が入っただけだニャ。あたしが何も言わなくても、小娘はいつか必ず立ち直っていたニャよ」

「ふふふ、ミーコはたまに難しいこと言うなあ。けどさ、君がきっかけを与えたのは間違いないよ。さすが、二百年生きてる化け猫さまだね」

 青年は苦笑しながら、リング上の唯子に視線を移す。彼女は、マイクを向けられていた。
 そんな唯子の瞳は、キラキラ輝いていた。昔、ミーコの前でコスモナーフトについて語った時と同じように。

「まったく、嘆かわしい話だニャ」

 突然、ミーコは吐き捨てるような口調で言った。それを聞いた青年は、怪訝な表情で尋ねる。

「えっ、何が嘆かわしいの? 唯子さん、凄い輝いてるじゃないのさ」

「何も、あんな殴り合いなんかすることないニャよ。そこそこ綺麗な顔もしてるのに、そのうち顔がボコボコになるかもしれないニャ。小娘は、ちっちゃな頃からアホガキだったけど……あのアホさ加減は、死ななきゃ治らないようだニャ」

 その言葉を聞いた青年は、呆れたような表情を浮かべた。

「あのねえ、それは余計なお世話だよ。小姑みたいだね」

「誰が小姑だニャ。あんな小娘、死のうが生きようが、あたしには関係ないニャ。そんなことより、早く寿司食べに行こうニャ。わさび抜きのトロの握りが食べたいニャ」

「わかった。じゃあ、お寿司屋に行こうか。そういえば、ゾロもトロが好きだったなあ……」

 直後、二人の姿は消えた。もっとも、観客には最初から見えていなかったが。

 ・・・

 私の夢は、キックボクシングのチャンピオンになることです。

 能見 唯子






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