12 / 39
雪は全てを白く染めゆく(2)
しおりを挟む
十二年後──
「てめえ、何度言えばわかるんだよ!? いい加減にしねえと、本当に殺すぞ!」
竜司は、目の前にいる中年男を怒鳴りつけた。すると、男は怯えた表情でペコペコ頭を下げる。
「す、すみません」
「すみませんで済んだらなあ、警察はいらねえし戦争だって起きねえんだよ! このクソ馬鹿が!」
言うと同時に、竜司は男を殴りつけた。拳は頬に当たり、男は両手で顔を覆った。苦痛で顔をしかめる。
だが、竜司は止まらなかった。男の腹に強烈な膝蹴りを入れ、倒れたところを蹴とばした。
男は悲鳴を上げるが、竜司は容赦なく蹴りまくる。その目には、異様な光が宿っていた──
「おっさんよう、てめえわかってんのか? てめえが土下座して、何でもしますから雇ってください、って言ってきたんだろうが! なのに、取り立てのひとつも出来ねえのか!」
そう怒鳴りつけた後、竜司はまたしても男を蹴り始めた。男はうずくまり、蹴られるたびに呻き声を上げていた。
事件の後、竜司は施設に預けられる。
彼は、人の心を捨てていた。母に暴力を振るい、挙げ句に刺されて死んだ父。その父を刺し殺し、刑務所に行った母。竜司は、その両方を激しく憎んだ。だが、いくら憎くても……死人と囚人には、その思いをぶつけることは出来ない。
代わりに、周囲の者に憎悪の念をぶつけた。些細なことで相手を殴り、蹴り倒す。竜司の暴力は一切の容赦がなく、敵対する者を徹底的に痛めつけた。
結果、彼は手のつけられない不良として、あちこちの施設をたらい回しにされる。その間、人を憎んだことはあっても愛したことは一度もない。
やがて中学を卒業した竜司は、裏の世界へと足を踏み入れる。父が、母に刺殺される……という修羅場を、幼い頃に経験している竜司にとって、裏の世界はまさにうってつけであった。彼は他人に対し、一切の情けをかけることがない。また暴力を振るうことにも、何のためらいもないのだ。
竜司は瞬く間に出世し、二十四歳の若さで、裏の世界では知られる存在へとなっていた。
一方、竜司に殴られているのは……福田信雄という名の中年男である。既に四十一歳になっていた。この稼業においては、遅すぎるスタートである。
かつては工場務めをしていたらしいが、リストラに遭い仕事を辞めることとなった。その後は必死で再就職を試みるも上手くいかず、知り合いのつてを頼った結果、竜司の下で働くこととなった。
だが、今まで工員ひとすじで真面目に生きてきた信雄にとって、裏の世界で働くことは難しかった。口先三寸で人を騙して金を巻き上げ、時には暴力を振るうこともある……そんな仕事は、この男には向いていなかったのだ。
そのため、信雄はしょっちゅうヘマをし、竜司に殴られていたのである。
翌日。
竜司が事務所に行くと、信雄が来ていない。竜司は忌々しそうに、電話番をしている三宅美紀に尋ねた。
「おい、あのバカまだ来てねえのか?」
「バカって、福田さんですか?」
ビクリとした表情で聞き返した美紀に、竜司は不快そうな様子で頷いた。
「当たり前だろうが。あいつ以外に誰がいる?」
「福田さんは、ケガがひどくて休むそうです。さっき連絡がありました」
「はあ? あの野郎、ふざけやがって……」
竜司は口元を歪めた。本当に使えない男だ。この際、きっちり教える必要がありそうだ。
裏の世界で生きていくための心構えを。
その日の夜、竜司は信雄の家へと向かった。空は雲行きが怪しく、今夜は雪が降るかもしれない……との天気予報を耳にしている。
しかも、今夜はクリスマスイブだ。浮かれた男女や家族の姿を、町のあちこちで見かける。
竜司は、たまらなく不愉快であった。クリスマスイブ、それは父が死に母が罪人となった日である。彼にとって、呪わしい思い出しかない。そんな日だというのに、皆は妙に楽しそうなのだ。
それゆえ、竜司のイライラは頂点に達していた。
やがて、竜司は信雄の家に到着した。四階建てのアパートの一室である。
「コラおっさん、さっさと入れろや!」
インターホンを連打しながら、ドアを蹴る竜司。すると、慌てたような声が聞こえて来た。
「だ、誰ですか! 警察呼びますよ!」
まだ幼さの残る少女の声だ。いったい何者だろうか……竜司は首を傾げつつも、大声で怒鳴る。
「俺は福田信雄の上司の村山竜司だ! さっさと開けねえと、後悔することになるぞ!」
言いながら、ドアを叩く竜司。すると、中から男の声が聞こえてきた。
「ま、待て……お前は関係ない。部屋に行ってろ」
焦ったような声の直後、ドアが開く。中から信雄が顔を出した。
「む、村山さん……どうしました?」
顔をしかめ、尋ねる信雄。竜司は、さらに腹が立って来た。
「その前に、入らせてもらうぞ」
「えっ……すみません、家はちょっと──」
「いいから入れろや! 外は寒いんだよ! 雪も降りそうなんだよ!」
怒鳴ると同時に、竜司はドアを力ずくで開ける。家の中に、土足のまま入って行った。
「お父さん、この人誰よ!?」
入って来た竜司を見たとたん、少女がヒステリックに叫んだ。
竜司は、その少女をジロリと睨む。
「お前、誰だ?」
「わ、私の娘です! 娘の彩佳です!」
慌てた様子で、信雄が叫んだ。
「はあ? 娘?」
言いながら、竜司は彩佳をまじまじと見つめる。ショートカットに気の強そうな顔立ちである。幸い父親に似ず、なかなかの美少女だ。成長してからソープに沈めるかAVに出演させれば、かなり稼げる上玉になるだろう。
「は、はい、娘です。ところで、何の御用でしょうか?」
気弱そうな様子で尋ねる信雄を、竜司はいきなり蹴飛ばした。信雄は吹っ飛び、床に尻餅を着く。
「何の用ですか、じゃねえだろうが。てめえ、休んでんじゃねえよ」
「い、いえ……昨日さんざん殴られたせいで、肩が動かないんです。医者に診てもらったら、打撲傷と診断されました……」
顔をしかめながら、信雄は言った。だが、その言葉が竜司をさらに怒らせる。
「んだと? じゃあ、俺のせいでケガしたって言いたいのか? ざけんじゃねえぞコラ!」
言いながら、竜司は信雄を殴りつける。その時、竜司の腕を掴む者がいた。
「やめて! 父さんを殴らないで!」
彩佳が叫びながら、竜司の腕にすがり付く。
娘の態度に、竜司は逆上した。彩佳の髪を掴み、乱暴に投げ飛ばした。彼女は簡単に吹っ飛び、床に倒れる。その時、信雄が凄まじい形相で立ち上がった。
「あ、彩佳に手を出すなあ!」
喚きながら、掴みかかって来た。だが、竜司の敵ではない。喉元を掴まれ、あっさりとねじ伏せられる。
「てめえ、何をトチ狂ってんだ? 死んでみるかコラ?」
暴力慣れしている竜司は、あくまで冷静であった。だが次の瞬間、その顔が歪む──
背中に鋭い痛みを感じ、竜司は振り向いた。
「父さんから離れろ! うちから出て行け!」
彩佳は何かに憑かれたような表情で叫び、竜司を睨み付けている。彼女の手には、血のついた包丁が握られていた。
「てめえ、何しやがんだ……」
呻くような声を出しながら、竜司は立ち上がる。しかし彼の胸の中には、奇妙な感覚が湧き上がっていた。
これは?
竜司の脳裏に、不可解な映像が浮かんでは消えていった。昔の記憶だ。しかし、何かが違う。
その時、またしても彩佳が叫んだ。
「うちから出て行け!」
直後、彩佳は包丁ごと突進してきた。竜司は反応が遅れ、避け損ねる。
腹に、包丁が突き刺さった──
「こ、この野郎!」
喚きながら、竜司は彩佳の襟首を掴んだ。力任せに突き飛ばす。彩佳は、床に叩きつけられた。さらに、信雄の喚く声も聞こえてきた。その声は彩佳に向けられたものか、あるいは竜司に向けられたものなのかはわからない。
だが竜司は、二人のことなど見ていなかった。よろよろしながら、家を出て行く。このままでは殺されるかもしれない、という思いもあったが……それ以上に、何かを思い出せそうな気がしていたのだ。
ずっと忘れていた、重要な何かを。
いつの間にか、外は雪が降り出していた。
雪、そして血──
竜司の頭に、かつての記憶が甦る。母を殴っていた父。止めに入る竜司。だが、竜司は突き飛ばされた……そこから先は、何も覚えていない。
ふと、包丁の柄が目に入る。自身の腹に刺さっている包丁の柄。
それを抜いてはいけないことは知っていた。刃物で刺された場合、下手に引き抜くと大量出血し、命が危険なのだ。しかし、これを抜いたら思い出せる……そんな気がした。
次の瞬間、竜司は包丁を引き抜く──
竜司は、地面に倒れた。右手の包丁、激痛、流れる血、雪、そして黒い何か。
彼の視界の端に、奇妙なものが入っていた──
数メートル離れた道端に、黒い猫がいた。雪の降る中、平然とした様子でじっと竜司を見つめている。二本の尻尾をくねくねと揺らしながら、倒れている彼に哀れむような目を向けていた。
竜司は思い出した。十二年前も、この不思議な猫を見たのだ。母が連行されていく時、雪の中で黒猫が道端に座り込んでいた。
その時、黒猫が口を開く。
「そろそろ、本当のことを思い出す頃だニャ」
流暢な日本語で、黒猫は言った。と同時に、尻尾を振る。びしゃりと音を立て、二本の尻尾が地面を打った。
その瞬間、竜司の脳裏を奇妙な映像が駆け巡る。彼は、ようやく思い出したのだ。
十二年前の真実を。
あの時、父に突き飛ばされた竜司はカッとなった。こいつのせいで、母はいつも殴られている。しかも、父が若い女と浮気していることも竜司は知っていた。
悪いのは、親父だ。
親父さえ死ねば、この家は平和になる。
竜司は台所の包丁を握りしめると、父に向かい突進する。
包丁を、父の腹に突き刺した。
何度も、何度も──
父は吠えながら、竜司を思い切り蹴り飛ばす。竜司は壁に後頭部を打ち、意識を失った。
俺が犯人だったんだ。
母さんは、俺を庇って……。
薄れゆく意識の中、竜司は空を見上げた。舞い落ちる雪が、彼の体を包んでいく。竜司は、歪んだ笑みを浮かべた。
俺は、何をやってるんだよ。
「てめえ、何度言えばわかるんだよ!? いい加減にしねえと、本当に殺すぞ!」
竜司は、目の前にいる中年男を怒鳴りつけた。すると、男は怯えた表情でペコペコ頭を下げる。
「す、すみません」
「すみませんで済んだらなあ、警察はいらねえし戦争だって起きねえんだよ! このクソ馬鹿が!」
言うと同時に、竜司は男を殴りつけた。拳は頬に当たり、男は両手で顔を覆った。苦痛で顔をしかめる。
だが、竜司は止まらなかった。男の腹に強烈な膝蹴りを入れ、倒れたところを蹴とばした。
男は悲鳴を上げるが、竜司は容赦なく蹴りまくる。その目には、異様な光が宿っていた──
「おっさんよう、てめえわかってんのか? てめえが土下座して、何でもしますから雇ってください、って言ってきたんだろうが! なのに、取り立てのひとつも出来ねえのか!」
そう怒鳴りつけた後、竜司はまたしても男を蹴り始めた。男はうずくまり、蹴られるたびに呻き声を上げていた。
事件の後、竜司は施設に預けられる。
彼は、人の心を捨てていた。母に暴力を振るい、挙げ句に刺されて死んだ父。その父を刺し殺し、刑務所に行った母。竜司は、その両方を激しく憎んだ。だが、いくら憎くても……死人と囚人には、その思いをぶつけることは出来ない。
代わりに、周囲の者に憎悪の念をぶつけた。些細なことで相手を殴り、蹴り倒す。竜司の暴力は一切の容赦がなく、敵対する者を徹底的に痛めつけた。
結果、彼は手のつけられない不良として、あちこちの施設をたらい回しにされる。その間、人を憎んだことはあっても愛したことは一度もない。
やがて中学を卒業した竜司は、裏の世界へと足を踏み入れる。父が、母に刺殺される……という修羅場を、幼い頃に経験している竜司にとって、裏の世界はまさにうってつけであった。彼は他人に対し、一切の情けをかけることがない。また暴力を振るうことにも、何のためらいもないのだ。
竜司は瞬く間に出世し、二十四歳の若さで、裏の世界では知られる存在へとなっていた。
一方、竜司に殴られているのは……福田信雄という名の中年男である。既に四十一歳になっていた。この稼業においては、遅すぎるスタートである。
かつては工場務めをしていたらしいが、リストラに遭い仕事を辞めることとなった。その後は必死で再就職を試みるも上手くいかず、知り合いのつてを頼った結果、竜司の下で働くこととなった。
だが、今まで工員ひとすじで真面目に生きてきた信雄にとって、裏の世界で働くことは難しかった。口先三寸で人を騙して金を巻き上げ、時には暴力を振るうこともある……そんな仕事は、この男には向いていなかったのだ。
そのため、信雄はしょっちゅうヘマをし、竜司に殴られていたのである。
翌日。
竜司が事務所に行くと、信雄が来ていない。竜司は忌々しそうに、電話番をしている三宅美紀に尋ねた。
「おい、あのバカまだ来てねえのか?」
「バカって、福田さんですか?」
ビクリとした表情で聞き返した美紀に、竜司は不快そうな様子で頷いた。
「当たり前だろうが。あいつ以外に誰がいる?」
「福田さんは、ケガがひどくて休むそうです。さっき連絡がありました」
「はあ? あの野郎、ふざけやがって……」
竜司は口元を歪めた。本当に使えない男だ。この際、きっちり教える必要がありそうだ。
裏の世界で生きていくための心構えを。
その日の夜、竜司は信雄の家へと向かった。空は雲行きが怪しく、今夜は雪が降るかもしれない……との天気予報を耳にしている。
しかも、今夜はクリスマスイブだ。浮かれた男女や家族の姿を、町のあちこちで見かける。
竜司は、たまらなく不愉快であった。クリスマスイブ、それは父が死に母が罪人となった日である。彼にとって、呪わしい思い出しかない。そんな日だというのに、皆は妙に楽しそうなのだ。
それゆえ、竜司のイライラは頂点に達していた。
やがて、竜司は信雄の家に到着した。四階建てのアパートの一室である。
「コラおっさん、さっさと入れろや!」
インターホンを連打しながら、ドアを蹴る竜司。すると、慌てたような声が聞こえて来た。
「だ、誰ですか! 警察呼びますよ!」
まだ幼さの残る少女の声だ。いったい何者だろうか……竜司は首を傾げつつも、大声で怒鳴る。
「俺は福田信雄の上司の村山竜司だ! さっさと開けねえと、後悔することになるぞ!」
言いながら、ドアを叩く竜司。すると、中から男の声が聞こえてきた。
「ま、待て……お前は関係ない。部屋に行ってろ」
焦ったような声の直後、ドアが開く。中から信雄が顔を出した。
「む、村山さん……どうしました?」
顔をしかめ、尋ねる信雄。竜司は、さらに腹が立って来た。
「その前に、入らせてもらうぞ」
「えっ……すみません、家はちょっと──」
「いいから入れろや! 外は寒いんだよ! 雪も降りそうなんだよ!」
怒鳴ると同時に、竜司はドアを力ずくで開ける。家の中に、土足のまま入って行った。
「お父さん、この人誰よ!?」
入って来た竜司を見たとたん、少女がヒステリックに叫んだ。
竜司は、その少女をジロリと睨む。
「お前、誰だ?」
「わ、私の娘です! 娘の彩佳です!」
慌てた様子で、信雄が叫んだ。
「はあ? 娘?」
言いながら、竜司は彩佳をまじまじと見つめる。ショートカットに気の強そうな顔立ちである。幸い父親に似ず、なかなかの美少女だ。成長してからソープに沈めるかAVに出演させれば、かなり稼げる上玉になるだろう。
「は、はい、娘です。ところで、何の御用でしょうか?」
気弱そうな様子で尋ねる信雄を、竜司はいきなり蹴飛ばした。信雄は吹っ飛び、床に尻餅を着く。
「何の用ですか、じゃねえだろうが。てめえ、休んでんじゃねえよ」
「い、いえ……昨日さんざん殴られたせいで、肩が動かないんです。医者に診てもらったら、打撲傷と診断されました……」
顔をしかめながら、信雄は言った。だが、その言葉が竜司をさらに怒らせる。
「んだと? じゃあ、俺のせいでケガしたって言いたいのか? ざけんじゃねえぞコラ!」
言いながら、竜司は信雄を殴りつける。その時、竜司の腕を掴む者がいた。
「やめて! 父さんを殴らないで!」
彩佳が叫びながら、竜司の腕にすがり付く。
娘の態度に、竜司は逆上した。彩佳の髪を掴み、乱暴に投げ飛ばした。彼女は簡単に吹っ飛び、床に倒れる。その時、信雄が凄まじい形相で立ち上がった。
「あ、彩佳に手を出すなあ!」
喚きながら、掴みかかって来た。だが、竜司の敵ではない。喉元を掴まれ、あっさりとねじ伏せられる。
「てめえ、何をトチ狂ってんだ? 死んでみるかコラ?」
暴力慣れしている竜司は、あくまで冷静であった。だが次の瞬間、その顔が歪む──
背中に鋭い痛みを感じ、竜司は振り向いた。
「父さんから離れろ! うちから出て行け!」
彩佳は何かに憑かれたような表情で叫び、竜司を睨み付けている。彼女の手には、血のついた包丁が握られていた。
「てめえ、何しやがんだ……」
呻くような声を出しながら、竜司は立ち上がる。しかし彼の胸の中には、奇妙な感覚が湧き上がっていた。
これは?
竜司の脳裏に、不可解な映像が浮かんでは消えていった。昔の記憶だ。しかし、何かが違う。
その時、またしても彩佳が叫んだ。
「うちから出て行け!」
直後、彩佳は包丁ごと突進してきた。竜司は反応が遅れ、避け損ねる。
腹に、包丁が突き刺さった──
「こ、この野郎!」
喚きながら、竜司は彩佳の襟首を掴んだ。力任せに突き飛ばす。彩佳は、床に叩きつけられた。さらに、信雄の喚く声も聞こえてきた。その声は彩佳に向けられたものか、あるいは竜司に向けられたものなのかはわからない。
だが竜司は、二人のことなど見ていなかった。よろよろしながら、家を出て行く。このままでは殺されるかもしれない、という思いもあったが……それ以上に、何かを思い出せそうな気がしていたのだ。
ずっと忘れていた、重要な何かを。
いつの間にか、外は雪が降り出していた。
雪、そして血──
竜司の頭に、かつての記憶が甦る。母を殴っていた父。止めに入る竜司。だが、竜司は突き飛ばされた……そこから先は、何も覚えていない。
ふと、包丁の柄が目に入る。自身の腹に刺さっている包丁の柄。
それを抜いてはいけないことは知っていた。刃物で刺された場合、下手に引き抜くと大量出血し、命が危険なのだ。しかし、これを抜いたら思い出せる……そんな気がした。
次の瞬間、竜司は包丁を引き抜く──
竜司は、地面に倒れた。右手の包丁、激痛、流れる血、雪、そして黒い何か。
彼の視界の端に、奇妙なものが入っていた──
数メートル離れた道端に、黒い猫がいた。雪の降る中、平然とした様子でじっと竜司を見つめている。二本の尻尾をくねくねと揺らしながら、倒れている彼に哀れむような目を向けていた。
竜司は思い出した。十二年前も、この不思議な猫を見たのだ。母が連行されていく時、雪の中で黒猫が道端に座り込んでいた。
その時、黒猫が口を開く。
「そろそろ、本当のことを思い出す頃だニャ」
流暢な日本語で、黒猫は言った。と同時に、尻尾を振る。びしゃりと音を立て、二本の尻尾が地面を打った。
その瞬間、竜司の脳裏を奇妙な映像が駆け巡る。彼は、ようやく思い出したのだ。
十二年前の真実を。
あの時、父に突き飛ばされた竜司はカッとなった。こいつのせいで、母はいつも殴られている。しかも、父が若い女と浮気していることも竜司は知っていた。
悪いのは、親父だ。
親父さえ死ねば、この家は平和になる。
竜司は台所の包丁を握りしめると、父に向かい突進する。
包丁を、父の腹に突き刺した。
何度も、何度も──
父は吠えながら、竜司を思い切り蹴り飛ばす。竜司は壁に後頭部を打ち、意識を失った。
俺が犯人だったんだ。
母さんは、俺を庇って……。
薄れゆく意識の中、竜司は空を見上げた。舞い落ちる雪が、彼の体を包んでいく。竜司は、歪んだ笑みを浮かべた。
俺は、何をやってるんだよ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる