化け猫のミーコ

心に残った爪痕（１）

「おい小池、もう二度と来るなよ」

　看守に言われ、小池俊哉コイケ　トシヤは振り向き睨み付ける。もともと顔に火傷痕のある凶悪な人相だ。凄みの利いた顔と大柄な体つきは、普通にしていても相手に威圧感を与えるのは間違いない。

「ああ、二度と来ねえよ……今度は、もっと上手くやる。パクられねえようにやるからよ」

　看守にそう言い放ち、小池は刑務所の門を出て行く。肩で風を切って歩くその後ろ姿を見て、看守はため息をついた。

「やれやれ、あいつは救いようがないな。あの分だと、すぐに逆戻りだな」

　小池はどんどん歩いていく。今は自由なのだ。この二本の足さえあれば、どこへでも行ける。
　だが、その途中で小池は歩みを止めた。道端に、大型の吸殻入れが設置してあるのを見つけたのだ。腰を降ろし、荷物の中に入っていたタバコを取り出す。一本ぬきとり、くわえて火を点けた。
　その途端、頭がくらくらした。噂には聞いていたが、四年ぶりのニコチンは本当に効いた……だが、美味い。
　四年ぶりのタバコの味を楽しみながら、小池は額の汗を手で拭った。今は八月である。暑くてたまらない。じっとしていても汗が滴り落ちてくる。荷物の中からタオルを取り出し、汗を拭いた。
　ふと、周りの風景を見渡す。何もない野原だ。看守の話では、ここから十分ほど歩くとバス停があるらしい。そのバスに乗れば、二時間ほどで駅に着くとのことだ。
　もっとも、小池には帰る場所など無かった。幼い頃に両親を火事で失い、自らも全身にひどい火傷を負った。そのせいで、周りからは疎外されてきた。これまでの半生において、人の心の温かみだの情けだのは感じたことがない。
　小池はもはや、この先の人生に何の期待も抱いていなかった。懐にあるのは、四年間の懲役生活で得た五万円ほどのの作業報奨金（刑務所で作業をして得られる金）だけである。四年の懲役なら、もっと多い額を手にしていいはずなのだが、小池は刑務所でさんざん問題を起こしていた。そのため、貰える作業報奨金はかなり減らされている。
　もっとも、仮に問題を起こさず過ごしていたとしても、結局は似たようなものだが。三十を過ぎた天涯孤独な男が、たかだか十万かそこらの金を渡されて世間に放り出される……いったい、どんな明るい未来があるというのだろう。
　タバコを吸殻入れに投げ捨て、もう一度あたりを見回す小池。こうなったら、タタキ（強盗のスラング）でもやってやろうか。通行人がいたら叩きのめし、金を奪う。その後は安宿にでも泊まるとしよう。
　失敗して、逮捕されたとしても構わない。そうすれば、今夜は留置場で一泊できる。どちらにせよ、今夜の宿がはっきりするわけだ。
　そんなことを考えていた時だった。

「おじさん」

　不意に背後から聞こえてきた声、それは若い女のものだった。小池は飛び上がらんばかりに驚き、すぐに振り返る。
　そこに立っていたのは、予想通り若い女であった。オレンジのタンクトップと白のホットパンツを身につけ、黒髪は肩までの長さである。顔は可愛らしいが、いたずらっ子のような雰囲気も漂わせていた。
　女は、大きな瞳で小池を見つめる。

「おじさん、遊ぼ」

「遊ぼ、じゃねえんだよ。てめえ誰だ？」

　女を睨みつけ、聞き返す。普通の男なら、若く可愛い女からの「遊ぼ」という一言には何らかの期待を抱くだろう。
　だが小池は、自分が女にモテないことをちゃんと理解している。これまで女が自分に近づいて来たのは……金目当てか、あるいは罰ゲームだ。
　鋭い目で、彼女を睨み付ける。しかし、目の前にいる女は微笑んだ。

「あたしミネコだよ。おじさん覚えてないの？」

「ミネコだぁ？　峰不二子なら知ってるが、ミネコなんざ知らねえ。さっさと失せろ。こっちはな、ついさっき刑務所を出たばかりなんだよ」

　低い声で凄むが、ミネコと名乗った女はニコニコしている。怯む様子はない。
　小池は苛立ってきた。目の前にいる女には、全く見覚えがない。それ以前に、音もなく背後から近づくとは……全てが不快でしかない。彼はつかつかと近づいていく。

「いい加減にしねえと殺すぞ。俺はな、お前みたいなふざけた女が大嫌いなんだよ」

　言うと同時に、小池は手を伸ばした。まずは、襟首を掴んで脅す。それでも言うことを聞かなければ、女であっても殴るつもりだ。そして、有り金を奪う。
　だが、ミネコは伸びてきた小池の手を掴む。直後、簡単に捻り上げた──
　想定外の痛みに、思わず悲鳴を上げる小池。気がつくと、地面に這いつくばらされていた。しかも、ミネコの力は異常に強い。小池も腕力には自信があったが、この女は彼など比較にならないくらい強いのだ。

「て、てめえ何しやがる！」

　苦し紛れに喚くと、ミネコの静かな声が聞こえてきた。

「おじさん、あたしは手荒な事はしたくない。それに、もう時間がないんだよ。今日一日だけ、あたしに付き合って遊ぶだけでいいんだからさ」

「な、なんだと……」

　小池は困惑していた。全く理解不能である。自分は、こんな女は見たことすらないのだ。会うのは、今日が初めて……のはずである。
　それ以前に小池は、風俗以外の場所で女と触れ合ったことがない。風俗店にこんな女はいなかったはずだし、そもそも風俗の女が小池のような男を探すわけがない。
　何か狙いでもあるのだろうか……そう思いながらも、仕方なく頷いた。

「チッ、わかったよ……付き合えばいいんだな。とりあえず、バスに乗るぞ。ここじゃ、遊ぼうにも何も出来ないからな」

「うん、わかった！」

　ミネコは、元気よく返事をした。




　だが小池は、その選択をすぐに後悔していた。

「ねえ、おじさん！　あれ見てよ！」

「おじさん！　あれはなんていうの！？」

　バスの中で、ミネコは窓から外を見ながら、子供のようにはしゃいでいた。時おり小池に、あれやこれやの質問をする。
　小池は仕方なく、ひとつひとつ答えていく。だが、内心では呆れ果てていた。このミネコという女は、頭が悪すぎる上に物を知らなさすぎる。ひょっとしたら、どこかの病院から脱走して来たのだろうか。だとしたら、早いうちにずらかるとしよう。この女、見た目と違い腕っぷしは異常に強い。下手なことを言って機嫌を損ねたら、何をされるかわからないのだ。素手でも、自分ひとりくらい殺せるだろう。
　そんなことを考えていた時だった。

「そういえば……おじさんさ、よく公園を歩いてたよね」

　公園……そのキーワードに、小池は愕然となった。
　逮捕される前、小池は公園の近くに住んでいた。四畳半のボロアパートで、家賃は四万円だ。当時の小池は、自販機を荒らしたり空き巣をしたりして生計を立てていた。だがドジを踏み、警察に踏み込まれてしまったのである。

「真幌公園のことか？」

　思わず口をついて出た言葉に、ミネコは首を傾げた。

「名前は知らない。でも、おっきい池があったよ。魚や亀が泳いでた。おじさん、いつも公園を歩いてたよね」

　楽しそうに答える。小池はというと、必死で記憶を探っていた。この女の言っていることに間違いはない。彼はほぼ毎日、真幌公園に行っていたのだ。となると、公園で会っていたのか。
　だが、いくら記憶を掘り返してみても、ミネコの姿には見覚えがない。

「そうだ！　おじさん、一緒にあの公園に行こ！」

　不意に、そんなことを言い出すミネコ。小池は顔をしかめた。

「あのなあ……真幌公園は遠いぞ。ここから六～七時間くらいかかるぞ──」

「ろくしちじかん？　それって、どのくらい？」

　小池の言葉を遮り、ミネコは首を傾げる。本気でわかっていないらしい。
　さすがの小池も頭を抱える。まさか、刑務所を出た直後にこんな変な女に付きまとわれるとは……自分は、よほどツイていないらしい。
　だが仕方ない。ミネコの腕力は尋常ではない上、おそらく頭がいかれている。言う通りにしないと、何をしでかすかわからない。
　しかも……この女は昔、自分の人生に関わっていたらしい。どういった形かは知らないが、それを探りたいという気持ちもある。

「六時間は長いよ……だが仕方ない。大人しくしてるなら連れて行ってやる」

「うん、わかった。大人しくしてる」



　確かに、道中ミネコは静かに口を閉じていた。だが、彼女のリアクションの激しさに変わりはない。窓に顔をくっつけ、じっと外を見ている。時おり、笑顔でこちらを向いては外を指差す。小池が無視すると、怒ったような表情でつついてくる。
　小池は付き合いきれないものを感じながらも、仕方なく相手をしていた。しかし、彼の疑問はどんどん膨れ上がっていく。

　この女は、いったい誰なんだ？