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沼に棲む親友(1)
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江戸時代……山奥の集落・半月村は弱い者には住みにくい場所であった。厳しい環境の中で生きる男たちは乱暴であり、女房子供を平気で殴る。さらに、村長の言うことに逆らえば、たちまち村八分だ。女子供は、びくびくしながら暮らしていた。
そんな半月村の片隅で、物語は始まる──
源吉は泣いていた。
泣きながら、傍らにある石を掴み上げる。目の前にある沼めがけ、思いきり投げつけた。石は、どぼーんという音を立てて沈んでいく。
手で涙を拭きながら、源吉はその場に座り込んだ。
その時、予想も出来なかったことが起きる。にわかに、水面がぶくぶく泡だった。直後、沼から奇怪な姿の者が現れたのだ。
「こら小僧、いてえじゃねえか! 石なんか投げやがって!」
源吉の前には、おかっぱ頭のてっぺんに皿のような物を乗せた、緑色の奇妙な生き物が立っている。平べったく丸みを帯びた黄色い嘴が、人間で言うところの唇に当たる部分を覆っていた。緑色の皮膚はぬるぬるしており、体の所々に水草や水ごけが付いていた。体からは、濁った水の匂いを発している。おまけに、背中には甲羅だ。どう見ても、人間ではない。
「かっ、河童だ! 河童が出た!」
叫びながら、必死で逃げようとした。が、腰が抜けてしまい、その場にへたり込む。
そんな源吉を、河童はじっと見下ろす。
「なんだよ。そんな怖がることないだろ」
とぼけた口調で言った。が、源吉は恐怖に震えながら後ずさっていく。
「やめてえ! 俺のしりこだま抜かないでえ!」
「しりこだま? 何言ってんだよ。そんなもん抜くか」
そう言うと、河童は源吉の傍に腰をおろした。
源吉は、じっと河童を見上げる。どうやら、危害を加えるつもりはないらしい。それでも、念のため聞いてみた。
「ほ、本当にしりこだま抜かない?」
「だから、そんなことしないよ。誰から聞いたんだ」
「む、村の人が言ってたから……」
そう、この許水沼には河童が出るという伝説がある。また、背の高い草が多く生えているため視界も悪い。子供が下手に足を踏み入れると、沼に落ちて溺れる可能性が高い。そのため、近づかないように言われていたのである。
ところが源吉だけは、この沼によく来ていた。人が近づかないため、嫌われ者の彼にとっては、ちょうどいい隠れ場所である。河童がいるという言い伝えなど、迷信であると思っていた。
まさか、本当に河童がいるとは──
「村の人だあ? んなもん信じるな。それより、お前さっき泣いてたろ? どうしたんだよ?」
いきなり問われ、源吉は顔を赤くして俯いた。
「べ、別に泣いてなんかいないよ」
「嘘つくなよ。お前、泣いてたじゃないか。俺は見てたんだぞ。なんか嫌なことがあったんだろ。なあ、言ってみ?」
そう言うと、河童は顔を近づけてくる。源吉の方は、首を横に振って顔を遠ざけた。
「違うってば。俺、泣いてないから──」
「何があったんだよ? なあ、言ってみ?」
ぐいぐい近づいて来る河童。その声からは、優しさが感じられた。
「俺、村の奴ら嫌いだ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
そう、源吉は村人たちが嫌いだった。僅かな金を稼ぐために不景気な顔で仕事をこなし、帰ると女房や子供を怒鳴りつける。酒を飲み、くだを巻く。そんな村の男たちが、源吉は大嫌いだった。
大きくなったら、華の都・江戸に行こう。江戸で一所懸命に働いて、偉くなってやろう。絶対に、村人たちのような小さな人間にはならない……そう、心に決めていた。
だが、村の子供たちは源吉を馬鹿にした。
「お前なんか、偉くなれないよ」
そのせいで、源吉は村の子供たちと度々いさかいを起こしていた。もっとも、源吉は喧嘩が弱い。いつも叩きのめされていた。
「そうかあ。それは大変だなあ」
話を聞いた河童は、首を捻る。やがて、ぽんと手を叩いた。
「だったら、俺と相撲を取ろうぜ!」
「す、相撲? なんで?」
びっくりして、聞き返す。だが、河童の方はお構いなしだ。
「そうだ、相撲だ。さあ、どーんとぶつかって来い!」
そう言って、自身の胸を叩いた。源吉は、困った顔で後ずさる。
「いや、だから、なんで相撲なの──」
「馬鹿野郎、相撲が強ければ、本物の力士になれるんだぞ。力士になれば、ご飯がいっぱい食べられるらしいぜ。それに、力士になれなくても、相撲をやればお前も強くなれるぞ。さあ、来い!」
言ったかと思うと、河童はすっと間合いを詰めて来る。
次の瞬間、源吉は組み付かれていた。
「来い! まずは押してみろ! 相撲も出来ないようじゃ、江戸で偉くなんかなれないぞ!」
「わ、わかったよう」
困惑しながらも、源吉は言われた通りに押してみた。だが、びくりともしない。満身の力を込めて押してみたが、全く動かない。巨岩を押しているかのようだ。
その時、片手で軽々とつまみ上げられた。
「違う違う。お前は、腰が浮いてるんだ。だから、押しが弱いんだよ。腰をどんと落として、低い姿勢で押していくんだ」
言いながら、その場に源吉を降ろした。
「いいか、明日から、四股と鉄砲とすり足を毎日やるんだぞ。わかったか?」
河童にそんなことを言われたが、源吉には何のことかわからない。四股だの鉄砲だの、いったい何だろうか。
混乱する源吉に、河童は一方的に語る。
「よし、決めた! 明日から特訓だ! お前、名前は?」
「えっ? 源吉だけど……」
「源吉か、わかった。ちなみに、俺の名前はカンタだ。明日、この沼に来て、俺の名前を三回呼べ。それが合図だ」
「あ、合図? どういうこと?」
さらに混乱する源吉だったが、カンタはお構いなしだ。
「だってよう、二人の合図を決めなきゃ、源吉が来たかどうかわからないだろ。いいか、明日もここに来て俺を呼べ。そうしたら、俺が相撲を教えてやる。そうすれば、お前は村で一番強くなれるぞ」
翌日から、源吉はカンタと相撲の練習をするようになった。
まずは体を軽く動かした後、様々な技を教わる。さらにぶつかり稽古や、四股、鉄砲、すり足といった基本練習もみっちり行《おこな》う。
たっぷり体を動かしたら、山菜や魚の入ったちゃんこを食べる。カンタが作ったものであり、塩で味付けしただけだが、とても美味しかった。
カンタのおかげで、源吉は強く成長していく。村の子供相手には、もはや負けることはない。
やがて、源吉は十五歳になった。背は高くなり、体つきもさらに逞しくなった。村でも、彼に太刀打ちできる者はほとんどいない。
いよいよ、旅立ちの時が来たのだ。源吉は許水沼に行き、カンタを呼び出す。
「カンタ! カンタ! カンタ!」
やがて、沼からカンタが姿を現した。
「来たか! さあ、相撲取ろうぜ!」
はしゃぐカンタに、源吉は悲しそうな表情で口を開く。
「いや、違うんだよ。俺、江戸に行くことにしたんだ。しばらくの間、ここに来られなくなる。だから、お別れを言いに来た」
「えっ、そうなのか……」
みるみるうちに、カンタの顔つきが変わっていく。しょんぼりした様子で、下を向いた。
「俺、今は貧乏だ。けど、江戸で金持ちになって帰って来るよ。必ず、また会いに来るから……」
そう言うと、源吉は背中を向けた。このままだと、別れられなくなりそうだ。
歩き出した時、カンタがそっと近づいて来た。
「わかった。じゃあ、途中まで見送らせてくれ」
二人は、山道を歩いていく。ほとんど口もきかず、ひたすら歩いていった。
だが、源吉は耐え切れなくなり口を開く。
「なあカンタ、もうここまでにしてくれ。俺もつらいんだよ……」
その時、異変に気づいた。カンタの様子がおかしいのだ。目が虚ろで、息も荒い。こちらを見ようともせず、足を引きずるようにして歩いている。
「大丈夫か?」
声をかけるが、カンタは無視して歩き続ける。その姿は、何かおかしい。源吉は、彼の肩を掴んだ。
「おいカンタ、聞いてるのか?」
言った直後、源吉は愕然となる。カンタが、目の前でばたりと倒れたのだ──
「どうしたんだよ! しっかりしろお!」
慌てて、カンタを抱き起こした。すると、微かに嘴を開ける。だが、声が出て来ない。
その時、がさりという音がした。同時に、道端の茂みから黒いものが出現する。
「お前、水持ってるかニャ?」
聞いてきたのは、一匹の黒猫だった。源吉は唖然となる。
「み、水?」
「そうだニャ。河童は、頭の皿が乾ききると動けなくなるニャ。水があるなら、かけてやれニャ」
「わ、わかった」
源吉は、腰に付けていた竹の水筒を外した。蓋を開け、カンタの頭に水を垂らす。
その途端、カンタの目がぱっちり開いた。
「びっくりしたなあ、もう。こんな苦しいと思わなかったよ」
「だ、大丈夫かよ」
源吉は、不安そうに声をかける。
「うん、大丈夫だ。地上を歩くの久しぶりだったからな。塩梅がわからなかったんだよ」
言った後、カンタは黒猫の方を向いた。
「ありがとな、ミーコ」
「ふん、お前を助けるために来たわけじゃないニャ。たまたま、通りかかっただけだニャ」
そう言って、黒猫はぷいと横を向いた。すると、源吉が黒猫に近づいていった。
「お前、ミーコって言うのか──」
「お前とは何だニャ! あたしは、二百年も生きてる偉い化け猫さまだニャ! 失礼な小僧だニャ!」
黒猫は、源吉を睨みながら怒鳴った。直後、尻尾がびしゃりと地面を叩く。源吉は、びくりとなり後ずさった。よく見ると、尻尾は二本生えている。
その時、カンタが囁いた。
「ミーコはな、根はいい奴なんだけど気難しいんだよ。怒るとくちゃくちゃ怖いから、謝っとけ」
くちゃくちゃ怖いとは、どういう意味だろう……などと思いつつ、源吉は頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
謝ると、ミーコはぷいと横を向く。
「まったく、人間は本当に礼儀知らずだニャ。三百年も生きてる化け猫さまを、なんだと思ってるニャ」
ぶつぶつ言いながら、毛繕いを始めた。源吉は、あれ? と首を傾げる。
「あのさ、さっきは二百年て──」
その瞬間、カンタの手が伸び源吉の口をふさいだ。一方、ミーコは素知らぬ顔で毛繕いをしている。
だが、ミーコはすぐに顔を上げた。
「カンタ、ここまでにするニャ。でないと、また倒れることなるニャよ。沼に戻る前に倒れたら、どうするニャ」
「そ、それもそうだな」
言われたカンタは、源吉を真っすぐ見つめる。
「お前は、俺のただひとりの……人間の友達だった。お前のことは、絶対に忘れない。江戸に行っても、元気でやれよ」
その言葉に、源吉は泣きそうになった。必死で涙をこらえ、言葉を搾り出す。
「カンタは、俺のただひとりの友達だ。江戸で偉くなって、必ず戻って来るからな。その時は、美味い胡瓜を腹いっぱい食わせてやる」
そんな半月村の片隅で、物語は始まる──
源吉は泣いていた。
泣きながら、傍らにある石を掴み上げる。目の前にある沼めがけ、思いきり投げつけた。石は、どぼーんという音を立てて沈んでいく。
手で涙を拭きながら、源吉はその場に座り込んだ。
その時、予想も出来なかったことが起きる。にわかに、水面がぶくぶく泡だった。直後、沼から奇怪な姿の者が現れたのだ。
「こら小僧、いてえじゃねえか! 石なんか投げやがって!」
源吉の前には、おかっぱ頭のてっぺんに皿のような物を乗せた、緑色の奇妙な生き物が立っている。平べったく丸みを帯びた黄色い嘴が、人間で言うところの唇に当たる部分を覆っていた。緑色の皮膚はぬるぬるしており、体の所々に水草や水ごけが付いていた。体からは、濁った水の匂いを発している。おまけに、背中には甲羅だ。どう見ても、人間ではない。
「かっ、河童だ! 河童が出た!」
叫びながら、必死で逃げようとした。が、腰が抜けてしまい、その場にへたり込む。
そんな源吉を、河童はじっと見下ろす。
「なんだよ。そんな怖がることないだろ」
とぼけた口調で言った。が、源吉は恐怖に震えながら後ずさっていく。
「やめてえ! 俺のしりこだま抜かないでえ!」
「しりこだま? 何言ってんだよ。そんなもん抜くか」
そう言うと、河童は源吉の傍に腰をおろした。
源吉は、じっと河童を見上げる。どうやら、危害を加えるつもりはないらしい。それでも、念のため聞いてみた。
「ほ、本当にしりこだま抜かない?」
「だから、そんなことしないよ。誰から聞いたんだ」
「む、村の人が言ってたから……」
そう、この許水沼には河童が出るという伝説がある。また、背の高い草が多く生えているため視界も悪い。子供が下手に足を踏み入れると、沼に落ちて溺れる可能性が高い。そのため、近づかないように言われていたのである。
ところが源吉だけは、この沼によく来ていた。人が近づかないため、嫌われ者の彼にとっては、ちょうどいい隠れ場所である。河童がいるという言い伝えなど、迷信であると思っていた。
まさか、本当に河童がいるとは──
「村の人だあ? んなもん信じるな。それより、お前さっき泣いてたろ? どうしたんだよ?」
いきなり問われ、源吉は顔を赤くして俯いた。
「べ、別に泣いてなんかいないよ」
「嘘つくなよ。お前、泣いてたじゃないか。俺は見てたんだぞ。なんか嫌なことがあったんだろ。なあ、言ってみ?」
そう言うと、河童は顔を近づけてくる。源吉の方は、首を横に振って顔を遠ざけた。
「違うってば。俺、泣いてないから──」
「何があったんだよ? なあ、言ってみ?」
ぐいぐい近づいて来る河童。その声からは、優しさが感じられた。
「俺、村の奴ら嫌いだ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
そう、源吉は村人たちが嫌いだった。僅かな金を稼ぐために不景気な顔で仕事をこなし、帰ると女房や子供を怒鳴りつける。酒を飲み、くだを巻く。そんな村の男たちが、源吉は大嫌いだった。
大きくなったら、華の都・江戸に行こう。江戸で一所懸命に働いて、偉くなってやろう。絶対に、村人たちのような小さな人間にはならない……そう、心に決めていた。
だが、村の子供たちは源吉を馬鹿にした。
「お前なんか、偉くなれないよ」
そのせいで、源吉は村の子供たちと度々いさかいを起こしていた。もっとも、源吉は喧嘩が弱い。いつも叩きのめされていた。
「そうかあ。それは大変だなあ」
話を聞いた河童は、首を捻る。やがて、ぽんと手を叩いた。
「だったら、俺と相撲を取ろうぜ!」
「す、相撲? なんで?」
びっくりして、聞き返す。だが、河童の方はお構いなしだ。
「そうだ、相撲だ。さあ、どーんとぶつかって来い!」
そう言って、自身の胸を叩いた。源吉は、困った顔で後ずさる。
「いや、だから、なんで相撲なの──」
「馬鹿野郎、相撲が強ければ、本物の力士になれるんだぞ。力士になれば、ご飯がいっぱい食べられるらしいぜ。それに、力士になれなくても、相撲をやればお前も強くなれるぞ。さあ、来い!」
言ったかと思うと、河童はすっと間合いを詰めて来る。
次の瞬間、源吉は組み付かれていた。
「来い! まずは押してみろ! 相撲も出来ないようじゃ、江戸で偉くなんかなれないぞ!」
「わ、わかったよう」
困惑しながらも、源吉は言われた通りに押してみた。だが、びくりともしない。満身の力を込めて押してみたが、全く動かない。巨岩を押しているかのようだ。
その時、片手で軽々とつまみ上げられた。
「違う違う。お前は、腰が浮いてるんだ。だから、押しが弱いんだよ。腰をどんと落として、低い姿勢で押していくんだ」
言いながら、その場に源吉を降ろした。
「いいか、明日から、四股と鉄砲とすり足を毎日やるんだぞ。わかったか?」
河童にそんなことを言われたが、源吉には何のことかわからない。四股だの鉄砲だの、いったい何だろうか。
混乱する源吉に、河童は一方的に語る。
「よし、決めた! 明日から特訓だ! お前、名前は?」
「えっ? 源吉だけど……」
「源吉か、わかった。ちなみに、俺の名前はカンタだ。明日、この沼に来て、俺の名前を三回呼べ。それが合図だ」
「あ、合図? どういうこと?」
さらに混乱する源吉だったが、カンタはお構いなしだ。
「だってよう、二人の合図を決めなきゃ、源吉が来たかどうかわからないだろ。いいか、明日もここに来て俺を呼べ。そうしたら、俺が相撲を教えてやる。そうすれば、お前は村で一番強くなれるぞ」
翌日から、源吉はカンタと相撲の練習をするようになった。
まずは体を軽く動かした後、様々な技を教わる。さらにぶつかり稽古や、四股、鉄砲、すり足といった基本練習もみっちり行《おこな》う。
たっぷり体を動かしたら、山菜や魚の入ったちゃんこを食べる。カンタが作ったものであり、塩で味付けしただけだが、とても美味しかった。
カンタのおかげで、源吉は強く成長していく。村の子供相手には、もはや負けることはない。
やがて、源吉は十五歳になった。背は高くなり、体つきもさらに逞しくなった。村でも、彼に太刀打ちできる者はほとんどいない。
いよいよ、旅立ちの時が来たのだ。源吉は許水沼に行き、カンタを呼び出す。
「カンタ! カンタ! カンタ!」
やがて、沼からカンタが姿を現した。
「来たか! さあ、相撲取ろうぜ!」
はしゃぐカンタに、源吉は悲しそうな表情で口を開く。
「いや、違うんだよ。俺、江戸に行くことにしたんだ。しばらくの間、ここに来られなくなる。だから、お別れを言いに来た」
「えっ、そうなのか……」
みるみるうちに、カンタの顔つきが変わっていく。しょんぼりした様子で、下を向いた。
「俺、今は貧乏だ。けど、江戸で金持ちになって帰って来るよ。必ず、また会いに来るから……」
そう言うと、源吉は背中を向けた。このままだと、別れられなくなりそうだ。
歩き出した時、カンタがそっと近づいて来た。
「わかった。じゃあ、途中まで見送らせてくれ」
二人は、山道を歩いていく。ほとんど口もきかず、ひたすら歩いていった。
だが、源吉は耐え切れなくなり口を開く。
「なあカンタ、もうここまでにしてくれ。俺もつらいんだよ……」
その時、異変に気づいた。カンタの様子がおかしいのだ。目が虚ろで、息も荒い。こちらを見ようともせず、足を引きずるようにして歩いている。
「大丈夫か?」
声をかけるが、カンタは無視して歩き続ける。その姿は、何かおかしい。源吉は、彼の肩を掴んだ。
「おいカンタ、聞いてるのか?」
言った直後、源吉は愕然となる。カンタが、目の前でばたりと倒れたのだ──
「どうしたんだよ! しっかりしろお!」
慌てて、カンタを抱き起こした。すると、微かに嘴を開ける。だが、声が出て来ない。
その時、がさりという音がした。同時に、道端の茂みから黒いものが出現する。
「お前、水持ってるかニャ?」
聞いてきたのは、一匹の黒猫だった。源吉は唖然となる。
「み、水?」
「そうだニャ。河童は、頭の皿が乾ききると動けなくなるニャ。水があるなら、かけてやれニャ」
「わ、わかった」
源吉は、腰に付けていた竹の水筒を外した。蓋を開け、カンタの頭に水を垂らす。
その途端、カンタの目がぱっちり開いた。
「びっくりしたなあ、もう。こんな苦しいと思わなかったよ」
「だ、大丈夫かよ」
源吉は、不安そうに声をかける。
「うん、大丈夫だ。地上を歩くの久しぶりだったからな。塩梅がわからなかったんだよ」
言った後、カンタは黒猫の方を向いた。
「ありがとな、ミーコ」
「ふん、お前を助けるために来たわけじゃないニャ。たまたま、通りかかっただけだニャ」
そう言って、黒猫はぷいと横を向いた。すると、源吉が黒猫に近づいていった。
「お前、ミーコって言うのか──」
「お前とは何だニャ! あたしは、二百年も生きてる偉い化け猫さまだニャ! 失礼な小僧だニャ!」
黒猫は、源吉を睨みながら怒鳴った。直後、尻尾がびしゃりと地面を叩く。源吉は、びくりとなり後ずさった。よく見ると、尻尾は二本生えている。
その時、カンタが囁いた。
「ミーコはな、根はいい奴なんだけど気難しいんだよ。怒るとくちゃくちゃ怖いから、謝っとけ」
くちゃくちゃ怖いとは、どういう意味だろう……などと思いつつ、源吉は頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
謝ると、ミーコはぷいと横を向く。
「まったく、人間は本当に礼儀知らずだニャ。三百年も生きてる化け猫さまを、なんだと思ってるニャ」
ぶつぶつ言いながら、毛繕いを始めた。源吉は、あれ? と首を傾げる。
「あのさ、さっきは二百年て──」
その瞬間、カンタの手が伸び源吉の口をふさいだ。一方、ミーコは素知らぬ顔で毛繕いをしている。
だが、ミーコはすぐに顔を上げた。
「カンタ、ここまでにするニャ。でないと、また倒れることなるニャよ。沼に戻る前に倒れたら、どうするニャ」
「そ、それもそうだな」
言われたカンタは、源吉を真っすぐ見つめる。
「お前は、俺のただひとりの……人間の友達だった。お前のことは、絶対に忘れない。江戸に行っても、元気でやれよ」
その言葉に、源吉は泣きそうになった。必死で涙をこらえ、言葉を搾り出す。
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