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最悪の日(2)
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「よう、久しぶりだな」
聞き覚えのある声、精悍な顔つき、筋肉質の体。
死んだはずの一翔が、目の前に立っていた。
「あ、兄貴、なのか?」
呟く健二。彼は改めて、ここが死後の世界である事実を知らされた。死んだはずの人間と再会できるとは……。
健二の中に、様々な思いが込み上げてくる。それは懐かしさであり、憎しみであり、感激であり、怒りでもあり……複雑すぎて自分でも処理しきれない感情の波に襲われ、健二は言葉が出てこなかった。
「何やってんだよ、バーカ。こんな所に来ちゃダメじゃねえか」
そう言うと、一翔はニヤリと笑った。シャープな顔立ちで目付きは鋭い。一見すると、威圧的な雰囲気を漂わせているが……笑うと、親しみやすさを感じさせる。
ふと、兄が女性向けの雑誌に、笑顔がとってもキュートだ……などと書き立てられていたのを思い出した。その途端、暗い感情が増していく。
「今なら間に合う。さっさと帰れ。ミーコの後を付いて行けば、元の世界に戻れるぞ」
そう言うと、一翔はミーコの方を向く。ミーコは、ぷいと横を向いた。
「まったく、あたしを何だと思ってるニャ。三百年も生きてる化け猫さまを、こんなくだらない用事に使うとは……お前ら人間は、あたしに対する敬意が欠片ほども無いニャ」
ブツブツ文句を言っている。だが、健二の耳には届いていなかった。
ただただ、兄をじっと見つめていた。
「な、何で……」
「いいから、さっさと行け。二度と戻ってくるんじゃねえぞ」
あくまで爽やかな表情の兄を見ているうちに、健二の胸に押さえていたものが騒ぎ出した。
「ざけんじゃねえよ」
「えっ?」
戸惑う一翔を、健二は睨み付ける。
「あんたの……あんたのせいでな、俺の人生は滅茶苦茶なんだよ。死んでからも、俺を苦しめるのか?」
「はあ? お前、何を言っているんだ?」
訝しげな表情の一翔。健二は顔を歪める。予想通りだ。この男は自覚なしに周囲の人間を傷つけていく。
溢れんばかりの才能があり、実績もあり顔もよく、さらに明るい性格の持ち主。そんな者がいれば、そばにいる人間は惨めになる。
健二のような者は、特に。
「あんたは気づいてないのかよ? あんたのせいで、俺がどれだけ迷惑していたか? 親父もお袋も親戚も、みんなあんたに注目してた! その陰で俺がどんだけ惨めな思いをしてたか、わかってんのかよ! あんたは天才で、俺は無能なただの人……そんな風に思われてたんだぞ!」
生まれて初めて、健二は兄に思いのたけをぶつけた。今までずっと、胸の裡で燻っていた思いを。
だが、一翔は表情ひとつ変えなかった。そんな兄を、健二はさらに罵る。
「あんたが兄貴だっていうだけで、俺はいろんな奴からじろじろ見られた! 知らない奴が、あんたのことを聞いてきた! それだけじゃねえぞ! お前も強いのか、なんて言って殴られたりもしたんだ!」
喚きちらす健二だったが、やがて疲れ果て、その場に座り込んだ。すると、一翔はようやく口を開く。
「すまなかったな」
その表情には、優しさと哀れみがあった。大人が、不幸な目に遭った子供の、やり場のない怒りを受け止めてあげているような。
健二は、またしても兄と自分との差を突きつけられたような気がした。唇をわなわなと震わせ、一翔を見上げる。
「いいか、俺はあんたの試合を観に行ってた。でもな、あんたを応援してたわけじゃない。あんたの対戦相手を応援してたんだよ。兄貴をぶっ倒せ、ってな」
「えっ?」
一翔の表情に陰りが生じた。ようやく兄にダメージを与えられたらしい。
兄の表情の変化を見た健二はニヤリと笑い、さらに激しく一翔をなじる。
「そうだよ! 俺はずっと、あんたが敗けるように祈ってた! あんたが敗けるところを、目の前で見たかったんだよ! なのに、俺の目の前で死にやがってよ! あんたが死んだせいで、俺がどんだけ迷惑したか分かってんのか!」
歪んだ表情で怒鳴りつける。しかし、兄は静かな口調で言葉を返す。
「そうか。お前は、本当に俺のことが嫌いだったんだな。だったら、なおのこと戻らなきゃ駄目だろ」
「んだと……」
思わず口ごもる健二。一翔は、口元に笑みを浮かべていたのだ。やはり、兄は何のダメージも受けていないらしい。
そんな健二に、一翔は真剣な表情を向ける。
「健二、俺はお前に言っていないことがある。生きているうちに言えなかったことさ。そいつを言うために、俺はここに来た」
そう言うと、一翔は健二をじっと見つめる。
少しの間を置き、口を開いた。
「ありがとう。お前のお陰で、俺は世界チャンピオンになれた」
「えっ……」
呆然となる健二。一翔の言ってることは意味不明だ。なぜ、礼を言われなければならないのか。お前のお陰でチャンピオンになれた、とは? どういう意味なのだろう。
全くもって理解不能だ。
そんな健二の表情を見て、一翔はクスリと笑った。
「覚えてないのか? 小学校の時、校庭で俺がボコられたのを」
「お、覚えてる」
言葉につまりながらも、どうにか返事をした。確かに覚えている。小学生の時、兄が校庭で喧嘩し負けた事実。一翔が六年生、健二が一年生の時の話である。だが兄は、その敗北を気にしているような素振りを見せなかった。健二もまた、そのことは気にも留めていなかった。
一翔がボクシングジムに入会したのは、それからしばらく経ってからのことである。今にして思えば、その敗北が兄を奮起させたのかもしれない。
だが、それと健二と、どんな関係があるのだろう。
「あの時俺は、世間の冷たさを知ったんだよ」
困惑している健二に、一翔はそう言った。昔を懐かしむような表情を浮かべつつ、秘めていた想いを語り始める。
「俺は小学生の時、ずっとガキ大将だった。六年生になったら、俺に勝てる奴は学校にはいないはずだったんだよ。ところがだ、ひとりの転校生が現れた。そいつは、みんなの前で俺をボコボコにしたんだよ」
確かに、そんなことはあった。校庭で、見知らぬ少年に叩きのめされていた一翔。あの時の兄は、確かに惨めであった。
だが、こんなつまらない記憶を今まで引きずっていたというのだろうか。その後の栄光に比べれば、道ばたの石ころにつまづいたようなものではないか。
そんなことを思いつつ、健二は黙って話を聞いていた。
「その後、俺のそばから皆いなくなった。今まで俺の顔色を窺い、ヘラヘラ笑いながら俺の周りにいた連中は、みんな離れて行ったんだよ」
淡々とした口調で一翔は語っている。だが、その目の奥には陰があった。とても暗い陰が……生前の兄が、決して見せなかった表情である。
一翔にとって、死んでからも忘れられぬほどの黒い思い出だったのだ。
「まあ仕方ないよ。当時の俺は、本当にひどい奴だったしな。嫌われていたんだろうよ。でも、あれは本当に堪えたよ」
そう言うと、一翔は自嘲するように笑った。
健二は、だんだん不快になってきた。そんな思い出話など聞きたくない。それと自分と、どんな関係があるというのだ。
直後、思いは一変する。
「でもな健二、お前だけは違っていたんだよ」
「えっ?」
いったい何を言っているのだろう? 聞き返した健二に、一翔は爽やかな表情で答える。
「お前だけが、校庭で倒れてた俺に近づいて来た。大丈夫? って聞いてきたんだよ。覚えてねえのか?」
覚えていないはずがなかった。
一翔が校庭で喧嘩に負けた時、健二はまだ一年生だった。ボコボコにされ、鼻血を流しながら倒れていた兄。健二は心配になり、慌てて駆け寄って行った。
実のところ健二は、殴られていた一翔の姿をずっと見ていた。止めに行きたかったが、相手が怖くて何も出来なかったのだ。
喧嘩に負け、なおも殴られていた一翔を我が身可愛さに知らん顔をした……その行為に健二は負い目を感じ、だからこそ終わった後に近づいて行ったのだ。
止めに入れなかった自分への、せめてもの言い訳のために。
だが、一翔は違うものを感じていたのだ。
「あの時、誰も俺を助けようとしなかった。鼻血が出るわ、唇は腫れるわ、本当にひどい様だったよ。でも、だれも俺のそばに寄ろうとしなかった。友だち面してた奴らは、みんな離れて行ったんだよ。俺のそばに来てくれたのは、お前だけだった」
言った後、一翔は目線を逸らし上を見る。本来なら、空があるはずの場所。だが、ここには何もない。ただ、白い空間が広がっているだけだ。
「俺はな、あの時に誓ったんだよ。お前の尊敬に値する兄貴になろう、ってな。ただひとり、惨めな敗北を喫した俺を見捨てなかったお前……そんな弟を守れる、強い男になりたい。お前が誇りに思ってくれるような、そんな人間になりたい。俺は心底から、そう思ったんだ」
そう言うと、一翔は再び健二を見つめる。
「いいか健二、お前のお陰で俺はチャンピオンになれた。キツい練習も苦しい減量も、お前のおかげで乗り越えられたんだ。つらい時、くじけそうになった時、俺は思い出していたんだ……ボコボコにされ惨めな敗北を喫した、あの日のことを。そして、ただひとり手をさしのべてくれた、お前のことを」
「す、すげえ気持ち悪いんだけど……」
ようやく、健二の口から言葉が出た。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、健二の胸のうちには熱いものがこみ上げてくる。彼は泣きそうになりながらも、必死で涙をこらえていた。
まさか、兄がそんな想いを秘めていたとは──
「健二……お前の存在が、ひとりの人間を世界チャンピオンに変えたんだ。お前は、断じて無能じゃない。お前の人生も無意味なものなんかじゃない。もし、そんなことを言う奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
そう言うと、一翔は扉を指差した。
「次はお前の番だ。お前が俺の分まで生きてくれ。そして……戦うんだ」
「戦うって、何とだよ?」
「お前の人生をだよ。もう一度、戦ってこい。負けることは恥ずかしいことじゃない。勝ちとか負けとか、そんなことはどうでもいいんだ。大切なのは、戦うことだ」
そう言うと、一翔は健二の肩を叩いた。
「次はお前の番だぜ。さあ、行って来い」
その言葉の直後、ミーコが面倒くさそうに起き上がった。伸びをして、健二を見上げる。
「やっと話が終わったようだニャ。戻る気があるなら、付いて来るニャよ」
不思議な黒猫は、とことこ歩き出した。健二は、後に続いて歩き出す。
だが、足を止め振り返った。
「兄貴……俺はあんたが嫌いだったし、今も嫌いだ。あんたのせいで、俺はまた生き返らなきゃならなくなっちまった。本当に、あんたはムカつく男だよ」
そう言うと、健二は笑みを浮かべた。
「だから、俺は長生きしてやる。世間のみんながあんたを忘れても、俺だけは絶対に忘れない。この先、何十年経っても……ずっと、俺はあんたを覚えていてやるよ。最高に嫌な奴、としてな」
・・・
今日は最悪の日だ。
また、生き続けなきゃならなくなっちまった。
聞き覚えのある声、精悍な顔つき、筋肉質の体。
死んだはずの一翔が、目の前に立っていた。
「あ、兄貴、なのか?」
呟く健二。彼は改めて、ここが死後の世界である事実を知らされた。死んだはずの人間と再会できるとは……。
健二の中に、様々な思いが込み上げてくる。それは懐かしさであり、憎しみであり、感激であり、怒りでもあり……複雑すぎて自分でも処理しきれない感情の波に襲われ、健二は言葉が出てこなかった。
「何やってんだよ、バーカ。こんな所に来ちゃダメじゃねえか」
そう言うと、一翔はニヤリと笑った。シャープな顔立ちで目付きは鋭い。一見すると、威圧的な雰囲気を漂わせているが……笑うと、親しみやすさを感じさせる。
ふと、兄が女性向けの雑誌に、笑顔がとってもキュートだ……などと書き立てられていたのを思い出した。その途端、暗い感情が増していく。
「今なら間に合う。さっさと帰れ。ミーコの後を付いて行けば、元の世界に戻れるぞ」
そう言うと、一翔はミーコの方を向く。ミーコは、ぷいと横を向いた。
「まったく、あたしを何だと思ってるニャ。三百年も生きてる化け猫さまを、こんなくだらない用事に使うとは……お前ら人間は、あたしに対する敬意が欠片ほども無いニャ」
ブツブツ文句を言っている。だが、健二の耳には届いていなかった。
ただただ、兄をじっと見つめていた。
「な、何で……」
「いいから、さっさと行け。二度と戻ってくるんじゃねえぞ」
あくまで爽やかな表情の兄を見ているうちに、健二の胸に押さえていたものが騒ぎ出した。
「ざけんじゃねえよ」
「えっ?」
戸惑う一翔を、健二は睨み付ける。
「あんたの……あんたのせいでな、俺の人生は滅茶苦茶なんだよ。死んでからも、俺を苦しめるのか?」
「はあ? お前、何を言っているんだ?」
訝しげな表情の一翔。健二は顔を歪める。予想通りだ。この男は自覚なしに周囲の人間を傷つけていく。
溢れんばかりの才能があり、実績もあり顔もよく、さらに明るい性格の持ち主。そんな者がいれば、そばにいる人間は惨めになる。
健二のような者は、特に。
「あんたは気づいてないのかよ? あんたのせいで、俺がどれだけ迷惑していたか? 親父もお袋も親戚も、みんなあんたに注目してた! その陰で俺がどんだけ惨めな思いをしてたか、わかってんのかよ! あんたは天才で、俺は無能なただの人……そんな風に思われてたんだぞ!」
生まれて初めて、健二は兄に思いのたけをぶつけた。今までずっと、胸の裡で燻っていた思いを。
だが、一翔は表情ひとつ変えなかった。そんな兄を、健二はさらに罵る。
「あんたが兄貴だっていうだけで、俺はいろんな奴からじろじろ見られた! 知らない奴が、あんたのことを聞いてきた! それだけじゃねえぞ! お前も強いのか、なんて言って殴られたりもしたんだ!」
喚きちらす健二だったが、やがて疲れ果て、その場に座り込んだ。すると、一翔はようやく口を開く。
「すまなかったな」
その表情には、優しさと哀れみがあった。大人が、不幸な目に遭った子供の、やり場のない怒りを受け止めてあげているような。
健二は、またしても兄と自分との差を突きつけられたような気がした。唇をわなわなと震わせ、一翔を見上げる。
「いいか、俺はあんたの試合を観に行ってた。でもな、あんたを応援してたわけじゃない。あんたの対戦相手を応援してたんだよ。兄貴をぶっ倒せ、ってな」
「えっ?」
一翔の表情に陰りが生じた。ようやく兄にダメージを与えられたらしい。
兄の表情の変化を見た健二はニヤリと笑い、さらに激しく一翔をなじる。
「そうだよ! 俺はずっと、あんたが敗けるように祈ってた! あんたが敗けるところを、目の前で見たかったんだよ! なのに、俺の目の前で死にやがってよ! あんたが死んだせいで、俺がどんだけ迷惑したか分かってんのか!」
歪んだ表情で怒鳴りつける。しかし、兄は静かな口調で言葉を返す。
「そうか。お前は、本当に俺のことが嫌いだったんだな。だったら、なおのこと戻らなきゃ駄目だろ」
「んだと……」
思わず口ごもる健二。一翔は、口元に笑みを浮かべていたのだ。やはり、兄は何のダメージも受けていないらしい。
そんな健二に、一翔は真剣な表情を向ける。
「健二、俺はお前に言っていないことがある。生きているうちに言えなかったことさ。そいつを言うために、俺はここに来た」
そう言うと、一翔は健二をじっと見つめる。
少しの間を置き、口を開いた。
「ありがとう。お前のお陰で、俺は世界チャンピオンになれた」
「えっ……」
呆然となる健二。一翔の言ってることは意味不明だ。なぜ、礼を言われなければならないのか。お前のお陰でチャンピオンになれた、とは? どういう意味なのだろう。
全くもって理解不能だ。
そんな健二の表情を見て、一翔はクスリと笑った。
「覚えてないのか? 小学校の時、校庭で俺がボコられたのを」
「お、覚えてる」
言葉につまりながらも、どうにか返事をした。確かに覚えている。小学生の時、兄が校庭で喧嘩し負けた事実。一翔が六年生、健二が一年生の時の話である。だが兄は、その敗北を気にしているような素振りを見せなかった。健二もまた、そのことは気にも留めていなかった。
一翔がボクシングジムに入会したのは、それからしばらく経ってからのことである。今にして思えば、その敗北が兄を奮起させたのかもしれない。
だが、それと健二と、どんな関係があるのだろう。
「あの時俺は、世間の冷たさを知ったんだよ」
困惑している健二に、一翔はそう言った。昔を懐かしむような表情を浮かべつつ、秘めていた想いを語り始める。
「俺は小学生の時、ずっとガキ大将だった。六年生になったら、俺に勝てる奴は学校にはいないはずだったんだよ。ところがだ、ひとりの転校生が現れた。そいつは、みんなの前で俺をボコボコにしたんだよ」
確かに、そんなことはあった。校庭で、見知らぬ少年に叩きのめされていた一翔。あの時の兄は、確かに惨めであった。
だが、こんなつまらない記憶を今まで引きずっていたというのだろうか。その後の栄光に比べれば、道ばたの石ころにつまづいたようなものではないか。
そんなことを思いつつ、健二は黙って話を聞いていた。
「その後、俺のそばから皆いなくなった。今まで俺の顔色を窺い、ヘラヘラ笑いながら俺の周りにいた連中は、みんな離れて行ったんだよ」
淡々とした口調で一翔は語っている。だが、その目の奥には陰があった。とても暗い陰が……生前の兄が、決して見せなかった表情である。
一翔にとって、死んでからも忘れられぬほどの黒い思い出だったのだ。
「まあ仕方ないよ。当時の俺は、本当にひどい奴だったしな。嫌われていたんだろうよ。でも、あれは本当に堪えたよ」
そう言うと、一翔は自嘲するように笑った。
健二は、だんだん不快になってきた。そんな思い出話など聞きたくない。それと自分と、どんな関係があるというのだ。
直後、思いは一変する。
「でもな健二、お前だけは違っていたんだよ」
「えっ?」
いったい何を言っているのだろう? 聞き返した健二に、一翔は爽やかな表情で答える。
「お前だけが、校庭で倒れてた俺に近づいて来た。大丈夫? って聞いてきたんだよ。覚えてねえのか?」
覚えていないはずがなかった。
一翔が校庭で喧嘩に負けた時、健二はまだ一年生だった。ボコボコにされ、鼻血を流しながら倒れていた兄。健二は心配になり、慌てて駆け寄って行った。
実のところ健二は、殴られていた一翔の姿をずっと見ていた。止めに行きたかったが、相手が怖くて何も出来なかったのだ。
喧嘩に負け、なおも殴られていた一翔を我が身可愛さに知らん顔をした……その行為に健二は負い目を感じ、だからこそ終わった後に近づいて行ったのだ。
止めに入れなかった自分への、せめてもの言い訳のために。
だが、一翔は違うものを感じていたのだ。
「あの時、誰も俺を助けようとしなかった。鼻血が出るわ、唇は腫れるわ、本当にひどい様だったよ。でも、だれも俺のそばに寄ろうとしなかった。友だち面してた奴らは、みんな離れて行ったんだよ。俺のそばに来てくれたのは、お前だけだった」
言った後、一翔は目線を逸らし上を見る。本来なら、空があるはずの場所。だが、ここには何もない。ただ、白い空間が広がっているだけだ。
「俺はな、あの時に誓ったんだよ。お前の尊敬に値する兄貴になろう、ってな。ただひとり、惨めな敗北を喫した俺を見捨てなかったお前……そんな弟を守れる、強い男になりたい。お前が誇りに思ってくれるような、そんな人間になりたい。俺は心底から、そう思ったんだ」
そう言うと、一翔は再び健二を見つめる。
「いいか健二、お前のお陰で俺はチャンピオンになれた。キツい練習も苦しい減量も、お前のおかげで乗り越えられたんだ。つらい時、くじけそうになった時、俺は思い出していたんだ……ボコボコにされ惨めな敗北を喫した、あの日のことを。そして、ただひとり手をさしのべてくれた、お前のことを」
「す、すげえ気持ち悪いんだけど……」
ようやく、健二の口から言葉が出た。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、健二の胸のうちには熱いものがこみ上げてくる。彼は泣きそうになりながらも、必死で涙をこらえていた。
まさか、兄がそんな想いを秘めていたとは──
「健二……お前の存在が、ひとりの人間を世界チャンピオンに変えたんだ。お前は、断じて無能じゃない。お前の人生も無意味なものなんかじゃない。もし、そんなことを言う奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
そう言うと、一翔は扉を指差した。
「次はお前の番だ。お前が俺の分まで生きてくれ。そして……戦うんだ」
「戦うって、何とだよ?」
「お前の人生をだよ。もう一度、戦ってこい。負けることは恥ずかしいことじゃない。勝ちとか負けとか、そんなことはどうでもいいんだ。大切なのは、戦うことだ」
そう言うと、一翔は健二の肩を叩いた。
「次はお前の番だぜ。さあ、行って来い」
その言葉の直後、ミーコが面倒くさそうに起き上がった。伸びをして、健二を見上げる。
「やっと話が終わったようだニャ。戻る気があるなら、付いて来るニャよ」
不思議な黒猫は、とことこ歩き出した。健二は、後に続いて歩き出す。
だが、足を止め振り返った。
「兄貴……俺はあんたが嫌いだったし、今も嫌いだ。あんたのせいで、俺はまた生き返らなきゃならなくなっちまった。本当に、あんたはムカつく男だよ」
そう言うと、健二は笑みを浮かべた。
「だから、俺は長生きしてやる。世間のみんながあんたを忘れても、俺だけは絶対に忘れない。この先、何十年経っても……ずっと、俺はあんたを覚えていてやるよ。最高に嫌な奴、としてな」
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