地獄の渡し守

板倉恭司

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ミーナ編

ボリス、子守に挑む

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「じゃあ、頼んだよ」

 ミーナは、ボリスを睨むような目で見ながら言った。直後、リムルに視線を移す。

「このおじさんは顔は怖いが、優しい人だからね。言うことを聞いて、おとなしくしてるんだよ」

 横にいるニコライは、ぷっと吹き出した。だが、ボリスの怖い顔がこちらに向けられているのに気づき、慌てて真面目くさった表情へと戻す。リムルはといえば、不安そうな様子でキョロキョロと室内を見回していた。
 それも仕方ないことだった。まだ空は暗く日は出ていない。そんな中、ミーナに運ばれ奇怪なものが並ぶ店に連れて来られたのだ。
 その不安を読み取ったのだろう。ミーナはしゃがみ込むと、少女と同じ目線で語りかける。

「いいかい、あたしは必ず戻って来る。それまで、ボリスのおじさんのところにいるんだ。大丈夫だから」

 言いながら、リムルを優しく抱きしめる。
 ややあって、ミーナは立ち上がる。

「あんたら、この子を頼んだよ」

 素っ気ない口調で言うと、ミーナは部屋を出ていった。彼女はバンパイアである。もうじき、日が昇る時間だ。太陽が空に出る前に、帰って眠らなくてはならないのだ。
 昼間、眠りについている間は、ボリスがリムルを預かることになっている。



 部屋には、ボリスとリムルだけが残されている。ニコライはというと、知ったことではないとばかりに寝室へと戻ってしまった。これから二度寝をする気なのだろう。リムルの件には、全くのノータッチでいくつもりらしい。
 もっとも、ボリスも彼のことはあてにはしていなかった。

「リムルさん、ですね。私はボリスです。何をして遊びますか?」

 にこやかな表情を作り話しかけてみる。だが、リムルは怯えた表情で後ずさるばかりだ。ボリスのことが、怖くて仕方ないらしい。
 どうしたものだろう。ボリスとて、自身の顔が子供に好かれないことくらいは自覚している。かといって、このままではコミュニケーションが取れない。
 その時、閃くものがあった。キッチンへと行き、大きめの皿を持って来る。

「で、では、お菓子を食べますか? さっき、私が作ったものです」

 そう言って、ボリスは皿を差し出した。上には、蜂蜜のかかったパンケーキが乗っている。とりあえずは、美味しい食べ物で釣ってみよう。
 リムルの表情が一変した。怯えつつも、パンケーキには物欲しげな視線をチラチラ送る。ボリスの顔の怖さと、パンケーキの放つ魅惑的な香り……そのふたつの狭間で揺れ動いているのだ。

「いいですよ。遠慮なく食べてください」

 そう言って、ボリスは少女の目の前に皿を置く。床の上だ。お行儀がいいとは言えないが、今日のところは仕方ない。
 すると、リムルはものすごい勢いでかぶりついた。手づかみでパンケーキをちぎり、口に入れていく。今まで、こういったものを食べたことがなかったのかもしれない。
 そんな少女の姿を、ボリスは微笑みながら見つめていた。
 ふと、ニコライと初めて会った時のことを思い出した。無論、今のリムルよりは大きい。しかし、菓子を食べる姿には共通するものがある。そういえば、出会った時のニコライは目が見えなかった。リムルは、口がきけない。
 当時は、ニコライも素直で善良な少年だった。ところが今では、世の中の裏側にすっかり染まっている。平気で嘘もつくし、汚い手も使う。人殺しにもためらわなくなった。この娘には、そうなって欲しくない。
 そんなことを思いながら、ボリスは少女を見つめる。
 当のリムルは食べるのに夢中で、大男の視線には気づいていない。あっという間に、一枚目を平らげた。二枚目に取りかかろうとした瞬間、ボリスは口を開いた。

「ちょっと待ってください」

 その声に、リムルはびくりとなって動きを止める。まだ、この不気味な大男のことが怖いのだろう。
 ボリスは、濡れたタオルをそっと差し出した。

「手づかみで食べると、手が汚れます。まずは、これで手を拭いてください」

 すると、リムルはこくんと頷いた。濡れタオルで、べとべとになった手を拭く。この少女、素直な性格らしい。あるいは、目の前にいる大男の恐ろしい顔に怯えているだけかも知れないが……。
 続いてボリスは、ナイフとフォークを持った。パンケーキを切り、フォークに突き刺す。

「こうやって食べるのですよ。さあ、口を開けてください」

 言いながら、パンケーキが刺さったフォークを、そっと口元へと差し出す。
 リムルは、戸惑いつつも口を開けた。ボリスは慎重に、パンケーキを口の中へと入れる。
 そっと口を動かし、パンケーキを食べる少女。次の瞬間、ボリスに微笑んだ。
 ボリスも笑う。可愛らしい少女と、醜い顔の不気味な大男が笑い合う空間……傍から見れば、さぞかし異様な光景に映っただろう。
 やがてリムルは、見よう見まねでナイフとフォークを使い始める。楽しそうに扱い、パンケーキを食べていた。好奇心旺盛な幼い少女にとっては、知らない動作を学ぶことも遊戯のような感覚なのかも知れない。
 ボリスはといえば、目を細めて見ている。久しぶりに幸せな気分を味わっていた。
 やがて、リムルはパンケーキを食べ終えた。ちらりとボリスを見る。

「美味しかったですか?」

 尋ねると、少女はウンウンと頷いた。ボリスの恐ろしい顔にも、慣れてくれたらしい。ありがたい話だ。近所の子供たちは、未だにボリスの顔を見るなり逃げていく。いや、子供だけではない。大人ですら逃げていく始末だ。
 次は、何をしようか……と考えた時、しまい込んであった書物の山があるのを思い出した。中には、子供向けのものもある。そう、ボリスの創造主であり育ての親でもある魔術師フランチェンが用いたものだ。
 フランチェンは書物を用い、ボリスに様々な知識を授けた。今度は、自分が教える番だ。

「ちょっと、ここで待っていてくださいね」

 言った後、物置へと向かう。ボリスは几帳面な男であり、また記憶力も優れている。どこに何をしまってあるか、完璧に記憶していた。
 すぐに、目当てのものを取り出す。鎧を着た勇者とドラゴンが描かれている絵だ。どういう技術を用いているのかは不明だが、風景をそのまま紙に移したかのような出来栄えである。
 その絵を、リムルに見せてみた。すると、目を丸くして見つめる。

「これは、ドラゴンと戦う勇者です」

 説明するが、リムルは聞いていないらしい。口を半開きにした状態で、絵をじっと見つめている。
 その時、また閃いた。

「絵を描くのは好きですか?」

 尋ねると、少女は首を傾げる。このリアクションでは、好きとも嫌いとも判断しがたい。
 仕方ない。とりあえずは、自分が絵を描いてみせよう。ボリスは店に行くと、ペンと紙を持ってきた。
 リムルの前で、丸を描いてみせる。すると、少女は興味を示したらしい。ペンを不思議そうに見ている。
 それも当然だった。ボリスの持っているペンは、普通の物ではないのだ。貴族たちが使う羽根ペンは、インクを先端に付けなくてはならない。しかし、ボリスの持っているペンは違う。大量のインクを魔法で凝縮させ、ペンの中に入れているのだ。したがって、わざわざインクを付けることなく書き続けられる。

「描いてみますか?」

 尋ねると、ウンウンと頷いた。その瞳には、期待と喜びの色がある。子供の好奇心を刺激されたのだろう。

「はい、どうぞ」

 ペンを手渡すと、リムルは不思議そうにペンの先を見ている。
 ややあって、指でペン先に触れた。当然、指にインクが付く。すると、少女は口をまんまるに開けた表情で、黒い染みの付いた指先をボリスに見せる。
 ボリスは思わず笑ってしまった。この子は、本当に面白い。リムルなら、ミーナを変えてくれるかもしれない。




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