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能見唯湖編
決意
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学生やサラリーマンが帰路につく時間帯、荒川ジムでは普段通りの光景があった。
鈴本龍平が両手にミットを持ち、大東恵子のパンチを受けている。一応はトレーニングをしているつもりなのだろうが、傍から見ればイチャつくバカップルである。
「ケイちゃん、もっと強く打てないの?」
「無理! だって、か弱い女の子だもん。リュウくんみたいに逞しくないんだから」
イチャイチャしながら、ミット打ちをしているふたり。確かに鈴本は逞しい。身長百八十センチで、体重は百キロある。ここに入会する前から、既に空手の黒帯を取得している男だ。
一方の大東は、楽しそうにミットめがけパンチを打ち込んでいる。相変わらず露出の高い格好だ。この姿を見ただけで、彼女が昔は男だったと見抜ける者は少ないだろう。
そんな光景を横目で見て、小声でブツブツ言っているのは田原だ。
「何がひ弱な女の子だよ、このバカップルが。だいたい、女の子って歳じゃねえだろ」
そんな大東と鈴本とは、真逆の雰囲気を放っているのが唯湖と黒崎であった。ジムの隅にあるスペースで、唯湖はベンチプレスをしている。左腕にトレーニング用の義手を付け、ベンチに寝た姿勢からバーベルを挙げていた。
四十キロのバーベルを十回挙げ、唯湖は汗を拭く。その時、横にいる黒崎が口を開いた。
「筋力の伸びも素晴らしい。大したものだな」
言われた唯湖は、ニコッと微笑む。
「ありがと。でも、前から思ってたんだけどさ、あたし片手しかないんだよ。わざわざバーベルで両手を鍛える必要あんの?」
「片手だけ鍛えていては、筋肉の付き方がいびつになる。格闘技には不向きだ。バランスの悪い筋肉は、ケガをもたらすこともある。筋肉は、バランスよく鍛えていかなくてはならない」
「なるほど、やっぱおっちゃん凄いわ」
それは、お世辞などではない。偽らざる本音だった。
このジムに通い始めて、一年が過ぎた。あれから、アマチュアの試合に二度出場し、二度ともKO勝ちしている。全ては、黒崎の指導の賜物だ。
そんなことを思っていた時、不意にジムの扉が開く。入って来た者を見た瞬間、田原の顔が歪んだ。黒崎の眉間にも皺が寄る。
入って来たのは、スーツ姿の中年男だった。髪を綺麗に撫で付け、偉そうな態度でジムの中を見回している。一見すると中堅のお笑い芸人のごときユニークな風貌だが、その印象とは真逆の肩書を持つ男である。
そう、この男は……格闘技イベント『Dー1』のプロデューサー・石川和治なのだ。荒川ジムに、自ら姿を現したのである。
石川は、じっくりとジムの中を見回していた。と、その目が黒崎に止まる。
「久しぶりだな、黒崎」
しんみりした声だった。複雑な感情がこもっている。石川が、こんな声を出すのは珍しいことだ。
「石川か。何をしに来た?」
対する黒崎は、いつもと変わらない表情だ。石川はその問いには答えず、もう一度周りを見回した。異様な雰囲気を感じとったのか、大東と鈴本も両者に注目している。
ややあって、石川が口を開いた。
「なるほど。ここが、お前のジムか」
「俺のジムではない。荒川ジム、と看板にも書いてあるだろう。それより、何をしに来たのだ」
黒崎の態度はにべもない。石川は苦笑した。
「では、用件を言おう。実はな、来月のDー1で第一試合に出るはずだった選手ふたりが、入院することになった。そこでだ……」
不意に手が上がり、ある人物を指差す。
「そこにいる能見唯湖さんは、第一試合に出る気はあるかな?」
「あ、あたし?」
きょとんとなる唯湖に、石川は頷いた。
「そうだ、君だよ。試合はムエタイルールの三分三ラウンド。対戦相手は前川茜という選手だよ。どうだ?」
「断る」
答えたのは、唯湖ではなく黒崎だった。
石川の表情が歪む。
「お前には聞いておらんのだがな。俺は、こちらの能見さんに聞いているんだよ」
「駄目だ。ムエタイルールの試合はさせられない。帰れ」
なおも繰り返す黒崎を、石川は鼻で笑った。
「ふん、そうかい。しょせん、負け犬は負け犬のままなんだな」
すると、横で聞いていた田原が動いた。血相を変え、石川に詰め寄っていく。
「ちょっと待てよ。負け犬って何だよ?」
今にも掴みかからんばかりの勢いだ。しかし、石川は恐れる様子もない。
「お前、便利屋の田原とかいったな。まだ黒崎とツルんでいるのか。いいか、これはチャンスなんだぞ。プロデビューもしとらん選手が、Dー1に出られるなどありえない話だ。マスコミからの注目度も高い。もし勝てば、一夜にして全てを変えられるんだぞ」
ここで、石川の目線は黒崎に向けられる。
「そんなチャンスをくれてやってるのに、この黒崎は断るという。負け犬根性が染み付いているから、勝負に出る度胸もない。このまま、何も出来ず終わるだけだ」
「んだと!」
田原が怒鳴り、掴みかかろうとする。が、直後に鈴本が割って入った。そのガッチリした体で、田原の前に立ちはだかった。
一方、石川は冷めた表情だ。その目は、黒崎へと向けられている。
「まあ、好きにしろ。ここで、ずっと燻り続けているんだな」
そんなセリフを残し、扉を開け出て行った。
だが、追いかけて来た者がいる。あっという間に石川を追い抜き、彼の前に立った。唯湖だ。
「待ってください!」
その一言で、石川は立ち止まった。じろりと唯湖を睨む。
だか、唯湖は臆することなく叫んだ。
「どうして……どうしておっちゃんに、あんなひどいことを!」
その時、石川の表情が歪む。その顔には、複雑な感情か浮かんでいた。
「あの便利屋の田原だが……俺の部下で、あいつより有能な人間はいくらでもいる。ところが、あいつのように損得抜きで付き合ってくれる人間は、ひとりもいないよ」
「何を言ってるんですか?」
唯湖は戸惑っていた。
思わず、怒りに任せて出てきてしまった。横柄で礼儀知らずな来訪者に、罵詈雑言を浴びせてやるつもりだった。
ところが、目の前にいるのは悲しげな中年男である。いや、ただ悲しげというだけではない。様々な思いの入り混じった複雑な表情を浮かべている。先ほどの印象とは真逆だ。
その中年男は、なおも語り続けた。
「黒崎の周りには、ああいう人間が集まる。何なんだろうな。俺は、あいつの存在を無視できん。今のあいつは、三流以下のトレーナーでしかない──」
その時、唯湖は口を挟む。
「おっちゃんは、三流以下のトレーナーじゃありません。あたしが、それを証明します」
「どういうことだ?」
訝しげな表情を見せた石川だったが、次の瞬間に顔つきが一変する。
「あたし、試合に出ます」
石川は無言のまま、唯湖をじっと見つめた。少しの間を置き、ようやく口を開く。
「本気か? はっきり言って、君にはキツい試合だぞ。俺はな、楽な試合を組むつもりはない」
「本気です。試合に出て、必ず勝ってみせます。そして、おっちゃんが世界一のトレーナーだってことを証明してみせます」
語る唯湖の口調は、先ほどとはうって変わって静かなものだった。しかし、言葉の奥に秘められた決意は本物だ。数多くの選手を見てきた石川には、はっきりと見て取れた。
ややあって、石川はニヤリと笑う。ようやく、Dー1敏腕プロデューサーの顔になった。
「世界一のトレーナー、か。それくらいの者になってもらわんと、俺も張り合いがない。ま、頑張って客を湧かしてくれや」
鈴本龍平が両手にミットを持ち、大東恵子のパンチを受けている。一応はトレーニングをしているつもりなのだろうが、傍から見ればイチャつくバカップルである。
「ケイちゃん、もっと強く打てないの?」
「無理! だって、か弱い女の子だもん。リュウくんみたいに逞しくないんだから」
イチャイチャしながら、ミット打ちをしているふたり。確かに鈴本は逞しい。身長百八十センチで、体重は百キロある。ここに入会する前から、既に空手の黒帯を取得している男だ。
一方の大東は、楽しそうにミットめがけパンチを打ち込んでいる。相変わらず露出の高い格好だ。この姿を見ただけで、彼女が昔は男だったと見抜ける者は少ないだろう。
そんな光景を横目で見て、小声でブツブツ言っているのは田原だ。
「何がひ弱な女の子だよ、このバカップルが。だいたい、女の子って歳じゃねえだろ」
そんな大東と鈴本とは、真逆の雰囲気を放っているのが唯湖と黒崎であった。ジムの隅にあるスペースで、唯湖はベンチプレスをしている。左腕にトレーニング用の義手を付け、ベンチに寝た姿勢からバーベルを挙げていた。
四十キロのバーベルを十回挙げ、唯湖は汗を拭く。その時、横にいる黒崎が口を開いた。
「筋力の伸びも素晴らしい。大したものだな」
言われた唯湖は、ニコッと微笑む。
「ありがと。でも、前から思ってたんだけどさ、あたし片手しかないんだよ。わざわざバーベルで両手を鍛える必要あんの?」
「片手だけ鍛えていては、筋肉の付き方がいびつになる。格闘技には不向きだ。バランスの悪い筋肉は、ケガをもたらすこともある。筋肉は、バランスよく鍛えていかなくてはならない」
「なるほど、やっぱおっちゃん凄いわ」
それは、お世辞などではない。偽らざる本音だった。
このジムに通い始めて、一年が過ぎた。あれから、アマチュアの試合に二度出場し、二度ともKO勝ちしている。全ては、黒崎の指導の賜物だ。
そんなことを思っていた時、不意にジムの扉が開く。入って来た者を見た瞬間、田原の顔が歪んだ。黒崎の眉間にも皺が寄る。
入って来たのは、スーツ姿の中年男だった。髪を綺麗に撫で付け、偉そうな態度でジムの中を見回している。一見すると中堅のお笑い芸人のごときユニークな風貌だが、その印象とは真逆の肩書を持つ男である。
そう、この男は……格闘技イベント『Dー1』のプロデューサー・石川和治なのだ。荒川ジムに、自ら姿を現したのである。
石川は、じっくりとジムの中を見回していた。と、その目が黒崎に止まる。
「久しぶりだな、黒崎」
しんみりした声だった。複雑な感情がこもっている。石川が、こんな声を出すのは珍しいことだ。
「石川か。何をしに来た?」
対する黒崎は、いつもと変わらない表情だ。石川はその問いには答えず、もう一度周りを見回した。異様な雰囲気を感じとったのか、大東と鈴本も両者に注目している。
ややあって、石川が口を開いた。
「なるほど。ここが、お前のジムか」
「俺のジムではない。荒川ジム、と看板にも書いてあるだろう。それより、何をしに来たのだ」
黒崎の態度はにべもない。石川は苦笑した。
「では、用件を言おう。実はな、来月のDー1で第一試合に出るはずだった選手ふたりが、入院することになった。そこでだ……」
不意に手が上がり、ある人物を指差す。
「そこにいる能見唯湖さんは、第一試合に出る気はあるかな?」
「あ、あたし?」
きょとんとなる唯湖に、石川は頷いた。
「そうだ、君だよ。試合はムエタイルールの三分三ラウンド。対戦相手は前川茜という選手だよ。どうだ?」
「断る」
答えたのは、唯湖ではなく黒崎だった。
石川の表情が歪む。
「お前には聞いておらんのだがな。俺は、こちらの能見さんに聞いているんだよ」
「駄目だ。ムエタイルールの試合はさせられない。帰れ」
なおも繰り返す黒崎を、石川は鼻で笑った。
「ふん、そうかい。しょせん、負け犬は負け犬のままなんだな」
すると、横で聞いていた田原が動いた。血相を変え、石川に詰め寄っていく。
「ちょっと待てよ。負け犬って何だよ?」
今にも掴みかからんばかりの勢いだ。しかし、石川は恐れる様子もない。
「お前、便利屋の田原とかいったな。まだ黒崎とツルんでいるのか。いいか、これはチャンスなんだぞ。プロデビューもしとらん選手が、Dー1に出られるなどありえない話だ。マスコミからの注目度も高い。もし勝てば、一夜にして全てを変えられるんだぞ」
ここで、石川の目線は黒崎に向けられる。
「そんなチャンスをくれてやってるのに、この黒崎は断るという。負け犬根性が染み付いているから、勝負に出る度胸もない。このまま、何も出来ず終わるだけだ」
「んだと!」
田原が怒鳴り、掴みかかろうとする。が、直後に鈴本が割って入った。そのガッチリした体で、田原の前に立ちはだかった。
一方、石川は冷めた表情だ。その目は、黒崎へと向けられている。
「まあ、好きにしろ。ここで、ずっと燻り続けているんだな」
そんなセリフを残し、扉を開け出て行った。
だが、追いかけて来た者がいる。あっという間に石川を追い抜き、彼の前に立った。唯湖だ。
「待ってください!」
その一言で、石川は立ち止まった。じろりと唯湖を睨む。
だか、唯湖は臆することなく叫んだ。
「どうして……どうしておっちゃんに、あんなひどいことを!」
その時、石川の表情が歪む。その顔には、複雑な感情か浮かんでいた。
「あの便利屋の田原だが……俺の部下で、あいつより有能な人間はいくらでもいる。ところが、あいつのように損得抜きで付き合ってくれる人間は、ひとりもいないよ」
「何を言ってるんですか?」
唯湖は戸惑っていた。
思わず、怒りに任せて出てきてしまった。横柄で礼儀知らずな来訪者に、罵詈雑言を浴びせてやるつもりだった。
ところが、目の前にいるのは悲しげな中年男である。いや、ただ悲しげというだけではない。様々な思いの入り混じった複雑な表情を浮かべている。先ほどの印象とは真逆だ。
その中年男は、なおも語り続けた。
「黒崎の周りには、ああいう人間が集まる。何なんだろうな。俺は、あいつの存在を無視できん。今のあいつは、三流以下のトレーナーでしかない──」
その時、唯湖は口を挟む。
「おっちゃんは、三流以下のトレーナーじゃありません。あたしが、それを証明します」
「どういうことだ?」
訝しげな表情を見せた石川だったが、次の瞬間に顔つきが一変する。
「あたし、試合に出ます」
石川は無言のまま、唯湖をじっと見つめた。少しの間を置き、ようやく口を開く。
「本気か? はっきり言って、君にはキツい試合だぞ。俺はな、楽な試合を組むつもりはない」
「本気です。試合に出て、必ず勝ってみせます。そして、おっちゃんが世界一のトレーナーだってことを証明してみせます」
語る唯湖の口調は、先ほどとはうって変わって静かなものだった。しかし、言葉の奥に秘められた決意は本物だ。数多くの選手を見てきた石川には、はっきりと見て取れた。
ややあって、石川はニヤリと笑う。ようやく、Dー1敏腕プロデューサーの顔になった。
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