世にも異様な物語

板倉恭司

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愚かなる者

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「あなたは、本当に筋がいいですね。今までスポーツ経験がないとは、信じられません」

「いや、スポーツなんかとは無縁の生活をしていました。高校は帰宅部でしたし、大学ではずっとオタク連中とツルんでいましたから。本格的に体を動かすのは、ここが初めてです」

 

 稲垣剛志イナガキ ツヨシがこの道場に通い始めて、もうじき三年になる。会社への通勤途中、看板を偶然に見つけたのだ。

(スポーツ格闘技とは違う本物の古武術 実戦で使える護身を学んでみませんか)

 もともと運動は好きではないし、体育会系の態度の大きさには嫌悪感を覚えていた。そのため、スポーツとは一切かかわらずに生きてきたのである。
 とはいえ、武術に対する憧れのようなものはあった。漫画やアニメなどで、ムキムキのマッチョな悪党を、主人公が華麗なる技で倒す。幼い頃は、そんなシーンを食い入るように見ていた。近所の空手の道場に通わせてくれ、と両親に頼んだこともある。もっとも、相手にされなかったが。
 男なら、誰にでもあるはずの強さへの憧れ……社会人になってから、再びその気持ちと向き合うこととなったのだ。
 稲垣は迷ったが、気持ちは押さえられなかった。ある日、勇気を振り絞って道場を見学する。
 中に入ってみると、想像とは違う光景が拡がっていた。壁は鏡張り、床は柔らかいマットが敷かれている。道場というよりダンススタジオのようだ。
 そんな中で指導しているのは、三十歳ほどの男だ。Tシャツとハーフパンツ姿で、ニコニコしながら技を教えている。古武術という言葉からして、着物姿の男が険しい表情で指導していると思っていたのだ。
 ただし、その言葉は物騒なものだった。

「いいですか、狙うのは目です。目を突いて相手の視力を奪う、これで無力化できます。これはスポーツ化した格闘技には無い技です」

 言いながら、目を突く仕草をする。すると、生徒たちが向き合った。片方は、目を突く練習をする。もう片方は、バイクのヘルメットのようなものをかぶり技を受けている。
 これまで暴力沙汰とは縁のなかった稲垣にとって、その光景は新鮮であった。彼は、翌日に入会していた。
 
 それから、稲垣は道場に通い続けた。様々な技を習い、身につけていく……そこには、新鮮な感覚があった。
 また、事あるごとにインストラクターが投げかける言葉も魅力的だった。

「格闘技はね、しょせんルールのあるスポーツです。有名なチャンピオンといえど、実戦という場では素人なんですよ」

「我々はね、人を殺せる技をマスターしているんです。実戦だったら、私は格闘家など全く怖くありません。皆さんも、ボクシングの軽量級チャンピオンレベルなら簡単に倒せますよ」

「この前、総合格闘技の試合が放送されていましたね。観ていて笑ってしまいましたよ。ルールに守られているなあ、の一言で終わってしまいますね。私なら、グラウンドの展開になんかしません。目突きと金的で、一分もかからず仕留められますね」

 そんな言葉に刺激され、稲垣は道場に通い続ける。様々な技を習い覚えていくうち、自信もついてきた。今では、チンピラとすれ違っても怖いとは思わない。
 いつしか彼の頭には、学生時代の記憶が浮かぶようになっていた。態度の大きな体育会系の連中。校内を我が物で徘徊するヤンキー。当時は、顔を下に向け目を合わせないようにして立ち去るしかなかった。
 では、今ならどうなのだろう?
 考えるまでもない。今なら、奴らを倒せる。



 そんな夏の日のことだった。
 稲垣は会社の帰り、自宅近くのコンビニに立ち寄った。すると、入口付近に数人の若者がしゃがみ込んでいる。何やら、ひそひそと小声で語り合っていた。時おり、スマホを取り出しいじっている。夏休み中の高校生だろうか。
 普段の稲垣なら、無視してさっさと店内に入っていた。買い物を済ませ。すぐに帰っていただろう。
 だが、今の彼は違っていた。ちらりと若者たちを見る。全部で五人。ひとりは大きいが、あとは六十キロ程度か。
 もっとも、体格差など実戦では関係ない。全員、習い覚えた技で三分以内に倒せる。稲垣は、軽蔑の眼差しを向けた。昔と違い、まるで怖くない。
 その視線に気づいたのか、ひとりがこちらに視線を向ける。と、表情が変わった。威嚇するような目で睨んでくる。何見てんだ、とでもいいたげだ。
 しかし、稲垣は怯まない。それどころか、思わず笑ってしまった。実力の差に気づいていないのだろうか。こんな連中、自分ならすぐに倒せるのに。
 まあいい。来たらやってやる、そう思いつつ店内に入っていった。買い物を済ませ、出ていく。
 すると、後ろから付いて来る者たちがいる。さっきの若者たちだ。周りは暗く、人通りも少ない。ここなら、やり合っても通報はされないだろう。

「ちょっとお兄さん、待ってよ。さっき、俺たちのこと見て笑ってたよね? 俺たちのことナメてんの? バカにしてんの?」

 後ろから声が聞こえてきた。立ち止まり、振り返る。
 敵意を剥きだしにした若者たちが、こちらに向かい足早に近づいて来ていた。先頭は、ひときわ体の大きな男だ。髪を金色に染め、Tシャツから覗く二の腕にはタトゥーが入っている。

「いや、別に笑ってないよ。気のせいじゃないの」

 余裕の表情で答えた。その途端、金髪の表情が変わる。

「んだと! 嘘つくんじゃねえぞコラァ!」

 急に、大声で怒鳴ってきた。すると、稲垣の体がビクリと反応する。と同時に、体に違和感を覚えた。
 いや、違和感などという生易しいものではない。

「おい! なんとか言ってみろや!」

 吠えながら、近づいてくる金髪。稲垣は焦った。大声を聞いた瞬間から、体がおかしくなっている──
 チンピラが喧嘩の時、大声で威嚇する……これには、大声を出して自身を興奮状態にし、同時に相手を威圧するという二重の効果がある。実際、怒鳴られるだけで萎縮してしまう者は少なくないのだ。
 しかし、稲垣にそんな知識はない。彼は、予想外の事態に戸惑うばかりだった。己が萎縮していることすら気付かなかった。
 
 やばい。
 こっちにくる。
 目突きだ……。
 あれ?
 腕が動かない!

 そう、稲垣の体は完全にすくみ、うまく動かなくなっていた。彼は、聞き慣れていない威嚇の大声により完全にすくんでいた。
 剣道などの武道では、試合で気合と称した大声を出し合う。また格闘技でも、控室で大声を出して己を戦闘モードに突入させることがある。大声には慣れているのだ。
 ところが、稲垣はそうした知識がない。そうした体験もない。ただただパニックになるだけだった。

 なんで?
 なんで練習した動きが出来ない!?

 その瞬間、金髪のパンチが飛んできた。大振りの、素人まるだしのパンチである。完全に見えていた。道場なら、稲垣は躱すことが出来ただろう。
 しかし、今の彼は動けなかった。ならば、覚悟を決めて受ける。道場の教えによれば、素人でも覚悟を決めればある程度は耐えられる……はずだった。
 直後、顔面にパンチをもらう。生まれて初めて、顔面を殴られた。しかも、硬い拳頭が目にまともに炸裂した。その痛みは強烈だ。耐えることなど出来ない──
 ボクシングや空手といった打撃のある格闘技をやっていれば、痛みにはある程度の耐性がある。顎を引き、額でパンチを受ける技術もある。中には、痛みにより覚醒する選手もいるという。そのため、試合前に控室で闘魂注入のごときビンタをさせるケースもあるのだ。
 だが、稲垣は本気で殴られたことなどない。しかも、パンチを食らった片目が開かないのだ。現実の痛みと目が開かない恐怖が、彼をさらなるパニックに陥らせる。
 さらに、襟首を掴まれた。道場で、襟首を掴まれた時の対処法は散々習ってきたはずだった。しかし、今の稲垣は何も出来ない。心は萎縮し、頭はパニックに陥り、しかも生まれて初めての痛みが体を支配している。もはや、恐怖のあまり習ったもの全てが消えうせている。
 次の瞬間、凄まじい痛みを感じた。金髪の頭突きを顔面にまともに食らったのだ。目からは大量の涙、鼻からは大量の液体。液体は喉に流れ込み、苦しさのあまりゴホッと咳込む。
 咳とともに出たのは、血液であった。稲垣は金髪の頭突きを鼻にくらい、大量の鼻血が出た。その鼻血が気道に入り、咳込んでしまったのである。
 だが、本人にそんなことはわからない。ただ、本物の血液を見て、さらなる恐怖で動けなくなってしまった。血を見るのは苦手だ。こんな時の対処など、道場では教わっていない──
 その後は、拳や足による打撃が雨のように降り注ぐ。しかも、他の若者たちまでがそれに加わっていた。稲垣の意識は、いつのまにか闇の中に沈む。



 二日後、稲垣は病院のベッドで寝ていた。
 彼の顔面は、完全に崩壊していた。鼻骨は折れており、前歯のほとんどが砕けていた。頬骨も折れており、包帯で巻かれている状態だ。しかも、左目は網膜剥離になっていた。
 さらに、左半身は動かなくなっていた。医師の話では、殴られ倒れた弾みで頭を打ち脳内で出血し、脳梗塞を起こしたのだという。
 それだけではない。医師は、さらなる残酷な言葉を用意していた。

「あなたの腰椎は損傷しています。背中を何度も蹴られ、踏み付けられたのが原因でしょう。お気の毒ですが、この先歩くことはおろか、立ち上がることも不可能です」

 稲垣は、ぼんやりと天井を見ていた。
 悲しいはずなのに、涙が出ない。怒りも湧いてこない。そうした感情全てが、体の機能とともに失われてしまったような気がしていた。
 
 俺は、何がしたかったんだろう。
 そもそも、今まで何をやっていたんだろう。

 

 
 


 
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