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魂 ③
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なんだか様子がおかしい。午後になってやっと、サイトウは異常に気づいた。三時になっても起きてこないはな六に苛立ち、サイトウは寝室にはな六を起こしに行った。はな六は朝とまるっきり同じ格好で眠っていた。まるで、座っていたところを鉄砲で撃たれてそのまま死んでしまったかのように倒れている。
「はな六よ」
サイトウは枕元で声をかけた。
「よォ」
よォ、と声をかけ続けているうちに、思い出した。この、上州訛りのたった一言、言葉とも言えない一言が、よその地域生まれの人間を酷く怯えさせることを。実際、苛立ったときくらいだった、こんな風にひとに声をかけるのは。
「はな六?」
サイトウは出来うる限りの猫なで声で呼んだ。
「はな六よぉ」
ぴくりともしない……狸寝入りではない。サイトウは手の甲ではな六の頬に触れた。ちゃんと温かみがある。頬にうっすら赤みが差している。胸の上に頭を載せ、耳を当ててみた。厚い胸板の奥で確かに心臓は鼓動を奏でている。そういう、生きている人間らしさが、アンドロイドには何の意味もない。アンドロイドは電気で動く。胸の奥で拍動をし続ける心臓によって体内を巡るのはただの温水だし、頬に差す赤みは皮膚に仕込まれた仕掛けに過ぎない。
「死んでんのか?」
「はな六よぉ」
「おい……」
「はな六ぅ」
一階の作業場で死んでいる道具たちのように、はな六はひっそりと存在感をなくしている。どこか具合が悪いのかもしれない。きっと何かのエラーなのだ。サイトウは取り扱い説明書を探そうと、押入を開けた。上段は布団をしまうためのスペースで、下段が物置だ。大してものは入っていない。古着の入った衣装ケース。段ボール箱が一つ、そしてはな六愛用のデイパック。デイパックの中を漁ってみたが、出てきたのは住民票と印鑑証明書、そしてアンドロイド登録証だけだった。サイトウは書類をクリアケースに戻し、デイパックに入れて脇に退けた。そして段ボールを開けてみたが、それにはサイトウの書類しか入っていなかった。
溜息を吐き、箱を元の場所に戻そうとしたとき、ふと奥にもう一つ箱らしきものがあるのに気がついた。引き出してみれば、それは白い風呂敷のようなものに包まれた一抱えほどの箱だった。布の結び目を解いてすぐさま、その箱が何であるのかを察した。棺だ。その証拠に、蓋の上には布に包まれた守刀が置かれている。サイトウは震える手で棺の蓋を開けた。
サイトウにしてみれば、魂の存在の感じられない、ただ見た目が“俺のはな六”に似ているだけの人形を、医者はまるで生きている人間にするように病室に入院させた。
「検査の結果、どこにも異常は見つかりませんでした。ただの心労でしょう」
医者は慰めるように言った。サイトウはこんこんと眠り続けるはな六を見下ろした。きっと手を握れば、はな六の掌はいつものように冷たく、しかし頭を喪って死んだときほどの冷たさではないはずだ。だが、分厚い氷の下で春を待つ小川のせせらぎのような、秘められた生命力を感じることはないだろう。といって、はな六に触れようとせず、両手をウインドブレーカーのポケットに突っ込んだままの自分の薄情さに、苦虫を噛み潰すような心地がする。
いや……、
最初からこのはな六は“俺のはな六”ではなかったのだ。これの正体は押入の中に隠されていた“あのはな六”に違いない。
いや……、
ただの赤の他人の、死んだ奴のせいにするのはよくなかった。結局のところ、あのはな六はとっくに死んでいたのだし、“俺のはな六”はもっと前に死んだのだ。今目の前にいるのは、どちらでもない誰か……だったもの。俺のはな六のように寂しがり屋で甘えん坊で、なのに俺が拒絶したから……俺に捨てられたと思って……死んでしまったのか? こんなに、いともあっさりと死んでしまうものなのか? 作業場に打ち捨てられた古道具だって、サイトウが去ってすぐにああなった訳ではないだろうに。
夜、サイトウは自分の布団だけを敷き、潜り込んだ。なんだか妙に寒々しい。サイトウは平熱が高く寒さに強い質だし、古い掛け布団には綿が厚く入っているし、そもそももう冬のようには冷え込まない。僅か数日ばかり、はな六が側に寝ていたことに、すっかり慣れてしまっていたのか。ゆんべは背中ぁ向けて、とっとと寝ちまったんにな……。蛍光灯は消えていて、ただひとつ豆電球だけ点いている。その淡い光を見上げていると、昔を思い出した。
「なぁばあちゃん」
「あ?」
「ばあちゃんもいつか死ぬん?」
「なんだい急に」
「みんないつか死ぬって、テレビで言ってた」
「ほっか。そうだいね。みんないつかは死ぬもんさ」
「おれ、ばあちゃんが死んじゃったらやだなぁ」
「そう簡単に死ぬもんかね。こんな可愛い孫おいて、死ねるわけなかんべに」
サイトウは祖母の痩せた脚の間に両足を突っ込んだ。祖母の体温は低く、くっつくとサイトウの方が熱を奪われてしまう。祖母の方はというと、サイトウと同じ布団で寝ると温かくていいのか、孫を自分のもとに置いて放そうとしない。祖母の腕の中はゴツゴツとして、あまり温かくはないのだが、安心感に充ちていて、サイトウは好きだった。
祖母のような度量でもって自分が腕の中に誰かを守る日がいつか来るということを、何となく当たり前だと思っていたが、現実はどうだ? つまらないことで拒絶して、失って、今、自分は独りきりで寝ている。己がまさかあの祖母よりも狭量だなんて、認めたくはないのだが……。子供っつうのは親を越えていくもんじゃなかったんきゃ? ところがどっこい、サイトウは祖母さえも越えることができなかったのだ。
「ただいまぁ」
放課後、サイトウは五時間目が終わると自転車を漕いでさっさと家に帰ってきた。大昔には二階で養蚕をしていたという、大きな箱のように上から下まで寸胴な古い家だ。古いというだけで何の取り柄もない。土間と畳の間を隔てる障子を開けて、サイトウは眉をしかめた。
「お帰り、ソラ」
だたっ広くて何もない、法事くらいでしか使い用のない畳の間の、北の奥、狭い茶の間のテーブルには所狭しと買い物袋が載っていた。
「ばあちゃん!」
サイトウは通学鞄を投げ捨て、大股で茶の間へと歩いていった。
「ソラ、腹減ったんべ? ほら、ばあちゃんがうんと美味いもの買ってきてやったから、食べり」
食べ物でぱんぱんに膨らんだ買い物袋を前に、祖母はにこにこしている。サイトウは怒りを抑えることができなかった。
「うっせー、食わねぇよ! 勝手に買い物すんなって言ったんべーに。どうしたんだよその金はよぉ!」
最近の祖母はおかしい。凄い早さでおかしくなっていっている。買い物袋から大量の手巻きお握りや弁当が見える。こんなに一度に買い込んだって、食べきれずに大半が生ゴミなってしまう、そんな当たり前のことも祖母はわからなくなっていた。硬く握り締めた拳がわなわなと震えた。
「ソラ?」
不思議そうに彼を見上げる、祖母の悪気の微塵もない表情に“俺のはな六”の無垢な表情が重なった。
「何でこんなこともわっかんねぇんだよ、糞ババア!」
「だって、お腹が空いてるでしょ、ソラちゃん」
ソラちゃんだなんて、そんな呼び方は彼が本物の幼児だった頃にはされたことがなかった。昔の祖母は厳格で、菓子パン一つだって簡単に買い与えてくれたことはない。サイトウが怒れば怒るほど、祖母は孫の機嫌をとろうと思うのか、余分なことをしてくれる。有り金全部で食べ物だとか折り紙、クレヨン、そんなガラクタを買い込んで来てしまったり、部屋の掃除と称して教科書や筆記用具をビニール袋に詰め込んでどこかにやってしまったり。ついにこの間、近所のスーパーやコンビニ、祖母の歩いて行ける範囲の店全てに怒鳴り込んで、祖母が金を持ってやって来ても何も売るなと言いつけたというのに、店の責任者は謝るだけで、店員に周知はしなかったようだ。
「昨日も言ったばかりだろうがよ、何でいつもそうなんだよ、何で勝手に金遣ってんだよ。その金は誰がどうやって稼いでんのか、わかってねぇんきゃ!?」
「ばあちゃんはただ、ソラが可哀想だと思って。お母ちゃんが側にいてくれないから、せめてお腹を空かせないよう……」
「糞ババア! マコちゃんが、母ちゃんが家に寄りつかねぇのは誰のせいだと思ってんだよっ!」
カッとなって、サイトウは取りすがろうとしてくる祖母の襟を左手で掴み上げ、右手を振り上げた。
「ソラーッ!」
女の金切声が響いたときにはもう手を振り下ろした後で、祖母はサイトウの足元にへたり込み、打たれた頬を抑えて声を殺して泣いていた。振り返れば、派手な格好の女が長い髪を振り乱して突っ立っていた。眦のきりっとつり上がった大きな目を、さらに見開いて。目の縁に涙の膜がもり上がり、そしてせきを切ったようにそれは溢れた。マスカラが溶けて頬に黒い涙の筋がいくつもつたった。
「何やってんだいねっ! 年寄りに手ぇ上げるなんてよ。なんなん、一体、なんなん、何してるんっ」
「うるせぇよ糞ババア! テメェこそ今さら何しに来たんでや!?」
懐に掴みかかってこようとする女を、サイトウは振り払った。女は後ろにふらりとよろけた拍子に一通の封筒を取り落とした。口の開いていた封筒から万札が流れ落ちた。サイトウは舌打ちをして母を睨んだ。
「金ぇ稼いでくるから何だってんだよ。それで俺らの面倒見てやってるつもりかよ。厄介ごと全っ部、俺らに押し付けて、テメェは逃げてるだけじゃねぇんきゃ」
糞ババア糞ババア糞ババア! サイトウはここぞとばかりに罵った。「お母ちゃん」と呼ばれる度に三歳老けるなどとうそぶいて、息子に自分をちゃん付けで呼ばせる母は、糞ババアと罵られる度に十歳老けていくようだった。そのまま老け込んで老衰で死んでしまえばいい。サイトウは母が逃げ去っていくまで罵り続けた。
「はな六よ」
サイトウは枕元で声をかけた。
「よォ」
よォ、と声をかけ続けているうちに、思い出した。この、上州訛りのたった一言、言葉とも言えない一言が、よその地域生まれの人間を酷く怯えさせることを。実際、苛立ったときくらいだった、こんな風にひとに声をかけるのは。
「はな六?」
サイトウは出来うる限りの猫なで声で呼んだ。
「はな六よぉ」
ぴくりともしない……狸寝入りではない。サイトウは手の甲ではな六の頬に触れた。ちゃんと温かみがある。頬にうっすら赤みが差している。胸の上に頭を載せ、耳を当ててみた。厚い胸板の奥で確かに心臓は鼓動を奏でている。そういう、生きている人間らしさが、アンドロイドには何の意味もない。アンドロイドは電気で動く。胸の奥で拍動をし続ける心臓によって体内を巡るのはただの温水だし、頬に差す赤みは皮膚に仕込まれた仕掛けに過ぎない。
「死んでんのか?」
「はな六よぉ」
「おい……」
「はな六ぅ」
一階の作業場で死んでいる道具たちのように、はな六はひっそりと存在感をなくしている。どこか具合が悪いのかもしれない。きっと何かのエラーなのだ。サイトウは取り扱い説明書を探そうと、押入を開けた。上段は布団をしまうためのスペースで、下段が物置だ。大してものは入っていない。古着の入った衣装ケース。段ボール箱が一つ、そしてはな六愛用のデイパック。デイパックの中を漁ってみたが、出てきたのは住民票と印鑑証明書、そしてアンドロイド登録証だけだった。サイトウは書類をクリアケースに戻し、デイパックに入れて脇に退けた。そして段ボールを開けてみたが、それにはサイトウの書類しか入っていなかった。
溜息を吐き、箱を元の場所に戻そうとしたとき、ふと奥にもう一つ箱らしきものがあるのに気がついた。引き出してみれば、それは白い風呂敷のようなものに包まれた一抱えほどの箱だった。布の結び目を解いてすぐさま、その箱が何であるのかを察した。棺だ。その証拠に、蓋の上には布に包まれた守刀が置かれている。サイトウは震える手で棺の蓋を開けた。
サイトウにしてみれば、魂の存在の感じられない、ただ見た目が“俺のはな六”に似ているだけの人形を、医者はまるで生きている人間にするように病室に入院させた。
「検査の結果、どこにも異常は見つかりませんでした。ただの心労でしょう」
医者は慰めるように言った。サイトウはこんこんと眠り続けるはな六を見下ろした。きっと手を握れば、はな六の掌はいつものように冷たく、しかし頭を喪って死んだときほどの冷たさではないはずだ。だが、分厚い氷の下で春を待つ小川のせせらぎのような、秘められた生命力を感じることはないだろう。といって、はな六に触れようとせず、両手をウインドブレーカーのポケットに突っ込んだままの自分の薄情さに、苦虫を噛み潰すような心地がする。
いや……、
最初からこのはな六は“俺のはな六”ではなかったのだ。これの正体は押入の中に隠されていた“あのはな六”に違いない。
いや……、
ただの赤の他人の、死んだ奴のせいにするのはよくなかった。結局のところ、あのはな六はとっくに死んでいたのだし、“俺のはな六”はもっと前に死んだのだ。今目の前にいるのは、どちらでもない誰か……だったもの。俺のはな六のように寂しがり屋で甘えん坊で、なのに俺が拒絶したから……俺に捨てられたと思って……死んでしまったのか? こんなに、いともあっさりと死んでしまうものなのか? 作業場に打ち捨てられた古道具だって、サイトウが去ってすぐにああなった訳ではないだろうに。
夜、サイトウは自分の布団だけを敷き、潜り込んだ。なんだか妙に寒々しい。サイトウは平熱が高く寒さに強い質だし、古い掛け布団には綿が厚く入っているし、そもそももう冬のようには冷え込まない。僅か数日ばかり、はな六が側に寝ていたことに、すっかり慣れてしまっていたのか。ゆんべは背中ぁ向けて、とっとと寝ちまったんにな……。蛍光灯は消えていて、ただひとつ豆電球だけ点いている。その淡い光を見上げていると、昔を思い出した。
「なぁばあちゃん」
「あ?」
「ばあちゃんもいつか死ぬん?」
「なんだい急に」
「みんないつか死ぬって、テレビで言ってた」
「ほっか。そうだいね。みんないつかは死ぬもんさ」
「おれ、ばあちゃんが死んじゃったらやだなぁ」
「そう簡単に死ぬもんかね。こんな可愛い孫おいて、死ねるわけなかんべに」
サイトウは祖母の痩せた脚の間に両足を突っ込んだ。祖母の体温は低く、くっつくとサイトウの方が熱を奪われてしまう。祖母の方はというと、サイトウと同じ布団で寝ると温かくていいのか、孫を自分のもとに置いて放そうとしない。祖母の腕の中はゴツゴツとして、あまり温かくはないのだが、安心感に充ちていて、サイトウは好きだった。
祖母のような度量でもって自分が腕の中に誰かを守る日がいつか来るということを、何となく当たり前だと思っていたが、現実はどうだ? つまらないことで拒絶して、失って、今、自分は独りきりで寝ている。己がまさかあの祖母よりも狭量だなんて、認めたくはないのだが……。子供っつうのは親を越えていくもんじゃなかったんきゃ? ところがどっこい、サイトウは祖母さえも越えることができなかったのだ。
「ただいまぁ」
放課後、サイトウは五時間目が終わると自転車を漕いでさっさと家に帰ってきた。大昔には二階で養蚕をしていたという、大きな箱のように上から下まで寸胴な古い家だ。古いというだけで何の取り柄もない。土間と畳の間を隔てる障子を開けて、サイトウは眉をしかめた。
「お帰り、ソラ」
だたっ広くて何もない、法事くらいでしか使い用のない畳の間の、北の奥、狭い茶の間のテーブルには所狭しと買い物袋が載っていた。
「ばあちゃん!」
サイトウは通学鞄を投げ捨て、大股で茶の間へと歩いていった。
「ソラ、腹減ったんべ? ほら、ばあちゃんがうんと美味いもの買ってきてやったから、食べり」
食べ物でぱんぱんに膨らんだ買い物袋を前に、祖母はにこにこしている。サイトウは怒りを抑えることができなかった。
「うっせー、食わねぇよ! 勝手に買い物すんなって言ったんべーに。どうしたんだよその金はよぉ!」
最近の祖母はおかしい。凄い早さでおかしくなっていっている。買い物袋から大量の手巻きお握りや弁当が見える。こんなに一度に買い込んだって、食べきれずに大半が生ゴミなってしまう、そんな当たり前のことも祖母はわからなくなっていた。硬く握り締めた拳がわなわなと震えた。
「ソラ?」
不思議そうに彼を見上げる、祖母の悪気の微塵もない表情に“俺のはな六”の無垢な表情が重なった。
「何でこんなこともわっかんねぇんだよ、糞ババア!」
「だって、お腹が空いてるでしょ、ソラちゃん」
ソラちゃんだなんて、そんな呼び方は彼が本物の幼児だった頃にはされたことがなかった。昔の祖母は厳格で、菓子パン一つだって簡単に買い与えてくれたことはない。サイトウが怒れば怒るほど、祖母は孫の機嫌をとろうと思うのか、余分なことをしてくれる。有り金全部で食べ物だとか折り紙、クレヨン、そんなガラクタを買い込んで来てしまったり、部屋の掃除と称して教科書や筆記用具をビニール袋に詰め込んでどこかにやってしまったり。ついにこの間、近所のスーパーやコンビニ、祖母の歩いて行ける範囲の店全てに怒鳴り込んで、祖母が金を持ってやって来ても何も売るなと言いつけたというのに、店の責任者は謝るだけで、店員に周知はしなかったようだ。
「昨日も言ったばかりだろうがよ、何でいつもそうなんだよ、何で勝手に金遣ってんだよ。その金は誰がどうやって稼いでんのか、わかってねぇんきゃ!?」
「ばあちゃんはただ、ソラが可哀想だと思って。お母ちゃんが側にいてくれないから、せめてお腹を空かせないよう……」
「糞ババア! マコちゃんが、母ちゃんが家に寄りつかねぇのは誰のせいだと思ってんだよっ!」
カッとなって、サイトウは取りすがろうとしてくる祖母の襟を左手で掴み上げ、右手を振り上げた。
「ソラーッ!」
女の金切声が響いたときにはもう手を振り下ろした後で、祖母はサイトウの足元にへたり込み、打たれた頬を抑えて声を殺して泣いていた。振り返れば、派手な格好の女が長い髪を振り乱して突っ立っていた。眦のきりっとつり上がった大きな目を、さらに見開いて。目の縁に涙の膜がもり上がり、そしてせきを切ったようにそれは溢れた。マスカラが溶けて頬に黒い涙の筋がいくつもつたった。
「何やってんだいねっ! 年寄りに手ぇ上げるなんてよ。なんなん、一体、なんなん、何してるんっ」
「うるせぇよ糞ババア! テメェこそ今さら何しに来たんでや!?」
懐に掴みかかってこようとする女を、サイトウは振り払った。女は後ろにふらりとよろけた拍子に一通の封筒を取り落とした。口の開いていた封筒から万札が流れ落ちた。サイトウは舌打ちをして母を睨んだ。
「金ぇ稼いでくるから何だってんだよ。それで俺らの面倒見てやってるつもりかよ。厄介ごと全っ部、俺らに押し付けて、テメェは逃げてるだけじゃねぇんきゃ」
糞ババア糞ババア糞ババア! サイトウはここぞとばかりに罵った。「お母ちゃん」と呼ばれる度に三歳老けるなどとうそぶいて、息子に自分をちゃん付けで呼ばせる母は、糞ババアと罵られる度に十歳老けていくようだった。そのまま老け込んで老衰で死んでしまえばいい。サイトウは母が逃げ去っていくまで罵り続けた。
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