ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

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第13話:雨の夜の抱擁

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雨は、最初だけやさしかった。
窓に二つ、三つ。すぐに数えられない数になって、音が石を叩く拍子に変わる。冬の前の雨は、空の刃を丸めない。冷たいまま落ちてきて、王宮の角を鋭く洗う。

巡見の最終報告を出した夜、俺は書斎で手帳を閉じた。しおりの革紐を指で押さえる。今日の空欄には、もう数字も言葉もない。頭の拍は、雨の拍に引っぱられて、落ち着きが悪い。
胸の前で、とん――は、しない。合図は減らす。禁止の線の手前で止まる。止まった拍が、行き場をなくして、指の先へ泳いだ。

窓の外を見ると、中庭の樋がひとつ、詰まっていた。水が溢れて、縁石の外に滝みたいな筋を作っている。明後日の随行で出入りする車が通る道だ。今夜のうちに見ておくべきかもしれない。
――仕事。数字。薪を選べ。
自分にそう言い聞かせて、マントを羽織った。

廊下は冷たく、石は濡れた匂いを増やしていた。角をひとつ曲がる。扉を押す。外の回廊は半分屋根があって、半分空だ。雨が斜めに吹き込む。足音はすぐ濡れる。
樋の継ぎ目に落ち葉が詰まっていた。楓の赤が、雨で暗い色に沈んでいる。手で掴める範囲だと思った。手袋はしている。滑るだろうが、数字は簡単だ。三歩、腕を伸ばして一呼吸。
俺は手を伸ばす。葉は冷たい。指先の皮が雨にやわらいで、感覚が少し遠のく。あと少し。
そのとき、風が向きを変えた。回廊の角で渦になって、雨ごと俺の横から叩いた。体が半歩うしろへ持っていかれる。足が石を探す。探す前に、肩を掴む手があった。

「――殿下」

低い声。雨の音の中でも、迷わない場所に届く声。
掴んだ手は確かで、引く力は必要なだけ。俺は半歩戻り、樋から指を離す。冷たい水の帯が腕を走った。袖の中まで入り込む水は、夏の川の冷たさではない。骨に触る冬の水だ。

「任務外です」

近い距離。けれど、回廊の柱の陰。影――と言っていいのか迷うほど細い帯。雨は遠慮なくそこにも入る。銀の胸甲が濡れて、線ほどの水を何本も引いていた。黒髪は暗く重く、額に貼りつく。
ナハトは俺から半歩だけ離れて、目線を落とした。

「樋は明朝、下働きに指示を出します。殿下はお戻りを」

「車のところに水が落ちる。明後日までに土が崩れる」

「承知しています」

仕事の声。短く、確か。俺は頷き――かけて、くしゃみをひとつ噛み潰した。噛み潰しそこねて、喉が痛む。雨は冷たく、マントは薄い。数字は嘘をつかない。

ナハトの眉がわずかに寄った。
彼は自分のマントの留め金を外した。雨で重くなった厚手の布が音を立てる。俺の肩に、その重みが落ちた。冷たいのは最初だけ。すぐ、体温が布に移る。

「殿下」

呼ばれる。名前の代わりの呼び方。幾度も聞いたのに、今日は少し違う響きで落ちる。
マントの裾を、彼の手が引き寄せる。風が入り込む隙間を塞ぐように。
――影に甘えない。さっき、自分で決めたはずだ。
けれど、雨の中で、冷たい火が骨に触っている。鞘に入れるためには、まず刃を濡らさないこと。理屈は簡単。体は嘘をつかない。

「戻る」

そう言って、一歩踏み出したとき、足元の石が滑った。濡れた苔の薄い皮。膝が落ちかけ――

抱き止められた。

腕と胸、そして息の近さ。許された近さ。許されざる近さの手前で、ぴたりと止まる正確さ。
銀の胸甲が冷たいはずなのに、間にある布と体温が先に来て、冷たさは遅れて届く。遅れて届いた冷たささえ、抱き止めた腕の圧で形を変える。

「三」

耳元で低い声。
「二」
呼吸が合わせに行く。
「一」
胸の太鼓が、雨の拍から抜け出して、いつもの拍に戻る。

ナハトの手が、俺の後頭部に、ごく軽く当たる。撫でるのではない。位置を確かめるように。
彼は一拍置いて、短く言った。

「ここに」

短い言葉。『撫でる以外の言葉』を探す、と昔言った彼の、見つけた言葉。
ここに。
俺の位置。体の位置。心の位置。礼儀の鞘の中の位置。
言葉が、内側の冷たい火に蓋をする。火は消えない。でも、燃える先が、正しく変わる。

「……ありがとう」

声は小さい。雨がすぐに飲み込む。それでも、彼の耳は拾う。拾った証拠に、抱き止めていた腕の力が、ほんの少しだけ、緩む。離すのではない。抱擁の向きが、支える向きから、包む向きへ、気づかれない程度に変わる。

「戻りましょう」

「うん」

歩き出す。肩にかけられた重いマントは、雨を受け止めて、俺の体まで落ちてこない。足音は二つ。石が濡れているぶん、音は柔らかい。
角を曲がるたび、風の向きが変わる。そのたびに、彼の手が、俺の肩口の布を引き寄せて隙間を塞ぐ。動作は短く、正確で、やさしい。
やさしさは、砂糖じゃない。冬の夜に置く毛布だ。甘くはないけれど、確かに温かい。

扉の前まで来ると、風が一度だけ強く鳴った。回廊の一番狭い場所。雨が渦になって押し寄せる。
彼は一瞬、躊躇って――そして、俺を柱の陰へ引き入れた。
抱える腕に、今度は迷いがない。胸甲の角が俺の胸の布に少し当たり、金具がひそかに鳴る。音は雨で消える。
距離は、礼儀の鞘の内側で許されるぎりぎりの線上。
俺は反射で、剣帯の金具に指を伸ばしかけ、気づいて止めた。禁止。
代わりに、彼の胸の前――心臓の少し上、胸甲の縁の、あの場所に、指二本ぶんの空気を置く。触れない。触れないが、そこにいる。
彼が、かすかに息を笑いに変える。笑ったことが、体の重みでわかる。

「殿下」

「なに」

「冷たい」

「冷たい」

「風邪をひきます」

「ひかない」

「ひきかけている顔です」

「……ひかないようにする」

「それなら」

彼はマントの襟を、もう一度、俺の喉元の上まで引き上げる。喉に当たる布の温度が変わる。
近い。
近すぎると思ったら、三から数える約束だった。数えようとして――やめた。
数えなくても戻れる。ここは、戻ってはいけない場所ではない。ここは、戻るための場所。
影の帯の、正しい使い方。

雨が少し弱まった。扉の向こうは、暖かい空気の匂い。紙、油、火。俺の場所。
ナハトは腕を離し、半歩下がって、いつもの形の礼をした。雨の下でも乱れない角度。
俺はうなずき、扉に手をかけ――ふと、振り返る。

「ナハト」

「はい」

「随行、気をつけて」

「承ります」

「帰ってきたら、光の近くで報告を」

「塩をひとつまみ」

「砂糖は少なめで」

「ええ」

短い笑いが、雨の音に埋もれて長持ちする。
俺は扉を開け、暖かい空気の中へ入る。振り返らない。振り返らなくても、影の外で彼が立っている形がわかる。

書斎の明かりは、紙の匂いをやさしく起こす。濡れたマントを侍僕に渡し、火のそばで手を温める。手の甲に、さっきの抱擁の跡が、まだ小さく残っている。傷でも印でもない。温度の記憶。
手帳を開く。今日の空欄に、三行。

『雨の中で抱きとめられた。
三二一で戻る前に、言葉で戻れた。
ここに――と、言われた。』

その下に、小さく付け足す。

『影の正しい使い方:戻るため。温めるため。走らないため。』

窓に当たる雨は、まだ数えられない数だ。けれど、胸の太鼓は、落ち着いた。
胸の前で、とん――は、やっぱり打たない。合図は、明日のために置いておく。
代わりに、ペン先で紙の端を一度だけ叩く。
紙が小さく鳴る。影の楽器。十分。

火の光で乾いていく袖口を見ながら、唇だけで、名前を呼ぶ。

――ナハト。

五歳の頃は甘く、十一の夜は祈りで、十五の今は、選ぶ音。
選んで、置く。置いて、歩く。
明後日、あなたは行って、そして戻る。
戻ったら――光の近くで。砂糖は少なめで、塩をひとつまみ。
俺は聞く。まっすぐに。王子として。俺として。

外で、雨がゆっくり弱くなる。
抱擁の温度だけが、紙の上の言葉を静かに温め続けた。
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