人魚の祈りが届くまで

サトー

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3.失われたもの

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 長い休暇を利用してそれぞれが家族の待つ家へ帰ることになった時。
 エリアスは父親の買った家族専用の船に乗せてもらうのだと言っていた。父親自らが操縦する船に乗ることをエリアスはとても楽しみにしていて、自慢に思っているようだった。
 大貿易商のエリアスの父親は大きくて立派な船を何十隻も持っていると言うのに、十人程度しか乗れない船に乗ることではしゃぐエリアスのことを、僕は可愛いと思っていた。

「あの、この頃、風が強い日が多いから、気を付けてね……。もちろんエリアスのお父様が操縦するなら大丈夫だと思うけど……」

 エリアスと離ればなれになる前の日。どうしても不安になった僕はエリアスにそう伝えていた。ここ最近、人魚の力を使って海の様子を調べているけれど、波や風が不安定な日が続いていて、どの船が事故に遭ってもおかしくないと僕は思っていた。
 出来れば船に乗る、という計画自体を考え直して欲しい。けれど、楽しみにしているエリアスの気持ちを考えたらそんなことは言えなかった。「お願いだから、気を付けてね」という僕に、エリアスは大丈夫だよと笑っていた。

「そうか、ノエルには海の声が聞こえるんだよな」
「う、うん……。集中したら、だけど……」
「へえ、それはスゴイ。泳ぎだって誰よりも得意だし、本当に人魚の末裔なんだな」

 僕が人魚の末裔であることについて、エリアスと話したのはこれが初めてだった。

「ノエルはきっと海に愛されているんだ。海で泳ぐノエルを見た時、俺はそう思ったよ」
「そうかなあ……?」

 たいていの人は、人魚に愛された人間は人魚の祝福の力によって、海にまつわる安全が一生約束されるということを大切に思っている。貿易や観光船で成功をしている人の伴侶には人魚の末裔が多い、というのは有名な話だ。だから、僕自身が海に愛されているなんて考えたこともなかった。

「ノエルが羨ましいよ、将来俺は、父と似たような仕事をするつもりだから」
「うん……、あのね、エリアス」

 大人になったら僕の力は、みんなエリアスのために使うから。だから、ずっとエリアスの側にいさせて欲しい。……そう言えていたらよかったのに。違いすぎる身分に、ノエルを伴侶にすることは出来ないよと言われるのが怖くて、自分の気持ちを伝えることが出来なかった。僕には声があったのに。


 そして長い休みが始まって終わり、僕は学校へと戻った。実家で両親や祖父母に甘えたり、兄弟達と遊んだりするのはもちろん楽しかった。けれど、僕はエリアスに会いたくて堪らなかった。寂しかったと伝える僕のことを、「しょうがないな」と笑ってぎゅっと抱き寄せて欲しい。それなのに、どこにもエリアスの姿は見当たらない。風邪でもひいて、それで、戻るのが遅れてしまっているのだろうか。あり得ないことではない。けれど、なぜかざわざわと嫌な胸騒ぎがする。

 そして翌日になり、家族と乗った船でエリアスが事故に遭ったことを僕は知った。

 その日は快晴で波は穏やかだったと言う。エリアスとその家族は父親の操縦する船に乗り、海上からの景色を楽しんでいた。
 けれど、誰にも予想出来ない突然のうねりとスコールに船は巻き込まれてしまった。波はそれほど高くはなかったが、海底から湧き上がるような横揺れが船を一気に傾ける。ロープを巻き取ろうと甲板に出ていたエリアスの右足に、風向きが変わったことで大きく振り回されたブームが当たったのだという。

 父親は無線で救助を要請し、慌てて近くの港へ引き返した。他の家族は打撲や擦り傷程度の怪我で済んだ。エリアスだけが右足に大怪我を負った。
 学校中がその噂で持ちきりだった。足を切断したとか、切断こそは免れたものの一生マトモには歩けないだとか、そんな無責任な噂が嫌でも僕の耳には入ってきた。

 僕のせいだ。僕が、あの時に、ちゃんと止めなかったから。

 どれだけ後悔したってもう遅い。けれど、そう思わずにはいられなかった。
 顔が見たい。何も出来ないけれど、エリアスの側にいたい……僕にはそんなことを思う資格なんか無いのに。

 いくら待ってもエリアスは学校へ戻ってこなかった。無礼なことだとはわかっているけれど、ハーヴェルマン家を直接訪ねるしかない。そう思って学校を抜け出そうと考えていた頃にエリアスから手紙が届いた。

『何も心配ない。明日、四回目の手術を受ける。これでダメだったら俺の足はもう元には戻らない。でも、大丈夫だって……そう伝えたかったけれど、君にだけは隠さずに本当の気持ちを伝えておこうと思う。足が動かなくなって、俺のいろいろな部分が変わってしまった。自分がどんなふうに歩いていたのか、俺の足はもう忘れてしまったみたいだ。何よりも悲しいのが心も弱くなっていること。家族の些細な一言が俺を苛つかせる。同情と思いやりの違いとはなんだろう? と俺は最近毎日のように考えるけれど。たぶん、俺の心がその時々の気分で判断しているだけなのだとわかって、最後にはいつも泣きたくなる。

ノエル、君に会いたい。会いたいけど、今の俺は、たぶん、君を傷つける(この一つ前にも手紙を書いていたけれど、読み返してみたらあまりにもみっともなくて、君に出せなかった)。
でも、必ず戻ってくるからそれまで待っていて欲しい。その時もし俺が変わってしまっていると感じたら、どうか俺のことは忘れて欲しい。嘘。本当は忘れないで欲しい。ごめん、きっとこの手紙は君を困らせる。ごめん。ごめん、どんな身体になっても変わらず君が好きなんだ。

愛を込めて エリアス・ハーヴェルマン』

 最後の方はインクが滲んでいて、字が震えていた。ずっと僕を守ってくれていたエリアスも、僕と同じ子供だったのだと、当たり前のことに今さら気がついて、涙が止まらなかった。


 僕ならエリアスの足を治せるかもしれない。

 人魚の力を使えば、出来ないわけじゃない。僕は、同じ力を持つ祖母に手紙を書いた。「どうしても、救いたい人がいます。おばあちゃんがおじいちゃんの目の病気を治した時と同じように。僕も自分の声と引き換えにその人を救いたいのです。どうすれば力を使えますか?」という手紙に祖母はすぐに返事をくれた。

 大人になってからじゃないとその力は使えない。使えるのはたった一度だけ。心から愛し、愛されていると信じた相手のためであれば、どんな願いも叶えられる代わりに、あなたは永遠に声を失う、ということが綴られていた。

『あなたがもう少しだけ大人になったら。どうか力を使う前によく考えて。あなたの犠牲が誰かを深く傷つけてしまう時もある』

 僕は自分の声どころか、この命を差し出すことだってエリアスのためなら惜しくないと思っている。どれだけ待てば大人になったことになるんだろう? 待っている間に、エリアスの心はどんどん悲しみでいっぱいになってしまうのに。

 それでも、何も出来ないわけじゃないと思うしかなかった。それで僕はエリアスに返事を書いた。どんな時もエリアスを愛していること。それから、いつか僕の……人魚の末裔としての力を全部エリアスにあげたいと思っていることも。「足を治せる」とは書けなかった。ちゃんとその力が使えるようになってから言うべきだと思っていたから。

 それから何ヵ月と待っても返事は返ってこなかった。手紙に書かれていた、四回目の手術の結果が気がかりだったけど、「待っていて欲しい」という言葉を僕は信じるしかなかった。


 エリアスが学校へ戻って来たのは、それから半年後のことだった。

 エリアスの復学に学校内の子供も大人も、喜びを爆発させていた。
 朝、杖をついてゆっくりと歩いてくるエリアスの姿が見えた時。エリアスと同学年の生徒は授業中だということも忘れて全員が教室を飛び出していた。人の輪の中心に立つエリアスを僕は遠くから見ていた。一見すると華やかで喜びに満ちた光景だったけれど、小さな歩幅で右足を引きずるようにして歩くエリアスは、以前と比べてずいぶんやつれてしまっていた。

 放課後、僕はエリアスの教室へと走った。誰もいなくなった教室でエリアスは一人で席に座っていて、僕に気がつくと「やあ」とぎこちなく口の端を上げた。


「手紙の返事、書かなくてごめん」

 エリアスの言葉に僕は黙って首を横に振った。書かなかったのではなく、書けなかったのだとわかっていたから。

「……大丈夫?」

 言ってしまってから、バカだ、と自分を殴りつけたくなった。でも、それ以外になんと言葉をかけたらいいのかわからない。
 泣きそうになっている僕の気持ちを察したのか、エリアスの方から「杖を使えば歩けるようになったんだ」と話をしてくれた。

「厳しい訓練を続けて、なんとか歩けるようになった。四回も手術をして、俺の足の甲の中はぐちゃぐちゃになってしまったから、もうこれが限界だけど……」
「……うん」
「……手紙、呼んだよ。何度も」

 行こう、と促されてエリアスと僕は宿舎まで一緒に戻った。なんだか、このまま別れたら離れ離れになんてしまうような気がして、少しでも時間を稼ごうと僕はゆっくりゆっくりと歩いた。どうして僕はまだ大人になれないんだろう。今すぐ、願いを叶える力が必要なのに。愛していると手紙で伝えあった僕達の気持ちは確かに本当だったのに。

「……しばらくはここにいるから。大丈夫」

 エリアスの言葉に、僕は別れが迫っていることを悟った。いつでも側にいたエリアスの心が僕から離れつつある。それがわかっているのに、力の使えない未熟な自分に何が出来るのかがわからない。

 学校にはいるけれど、エリアスは授業を受けずに宿舎の部屋に籠っていることの方が多くなっていった。足が痛くて動けないらしい。そんな話を人伝に聞いた。僕は毎日のように部屋を訪ねたけれど、ある時、すごく悲しい表情をしたエリアスに「もう来ないで欲しい」と言われてしまった。その時に僕は、エリアスが戻ってきて以来、全然目が合わなくなっていることと、心から笑っている顔を見ていないことの両方に気がついた。

「どうして……?」

 僕のことが嫌いになったの。そう聞くよりも先に涙が溢れて両頬を濡らした。エリアスは静かにため息をついてから、口を開いた。

「……痛み止めを飲んでいて、気分がいい日じゃないと、怖くて誰とも会えない。本当に些細なことで苛ついたり、泣きたくなったりするんだ。だから、もう会えない。ごめん、俺のことは忘れて欲しい」
「やだ、いやだ……! いやだよ、ねえ……。お願い、どんな時も好きだから、だから、いなくならないで……」
「……迷惑なんだよ」
「え……」

 うんざりした様子で呟くエリアスの瞳には怒りが滲んでいた。

「もう治る見込みなんかないのに、お前がいると、事故に遭う前のことがいつまでも忘れられなくて、頭がおかしくなりそうになる。放っておいてくれ、もう顔も見たくない……」

 吐き捨てるようにそう言った後、エリアスは膝から崩れ落ちて泣き始めた。足が痛い、と泣くエリアスに僕は触れることも出来なかった。出来たのは、這ってベッドへ戻るエリアスの後ろ姿を呆然と見つめてそっとドアを閉めることだけだった。

 
 僕がいるとエリアスは前に進めない。僕の存在はエリアスの心をいつまでも傷つける。
 人魚姫の物語なら、きっと僕は泡となってこの世から消えていただろう。そうなれれば、よかったのに。
 実際の僕には、足があって声もある。そして生きていかなければならない。エリアスを失ってからもずっと。


 戻って来たのは、最後に学友達の顔を見るためだけだったのか、やがてエリアスは卒業を待たずに両親の元へと帰っていった。中退するわけではなく、後は家の仕事を勉強しながら卒業まで過ごすらしいということを、やっぱり僕は人の噂話で知った。さようならを言うことも出来ずに、エリアスは僕の前からいなくなった。

 僕は脱け殻のような状態で、残りの三年間を学校で過ごした。いつの間にかちょうどいい大きさになっていたエリアスのジャケットを片時も離さずに、毎日朝と夕方にはエリアスの幸せを祈って、海に意識を集中させる。少しずつ力が強くなっていったのか、ハーヴェルマン家の船が出港する予定があるのかどうかもなんとなくわかるようになっていた。

 本当は思い続けることも許されないのかもしれないけれど。それでも、新聞にハーヴェルマン家の名前が載っていないかは欠かさずに確認をして、エリアスを探し続けた。父親からエリアスが新しい事業を任されることや、その工場の建設についてのことが新聞に載っていた時は胸が震えるほど僕は嬉しかった。エリアスが生きている。それだけで充分過ぎるほど、エリアスの存在を感じられた。


 学校を卒業してからは、海からも人魚の力からもなるべく離れた仕事をしようと思い、僕は町役場で働くことにした。たまたま希望が通って図書館に配属してもらい、僕はこのままひっそりと、家族と一緒に生きていくつもりだった。

 不思議と人魚の末裔を珍しがる人は大勢いて、男の人からも女の人からも、お付き合いをして欲しいと言われた。けれど、誰ともそういう気持ちにはなれなかった。エリアス以外の人を愛せるとは思えなかったし、エリアスを救えなかった僕が幸せになるなんて考えられないことだったから。

 それから、三年の月日が経って。一通の手紙が届いた。ハーヴェルマン家の紋章入りの便箋に綴られていたのは、エリアスから僕への、結婚を申し込む手紙だった。
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