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9.前夜
しおりを挟む帰りの馬車の中で僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
ハッと目を覚ました時には、エリアスへ完全にもたれ掛かっていて。なんとか、おとなしくしていただけ、ということには出来ないだろうか。エリアスの腕の中でそんな考えが浮かんだけれど、すぐに諦めた。きっと寝ている時の顔を見られているし、起きている時に自分からエリアスに近づくなんてしないから。
「すみません、いつの間にか眠ってしまっていて……」
そそくさと身体を離してから、まだ眠い目を擦る。初めての場所を訪ねたことで緊張はしていたけど、眠ってしまうなんて。エリアスの表情を窺うと「べつに」と素っ気ない返事が返ってきた。
「よく眠っているようだったからそのままにしていただけだ」
怒っているのか呆れているのか。或いはべつの感情も含んでいるのか。僕の方は見ずにつんと澄ましているエリアスの気持ちがわからない。じいやから空白の六年間のことを聞いた時は、少しだけ、もう一度エリアスの心に寄り添うことが出来たらと思ったのに。
もしかしたらエリアスも僕の心の内がわからなくて、不安なんだろうか?
学校を卒業して仕事に就いてから一度も恋人らしい人物がいなかったことについてはとっくに調べているみたいだけど……。三年間、エリアスは家にずっと籠っていたと聞いている。その間に、自分のことなんかとっくに忘れられてしまっているだろうと悲しい気持ちになっていたとしてもおかしくない。18歳のエリアスが書いた手紙の「本当は忘れないで欲しい」という文字は涙に濡れていた。
「あの」
黙って考え込んでいたせいで、不自然に大きな声が出てしまった。真っ直ぐに前を見ていたエリアスが僕の方へ顔を向ける。そこに表情と言えるものはない。まるで僕なんかに関心がないように見えるけれど。
「えっと、あんなに大きな家を準備してくださって、ありがとうございます。僕の家の……その、お金のことも……」
どうやって、エリアスの気持ちを確かめたらいいのかがわからなくて、僕はもごもごと、お礼を言った。「離れている間も、僕はずっとエリアスのことを思っていた。エリアスは、まだ僕のことを好きでいてくれる?」と、正直に聞くのが一番いいのだろうけど。どうしても今までの冷たい表情と態度に怯んでしまって、いきなりエリアスの気持ちを確かめることは出来なかった。
今まで拒絶するような態度ばかりをとっていた僕からそんなことを言われるとは思っていなかったのか。エリアスは驚いたように目を見開いた後、困惑した様子で黙りこんでしまった。
「勝手に買った家だ」
気に入らないなら買い直してもいい。
エリアスの一言に僕は慌てて首を横に振った。
「買い直すなんて、そんな、そんなこと出来ません。慣れるまで時間はかかるかもしれないけれど、あの家がいいです……」
「それならいいが……。家を準備することも、自分の伴侶の家族を気にすることも、当たり前のことだ」
「で、でも、ちゃんとお礼を言っていなかったと思って……」
「……それに、金なんかで買ったんじゃない」
「え?」
エリアスは何かを言いかけてから、思い直したように開いていた口を閉じる。ふ、と息を吐いたエリアスの黒い瞳が、首を傾げている僕を捉える。それから、なんでもない、と呟くのが聞こえた。
「家のこと? それとも、僕のことですか……」
震えてしまった小さな声はよく聞こえなかったのか。エリアスは何も答えない。
「……エリアス。僕は今日、もっとエリアスのことを知りたいと思いました。お仕事のことだけじゃなくて。エリアスに聞きたいことがいっぱいあります。エリアスが望んでいる形じゃないかもしれないけれど、少しずつでいいから僕は……」
ガタンと大きく馬車が揺れて僕の身体が勢いよく前方に飛び出す。エリアスが衝撃にすぐ反応して支えてくれたから僕はどこにも身体をぶつけずにすんだ。
「エリアス? 足が痛いの?」
「気にしなくていい。少し力が入っただけだ」
隠そうとしているけれど、微かに顔をひきつらせている。きっと僕の身体を抱き止めようとして、右足にも思いきり力を入れて踏ん張ってしまったせいだろう。
「ごめんなさい、僕のせいで……」
「違う。このぐらい何ともない。それに、君が怪我をしなくてよかった」
そう言って僕の髪や頬にエリアスの手のひらが触れる。どこもぶつけていないか確かめているのか、その手つきはとても優しく慎重だ。僕の鼓動がどんどん早くなっていく。
「エリアス、あの、僕……」
「昔、私が送った手紙のことを覚えているか」
囁くような小さな声。今でも大切に持っている、足の怪我のことを知らせる、18歳の頃のエリアスが書いた手紙だ。
「覚えています。何度も読んだから」
僕の返事を聞いてからエリアスはゆっくりと頷いた。
「あの手紙に書いたことは嘘じゃない」
僕をじっと見つめる黒い瞳から目を逸らせずにいた。会えない寂しさや不安を少しでも無くそうと、暗記するまで読んだエリアスからの手紙。「どんな身体になっても、変わらず君が好きなんだ」……この言葉をずっと信じていた。そして、もう一度信じたいと思っていると言ったらエリアスはどんな顔をするだろう。
「それから、最後に君に会った時。私はこう言った。放っておいてくれ、もう顔も見たくない、お前がいると頭がおかしくなりそうになる……あれも全て私の本心だ。あえて突き放して、私を忘れてもらうべきだと思ったから……そんな理由であんなことを言ったんじゃない。あの時は、ああ言わずにはいられなかった。自分の弱さを全て君にぶつけたかった」
あの時のエリアスが言葉はもう一度僕の心にぐさぐさと突き刺さる。
「どうして、今日そのことを話そうと思ったんです? 明日結婚するのに……」
この馬車の中での会話がなければ。僕は、作業所で働く人々との関わり方や、じいやから聞いた話がエリアスの本質なのだと考えて、結婚後は迷うことなく人魚の末裔の力をエリアスのために使い、エリアスの望みは全てを受け入れていたと思う。
静かに緩やかに。エリアスの足を直そうと、なんとか心を通わせようとしただろうし、その結果声を失っても後悔はしなかった。エリアスの役に立てたとホッとしていたと思う。もし、エリアスが他に好きな人が出来てしまったとか、自分の子供が欲しくなったとか、そういうことを望むのなら、どんなに悲しくても我慢をしたし、出ていってくれと言われればそうしていた。
それなのに、どうして。少しずつ近づきたいと思っていたのに、突き放されてエリアスとの間に大きな壁が出来てしまったような気持ちになった。
「……明日、結婚するから伝えておくべきだと思った」
あの時言ったことは本心じゃないんだよと嘘でもいいからそう言ってくれればよかったのに。そうすれば僕は迷うことなくエリアスに人生を捧げていたのに。エリアスの言葉がそれを許さない。
とても大切な日を目前にして僕の心は揺れている。エリアスの言った言葉の意味を。エリアスの気持ちを。目に見えないものに囚われて、僕は前へ進めずにいる。
◇◆◇
その日の夜は、僕がこの家で家族と過ごす最後の時間になった。
結婚してからも時々は帰ってくることが出来るのだろうか。「また遊びにきてね」と騒ぐ僕の兄弟達に、必ずまた来るよとエリアスは優しい笑顔で頷いていたけれど。
「結婚式を秘密にするなんて、ずるーい」
妹達の不満は僕とエリアスが二人だけで式を挙げることだ。
最近は家族や友人をたくさん呼んでその前で愛を誓うことが当たり前になりつつあるけれど。僕の祖父母の世代までは、選ばれたたった一人の証人の前だけで愛を誓いあうのが当たり前だとされていた。結婚式は最も神聖な儀式であり、こっそりと隠れるようにして愛を誓いあうことで永遠に結ばれる、と昔は信じられていたらしい。
たくさんの人に祝ってもらいたい、という考え方が広まった今では、その方法で結婚式をする人はずいぶん少なくなったと聞いている。だけど、「絶対に二人きりでないとダメだ」と拘ったのはエリアスだった。
僕の祖父母も両親も同じ方法で結婚式を挙げているから「懐かしい」と嬉しそうにしていた。エリアスのおじい様とおばあ様も似たような反応で、お父様だけは渋い顔をしていた……というのはエリアスのお兄様が教えてくれた。「でも、エリアスが絶対に譲らなかった。アイツは本当にノエルのことになると頑固でわがままなんだ」とお兄様は笑っていた。
エリアスのお父様には申し訳ないけれど、僕はエリアスが自分の意思を押し通してくれたことにホッとしている。ハーヴェルマン家と縁のある偉い人達を全員招待して、その前でエリアスとの愛を誓うなんて。緊張して絶対に何か失敗をしてしまうだろうから。
明日、エリアスからケーキや食べ物が届くはずだからそれで僕達を祝福して欲しい、と伝えてからもう寝るよう兄弟達を説得した。妹達はまだブーブー言っていたけれど。「エリアスに言う」と言ったらおとなしくなった。実の兄である僕の言うことよりも、エリアスの名前を出した方が効果があるなんて。
父と母、祖父とはきつく抱き合ってからおやすみなさいの挨拶をした。目に見えて人魚の末裔だとわかる特徴を持つ僕のことを、いつだって心配してくれていた。だから、僕のことはもう大丈夫なのだと安心して欲しい。「大丈夫?」と何度も聞く母に、僕は精一杯笑顔で頷いた。
「おばあちゃん……」
まだ寝ないの? と聞く僕に、テーブルで書き物をしていた祖母が顔を上げる。おいで、と手招きされて僕は祖母の側に座った。
『明日使うカードの、最後の仕上げをしたら寝るつもり。あなたの結婚式を、私が見届けられるなんて夢みたい』
いつも使っているノートにさらさらと祖母が言葉を書いていく。自分の声と引き換えに祖父の目の病気を治した時から、祖母とは主に筆談でやりとりをする。
「明日はよろしくね。僕もおばあちゃんが証人になってくれるなんて、すごく嬉しいよ」
僕とエリアスの結婚の証人は、エリアスのお父様かおじい様にお願いするものだと思っていた。だけど、ハーヴェルマン家の方から、僕の祖母にお願いした方がいいと言ってもらえた。エリアスのおじい様とおばあ様がそうするべきだと、エリアスに強く勧めてくれたらしい。人魚の末裔である僕を気遣って、同じ力を持つ僕の祖母に、と思ってくれたのだろうけれど。子供の頃から、ずっと可愛がってくれていた祖母が喜んでくれたことが僕は嬉しかった。
『まだ脚は痛くなってない?』
真っ白なノートに書かれた問い掛けに、僕は驚いて祖母の書いた文字を凝視していた。脚が痛くなる。それがどういうことかは、子供の頃から何度も祖母に教わってきた。
まだ、と首を横に振る僕を見て、祖母は笑顔で頷いてからまたペンを走らせた。
『いつかハーヴェルマンさんのことを、心から愛し、そして愛されていると感じる時が来たら、その気持ちを試すようにあなたの脚が痛む時が来るはず。自分の意思とは関係なく、人魚の本能があなたを海へ還そうとする。その時は、愛する人に名前を呼んでもらって、脚をさすってもらいなさい。そうすれば、あなたの脚はちゃんとあなたの物になるから』
『脚が痛むようになったら、あなたは一度だけ自分の声と引き換えに愛する人の願いを叶えることが出来る』
僕とエリアスの間にそんな日は来るのかな。
一緒に暮らすための家を買って。結婚式を挙げて。僕を伴侶とするために形を整えることは出来るけれど、お互いの気持ちだけは上手くいかない。僕はこの先どんなふうにエリアスと付き合っていくべきかわからない。僕が役に立てれば今より少しはマシになるかもしれないけれど。寄宿学校にいた頃の、好きあっていた関係に戻れる自信はない。エリアスの気持ちを確かめる時間もないまま、明日が来てしまう。
『自信がないのね。自分がハーヴェルマンさんからの愛に値する人間なのかどうか』
大丈夫よ、と励ますように祖母が僕の背中を撫でる。これ以上はダメだ、と僕は慌てて笑顔を作った。祖母に心配をかけたくない。祝福してくれた祖母の気持ちを裏切りたくない。
「うん。ハーヴェルマンさん……エリアスは立派な人だから。僕なんかがいいのかなって、今も自信がない。もっと素敵な人はたくさんいるでしょう? でも、エリアスはいつも僕を大切にしてくれて、世界中の誰よりも、愛してるって、言ってくれ……」
そこまで言ってから、上手く言葉が出てこなくなってしまった。無理やり貼りつけた笑顔が、どんどん強張っていく。愛してるなんて、一度も言われたことがない。
黙りこんだ僕を見て、祖母はハッとした様子で何かを書き込んでいる。
『愛していないの? 家のため?』
ノートの隅に書かれた小さな字。祖母は心配そうな顔で僕のことを見つめている。その問い掛けに対して、何を答えれば自分の正直な気持ちだと言えるのか、僕自身もわからなかった。
「……いい? 少し貸りても」
祖母のペンを借りて、僕はゆっくりと自分の気持ちを書いた。
『世界中の誰よりも愛している、僕の一番大切な人だよ』
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