人魚の祈りが届くまで

サトー

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10.誓いの言葉

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 迷ったけれど。唯一変わらないエリアスへの思いを正直に書いた。だから、僕は苦しい。じいやの話を信じられずにいることも、エリアスに「僕を愛して欲しい」と言えずにいることも。
 祖母は難しい顔をして何かを考え込んでいる。もしかしたら僕の言葉を信じていないのかもしれない。

「おばあちゃん。僕、エリアスの気持ちがわからなくて、それが怖いんだ。本当は、思いが通じあって、僕の脚が痛んで、それを乗り越えて結婚するべきなんだよね。でも、順番を間違えちゃった。……だけど、僕、やっぱり後悔なんかしてないよ。不安な気持ちでいるけれど、エリアスの側にいたいと思う」

 大人になってしまった僕達が、子供の頃のようにまっさらな気持ちでいることは難しいかもしれないけれど。今のエリアスと僕がどうすればいいのか、明日愛を誓ってから、ゆっくり考えよう。きっと、最初は上手くいかないかもしれない。
 でも、僕は「明日、結婚するから伝えておくべきだと思った」と言い、一番辛い時の気持ちを話してくれたエリアスを信じようと思う。結婚する前に、エリアスは僕に対して正直でいようとしてくれたのだと。

『ちゃんとあなたの気持ちを伝えないと。本当に、その心が泡になって消えてしまうよ』

 目尻に深いシワが刻まれた祖母の瞳が潤んでいる。声も脚もあるのに、愛を伝えられないでいる僕に必要なものはなんなのか。祖母は教えてくれる。

「エリアスが足を怪我したのは、全部僕のせいなんだ……僕が、僕があの時にちゃんと止めなかったから……。もう会いたくないと言われた時も、すぐに引き下がったりしないで、もっとエリアスに自分の思いを伝えるべきだった。そうすれば、エリアスは何年も一人で悲しまずにすんだのに。だから、また元のように僕を愛してなんて、言えない……」
『それも、全部、正直に伝えなさい。ハーヴェルマンさんは、愛していない相手と一緒にいることを選ぶような人じゃない。でも、心の奥底を固く閉ざしている。だから、言わないと、気がつかない。そういう人なんだと思う』

 祖母の書く字がどんどん力強く濃くなっていく。僕は一つ一つを目で追いながらしっかりと頷いていた。伝えた後、それをどう受け止めるかはエリアスに任せればいい。誤解をされてしまっていたら、また話せばいい。僕にはまだ声がある。失う時が来る前に話さないと。

『直にあなたの脚が痛む日が必ず来る。順番なんていいの。でも、絶対に、自分の気持ちだけで声を失ってはいけない。あなたも、ハーヴェルマンさんも傷つく』
「おばあちゃんは、おじいちゃんの目の病気を治すために、声を……失くしたんだよね?」
『そう。あなた達孫が大きくなっていく姿を見せてあげたかったから。おじいちゃんとよく話し合って決めたの。私は自分の持つ力に感謝した。それぐらい特別な力。だから、いくらハーヴェルマンさんのためでも勝手に使ってはダメ、絶対に』

 もし奇跡的にエリアスと心から愛し合える日が来たら、本当は迷わずに自分の声と引き換えにエリアスの足を治すつもりだった。だけど、祖母の真剣な眼差しに僕は約束をした。エリアスに黙って力を使うことはしないと。

 祖母を寝室まで送ってから僕も部屋に戻った。ほんの僅かだけど、新居に持っていく僕の大切なものを確認して、エリアスへ誓う愛の言葉を考えてから眠りについた。

◇◆◇

 自分でも不思議なほど穏やかな気持ちで結婚式の朝を迎えることが出来た。祖母と話せたからだろうか。
 家族に見送られながら僕と祖母は迎えに来たエリアスの馬車に乗った。エリアスは僕の祖母を気遣い、祖母の世話をするお手伝いの女性まで連れてきてくれた。声での返事は返ってこないと知っているはずなのに、「私達の大切な日を見届けることを、引き受けてくださってありがとうございます、心から感謝いたします」とお礼を言った後も、当たり前のように今日の天気のことやこれから向かう場所について、エリアスは祖母に話しかけていた。嬉しそうにしている祖母を見て、僕も安心した気持ちで家を出発した。

 結婚式を挙げる場所にエリアスが選んだのは、有名な画家の残した庭園だった。主である画家はずいぶん昔に亡くなっているけれど、何枚も絵が残されているという、豊かなバラの蔓が絡まったアーチや、何種類もの花が雑多に植えられた花壇が美しい庭は、現在は別の人の手に渡って大切に守られている。


「祝福されるべき特別な日だ。……二人きりがいいと私の意思を押し通してしまったのだから、なるべく華やかな場所を選んだ」

 どうしてこの場所を? という僕の問いにエリアスはそう答えた。祖母が僕を見て微笑みながら頷いている。エリアスも特別な日だと思ってくれているのが嬉しくて、僕はそれにお礼を言った。
 馬車で一時間ほどかけて移動して、僕達はエリアスの選んだ場所へ辿り着いた。ダリアやサルビア、睡蓮の咲き乱れる美しい庭。時間の許す限り、僕と祖母とエリアスは庭を散策した。

 エリアスの連れてきてくれたお手伝いの女性が僕を着替えさせて髪を整えてくれた。真っ白なタキシードはエリアスの会社で働く人達が作ってくれたものだ。繊細な刺繍が施されていて、サイズは僕の身体にピッタリだ。婚約してから結婚式までほとんど時間を置いていないのに、これだけの衣装を作ってもらったなんて。たった一度しか着ないことを申し訳なく思いながら袖を通す。



「お待たせしました……」

 着替え終わった僕を見てエリアスは大きく目を見開いた後、慌てて何度か咳払いをした。

「こんなに、素晴らしい服をありがとう。僕、なんてお礼を言ったらいいのか……」

 いくら作業が早い人もいるとは言っても、大変な仕事だったに違いない。襟の部分の刺繍を撫でた後に、エリアスの顔を見上げた時。僕は、ハッとした。

「エリアス、すごく綺麗……」

 形はほとんど同じ白いタキシードを着たエリアスは神々しいほどの美しさを放っていた。艶のある生地からは気品が感じられて、それがエリアスの顔立ちによく似合っている。子供の頃からエリアスはずっと僕の憧れだった。離ればなれになっていた間に、僕と同じようにエリアスもすっかり大人になっていたのだと感じられて目の表面が水っぽくなる。

「大事な日だ」

 エリアスの手がギクシャクと僕の両肩を掴む。相変わらず表情は冷ややかだけど。でも。

「エリアスにとっても大事な日?」
「もちろん。この日のために、生きて、もう一度歩けるようになることを、私は選んだ」

 僕のことを愛してる? とは聞けないけれど。今はそれで充分だと思った。今日は僕とエリアスにとって大切な日。二人とも一度手放してしまった愛に上手く向き合えずに、言葉足らずでいるけれど。でも、僕とエリアスは今日、愛を誓いあう。この愛がどこへ辿り着くのかはわからない。けれど、僕はエリアスの側で生きることを選ぶ。僕自身がそうしたいと思ったから。

 行こう、と促されて僕はエリアスと一緒に庭へ向かう。馴れない服と靴に緊張して慎重に歩いていると、エリアスがそっと僕の肩を抱く。エリアスの歩くペースが僕の身体へ伝わってきて、そうだ、これでいいんだと気がつく。二人でゆっくり少しずつ進んでいけばいいのだと。

「ノエル」
「はい」
「……綺麗だ。とても」

 まだ僕が子供だった頃のエリアスはあいさつと同じくらい気軽に、僕へ「綺麗だ」「可愛い」という言葉をかけてくれていた。あの頃の僕はその一つ一つに胸をときめかせ、エリアスへの思いを募らせていた。そして、今。

「……ありがとう」

 成熟したエリアスの「綺麗だ」という言葉は、今日の僕の心を弾ませるわけではないけれど、じいんと胸に響いていた。


 外に出ると僕達のことを待っていた祖母が笑顔で手を振っていた。少しだけ緊張してきた僕の髪をエリアスが撫でる。

『永遠の愛を誓いますか?』

 声の出せない祖母は、画帳にこの日のために必要な言葉を書いて準備してくれていた。言葉の周辺を縁取る花と蔦の絵は祖母が何日もかけて描いたものだ。エリアスは祖母の描いたものをじっと見つめた後、眩しそうに目を細めた。
 誓います、と頷く僕達に祖母がニッコリと微笑む。なんだか、すごく誇らしそうで得意気で僕も笑ってしまう。

『迷う時 苦しい時こそ
言葉を交わすことを怖がらないで
お互いの言葉は あなた達を正しい方へ導いてくれます』

 祖母からのメッセージを真っ直ぐ見つめながらエリアスが「誓います」と迷わずに頷いていた。昨日の言葉が思い出される。全部、正直に伝えなさい、と言われたことを。今日僕が愛を誓うのは、この先いつでもエリアスへ正直に気持ちを伝えられるようになるために必要なのかもしれない。

 祖母は大きく頷きながら画帳を捲った。

『愛の言葉を 交換してください』

 祖母には聞こえない。お互いだけに聞こえるように囁く愛の言葉。エリアスが僕の耳へ顔を近づけてくる。

「昔、私は君にこう言った。ハーヴェルマン家の紋章が君を守ると。今日私は君に約束する。たとえ家の名前を失くしたとしても、ただ一人の人間として君を愛すると。この先どんな日が待ち受けていたとしても、私はもう二度と君を愛する心を手放さない。……その勇気を与えてくれた、あなたを必ず幸せにすると誓う。ノエル・ネレイドへ。エリアス・ハーヴェルマンより愛を込めて」

 顔を上げられない。エリアスからこんな愛の言葉を与えられるなんて。今、僕の心の中はエリアスでいっぱいで、それが溢れてしまいそうだった。宿舎で眠れない夜はエリアスのジャケットと一緒に眠った。いつかエリアスの腕に抱かれる日を夢見て。ノエルの方からして、と促されて初めて自分からエリアスの頬に口づけした日のことを。足が痛いと泣いていた時に何もしてあげられなかったことを。初めて新聞でエリアスの名前を見つけた日の喜びを。馬車の中で僕を抱き止めてくれた腕を。綺麗だと僕の肩を抱く手が微かに震えていたことを。

「……愛を誓ったばかりなのに、僕はまだ、あなたとどんな愛の形を築いていけばいいのか、わからないでいる。……あなたの側にいることが、僕の幸福になり、あなたもそうであって欲しいと今は思います。今はそれが僕の全てです……」

 エリアスの言葉に動揺して、夕べ考えた行儀のいい誓いの言葉は頭から消し飛んでしまっていた。わからないなんて、愛を誓う言葉にはふさわしくなかったかもしれないけれど。僕の正直な気持ちであり、それを言葉にすることで、エリアスへの気持ちに向き合いたいと思った。

 お互いの頬に口づけをした後、エリアスに抱き締められる。昨日、馬車の中で何もかもを正直に話してくれたエリアスの言葉はきっと嘘じゃない。

 長いこと抱き合った後、そういえば二人きりじゃないということに気がついた僕達は慌てて身体を離した。我を忘れてエリアスのことを求めてしまうなんて。恥ずかしくて頬を熱くしながら顔を上げると、祖母が満面の笑みで手で大きく丸印を作った。『あなた達の愛を 確かに私は見届けました!』というメッセージを見て、僕よりも先にエリアスが涙を流していた。

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