人魚の祈りが届くまで

サトー

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17.普通の男

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「足に、負担がかかるから……?」

 例えそれがどんな格好で、いつも同じだったとしても僕は構わなかった。エリアスと触れあい、愛し合っていることを確かめるための行為だと思っていたから。だけどエリアスは「ああ、そうだよ」と何かを諦めたような目つきをしていた。

「右足の甲が損傷しているせいで、左足に比べて筋力もずいぶん低下してしまった。正面から君を抱くことも、後ろから挿入することも出来ない」

 そんなこと気にしないで、僕は充分幸せだから。そう言いたかった。だけど、エリアスの瞳が悲しそうに伏せられているのを見て。これはエリアスにとって「そんなこと」ではないのだと知った。

「……健康な相手と結ばれていたら、君はもっと満足することが出来ていたんじゃないかと思う。時々」

 窓の外は真っ暗だ。エリアスの心を一人ぼっちにしていたら、このままあの闇の中に取り込まれてしまう。そんな気がして、僕は「お願いだから言わないで」と泣きそうになりながらエリアスにしがみついていた。
 きっと昔のエリアスなら「ごめんごめん。ノエルを怖がらせちゃったな」と笑って僕の髪をくしゃくしゃと撫でていた。今のエリアスは困った様子で静かに微笑んでいる。反応は違っても、心の奥底にある深い優しさは変わっていない。だから、僕のことであれこれと考えすぎてしまうのだろう。


「僕……、普通の人と違う身体をしているでしょう? だから、学校に通っていた頃すごく嫌な目に遭って……。あの時、エリアスが守ってくれたから、自分の身体を大切に思っていてもいいんだって、思えたよ。だから、僕にとって、エリアスと愛し合うのはすごく嬉しくて意味のあることで……僕達は、結婚式の日に愛を誓ったでしょう。僕は、僕の心はいつだってエリアスの側にあります。本当です……」

 どうすればエリアスの心が楽になって、悩まないで済むのか。僕が言葉をいくら尽くしたとしても足りないのかもしれない。それでも、何も伝えずにいるわけにはいかなかった。『お互いの言葉は あなた達を正しい方へ導いてくれます』と祖母は言っていた。

「……こんなことは父にも話したことがない。大半の人にとっては、私が歩けるようになるかどうかが気にするべきことで、いつだって私の性は置いていかれた。誰も、私が、性行為に不自由を感じていることに触れない。でも、君には話しておこうと思う。君に関わりの深いことでもあるし……私達は結婚しているのだから」

 エリアスはすごく重要なことを話してくれている。それに応えたい。エリアスの服をぎゅっと握る僕の手はいつの間にか汗で濡れてしまっていた。

「僕も全然気がつかなくて……。いつも、そういうことはエリアスに任せてばかりでごめんなさい。それから、僕にだけ大切なことを話してくれて、ありがとう。上手く言えないけれど、僕とエリアスにとって、話さないといけないことだったと思う。エリアスだけじゃなくて、僕達二人にとって必要なこと」

 もっと他に言うべきことはあるのかもしれない。すらすらと話すことが出来ない自分がただただもどかしかった。エリアスが僕の肩に顔を埋めながら呟く。「普通の男と同じように君を愛せたらよかった」と。
 いつもよりずっと弱々しい声と、触れあっている部分から、エリアスの抱えている苦しみと孤独が痛いくらいに伝わってくる。

「……満足させられないのに、毎日でも君を求めてしまいたくなることが苦しい。当たり前の快楽を君に与えてやれない自分が嫌になる」
「もし、そう感じることがあったら。これからは僕に触れて、僕が、どんな顔をしているのか、よく見てみて。自分でも恥ずかしくなるくらい、最中はエリアスでいっぱいだから……」

 もともと内気な性格をしていたのと、人と違う身体の作りをしていることを気にして、なるべく性に関することは避けるようにしていた。でも、僕とエリアスにとっては必要なこと。手立てはまだ一つしか思い浮かばないけれど。それが今夜わかっただけでも、一歩前進出来たような気がしていた。

「……きっと私は世界中の誰よりも幸福なんだろう」

 泣いているわけではないけれど、エリアスの瞳の表面が濡れている。僕は、にっこりと微笑んでから、なるべく顔を見ないようにして思いきりエリアスに抱きついた。人魚の祝福だけじゃなくて、一人の男性としてエリアスの心が幸福で満たされるように。それが僕の願いだ。


「今座っているみたいに……僕が上に乗る? そうしたら足は平気……?」

 その瞬間、ここがまるで深い海の底であるかのように静まり返っていた。

「……君が?」

 驚いたように目を見開いたエリアスにまじまじと見つめられて、僕は声を出さずに頷くのがやっとだった。

「上手くいくかはわからない……、私は右足の爪先に負荷をかけると痛みを感じるから。身体を支えられなくて、私よりも、君を危ない目に合わせてしまうかもしれない」
「大丈夫。危ないと感じたら僕はちゃんとそれを伝えるから。ゆっくり、入れてみるだけでも……」

 まさか自分の人生で、こんなふうに誰かを誘う日が来るなんて。すごく大胆なことを言ってしまったかもしれない。そう思ってエリアスの胸に額を擦り付けると、どくんどくんと鼓動が速く鳴るのが聞こえた。
 驚いているのか緊張しているのかはわからない。顔はいつもと同じように整っていて、平常心を保っているように見えるから。でも、エリアスも何かを感じてくれている。エリアスの痛みの全部に触れることは出来ない。けれど、少しだけ近づけた。そして、エリアスのことをより愛おしいと感じている。

「上手くいかなくても大丈夫だと言われたのは初めてだ」

 しみじみとエリアスが呟く。そんな言葉があったのかということについて、純粋に静かに驚いているようだった。僕もそれをよく知っている。学校に通っていた頃のエリアスには出来ないことなんか一つもなくて、常に皆のお手本だったからだ。

「そして私は、自分が永遠に、そんなふうにいられるのだと思っていた。失ってみると、本当に脆い……形のないもので立っていたのだと思う。五体満足で生きている誰かが、今の私のようになるかどうかは本当に紙一重の差なのだとも。ちょっとした偶然や僅かな時間や条件の差で、運命は変わっていたんだろうとも」

 エリアスが指の先で僕の髪の毛先を摘まむ。結婚して以来、時々眠りにつく前に僕の髪や肌を綺麗だとエリアスは言ってくれる。僕はその言葉で何度も幸せを感じ、愛される喜びを知った。

「他の人達がどんなふうに愛し合うのかなんて、誰にもわかりません。僕達も、たった二人だけで、どんな方法がいいかこれから見つけていけばいいと思うんです。……僕はエリアスの心も身体も傷つけません。何よりも大切にします。だからどうか、僕に全てを預けてくれませんか……」

 僕は真剣だった。結婚式の前日の夜に、誓いの言葉を考えていた時よりもずっと。それを伝えようと僕はエリアスの背中に腕を回して、ぴたりとくっついていた。順番なんていい、と祖母も言っていたけれど、あれはきっと本当だったんだろう。誓いの言葉を追いかけるようにして僕の気持ちは輪郭がくっきりとしてきたのだから。

 エリアスは何度か瞬きをした後に、顔の表面の筋肉をぶるぶると震わせて泣いた。結婚式の時の、つーっと涙が落ちていくような泣き方とは違う。ずっとずっと誰にも言えずに堪えていた、苦しい気持ちがいよいよ溢れ出してしまったのに、それをどうしたらいいのか自分でもわからない。そういう涙の流し方だった。

 行こう、と僕はエリアスを連れて寝室へ戻った。暗い廊下をゆっくりと一歩ずつ。涙はすぐに止まっていたけれど、僕は自分の身体にエリアスを掴まらせた。泣いていない時でも、側にいる僕に頼って欲しい。エリアスに救ってもらった時の僕がそうだったのだから。
 
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