人魚の祈りが届くまで

サトー

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22.新婚旅行へ

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 結婚式以外で、初めて自分のために仕事を休むことにした。今までは家族の看病のために休むくらいで、休暇をもらってまでやりたいと思うことなんてなかった。旅行に行くのでお休みを頂きたいのですがという僕に、「いったいいつ新婚旅行に行くのかとひやひやしていたよ」と上司は笑っていた。

「いいわねえ。ハーヴェルマン家くらいになると、そりゃああちこちに別荘だって持っているわよねえ」

 うっとりとそう呟くマチルダさんに僕は恥ずかしいような嬉しいような、なんだかくすぐったい気持ちでいる。

「急に決まったことでなんだかバタバタしてしまって……」
「いいじゃない。いいことでバタバタするのなら」

 エリアスとの旅行は本当に、あっという間に何もかもが決まっていた。少し前にパーティーでエリアスのおばあ様から「毎日毎日海のことばかり気にしていて大変でしょう。たまには海から離れて息抜きでもしてきたら?」と言われた。それに僕が「そうですね、そう出来たら素敵だと思います」と返事をした瞬間から、僕とエリアスの旅行について手配が進められていたらしい。
 もちろんおばあ様に対して嘘をついたわけじゃない。ただ、すぐに叶えられることじゃないと思っていたから、「エリアスと旅行に行きたいです」という気持ちを伝えていたというより、僕の返事はただの相づちに近いものだった。

 だから、パーティーから三日も経たないうちに「別荘の手配は出来たけれど、あなたはいつ仕事を休めるの?」とおばあ様から連絡が来た時は慌ててしまった。まず、ハーヴェルマン家があちこちに立派な別荘を持っていることが、自分の知っている世界とは違いすぎて信じられなかったし、そんな場所に僕などが出入りしてもいいのかと不安になったからだ。

 それに、僕はよくてもエリアスの仕事は? ということが気がかりだった。だけど、僕よりも先におばあ様から何もかもを聞いていたと思われるエリアスからは「君が心配することじゃない」と言われた。

 本当に大丈夫なのか聞いても忙しいのかどうかさえエリアスは教えてくれない。ただ、今までよりもずっと朝早くに家を出て、夜も遅い時間に帰ってくることが増えた。たぶん、自分の不在時についてあれこれと段取りを整えていたのだと思う。

 遠出が出来ることも嬉しいけれど、エリアスとまとまった時間を過ごせることが何よりも嬉しい。
 おばあ様からは「せっかくの新婚旅行なのだから、一ヶ月くらいあちこちを観て回って来たらいいのに」と言われたけれど、仕事を離れてエリアスを一週間も独り占め出来るなんて、僕には充分すぎるくらいだ。

 病気になったり怪我をしたりしてしまったら、計画が台無しになってしまう。だから、旅行へ行くことが決まってからの僕は、すごく気をつけて毎日を過ごしていた。毎日よく眠って栄養のあるものを食べて……。絶対に風邪をひきたくないんですという僕のためにお手伝いの人達がすごく苦いけど身体にいいジュースを毎朝作ってくれた。緑色のどろっとした飲み物を目を白黒させながら飲み干すエリアスと僕のことを、「じいにとって世界中で一番微笑ましい朝です」とじいやは言っていた。

 エリアスが我慢は毒だというから、求められれば応じたり、時々は僕からもねだったりしてお互いを求めあった。普段、一緒に過ごす時間を大切にすることは旅行に行くのと同じくらい大事なことだ。

 忘れ物をしないように一週間も前から荷造りを始め、地図ばかりを眺める僕のことをエリアスは笑う。何もこれがたった一度きりの旅行というわけじゃない、と言って。

「君が望めば何度でもどこへだって連れていく。それが出来るくらいの人間になったつもりだ」
「ありがとう。でも、嬉しくて……」

 シワが出来ないよう気をつけてたたんだ服や、エリアスに買ってもらったばかりの櫛を鞄にしまっていると、これが幸福の手触りなのだろうかと胸が高鳴った。


 それなのに、旅行の前日に職場で脚を痛めてしまった。

 明日からまとまった休みをいただくのだからと、薄暗い書庫にこもって僕は作業をしていた。一般の利用者が来られないような場所での作業は、脚立を使わないと届かないような棚に本を収めることが多々あるため、女性の職員には任せられない。大変な仕事は少しでも片付けてから休みに入りたかった。
 昼休みもろくに休まずに作業をしたのもあって、残業をせずにすみそうだった。ああ、よかったとほっとした時に気が緩んでしまったんだろう。本棚に右の足首をぶつけてしまった。

 箪笥の角に小指をぶつけたり、誰かに思いきり足を踏まれたりするのは比較にならないほどの痛みだった。鋭い痛みは右足全体をじいんと痺れさせ、しゃがみこんで立てなくなってしまう。
 それほど強くぶつけたわけじゃない。それなのに、歯を食いしばっていないと叫んでしまいそうなほど痛い。折れたのかヒビが入ったのか、とにかく骨になんらかの異常が起こっているのは間違いないだろう。

「うう……」

 しんと静まり返っている書庫では、ふーっふーっという僕の荒い呼吸だけしか聞こえない。大事な日の前日にこんなことになるなんて。泣きそうになりながら、おそるおそる靴下をめくってぶつけた場所を確認した。

 意外なことに僕の足首は、赤く腫れているわけでも、どこか形が変わっているわけでもなく、見たところおかしな部分はない。おそるおそる指先を震わせながら足首に触れる。嘘のように痛みは消えてしまっていた。いや、激痛にショックを受けていてわからなかったけれど、痛いと感じていたのはぶつけた瞬間だけだったのかもしれない。

 それでも、あれだけの激痛は普通じゃないだろうと考えて壁に寄りかかったまましばらくは動けずにいた。額に滲んだ脂汗を拭い、呼吸を整える。経験したことのない激痛。……この前パーティーの夜に転んだ時といい、この頃僕の脚はなんだか変だ。

 よろよろと立ち上がりながら僕の心は揺れていた。明日がなんでもない日だったら。迷わずエリアスに打ち明けていた。でも、明日僕達はずっと楽しみにしていた旅行に出発する。僕は大丈夫だけど、この機会を逃してしまったらエリアスはしばらく休みをとることなんて出来ないかもしれない。

 席に戻ってきた僕をじろじろと眺めてから、「なんだか顔色が悪いわよ」とマチルダさんが言った。気分が悪いの? という気遣いではなく、何かが起こったのだろうと確信している言い方だった。

「埃っぽい場所に長くいたせいか、少し咳きこんでしまって。……それから、足首をぶつけました。ええと、ほんの少しだけ。強くじゃないんです。今はもうなんともなくて……」

 自分を納得させるようにあれこれと言い訳する僕を無視して、「足? 大変。靴下を脱いで少し見せてみなさいよ」とマチルダさんは言う。
 たとえ、それが今までずっと面倒を見てもらっているマチルダさんであっても、職場の人に素足を見せるのはなんだか恥ずかしかった。


「……見たところ問題はなさそうだけど。どこが痛いの?」
「いいえ。ぶつけた時はビックリしたけれど、今はもうどこにも痛みは感じていないんです。本当に……」
「念のため今日はもう歩き回ったり力仕事をしたりしない方がいいわね。今日も馬車でのお迎えは来るんでしょう?」

 気を失うんじゃないかと思うほどの痛みが最初から存在していなかったかのように消えているなんて、自分でも信じられないけれど。俯いたまま僕は少しだけホッとしていた。自分以外の誰かから見て問題ないと言ってもらえたことで、大丈夫なんじゃないかと思えたからだ。

「よかった。痛いと言うんだったら連絡をしようと思っていたから」
「……どこへ?」
「あら。ハーヴェルマンさんの会社によ。お手伝いの子に手紙を持って走ってもらうところだったわね」
「だ、ダメです、そんなこと……」

 ただでさえ僕が図書館の仕事へ行くことについて、馬車での送り迎えを条件に「渋々認めている」という態度のエリアスのことだ。職場で怪我をして足首を痛めたなんて知ったらもう仕事には行くなと言うかもしれない。当然、明日からの別荘への旅行だって中止になるだろう。

 絶対に言わないでくださいという僕にマチルダさんは「明日から遠出をするのなら、なおさら正直に話しなさい。今ここで自分から正直に話すと約束しないなら、私は迎えに来た御者に手紙を預けないといけないわね」と顔をしかめた。

 旅行には行きたい、でも、エリアスに足の怪我のことは知られたくないという僕のわがままが原因で、子供のように世話を焼いてもらうなんて。これ以上マチルダさんに迷惑はかけられないため、「はい」と僕は小さく頷いた。
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