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24.犠牲
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薄暗い部屋の中で目を覚ました時、僕のそばにはエリアスがいた。仕事から戻ってきた姿のままだ。キャンドルランプの柔らかい明かりで照らされた顔はいつもより少しだけ疲れている。
起きているのか寝ているのか自分でもよくわからない暗闇の中で、僕は時々波の音を聞いていた。海から離れた森で僕は育ったのに、どこか懐かしいと感じる音だった。
痛みに飲み込まれてしまう形で意識を手放してからどのくらい時間が経ってしまったんだろう。エリアスは家に帰ってきてからずっと、そばに座って僕が目を覚ますのを待っていたのだろうか。
ノエル、と呼ぶ優しい声に返事をしたいけど上手く声が出せない。大泣きした後に、そのまま眠っていたからだろうか。
「あまりの痛さで気を失っていたんだ。さっき医者が来て……髪や肌を見て君が人魚の末裔だとすぐにわかったんだろう。熱はないし、骨や筋肉にも異常はないと言って帰って行った」
ゆっくりと説明するエリアスの声が心地良い。エリアスがシーツの上から僕の脚をそっと撫でる。ずっとそうしてくれていたんだろう。少しだけ脚の痛みがマシになっていた。もちろん、まだ骨の中心をびりびりと走るような痛みがあるけれど、シーツが触れただけで飛び上がりそうになるほどの鋭いものではなくなっている。
僕自身が痛みに慣れてしまったというのもあるけれど、でも僕はエリアスの手がこの苦痛を和らげてくれたのだと感じていた。
「僕、今日仕事場で足首をぶつけて……。でも、これは怪我なんかじゃなくて、とうとう、その時が来たんだと思う……。よりにもよって今日……。皆さんにも迷惑をたくさん……」
話しているだけで泣きたい気持ちになる。何もかもが台無しになってしまった、という悲しみと悔しさで僕の心はいっぱいになっていた。ずっと楽しみにしていた二人だけの遠出は叶わない。痛みで僕はいまだに起き上がることさえも出来ないのだから。
それに、この家で働いてくれている人達のことも困らせてしまった。僕があんなふうに苦しむ様子を見せてしまったことで、怖い思いをした人だっていたかもしれない。
たぶん、僕が急に脚を痛がりだして倒れたことや、エリアスには連絡しないでほしいと言ったことも伝わっているのだろう。けれど、エリアスは「なぜ、もっと早く言わなかった。どうして仕事中そんなことがあったのに早退しなかった」と僕を責めることはしなかった。まだ身体がつらいだろうから無理に話さなくてもいいと静かに言うだけで、起き上がれない僕にスプーンで少しずつ水を飲ませる。
親切にされればされるほど泣きたい気持ちになった。自分が愛情を与えることについて、いちいち理由を説明しない、この人のことを僕は心から愛しているのだという気持ちになったからだ。
エリアスの黒い髪や瞳を見つめているとますます辛くなってしまいそうで、枕の上で僕はぎこちなく顔を背けた。激痛で体力を消耗したせいなのか、ほんの少し顔を傾けることでさえも、今の僕には一苦労だった。
僕の額は汗でじっとりと濡れてしまっていた。それを顔色一つ変えずエリアスは自分の手の甲でそっと拭ってから、「脚のことについて、私は君のおばあ様から長い手紙をもらっていた」と呟いた。
「いつ?」
「結婚してすぐのことだ。いつか君の脚が痛むことも、その時に私がどうするべきかも全て。そのおかげで私は慌てずに傍についていることが出来た」
僕が知らない間にエリアスと祖母の間に手紙のやりとりがあったなんて。結婚して家を出てからも、祖母に守られていたことや心配をかけていた自分が子供っぽく感じられて恥ずかしくもあった。けれど、心のどこかでは嬉しくもあった。
エリアスの顔を見つめながら僕はぼんやりと考える。祖母の手紙には脚の痛みを乗り越えた後のことも書かれていたんだろうか? 声と引き換えに、エリアスのためならどんな願いでも、僕には一つだけ叶えることが出来ると。もし、そのことについて書くのだとしたらきっと祖母は「二人で話し合い、よく考えてください」とエリアスに伝えているだろう。自分の考えだけで力を使ってはいけないと何度も僕に言い聞かせていたから。
「君が苦しんでいるのに、すぐに戻ってこられなかったことについては、一生後悔してもしきれないだろう。君にも、君のおばあ様にも申し訳ないと思っている」
「いいえ……。僕はこうして今、エリアスがそばにいてくれるだけで嬉しいです。さっきよりも、よくなっている気がして……。その、落ち着くんです、エリアスが触ってくれると……」
エリアスは驚いたように目を丸くした後、ふっと微笑んだ。それから、少しだけ躊躇った後「一緒に入っても?」とベッドを指さした。僕は迷わずうなずいていた。エリアスに傍にいて欲しい。
まだ僕が身体を思うように動かせないせいで、エリアスは慎重にベッドへ入らないといけなかった。僕を気遣いながら端の方で窮屈な思いをさせてしまっているのが申し訳ないのに、エリアスが床に落ちてしまわないよう、じっとしていることしか出来ない。
エリアスは上着を抱いている僕ごと抱きしめてから「本物がいても制服を手放さないなんて」と少しだけ笑った。
「僕の宝物なんです。あの頃からずっと」
「……部屋に入ってきた時、手紙が床にいくつも落ちていた。拾って鞄に戻しておいたが、あとで確認するといい」
顔を赤くしながら僕は頷いた。ほとんど何も持たずに家を出た僕が唯一手放さずに大切にしているのがエリアスからもらった上着と手紙、それから家族の写真だった。
「ごめんなさい、鞄から手紙を落としてしまったのに、拾う余裕もなくて……」
会えなくなってしまってからもずっと、裾や袖がボロボロになってもエリアスの上着と毎日一緒に眠り、何度も頬ずりした。手紙も何度も読み返した。用件だけが淡々と綴られている事務的で冷たい文章の、結婚したいという手紙でさえも、捨ててしまうことは出来なかった。少しでもエリアスを感じられるものは手放したくなかったからだ。
「部屋にはもう誰も入ってこない。誰にも見られることはないのだから、もう痛みを我慢しなくてもいい」
そう言ってから、エリアスの唇が僕の額に触れた。僕の痛みを癒し慰めるような静かな触れ合いだった。さっきあれだけ派手に泣いたのにまた涙が出そうになる。脚が痛いからじゃない。それよりもずっと前から我慢していた何かがこみ上げてきたからだった。
それで僕は、すごく悲しくて寂しかったのだとエリアスの胸で少しずつあの時の気持ちを話した。もう会いたくないと言われた日から続いてきた僕の気持ちを。エリアス本人だけでなく、誰にも言ってはいけないものだと思っていた。そもそも身分違いの相手に惹かれて恋をしていたことが間違いであり、僕よりもエリアスの方がずっと辛い思いをしているということはわかっていたから。
エリアスは僕が何を言ってもそれを否定したり、遮ったりはしなかった。ただ黙って僕の話を聞いていた。寄宿学校にいた頃に乱暴された時のことを話していた僕が「あの時僕は死んでしまいたいと思っていた」と言った時だけ、僕を抱きしめる腕の力が強くなった。
何か言葉が返ってきたわけではないけれど、あの時と同じだと僕は感じていた。一人ぼっちでトボトボと歩いていた僕を見つけてくれた時と同じだと。
「でも、エリアスと一緒にいるようになって、それで、僕は、生きていてよかったって思えた……。助けてもらったのに、僕はエリアスのために何も出来なかった。あの事故の日だって、僕がもっとちゃんと言っていればあんなことにはならなかったのに……」
「違う、ノエル。あれは」
エリアスの瞳が真っ直ぐ僕を捉えていた。
「あれは事故だ。君のせいでもなければ、海の呪いでもない。誰も防ぐことは出来ない、事故だったんだ。海や風といった自然は時としてああいう事態を引き起こす。そういうことだったんだろう……。だから、もう自分を責めるのはやめてくれ。……私はあの時ひどいことを言って君を傷つけた。ただ、一度だって君のせいだと思ったことはない。これは本当だ。ああ、ノエル……私は君を何よりも大切に思っていたのに……」
途中からエリアスの声は大きく揺れて、最後は今にも泣き出しそうになっていた。
大人になってからはいつも淡々と静かに話すエリアスが、ここまで心の内を声に乗せているのは珍しいことだ。そう思うと同時に僕は昔のエリアスの姿を思い出していた。「大人になったとしても変わらずにノエルが好きだよ」と明るく笑っていた頃のエリアスを。
あの頃のエリアスは自分の内側から溢れる思いについて、その熱をそのまま僕へぶつけてきていた。でも、本質は変わっていないのだと思う。本当に必要な時はいつだって僕へ自分の気持ちを伝えてくれる。
エリアス自身が「海の呪い」について否定しているのを聞くのはこれが初めてだった。心のどこかで僕はホッとしていた。エリアスの足が治ったわけではないし、あの時感じた恐怖も消えない。けれど、少しずつあの事故から彼が解放されているのだと思えたからだった。
「うん。でも、エリアス、あなたは、自分の力で海と生きていけるようになった。人魚の祝福も海からの声も、あなたを助けることは出来るかもしれないけれど……。本当に必要なのは、海を越えてでも、何かを成し遂げたいと願い、成功を信じる、強い気持ちなんだと僕は思う……。だから、あなたはもう大丈夫」
もっと技術が進んで聴音機よりも正確で高性能な機械が発明されて、人々は今よりもずっと安全に海を旅することが出来る。エリアスに言われていろいろ勉強するようになってからは、そう遠くないうちにそんな日が訪れるだろうと僕は確信していた。
いつかは僕のような人魚の末裔だけが持つ海の声を聞く力だって必要なくなる。そうなったら、僕はエリアスに何が出来るのだろう。
僕の額から汗が流れ落ちて瞼に達した。足の先からふくらはぎにかけてが痺れたようになっていてもう感覚は鈍っている。まるで、脚の付け根をきつく縛りつけられているようだった。それなのに、それでも僕の身体は痛みに対する反応を返そうとする。
時々柔らかい布が僕の額の汗を拭った。さっきまでは何かが触れただけで痛くてたまらなかったのに、なぜか今はエリアスから離れるとあの痛みが戻ってきそうな気がして。シーツの中で僕はエリアスの身体に脚で絡みついていた。
愛し合っている時以外で、自分からただくっついてエリアスを求めるなんて、結婚してからほとんどしたことがない。子供だった頃は当たり前のようにエリアスに甘えていたのに、「大好き。だから触れたい」と簡単に結びつけることがいつの間にか出来なくなってしまっていた。
だけど、何も言わずに僕の背中をさすってくれるエリアスの手のひらの温もりを感じていると、自分からねだってもよかったんじゃないかと思えた。ダメだなんて、エリアスは言わなかったはずなのに。結婚式でエリアスが愛を誓ってくれたことを、僕はもっと信じたってよかったはずなのに。
眠ってしまうまでずっとこうしているから安心していいというエリアスにうなずいてから、僕は目を閉じた。エリアスはシーツの中で僕の脚をさすってくれた。夜も眠れないほどの痛みがどれだけつらいかはよくわかっていると言って。
「手術をした後の夜はいつもそうだった。足の先から入れた針金のせいで、足の指がビリビリと痛んで……。けれど不思議なもので、今はもうあの痛みをすっかり忘れてしまった。だから、私はまた歩いてみようという気になったのだろう……」
エリアスが独り言のようにつぶやくのに耳を傾けながら僕はゆっくりと首を横に振った。
エリアスの足の甲には稲妻のような形の傷跡がある。手術を繰り返すうちに少しずつ大きくなっていった。と少し前に教えてもらった。骨には問題がないけれど、指を反らせたり伸ばしたりするための部分については機能が完全に失われてしまっているため、常にエリアスの爪先は力が入らずにだらんとしている。
太ももや膝は正常でも、足首から下が思うように動かせなければ上手く歩けなくなるなんて、怪我をするまで考えたこともなかった。そう言いながら傷跡を見つめるエリアスの目は悲しみを隠そうとしていた。
まだ子供と言える年齢だったエリアスにとって、たった一人で激痛に耐えるのは今の僕よりもずっと辛かったはずだ。それに、一度乗り越えてしまえばいい僕と違って、何度も期待してそれが駄目だったエリアスの方がずっと……。
「……もう大丈夫」
ああ、大丈夫だよと微笑むエリアスにはもしかしたら僕の言っている意味がちゃんと伝わっていないのかもしれない。この痛みが消えてなくなりさえすれば、エリアスの足は元通りになるということを。
たとえ声を失って、二度と話せなくなったとしても僕は後悔なんかしない。
悲しい結末を迎えた人魚姫と違って、僕は自分の言葉でエリアスへ思いを伝えられたからだ。もしかしたらこの先、「愛している」「ありがとう」と伝えられないことを残念に思う日が来るかもしれない。何気ない会話を楽しむことが出来ない日を悲しく感じるかもしれない。いつか僕は気付くのだろうか。「好き」「ありがとう」と当たり前のように言葉で伝えられることがどれだけありがたいことかと。
それでも、僕はエリアスのために出来ることをしてあげたかった。結婚する前から決めていたことだ。
それを後押しするためなのか、それとも他に理由があるのか。わからないけれど、僕の鼻と喉の奥はなぜか海水で満たされているかのように水っぽくなっていった。
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