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清潔な子供
しおりを挟むその日の晩は、人間の生活に合わせてさっさと寝ようと思っていたのに、アオイはいつまでも眠ろうとしなかった。
「ニンゲンギツネのことをもっと知りたい。もっとホタルと喋っていたい」とやかましくて堪らない。
「子供はさっさと寝ろ。そんなんじゃ、いつまでたっても大きくならないだろ!」と叱りつけたら、渋々……といった様子で諦めたようだった。
ようやく大人しくなったと思い、せっせと人が布団を敷いてやったというのに、アオイはいつまでも部屋の隅でモジモジと突っ立っている。
「入っていいよ」なんて一言も言っていないのに、すぐに俺と一緒に眠りたがる大人の女や男とアオイが、同じ「人間」という生き物だとは、思えなかった。
「あんなに寝る場所を探していたのに、何をやってる?」と声をかけると、アオイはギクシャクと頷いた。
「……おやすみなさい」
「待て待て待て。なんで、布団じゃなくて床に寝る?」
「…………だって、布団はホタルの分しか無いよ」
「はあ?まったく……何を言うかと思ったら。一緒に寝るに決まってるだろ!」
「えっ……」
アオイは「……俺はここでいいです」と一緒に布団で寝ることを拒んできた。俺だって好きで誘っているわけじゃない。
ただ、拾ってきた人間の子供を床で寝かせて自分はぬくぬくと布団で眠っていたことが人間愛護派にでもバレたら、「虐待だ」とすぐに家に押しかけて来るに決まっていた。
そんなことはまっぴらゴメンだった。
だから、無理やり棒きれみたいな腕を引っぱって、一緒に布団に入った。
「……居候なのに、ごめんなさい。俺は…、どこででも眠れるから、べつに床でも大丈夫なのに……」
「人間の君がそう言ったとしても納得するような連中ばっかりじゃないから、俺だって困っているのさ」
「……でも、温かくて気持ちいい。どうもありがとう」
なかなか寝付けないのか、アオイが布団の中でいつまでもモゾモゾやっているのが鬱陶しかったから、後ろから抱き締めるようにして身体を抑えつけた。
「あの……」
「早く寝なよ。夜行性のニンゲンギツネがせっかく人間の生活に合わせて、夜は寝るようになってきたって言うのに、人間が夜更かししてどーすんだよ……」
「し、知らない場所だから、なかなか眠れなくて……」
「あっそ。で、どうやったら、人間様は眠れる?」
何か話して、とアオイは寝る前と同じことをせがんだ。
「話してって言われてもなあ……」
「……ホタルは寝る時も狐の姿にならないの?」
「……ならないよ。ニンゲンギツネはそういう生き物だから」
「人間を騙して利用したり、からかって遊んだりしていた方が、狩りをするよりも、よっぽど楽で面白いぞ」ということに遥か大昔に気が付いた狐は、少しずつ少しずつ身体を進化させて、人間そっくりに化けられるようになった。
人間では到底理解出来ないような術を操る力を身に着け、いつしか特別な狐は人間の生活する世界に気付かれることなく溶け込めるようになった。
これが、ニンゲンギツネという種族の始まりだと言われている。
ニンゲンギツネは狐の姿で産まれて来て、成長すると自らの意思で人の姿へと形を変える。
だから、狐の里で暮らすニンゲンギツネのほとんどは人間の姿で生活をしている。
人間に化けることはそれ程難しいことじゃない。ただ、心と体が成熟しきっていないうちは、興奮すると術が溶けてしまう。
激しく泣いたり、怒ったり、それから……性的に興奮すると、耳や尻がムズムズして、次第にそれが全身に広がって、たちまち狐の姿に戻ってしまうのだ。
俺は、ここ最近はどんなに怒っても泣いても、狐の姿に戻ることは無くなった。ただ、まだ性的な興奮を乗り越えて人間の姿でいられたことがない。
ニンゲンギツネが成熟した身体になるためには「つがいになりたい相手」と交わらなければならないとずっと言われてきた。
心から一緒になりたい相手と交わった時、ニンゲンギツネの身体は爆発的な快感に襲われる。
それを乗り越えて人間の姿でいられた時、身も心も一人前の大人になれる……と言うのが大昔からの言い伝えだ。
セックスは人間の男とも女ともした。だけど、それほど興奮しなかった。
だから、俺の身体はきっとまだ成熟しきっていない。
それでも、この小さな身体に比べたらだいぶマシか……とアオイを眺めていると、そんなことを感じずにはいられなかった。
あちこち触って確かめたけど、腕も尻も腹も、どこにも柔らかいところがない。
これじゃあ、相当な量を食べさせないといけないし、たっぷり眠らせないといけないに決まっている。
明日鶏を絞め殺してから食べさせるか……と思いつつ、アオイにニンゲンギツネのことを話した。
どうせこんな子供に言ったって理解なんか出来るわけが無いだろうから、性的に興奮した時の部分は省いて、人間の世界でニンゲンギツネがどういうふうに溶け込んでいるかを聞かせてやった。
あの政治家も女優も、ニンゲンギツネだよ、と本当のことを教えてやったら「本当?」とアオイは目を丸くしていた。
「……本当だよ。あの女、30歳と言ってるけど、もう何百年も生きてるし、いろいろな政治家や俳優を騙しては里に帰ってきてボコボコ子供を産んでるよ」
「えーっ!ほんとに?」
「最近じゃ里を出て、FXに手を出す奴も多くてね……。
俺の父親も金が大好きだったから、銀行で働いていたよ」
「すっごいね……」
いいな、とアオイが心底羨ましそうに呟いた。
「……ニンゲンギツネがいるって、もっと早く知りたかったな」
「人間にそう簡単に気が付かれるようじゃ、とっくに俺達は絶滅してるよ」
「うん……」
「人間は学校で歴史を教わるだろ?あの中にもニンゲンギツネはたくさんいるよ」
誰のことかわかるかと尋ねても、アオイはなかなか答えようとしなかった。
無視や聞こえないフリをしていると言うより、なんと返事をしたらいいのかわからなくて困っているようだった。
「おい……」
「学校、ずっと行ってないからわからない」
「……ずっとって?」
もう、ずっと、とアオイは気まずそうな声で答えた。
こちらに背を向けている状態のアオイを後ろから抱き締めているわけだから、表情は見えない。
ただ、身体はカチコチに強張っている。
学校に行っていないことを、心の底から恥じているようだった。
「……まあ、昔はそういう人間もゴロゴロいたさ」
「うん……。何回か通ったことはあるし、先生が家に呼びに来たこともあったけど……家を引っ越したら、学校へはどうやったら通えるのかがわからなくなっちゃって……。
それに、誰も呼びに来なくなった」
「……そうかよ。……勉強なら、俺がちょっとおまじないをかけてやれば、すぐ追い付けるさ」
「本当?ありがとう……」
学校の教師が何年もかけて教科書の中身を教えるよりも、俺のおまじないの方がよっぽど効果があることは確かだった。
ニンゲンギツネの中には、予備校を開校して、何人もの浪人生をおまじないで東大に合格させて、荒稼ぎをしている奴もいる。
「ソイツ、「俺もテレビに出てーなあ……。誰かテレビ受けするインパクトのあるセリフ考えてよ」ってしつこくてさあ……」
「本当に?なんだか、信じられない……」
クスクスとアオイが笑う。いつまでも笑っていて寝そうになかったから、仕方なく先に寝たふりをしてアオイが寝るのを待った。
鼻がよく利くせいか、目を閉じると、匂いはいっそう強く感じられる。
アオイのつむじからは清潔な人間の匂いがした。
まだ誰にも身体を許したことのない人間の匂い……それは、どこまでも透明で冷たい、積もったばかりの雪の匂いに似ていた。
誰かと一度でも交わったことのある人間は、ほんの微かではあるものの、男も女も生臭い嫌な匂いがする。
身の回りの世話をさせるなら、清潔な男の子供が一番だ。女の子供は成長して女になれば間違いなく俺に惚れるだろうから。
アオイの匂いを嗅いでいると、そう思わずにはいられなかった。
今まで一緒に眠ったことがあるのは、嫌な臭いのする人間の大人ばかりだった。
ホタル、と俺の身体に触りたがり、自分の身体を触らせようとしてくる奴らばかりで、いつもウンザリさせられた。
アオイのような嫌な匂いのしない人間と身体をくっつけるのは初めてだった。
これは珍しい、いい匂いだ、とうなじに顔を埋めていると、ひ、とアオイが息を飲むのがわかった。
「んっ……」
ピク、ピクと身体は反応しているのに、必死で口を閉じているのか、ほとんど声を出さない。
人間の大人だったら、「もっと」とその先を要求してくるのに、アオイはずっと同じ体勢でされるがままだった。
大人と違って、面倒なことをせがんで来ないうえにおとなしい。
清潔な男の子供は案外悪くないかもしれなかった。
トロくさいだけだと思っていたけど、君はいい子だよ、とうなじに舌を這わせるとアオイの身体がビクリと震えた。
人間の女だったらやかましく喘ぐだろうけど、アオイはただ身を硬くして小さな声を出すだけだった。
「ん、んっ……やっ、んんっ……」
舌先でなぞるようにして、細い首を舐めていると、アオイの足がモゾモゾと動き始める。
匂いをかいで、抱き締めたり舐めたりしても、アオイはまだ子供だから、どう転んでも面倒なことにはならない。
この落ち着く匂いの側で、毎日寝るというのも悪くない。
ぐ、と抱き締める腕に力を込めると、アオイが微かに頭を横に振った。
「あ、あのっ……」
「……驚いた。アオイはずいぶん我慢強いんだね」
「んんっ……!あの、待って、あっ、ちがう、待って……トイレに、行かせて……」
「……はあ?」
アオイは真っ赤な顔で「トイレに行きたいです。でも、外は真っ暗で一人でトイレに行くのは怖い」と必死に訴えてきた。
「はー……なるほど。トイレねえ……」
「あの、外にトイレがある家に住んだことなくて……。明日からは一人で行くから、お願いします」
さっき、真っ暗なほら穴で俺の言うことを聞かないで手を離したのはどこのどいつだ、と言ってやったら、泣きそうな顔で「ごめんなさい」と謝られた。
唯一の布団に漏らされでもしたら困る。仕方ないから、トイレまで手を引いて連れて行ってやった。
「暗くて怖い」「絶対俺が出るまで待っててね。先に帰らないでね」と何度も念を押すアオイは、小さいニンゲンギツネよりもずっと幼く見えた。
トイレの後、俺の手をぎゅっと握り締めてくる手は、意外にも力が強い。
「明日からは一人で行くから」は、絶対嘘に決まっていた。
男の子供は清潔だけど手がかかる、とそう思わずにはいられなかった。
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