幼馴染みが屈折している

サトー

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台所でカレーを皿によそっていると、ヒカルが「ご飯食べに来いなんて、珍しいね」とベタベタとまとわりついてきた。「座って待ってろ!」と叱りつけたい気持ちを堪えて、腰や尻を触る手も好きにさせる。
ヒカルはたぶん俺が「触るなよ!」と反応するのが見たかったのか、ちょっとだけ不満そうだった。

「こんなに作ったの?」とヒカルに驚かれるくらい大量の辛口カレーをヒカルと早めの夕飯として18時過ぎに食べ始めた。ヒカルは「辛いけど美味い」と言っていて、俺もそれに返事はしたけど、考え事をしていたせいか、いつの間にか自分の分を食べ終わってたという感じだった。

ヒカルが皿を洗って、ソファーに腰かけた時、俺はテーブルの天板下の収納棚から書類を取り出した。

「これ」

俺はヒカルの顔をろくに見ないで、書類を差し出した。ヒカルは始め受け取った時不思議そうにそれに目を通していたが、そう時間が経たないうちに、その顔はみるみる青ざめて、表情も強張っていった。

「りゅ、留学…」
「俺、二月から一年間オーストラリアに行く。交換留学の審査受かったんだ」

ヒカルは俺の顔と書類を交互に見ながら、何を言おうか迷ってようやく「お、おめでとう…?」と困惑した顔で言った。
たぶん、大学入ったばかりの頃、「交換留学行きたいなー」と俺が言っていたのを覚えてはいたんだと思う。そのまま気まずい沈黙が流れた。

「ヒカル、べつにおめでとうとかいいから…本当に思ってること言っていいよ」
「え…」
「俺、お前の本音聞きたい」
「…………行くな」

ヒカルは本当に小さな声で一言そう言った。俺はため息っぽく聞こえないようゆっくり息を吐いてから「他には?」と尋ねた。
自分の言いたいことの核心部分を最初に言ったからなのか、堰を切ったようにヒカルの口からは本心が溢れだしてきた。

「なんでもっと早く言わなかった?卒業はどうするの?一年遅れるってこと?向こうで住むとこはどうすんの?」

そう捲し立てるヒカルを見ながら俺は、うちの母親が言ってた内容とほぼ一緒だなと思った。あっちは主に費用の心配で、ヒカルとは事情が違うけど。
俺は母親を納得させた時と同じようにゆっくり説明した。
卒業は一年遅れること。向こうでは大学の敷地内の寮に入ること。交換留学制度だから、今通ってる大学に学費を納めれば向こうの大学に通えること。

「俺、三年になった時にすぐ申し込みしたんだけど、その時は試験に受からなくて…だから、ヒカルにも何も言わなかったんだけど、今回欠員が出て行けることになったんだ」

うちの母親は、オーストラリアの大学にも学費を払うものと思っていたらしく、思ったよりお金がかからないことに安心していたけど、ヒカルはそうもいかないようだった。
頭を掻きむしって、とても辛そうな表情をしている。

「……なんで今さらっ…!行くならフツー、四年で行くのは避けるだろ…ああ…三年の夏休み過ぎればもう留学行くなんて言わないと思ってたのに…」

そういうことを考えていたのか、と少し面食らった。けれど、ヒカルのこんな反応を見ても「行っていい?」なんて聞く気はなかった。俺が海外で勉強できるチャンスはたぶんこれが最後だと思っているし、やっぱりずっと行きたかった留学にいけるのは単純に嬉しかった。

それでもヒカルが想像よりも遥かにショックを受けてるのは、俺もちょっと動揺した。
というかタイミングが悪かった。一緒に暮らしたいとヒカルから提案された直後だし、ヒカルはたぶん、それなりに期待していただろうから、余計に残念に思っているだろう。
どう励ましたらいいのか考えていると、急にガバッとヒカルが顔をあげた。

「……俺も行く!」
「はあ?!え、いや、無理だろ、どう考えても…大学どうすんだよ…」
「休む」
「はあ…」

迷いのない表情でヒカルがそう言うから、思わず大声を出してしまった。行くってオーストラリアにか?と驚いたし、なぜ簡単にそんなことが言えるのか、と深々とため息を吐いてしまった。…本気で言っている、と思いたくなかった。

「…お前一級建築士になるんだろ。だったらちゃんと卒業して、就職しろよ…」
「べつに、資格持ってた方が仕事は困らないだろうし、固い仕事についてれば、ルイになんかあった時も俺が食べさせてあげられるかなーと思って建築学科に入っただけだし…」
「うそ、だろ…」

俺はヒカルがまさかそんな理由で建築の勉強をしてたとは知らず、愕然としていた。大学は俺の後を追ってきたとこまでは最近知ったけど、将来のことも俺を基準に考えていたなんて、考えもしなかった。。

「…そうだったとしても、あんなに一生懸命勉強してるのに、そういうこと簡単に言うなよ!俺は絶対オーストラリアに行くし、めちゃくちゃ勉強して戻ってくる!…だから、お前も自分の将来くらいちゃんと自分で考えろ!」

俺がそう言うと、ヒカルはもう何も言わなかった。ちょっと言い過ぎたと思い謝るか迷った。ヒカルの顔をよく見ると、何も言わないけど、俺を見る目が「行かないでほしい」と訴えていた。
俺はそれに気付いていないふりをするべきかどうか、迷った。この夏はヒカルに選ばされてばかりいる。

結局俺は、気付いていないふりをした。すると、ヒカルは「いろいろ考えるために一人になりたいから、家に帰る」と言い出した。俺は慌ててヒカル落ち着かせて、なんとか引き留めた、

「一人になりたいなら、俺が出て行くから!二時間くらいでいいよな?…アイス買ってきてやるから」

ヒカルは無表情にギクシャクと頷いた。…今、家に一人で帰したら「パスポート申請した」とかむちゃくちゃなこと言い出して、大学を休学して本気でついてきそうな気がした。
食事も済んだ後で、特に用事も行きたいところもなかった俺は近所の書店で時間を潰すことにした。ヒカルのことは心配だったけど、迷わず語学留学の本とか、洋書買ってるあたり、俺は非情なんだろうか。

ヒカルに約束したとおり2時間程度、時間を潰してから家に戻った。玄関を開けた時に、ぬうっと部屋から出てきたヒカルの顔は、目が腫れていて、俺はヒカルが一人で大泣きしていたんだとわかった。…ヒカルが泣いたのなんてもう何年も見ていない。
ヒカルは特にその事については何も言わず「おかえり」と暗い声で言うから、気まずい気持ちで自分の家に入った。

俺がコンビニに寄って買ってきたアイスを二人で食べていると、ヒカルはボソボソと喋り始めた。

「…俺が一年間誰ともセックスをせず、勉強に時間を費やしたとする」
「え?何の話…」
「俺はそしたら、すごい成績が取れるし、すごい企業の内定がとれる」
「……あ、ああ、そうだな……」

一応、オーストラリアに一緒に行く、という余り現実的でないことについては考えを改めてくれたらしい。俺はそれに少しホッとした。

「俺にとってもルイの夢は大切だ…」
「うん」
「だから、俺は…それを応援しないといけない」
「うん…」
「でも俺は七年もルイを思っていたのに、また…一年ルイに会えなくなる…」
「ごめん…」
「だから、俺は…ルイに優しくされる権利がある……ぐ、うっ…」
「わ、わかったから、泣くなよ…」

ヒカルが目頭を押さえて俯いたので、俺は背中を擦ってやった。ヒカルは絞り出すような声で「留学行ってもいいけど、お願いがある…」と言った。
俺は「行ってもいいけど」ってヒカルの中では一応、俺を許可するしないということになってるんだ、ということが気になったけど、そこには触れずに「いいよ」とだけ返事をした。

「2月に、オーストラリアに行くまでの間、俺と一緒に住んで欲しい…」
「………わかった」
「あと、俺に出来るだけ優しくして欲しい」
「………………わかった」

ヒカルは「いいの?」と顔をあげた。目は腫れていたけど、懸命に堪えたのか涙はもう一滴も流れていなかった。俺は「いつも優しくしてるだろ」という言葉を飲み込んで深く頷いた。

…こうして、オーストラリアに行くまでの五ヶ月程度をヒカルと一緒に暮らすことになった。ヒカルは喜んでるし家賃も浮くし、これで良いんだと、思う。でも、優しくするって具体的に何をすればいいのかが、よくわからなかった。
いつも、「ふざけんな!」とか「やめろよ!」とかでかい声で、ヒカルのこと突っぱねてるから、そういうのを止めればいいんだろうか。

「……ヒカルも泣いたらそういう顔になるんだな」
「なるよ、そりゃ」

厚ぼったくなった瞼のせいで、ぼやーっとした顔になってしまったヒカルは「早速、いらないもの捨てなきゃね」と俺に微笑みかけた。

「…ここ、引き払うってことは、ルイは帰国したら俺のとこに帰ってくるしかないよね」
「え…ああ、まあ、そうなるな…でも、お前がどっか遠くに就職してたらそうもいかなくなるな…」

俺は帰国後一年間は大学に通わないといけない。ヒカルが他の県とかに就職してたら、またアパート探さないといけなくなるのか…。俺が不安そうな顔をしているのに気付いたのか、「大丈夫」と明るい声でヒカルは言った。

「…俺、必ずこの辺りから通えるとこに就職するから。ルイは安心して留学行ってきて。そして、絶対俺のところに帰ってきて」

絶対帰ってくるって約束して、とヒカルが俺の手の甲に自分の手を重ねた。冷たい指先が手の甲を何度もなぞるように撫でる。「うん」と俺が頷いても、ヒカルはそれを止めなかった。

「くすぐったいんだけど…」
「…ルイはバカだね。わざと、そうしてるんだよ」

「ルイが自分の手の甲を見るたびに、俺との約束を思い出すようにやってるんだよ」と耳元でゆっくり囁くように言われて、あ、ヤバいモードのヒカルが来た…と内心震え上がった。
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