幼馴染みが屈折している

サトー

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【番外編】幼馴染みが留学している

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帰国するのがなんだか不安だ、とジャイーが目の前で皿の上のドーナツを撮りながら呟いた。
真上や真横、斜めの方向から…何度もスマホを構える位置を変えながら、一番美味しそうに見えて写真映えする角度を探している。
 
「本当に?」
「うん。私、結局ここに来て8キロも太ったから…。帰るのが怖い。お互いあと数日で帰国しないといけないじゃない?ルイは怖くないの?……体型変わらないから心配ないか」
「…べつに、ジャイーもどこも変わってない」
「ルイって嘘つくのが下手だね…似合ってないと思っていても、髪切ってたらとりあえず褒めるタイプでしょ?」
「そんなことはないけど…」
 
「あと数日で痩せるのは無理だしもういい」と、ジャイーは皿の上のドーナツを頬張った。アメリカンスタイルのふわふわしたイーストドーナツは男の握り拳くらい大きかった。ガブリと豪快に食べるからたっぷりとかかっているデコレーションの粉糖や5色のチョコスプレーは少しも零れ落ちなかった。
 
…自分の母親だったら「そんだけ食ったら太るに決まってる」と言うけど、さすがに女の友達にそう言うわけにはいかなかった。
 
ジャイーはもぐもぐと咀嚼しながら、俺の方をじっと見た。
 
 「変わらないとはいったけど、ちょっとは変わったね……なんだか男っぽくなったような」
「本当に?」
「背は…伸びないよね。でも、なんだか違う。……あんなキツイバイトをしているから、筋肉がついたんじゃない」
 
 
 
日本食のレストランをクビになった後、隣の部屋のネパール人の友達が「だったら、一緒にカーウォッシュで働こう」と声をかけてくれた。
洗車なら子供の頃、父親のワンボックスを洗うのをしょっちゅう手伝っていたし大丈夫だろう、とあまり深く考えないで着いていったら、オーストラリア人のオーナーは人が足りないと言って即採用してくれた。 
 
その時は嬉しくて「やった!」とヒカルにもジャイーにもすぐ報告した。
けれど、今まで経験したどんな労働よりもキツくて、最初のうちは軽い気持ちで始めたことを本気で後悔した。
 
まず、一日にやって来る車の数が尋常じゃない。天気のいい週末なんかは洗車場に入りきらないくらい車が押し寄せて来る。 
朝の8時からろくに休まないで、洗車から拭き上げまでどんどんやらないといけない。もちろんグズグズしていると、オーナーが怒鳴ってくる。
暑さで体力を消耗しきっているのに、少しでも数をさばこうとみんな一生懸命に洗車場内を走り回っていた。
 
 フォードやシボレーなんかのSUVは、車体が大きいのであちこちよじ登って必死に腕を伸ばして拭いていく。とくにきつい拭き上げの工程は、力いっぱいやらないと水滴が残ってしまう。一日が終わる頃には、10本の指の爪が剥がれ落ちそうな程痛んだ。また、ずっと水や洗剤を触っているせいか、手がふやけてすっかりボロボロになってしまっていた。 
 
 カーウォッシュにやって来るのは高級車が多くて、特にロールスロイス、ベントレー、メルセデス・ベンツなんかは、家が一軒建つくらいの値段だからいつも本当に緊張しながら働いていた。
万が一傷をつけたとして絶対に弁償出来ない、というだけでなく持ち主が側にあるカフェでコーヒーを優雅に飲みながら、こっちをずっと見張っているからだ。
最後の方になるとスッと外に出てきて汚れや拭き残しがないか確認しにきて、どれだけ一生懸命やっても、あーだこーだ横からいろいろ言ってくる。ナノレベルのシミまで、見えているのか、と言いたくなるくらい、細かく厳しいチェックだった。  
 
 
 
 
「そうかな。もし男っぽくなってるなら嬉しい」
 
あれだけバイトの中に走り回っていたら、全身に筋肉がついたとしてもおかしくはなかった。
…少しはヒカルみたいな体格に近づいたかも、と思いながらあちこち軽く触ってみたけど自分ではわからなかった。
 
「ルイは帰国したらすぐ就職活動するの?」
「うん。日本の他の学生に比べたら出遅れているし…急がないと。……実は、親にヒカルと付き合っていることを言いたくて。そういう理由もあって、ちゃんと就職して自立したいと思ってる」
 
ストローでコーラをチューっと飲みほしていたジャイーが目を丸くした。
 
「え、ほんと?」
「うん…。言ったところで、良いと言ってくれるかはわからない。もしかしたら、駄目だって、もう顔も見たくないって言われるかもしれないけど…」
 「そう言われたとしても、俺はヒカルが好きなだけだ、と言ってやればいい」
 
…なんだか、前にヒカルも似たようなことを言っていた。ヒカルやジャイーの考え方は間違っていないし、強い人間の考え方だ、ということはわかっている。
けれど、自分がそうなれるかと言われたら自信が無かった。もし、親や友達に分かってもらえなかったとして、「ヒカルが好きなだけだ、誰に何を言われようが関係ない」と、言いきって相手を突き放してしまったらそこで何もかもが止まってしまうような気がした。
 
親や友達だったとしても理解が得られないなら最悪関係性を閉じてしまおうという判断は、自分やヒカルの身を守るために有効な時もきっとある。
けれど、俺はヒカルが好きなだけだと、わからないならもういい、と関係を断つことはなるべくしたくはなかった。
俺が勇気を出して「ヒカルが好きだ」と打ち明けたい相手は、そうしてもいいと思える程大切な人だ。だから、嘘をついたり隠し事をしたりしたまま、付き合っていたくはない。
女ではなくてヒカルが好きだ、ということは俺という人間のほんの一部でしかない。ただ、例えば親だって必ずしも理解者になってくれるとは限らなくて、「俺はなんにも変わってない、お父さんとお母さんが知っている俺と同じだ」とどれだけ訴えても、今までとは全然違う目で見るようになるかもしれない。でも、簡単に諦めたくはなかった。
ヒカルとの間でお互いさえいればそれでいいと考えるようになれば、楽になるのかもしれない。けれど、自分を形作ってきた時間や空間を共に過ごした人と分かり合えなくなってしまうのは、自分自身を否定するようで苦しかった。
 
  
 
自分の中でずっとモヤモヤしていることを目の前にいる彼女にどう伝えるべきか、そもそも自分の思っていることは正しいのかわからなくて悩んでいる間に、ジャイーは時計を見て「ごめん、私ちょっと約束があるからもう行くね」と言った。
 
「ああ、うん。わかった。…バイバイ」
 
約束の時間ギリギリまで俺に付き合っていたんだろうか。食器を乗せたトレーを持ってバタバタと去っていってしまった。
…この留学が終わってしまえばこうやって会って気軽に話をすることももう出来なくなる。今まで何度もたくさんの留学生と別れてきたから「また会おう」と約束しても、それが簡単ではないことはわかっていた。
 初めて男と付き合っていることを告白したオーストラリアで出来た一番大事な友達だけど、まだキチンと別れの言葉も「ありがとう」も言えていない。
 
 
 
 
 
 
 
 
―ねえ、聞いてる?とおっとりした声が聞こえて、はっ、としてディスプレイを見るとすっかり大人の男に成長したヒカルが怪訝そうな顔をしていた。
 「帰国するのが、寂しいの?」と聞かれて、子供の頃これと似たような口調で、寂しいのか、と言われたことをなんとなく思い出していた。
あの頃のヒカルは俺と比べてずっと大人っぽかった。なんでも出来て、気が強くて、たくさんの人を惹きつけるのに、時々「寂しい」と訴えてきて放っておけないと思わせる、憧れの対象でありながら、その不安定さで俺を惹きつける少年だった。
 
 「…あ、ごめん。ボーッとしてて…。うん、寂しいけど、ホッとしてるっていうのもある…」
 
 長いようで、いざ終わってしまうとなると、本当にあっという間に感じられた。さっきようやく部屋の掃除も終わった。明日の朝オーストラリアを出発して夕方には日本に戻っているのに、まだ帰るという実感が湧かなかった。
 
「…早くルイに会いたい」
「あっ、うん。俺も会いたい」
「本当?」
 
ヒカルは、嬉しい、と微笑んだ。口角が綺麗に上がった笑顔は作り物みたいに整っている。ここ最近は帰国の日が近付くにつれて目に見えて元気になって、今日なんかはソワソワしていると思ったら、我慢できない、とでも言うかのようにデレデレしたりして、喜びを隠しきれていなかった。
さっきも、「この前、ルイが帰国したら食べたいって言っていたから、スナック菓子と甘いものをたくさん買っちゃった」とすごく嬉しそうにしながらも、ほんの少し照れ臭そうにしていた。
 
「たくさんって?」
「もう、本当にすごい…お店開けるくらい」
「えっ?」
「ふふふ」
 
確かに以前、「日本のポテチやクッキーが食べたい」とか「いつもは絶対食べないけど、モナカみたいな餡子のお菓子が無性に食べたくなる」とは言ったことがある。
けれど、とにかくたくさん食べたいというよりは「とりあえず味を思い出せる程度の量を食べたい」という意味だった。もしかしたら、モナカなんてほんの1、2個食べたら「もういいや」という気持ちになるかもしれない。
そんなに買って食べきれなかったらどうするんだ、と思わず言いそうになった。だけど、子供や女の人ばかりのお菓子売り場で「どれが喜ぶかな?」とウキウキで買い物をするヒカルの姿を想像したらとてもじゃないけどそんなこと言えなかった。
 
「……ありがとう。嬉しいよ」
 
お遣いが上手にできたことを褒められた子供みたいに「えへ」と笑ってヒカルは喜んでいる。
 
 間違いなく就活が無事に終わったことが影響しているのだろうけど、もう何か月もずっとヒカルは調子が良い。元々持っている能力だけに頼るのではなく、努力して内定が取れたからなのか、すごく満ち足りていて、心の奥底から活力とやる気とがあふれ出しているかのようだった。就職先が決まってからも、もう次の目標を見つけて努力をし始めている。
制度が変わって一級建築士の試験も卒業後すぐに受験できるようになったから、時間を見つけてはずっと勉強していると言っていた。「過去問を二十年分解いてれば合格できる、って内定者懇親会でOBも言ってたから、普通に受かると思う」とさらっと口にしていて、相変わらず勉強に関しては自信満々だった。
 
俺の気を引くためなら、手段を選ばず人を傷つけていた頃とはまるで違っていた。見た目だけじゃなくて内面も成熟して大人になっている。顔つきも雰囲気も堂々として頼もしくなった。本人には言っていないけど、仕事や勉強のことについて話している時は素直に「かっこよくなったな」と見惚れてしまう時もある。
早く俺もこうならないといけない…と  黙ってヒカルの顔を見ていると、さっきからぼんやりしているし疲れているとでも思われたのか「…バイト昨日で最後だったの?」とヒカルが質問してきた。
 
 「うん!昨日も300台くらい来て、もう死ぬかと思った…。昨日、最後だからと思って休憩時間にオーナーの車洗ってたらさ、「お前はマジメだから辞めるな」って怒ってきて…。もう、日本に帰るって言ったら、でも辞めるなって…」 
 
冗談か何かだろうと思いながらとりあえず、「留学期間がもう終わるんです」と返事をしてからマツダのアクセラのボディを拭き続けたことを思い出しながら、ヒカルに話し続けた。今日は特に爪が痛んでいる。
 
 「俺をチェッカーっていう…洗車の仕上げを最後確認する役割があるんだけど……その係へ昇進してくれてありがとうございました、って言ったらさ「お前は、いつもピョンピョン走り回って、他のバイトが嫌がるゴミ捨ても文句を言わないでやる。高級車だろうがそうでない車だろうが、関係なく一生懸命洗う。マジメだからチェッカーにしたんだ」ってキレながら急に泣き出してさ…」 
 
チェッカーにして貰うと時給が上がったし、誰でもなれるわけじゃないから嬉しかった。オーナーは俺が一日8時間シフトに入っていたとしたら、6時間近くは作業が遅いだの、ゴミの捨て方がなってないだの、怒っている人だった。
「昇進させてやる」と言ってきた時でさえキレ気味だったから、そういうもんなんだとあまり気にしないようにしていたが、俺のことを一生懸命働いていると一応は認めてくれているようだし、もしかしたら、気が短いだけでそこまで悪い人ではないのかもしれなかった。
 
 そんなオーナーが悲しんでいるというだけでも面食らってしまうのに、大人の外国人の男が涙を流しているのを見るのは、はじめてだったから余計に戸惑った。 
この人、やっぱりこんな時もキレるんだ…と思いつつ、「あの、ここで働けて良かったです。ありがとうございました」とお礼を言ったら、大きな雨粒のように涙がぽたぽたと地面に落ちた。
 
自分より年上の人間が悲しんでいる時に、英語でどう慰めれば失礼じゃないのかとっさにいい言葉が出てこなくて、困った。
結局、「車を綺麗にするから、お願いだから泣かないでください」と言ったら、ぐずぐずしながら頷いて、どこかに隠れてしまった。 
 
 ヒカルはオーナーとの別れの話を聞いている間、ずっと黙っていた。慌てて「あっ、ごめん…チェッカーに昇進したのは、前も話したっけ」と謝った。
覚えてないだけで、そうなったその日に言っていたのかもしれない。ごめん、と言ったことに対してなのだろうか、ヒカルは首を横に振った。 
 
「…ルイのそういう真面目なところにつけこまないで、ちゃんと評価してくれる人がいて良かった、と思って」
「うん?」 
 
そう言ったきり、なぜだかこっちをじっと見つめて黙っている。とりあえず、良かったと言っているということは、今の話について聞き飽きてうんざりしていた、退屈だった、と思っていたわけではないようだった。
ヒカルが今言ったことの真意はよく分からなかったけれど、「どういう意味?」と聞いても、なんでもない、と言うだけで教えてくれなかった。
代わりにフフっと笑った。 
 
「…もし、俺が車を買ったらやっぱりルイが洗ってくれるの?」
「はあ?……一緒に洗うんだよ!」 
 
当然、カーウォッシュで貰っていたのと同じ時給の2,070円も払えと言ったら、んふっ、と笑って誤魔化された。
「熱い」「疲れた」と甘えたことを言ってくるだろうけど、俺より腕が長くて力もあるヒカルには絶対に手伝わせないといけない。子供の頃は俺の父親の車を二人で一緒にふざけて水浸しになりながら洗ったりしていたのに…そもそも、ヒカルの車なのになんで俺が、とじとっと睨んでも、ヘラヘラしてばかりで全く堪えていないようだった。   
 
 
 
 
「…明日友達と別れる時、泣くの?」
「泣かない」
 
 キッパリそう答えると、ヒカルはほんの少し意外そうな顔をした。今度は「ハグとかするの?」と聞かれて、迷ったけど頷いた。
べつに、やましいことはない。そういう文化がある国の親しい友達とならする。もし、そのことで咎められたら「郷に入れば郷に従えだ!」と言うつもりだった。 
 
「いいなー。俺にもして」 
 
実際は甘えるような声でそう言われただけだった。ヒカルのことを好きな女が一発で骨抜きになるような、蕩けるくらい甘くて熱っぽい眼差しでずっとこっちを見ている。どうして、そういう目で平気でこっちをジッと見ていられるんだろうと、見られている方が恥ずかしくなるほどだった。
相変わらずヒカルの肌は白く輝いている。画面越しだからどうやったって頬の温みも質感もわかるはずがない。それなのに、「早く会いたい」という思いが内側から滲みだして、ヒカルの頬を艶やかに見せていた。
…本当に俺が帰ってくるのを楽しみに待っている。
すごく寂しがりだから、離れたばかりの時はずっと泣いていた。それでも、我慢してずっと待っていたんだよな…と思うと、帰ってからはうんと優しくしてやろう、という気になった。
 
「…いいよ」
「ほんと?やっぱダメとかはなしだよ」
「うん…」 
「嬉しい」 
 
女が綺麗なものや美味しいものを見てうっとりしている時みたいな言い方だった。ハグよりすごいというか、変なことをスカイプで今まで散々させているのに、なぜここまで喜べるのだろう、と不思議で仕方が無かった。
 
 
「…あっ、そうだ。ルイ、約束守ってる?」
「…なんの?」
「5日前に話した時に、しばらく禁欲したらって俺が言ったじゃん。覚えてないの?やっぱりその方が帰ってきた最初の夜にさあ、いっぱい出来るかなって」
「は…?」
「あー、留学終わるともうルイが一人でしてるとこ見れないね。…あれはあれで良かったんだけど…。日本に戻ってきてからもたまには見せてよ。そうだな…手を使えなくして擦り付けて出すとこを」
 
やっぱりヒカルは大バカヤローだった。ヒカルみたいにならないとな、とか、優しくしてやろうとか、一瞬でも思ったのが間違いだった。
…俺の反応が見たくてああいうことを言ってくるのはわかっているから、おやすみも言わないで、話している途中だったけど迷わず通話を切った。けれど、今頃絶対に一人で「ふふ、恥ずかしがっちゃって」と喜んでいる。特に今の浮かれている状態のヒカルには、どうやったってダメージを与えることは出来なさそうだった。
 
アイツ、あのはしゃぎようで今日ちゃんと寝るんだろうかと呆れたけど、ヒカルの落ち着きのなさに影響されたのか俺まで目が冴えてしまった。…オーストラリアを離れるのは寂しかったし、時間やお金の問題がないのなら、まだまだいたかった。けれど、ヒカルには会いたくてたまらなくて、帰りたいのと帰りたくないのとの間で揺れていた。
さっき、言われた「帰ってきた最初の夜」というのは、もちろんそういうことをしたいという意味だとわかっている。やっぱり明日するんだろうか、と思いますます眠れなくなって何度も寝返りを打って壁に頭までぶつけた。目を閉じると、ヒカルの白い手に身体をまさぐられた時のこと、「くすぐったい」と言っているのに構わずあちこちに吸い付いて来る唇のこと…次々とセックスした時のことを思い出してしまった。
…一番の大バカヤローはヒカルが気まぐれで言った「禁欲」を守って悶々としたままこんな夜中まで起きている俺だった。
 
 
 
 
  
 
―8時30分発の飛行機に乗らないといけないから、朝5時には目を覚ました。というか、結局ほとんど寝付けなかった。こっちは今、夏だけど、日本は冬だし服装をどうしたものかと、ぼーっとした頭で悩んでいると部屋のドアがノックされた。返事をする前に、ドアノブがガチャガチャと乱暴に回される。また、誰か飲んで帰ってきて部屋を間違えているんだろうか、と呆れながらドアを開けるとジャイーが立っていた。
 
「え?なに、こんな朝早くに」
 
質問には答えずにスッと部屋の中に当たり前のように入って来たから慌てた。「女は入るな!」と言うと、鼻で笑われた。
 
「そんなに嫌なら、寮の職員にでも言ったら?俺は今日帰国しますが、女が入ってきて困ってるんです、って」
 
ぐう、と押し黙っていると勝ち誇ったような顔で部屋のドアを閉めた。 …なんで、俺の周りはこういう人間ばかりなんだろう。俺はべつに気が弱いわけでもないし、負けないように言い返しているのに、みんなあの手この手を使ってやり込めようとしてくる。
 
 「…俺に何の用事が?」
 
 まだ6時にもなっていないのに、化粧もしているし髪も櫛でキレイに梳かれている。一体何時に起きたんだろうか。
 
「日本に帰っても絶対に二人きりになんかさせない、ってそれだけ言いに来た」
 
…どういう意味の別れの言葉なのかよくわからなかった。「日本に帰って彼と二人で仲良くね」とかなら理解できるけど、こんな言い回しはどの辞書にもテキストにも別れの挨拶の例文として載っていない。俺の理解力に問題があるのか、そもそも彼女の英語での表現が間違えているのか、どっちだろうと思いながら考えてみたけど、何度頭の中で訳しても「二人きりになんかさせない」だった。
 
「…なぜ?」
「…この間、ヒカルと付き合っていると言った後、親に反対されたらどうしようと困っていたルイに、「俺はヒカルが好きなだけだ、と言ってやればいい」なんて伝えたのは間違いだった。ほんとは、こう言うべきだったと思って」
「え?いや、そのことならべつにいいよ」
「全然、よくない。男と付き合っていることを認めてもらえない苦しみを、ルイと彼のすごく個人的な悩みにしてしまうところだった。だから、あのゴメンね」
「…ありがとう」
 
「一人じゃなくて二人いても、わかってもらえないなら孤独と同じだよね」とジャイーは呟いた。ようやくジャイーがさっき言ったことの意味がわかった。
…こんなことをわかってくれる人間が自分の前に現れるなんて、ヒカルと付き合ったばかりの頃は思いもしなかった。ジャイーに会うまでヒカルとの関係は誰にも言ったことがなかったから、いつでも二人だけで何もかもを完結させていた。意外と、ヒカルがいて嬉しいと思う時の方がケンカした時よりもずっと、そんな現実を切なく感じさせた。
嬉しい大切な思い出だから誰にも知られないように隠しておこうと思うのと、気持ち悪がられないように誰にも知られないように隠しておこうと思うのとでは全然違う。彼女がいる他の大学生と俺とで、付き合っている人を好きだと思う気持ちは、何も違わないのにな、とどこか納得できないながらも諦めている自分がいた。
 
 
「……あの、レオとかいうクソ野郎がいたよね。最後にアイツと会った時にルイのことで大ゲンカになって…その時に「テメーはアイツに何が出来んだよ!何も出来ねーだろうが!」と言われて…」
「そんなふうにケンカを?」
 
ケンカをした、と言うのは聞いていたけど、そこまで激しくやり合っていたとは知らなかった。…せいぜい「朝早くから来るな!非常識でしょう!出直してこい!」とかそんなことだと思っていた。
「女なんだから男とケンカなんか絶対するな。危ないだろ」と言いたかったけど、「関係あるかっ!」と怒鳴られそうだったから我慢した。
 
「その時は腹が立って、まあ、メチャクチャに罵倒したんだけど…確かに離れてしまったら、こうやって慰めることも出来ないし…と思ってなんだかあのクソ野郎に負けたみたいで悔しくて。
結局昨日もずっと考えていて、離れても唯一出来ることってルイがそうしてくれたように私もルイと彼のことを「いいね」と言うことだけだなと思って」
 
初めてジャイーが自分のパートナーのユーハンを連れてきた日のことだった。俺とヒカルのことを誰にも認めて貰えていなくて、それがとても寂しかったから、いつかもし同性と付き合っている人にあったら絶対に何も聞かないで「それは、いいね」と肯定だけしようと思っていた。
だから、それを言った時、とても二人が羨ましかったけど、同時にいつか誰かにしてやりたいと思っていたことが叶ったことに気が付いて、オーストラリアまで来て良かった、となんだかホッとした。「なんで、女どうしで付き合っているんだ?」とか「どっちが彼氏?」とかそういうことを無神経に聞く自分じゃなくて良かった。
ヒカルと付き合ってなかったら聞いていたかな…という気もして、誰にも肯定してもらったことはないけど、ヒカルといるのは間違いじゃないはずだ、ってほんの少し勇気が出た。
 
 
 
「もし、彼のことを嫌いになったとかそうじゃない理由で…例えば親を安心させたいからとかそんな理由で別れた方がいいんだろうか、って迷ったとしても、少なくともオーストラリアで会った一人の友達は「いいね」ってずっと思っている。
日本に帰っても絶対にルイを一人どころか、彼と二人きりになんかさせない…。ルイや彼が理不尽な目や辛い目にあって、悩んでいる時や怒っている時は、友達の私もきっと一緒になって同じような反応をするはずだってこと覚えておいて」
 
ジャイーは目の端に溜まった涙を綺麗にネイルが施された指の先でスッ、スッと拭った。手品かと思うような鮮やかな手さばきで一瞬にして涙は消えてなくなった。
 
 「何も出来ない、なんて言わせてたまるか」
 
はー、とジャイーは大きく息を吐いてから「…実はちゃんと謝って話をしようと思った時から緊張していたの。それで、3時間くらいしか眠れなくて。ルイを見送ったら昼寝する」と明るく笑った。どうやっているのか知らないけど相変わらず初めて会った時みたいに顔が凛々しく見える化粧をしているなと、もう明日からは会うことが出来なくなる横顔を眺めながら思っていた。
 
 そうして、なんだか目が水っぽい、と気が付いた瞬間には涙が目の端から流れ落ちていた。
泣くのはかっこ悪くてみっともないから、人の前で涙を流すのは大嫌いだった。どんなに泣きたい時でもいつも我慢していた。
こうやって誰かと話していて、泣くなんてことは、もう何年もしたことがなかった。「ごめん」と断ってから、手の甲で乱暴にゴシゴシと拭ったが、目の奥は熱いままで後から後から涙は湧いてくる。もうどうやったって泣いているのを隠すことは出来ないのに、ジャイーにそれを見られるのが嫌で、せめて声はあげないように、肩を震わせて歯を食いしばって泣いた。
 
「……好きだ」
 
付き合いたいとかそういうつもりで言ったんじゃなく、それ以外でふさわしい言葉が何も見つからなかった。
ジャイーは、話しているといつも俺を通してヒカルのことまで見ているようで、二人まとめて抱き込んで肯定してくれるような不思議な友達だった。

 「ほんと?嬉しー。ありがとー」と、長い腕でぎゅっと抱きしめられた。…思っていたよりもずっと柔らかくて、それから、香水とか石鹸とかそういうものでは説明がつかないような、いい香りがした。いつも、なんで女って男と違っていい匂いがするんだろう?と思っていたけど、これだけ近付いてもさっぱりわからなかった。
 
「ありがとう。今日のこと忘れない。ずっと大切な友達だ」と嗚咽まじりに伝えると、しっかりしろとでも言うように強い力でボスボスと背中を叩かれた。
それでも涙は、止まらなかった。今までスタンバイはしていたのに「出てくるな」と脳からの命令を受けて引っ込んでいた数年分の涙が、最初の一滴が流れた瞬間に「今だ!」と言わんばかりの勢いで、溢れ出てきた。今まで誰にも言えなくて行き場の無かった感情が、俺から離れてジャイーの肩へ次々と零れ落ちていった。
 
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